道元(言葉)

道元の言葉について
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禅の道元さんの言葉とされるものに、このようなものが有りました。

「自己に閉じ込められ、自己にこだわっている間は、
世界を真に見ることができない。
自己が自由自在に動くとき、世界もいきいきと生動する。」 (以上)

出典が不明で、言い回しが新しいことが気に成りますが、大切な指摘が在ります。

要するに、私達は1日の内で、
・ 自分に関することだけを考える時間と、
・ 自分以外のための利を考えている時間。
・ どちらが多い今の自分でしょうか?
ということを感じます。

(中略)

自分だけのことしか考えない人は、衰退して行く。
他のために成ることを優先する人は、繁栄して行く。
これが様々な分野において言えると感じます。

「自己に閉じ込められ、自分のことだけにこだわっている間は、
世界を正しく見ることができない。」

愛語(あいご)よく廻天(かいてん)の力あることを学すべきなり


禅の永平寺の開祖・道元さんの言葉に有ります、

・ 「愛語(あいご)よく廻天(かいてん)の力あることを学すべきなり」

これは、愛情の有る言葉(愛語)は、天界をも動かすということです。
つまり、
・ 天界の力を借りたい時は、愛情の有る言葉を思うことが大切なのです。

でも人は、自分が困った時ほど、愛情の有る言葉から離れて文句の有る言葉に変わりがちです。
更には、自分がひどい目に遭えば、呪いの言葉を出す人もいます。

しかし、愛情の無い言葉を思う間は、悪い状況は変わらないものです。泣きっ面に蜂、は続きます。
問題は、自分が苦しい中でも、「愛語」を思えるかどうかが、その人の運命を分けると感じます。

仏道をならふといふは、自己をならふなり


日本における禅の曹洞宗の開祖である道元(どうげん)さんの言葉にある、

「仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふというは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり。
萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」

これが昨日の記事で触れた、
・「自分の心の力を取り戻す方法」の「1つ」に触れていると感じます。

この道元さんの言葉の意味は、
・ 自己を習うということは、自分を忘れることです。
・ 自分を忘れるということは、無限の空に溶け込むことに成ります。

(中略)

他のために動くことは、自分を忘れています。
これが自分を無限の空(くう)に近付けて行きます。
そして、自分の中に眠る無限の意識が目覚め始めます。

まず苦事をなせ


禅の道元(どうげん:日本の禅の曹洞宗の開祖)さんの言葉に、

・「まず苦事をなせ」

楽なことから始めずに、もし嫌な事から始めれば、後は段々と楽なことに成ると思います。
もし、今が苦しい人は、それを慣れこなす内に段々と状況は変わって行くことでしょう。

でも、いつまで経っても、自分は苦しいままだと思う人はいます。
しかし、それは、自分が既に「苦の視点」しか見ない生活に成っていないか? 
これに注意です。

・ どんな中であっても、感謝するべきことは絶対に有るはずです。

(中略)

道元さんは、更に興味深いことを言っています。
・ 仏道を習うこととは、自己を習うことである。
・ 自己を習うとは、自己への「とらわれ」(執着)を忘れることである。

・ 自己へのとらわれを忘れることとは、一切の物事によって、自分の周囲によって、自分の正体を明らかにさせられることである。

・ 一切の物事によって、自分を明らかにされることとは、自分の身と心、他人の身と心をも、自由の境地にさせることである。

つまり、道元さんが言うには、
・ 今の自分が執着している物事を忘れることが出来れば、
・ 自分の周囲の人々の反応によって、今までの自分の正体が認識が出来ます。
・ 自分というものを良く自覚が出来た人は、自分も他人も縛らずに、リラックスさせることが出来ます。

生死(しょうじ・せいし)


道元さんは、自著の「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)の中で、「生死(しょうじ・せいし)について語っています。

・ 生死の中に仏あれば、生死はない。
・ だからと言って、生死の中で、無理に自分が仏になろうとしなければ、生死に迷わない。

・ ただ生死とは、そのままが既に天国と心得て、
  生死は未知のことだからと言って拒否をせずに、
  また、天国だからと言って自ら望んでは生けない。

道元さんは、生きている今は分からない生死を、
無理に超越しようなどと思わずに、
生きることも死ぬことも、そのすべてが既に仏の中でのことであり、
それは既に天国であり、自分は仏と一心同体であると常に思っていれば大丈夫だと言っています。

他はこれ我(われ)にあらず・更にいずれの時をか待たん


禅の大本山・永平寺の創建者、道元(どうげん)さんは、食事を作ることも重要な修行として考え、『典座教訓(てんぞきょうくん)』という書の中で、食事の下準備から食すまでの過程の作法や心構え、生活上の注意を書き残されています。

その中に有る言葉で、
・「他はこれ我(われ)にあらず」「更にいずれの時をか待たん」
というものが有ります。

エピソードとしては、道元さんが海を渡って中国の禅寺へ修行に行かれた時に、寺で長く修行する腰が曲がった老禅師が、自ら「典座(てんぞ)」という食事係りをしていることに道元さんが驚きました。

「なぜ若い僧に食事の準備をさせないのですか?」と道元さんが老禅師に聞きますと、
・ 他人は、私自身では無い。
・ 他の者に作業をさせたのでは、それは自分の修行には成らない。
・ では、いつ修行するというのか? 今でしょっ! 

このように言われた道元さんは、大きな衝撃を受けたそうです。
その老禅師の言葉の中に、禅の本質を道元さんは見られたようです。

身心脱落(しんしん だつらく)・透体脱落(ちょうたい とつらく)


道元さんの自著には、
「身心脱落」(しんしん だつらく)
・ 心の自我が抜け落ちるように脱げること。服を脱いだ感覚です。
・ 意識が肉体を脱いだ感覚。真の解放感。
という言葉が出ます。

この「身心脱落」という4文字の言葉だけでも、自分が悟りを体験したような感覚を分からせる、正しく悟りを説明をしている、凄い言葉なのです。
悟りを説明する長い文章は不要であり、それを超える説明文がこの4文字です。

もし会社や家庭で嫌なことが有っても、「身心脱落」「身心脱落」と心中で繰り返すことで、本当の自分は傷付かないかも知れません。
気にするような自分(自我です)に、バイバイが出来ます。

更に道元さんは、エッセンスを集約して、もっと凄い言葉で表現しています。
・「透体脱落」(ちょうたい とつらく)
という4文字で、悟りの感覚を凝縮して一言で説明しています。

まるで体が透き通って、抜け落ちてしまうような感覚を説明されています。
でも、この言葉は、まだ時代に対して早すぎたと思います。
この言葉は、比喩ではなくて、リアルな描写なのです。実は、

末法(まっぽう):
仏教でいう釈迦の予言。正しい教えが社会から消えて、人類の混乱期が、釈迦の死後2000年以降の時期に来るという予言。

この末法の後に来るという「ミロクの世」とは、そこに居る人々は全員が「透体脱落」をしています。
今の人類とは違い、透けた身体をしています。
これには、おそらく今後の放射線濃度も関係することでしょう。

前後裁断(ぜんご さいだん)


禅の道元さんの言葉で、前後裁断(ぜんご さいだん)というものがあります。
人間というものは、いつも会う他人を見る時も、家族を見る目でさえも、

・ 今の相手を見ていない。
・ 相手との過去の出来事を見ながら、こういう事が有った相手だと思って見ている。
・ その相手が、未来も自分にとって有益か否かを見ながら、相手と会っている。

まさに、今の相手を正確に見ようとはせずに、切り取った過去と未来を見ながら、今の相手を無意識に見ている面が有ります。
そういう先入観の前後を裁断して、今の相手を見ることの大切さを前後裁断と言います。

前後裁断の大切さは、対人物だけでは無いのです。
仕事にしても、名前だけで、過去の自分が知った、体験した視点から、新しい仕事を判断して迷います。
今のその仕事内容の現実を知る努力が大切です。まったく自分の予想とは、違う仕事内容かも知れません。

(中略)

今の相手を正しく評価するには、その過去と未来を重視するよりも、今の状況を正しく見る・知る努力が大切です。

・ どんな相手も、その時に初めて会ったつもりで毎回向き合うこと。

生より死にうつると心うるは、これあやまりなり


蝉にすれば、仲間を見ても、死ぬことは分かっている。でも、

「死んでからどうなる? そんなの関係ねぇよ!
今は鳴けるから、思いっ切り鳴くのさ〜〜っ!」
と、言いそうです。

禅僧の道元さんは、この蝉の心理を示唆している言葉を、死に関して残しています。

・ 生より死にうつると心うるは、これあやまりなり。
(『正法眼蔵』より)

これはつまり、
・ 生から死に移ると、分けて考えることは、それは間違いだ。
・ 生と死という、分け目は無い。境界は無いのだ。
・ 何も移動しない。変わりもしないのが、生と死の真相だ。
・ 今と同じ「心の」生が、永遠に続くのだ。
・ 死という移動は無い。

これは、私が感じて来たことと完全に同じです。
今の自分の心は、肉体が死んでも、死ぬことが出来ないのです。

柔軟心


白山のふもとに、禅の大本山・永平寺を創建された道元(どうげん)さんは、
結局、最後には、
・ 柔軟心(にゅうなんしん)が無ければ、人は悟ることは不可能。
という示唆を残されています。
柔軟心とは、物事にとらわれない心、何にでもに柔軟に調和する心のことです。

在群有益(ざいぐん ゆうえき)


日本の禅の大本山の1つである永平寺(平泉寺白山神社とも縁が深い)を開いた道元禅師(どうげんぜんじ)の言葉に、

「抜群無益」(ばつぐん むえき)

という言葉が有ります。
この言葉から感じますことは、
・ 集団から離れて逃げても、何の成長も利益も無い。
・ 嫌な群れの中に居てこそ、得るものが多い。
このように浮かびます。

ここで思い出しますことは、禅の悟りにいたる道筋を牛を題材にした十枚の絵で表した十牛図(じゅうぎゅうず)のことです。

真の悟りに至る修行は、町に、社会に、嫌な会社や家庭、他人との関係性の中に居てこそ在ると指摘します。
これは禅の十牛図の最後の十段目の「悟った後の姿」として、絵に残されています。

真に悟った人は、世俗社会に帰り、他人との接触を楽しみます。
相手が子供でも、誠実に向き合います。
決して、山に引きこもることはしません。

商売で成功して裕福に成れるのも、多くの人々が住む社会の中に居てこそ可能です。
会社に勤めて給与が得られるのも、嫌な上司や同僚の中でも頑張るからこそ得られるわけです。

只管打坐 (しかんたざ)


日本の禅の曹洞宗の開祖・道元(どうげん)さんも、
すべての仏典を理解して、行動の実践もした上で分かったことは(悟った)、

・ すべては、只管打坐(しかんたざ)に尽きる。
・ これしか無い。

という言葉を残しています。これは直訳すれば、
「ただひたすらに座ること」
に成ります。

でも、その本意は、「君たち、DOすればOK」 アレ? ジャニーズ?

これなのです。
自分なりに迷いながら、DOすれば良いのです。

でも、後に成れば、「迷ったから、ダメだったのかな?」と思うことも多々有ることです。
いいえ、迷った上でDOしたならば、その中での最善だったのです。
その結果が悪くても関係ありません。
手持ちの未来の中での最善だったのです。

未来が心配ならば、
・ 今の自分が頑張る姿を残すことです。
・ すると、未来の自分も、きっと頑張っているだろう。
・ 動いていれば、ご飯ぐらいは食べられるさ。
こう思うことを参考に。

このままでは老後に、年金だけでは生活が出来ないと心配するものです。
でも、「な〜に、死ぬまで働けばOKさ」
と思っていれば、未来の自分もきっと生きています。



日本で禅を究めた曹洞宗の開祖・道元(どうげん)さんが、
仏教とは何か? 禅とは何か?
と問われて答えた言葉が、

・ 只管打坐(しかんたざ):「ただ、ひたすらに座ること」。

何か他に目的があって、座禅をしては生けない。
何かを達成する手段として、坐禅をするのではない。
ただ座る姿そのものが、「仏の姿」そのものである。
このように示唆をされました。

では、このように聞かされますと普通の人は、「座る」ことに意味が有ると思いがちです。
でも、それも違うのです。
座ることも不要なのです。

道元さんが言いたかったことは、
座禅でも、仕事でも、遊びでも、
・ ただ、無心にそれをして見ろよ。
・ You,Doしてみろよ! (You やっちゃいなよ! とかなんとか)

何も考えずに、専念する姿そのものが「仏(ほとけ)」だと感じます。
だから、悟った姿とは、
・ 無心に家事に専念する姿
・ 無心に車を運転する姿
・ 懸命に接客をする姿
・ 懸命に子育てをする姿
・ 一生懸命に仕事をする姿

これを無欲に、無心で、ただする姿が「只管打坐」です。
ただ、ひたすらに、打ち込む姿。
その時に人は光っているのです。
まさに仏の姿です。

無縄自縛(むじょう じばく)


道元禅師の言葉に、【無縄自縛】(むじょう じばく)というものが有ります。

多くの人々は、
・ 自分を縛る縄などないのに、「自分はダメだ」という「思い込み」で、自分で自分自身を縛っている。

・ 他人を気にする気持ちが、嫌な想像を生んで邪見となり、自分を懲(こ)らしめる自縛となる。

このような解釈を感じます。
何かにつけて、「自分はダメだ」「どうせ自分なんか」「こんな奴」と、自分自身のことを思い込む人がいます。
そういう自分を抱えながら、他人に対しては攻撃的に成る人もいます。

(中略)

こういう時が有れば、自分で自分を縛る無縄自縛の縄が、1本、2本、と自分自身を縛っていると思い、
「エイッ!!」と切断するイメージトレーニングをするのも良いです。
・ 型から入ること
コノ世は、「型」が作用する次元だから、無意識から起こる無縄自縛に対しては、「行為」が有効です。

型が有効な次元だからこそ、「正しい」先祖供養や、「三社の」神祭りも、やはり現実的な意味を持ちます。

只今ばかり、我命は存ずる也


禅僧である道元(1200年-1253年)さんの言葉に、

・「身の病者なれば、病を治(じ)して後に、好く修行せんと思はば、無道心の到す処(ところ)也。」
「正法眼蔵随聞記」より。

自分が病気であるから、その病を治してから立派に修行しようと思うのは、ヤル気が無い証拠である。
いつまで経っても、そのままである。
という示唆が有ります。

(中略)

人間は「前向き」と「ヤル気」が有れば、何も無いところからでも、何かを産み出すことが出来ると感じます。
でも、多くの人を見ていますと、
「何もしたくない」
という暗雲が広がっていることを感じます。

では、こういう人に対しては、道元さんならば、何と言うのだろうか?
と感じて観ました。
すると浮かんで来る言葉は、

・「只今ばかり、我命は存ずる也」
(ただいまばかり、わがいのちはぞんずるなり)「正法眼蔵随聞記」より。

自分の命は、ただいま現在あるのみだよ。
自分の命は、ただ今しかないのだ。
過去もなく、未来もなく、ただ今にのみ存在する。

だから、過去の自分を見るな。
未来の自分を見るな。
今以外の、もう存在しない過去の自分、まだ存在しない未来の自分を思うから、「何もしたくない」という空虚が起きると感じます。
・ 今の自分を見ることで、地に足の着いた発想が生まれて来ます。


関連項目




  • 最終更新:2024-01-01 15:18:20

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