自灯明(じとうみょう)

自灯明(じとうみょう)について
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死に逝かれようとする臨終の釈尊と、最後に会話したのが十大弟子の一人である阿難(アナン)です。阿難が、釈尊の死後に「自分たちは何をよりどころに生きて行けば良いか?」
と釈尊に聞いた時に、釈尊は、

・ 自灯明 法灯明(じとうみょう ほうとうみょう)で生きなさい。
・ 自分自身を明かりとして、自分自身をよりどころとして生きて行きなさい。
・ 真理の法だけを、頼りなさい。
・ 他人を、よりどころとしては生けない。
このように示されました。



禅宗に古来からある公案(こうあん:禅において修行者が悟りを開くための課題として与えられる問題のこと。思考よりも直感でしか理解できない内容であり、その正解は無し)
の1つに、

「師に会ったら師を殺せ」

という求道への戒めの言葉があります。
原文では、師=仏陀=先生・・・・という教える立場の人を指します。
これと同じ意味を、道元、臨済、一休という歴代の有名な禅僧は皆好んで必ず口にしています。

見性(けんしょう:真理を見抜くこと)を体験した人は、今までの自分が辿った道のりを振り返った時、実は師匠こそが自分の悟りの妨害者に成っていたことが真から分かるわけです。
もちろん、この「殺せ」とは殺人などでは無くて、
* 自分が悟る為には、師匠は不要、むしろ妨害者。
* 自分自身の仏性(ぶっしょう:真我・内在神のこと)だけを頼ること。
を意味します。

このことを最初に言い出した人こそが、師匠を持たずに悟った釈尊だったのです。
自灯明(じとうみょう)を遺言しています。
(過去記事【自燈明(じとうみょう) 2015-09-13 11:38:40】を参照)

しかし現代社会では、悟るためには師匠からの認可(数十万円も請求する師匠あり)が必要。
法名を付けてもらえないと悟れない(数万〜数十万円)。
と自称する有料先生が多いです。

このようなことは全てデタラメです。
そんな変な人間との縁が有る限り、その穢(けが)れにより悟るなど不可能です。
もしこんな自称先生がいれば、避けることを参考にしてください。

釈尊も2500年も前に、当時の集金する師匠たちと戦ったのです。もの凄いバッシングを受けました。
でも釈尊は、負けませんでした。

このことが現代へも転写しています。
要は、誰もが外からの誘惑に負けずに、
* 自分を信じて生きましょう。
ということなのです。


自燈明(じとうみょう) 2015-09-13 11:38:40

私は、すべての欲望(ワレヨシな自我)に打ち勝った。
私は、すべてのことが分かった。
私は、すべての意味で清浄である。
自分のあらゆることを手放した。
色欲も枯れました。
そして、心は悟っている。
自分で悟ったのです。
つまり、師と呼ぶ他人はいないのです。

(原始仏典 ダンマパダ24章-353番)

(感想)
この項で釈尊が言いたいことは、
「つまり、師と呼ぶ他人はいないのです」
なのです。
2500年前の修行者にも、現代社会の宗教の有料先生にもよく居るのですが、
「悟るためには、師匠が絶対に必要だ」
と主張する先生が非常に多いのです。

(中略)

誰もが見詰めるべきなのは師匠では無くて、自分自身なのです。
悟るのは自分だ、ということを忘れては生けません。
今日も、自分自身の生活の中で、自分を見詰めましょう。

そこに大切な生活のヒントも、成長も、悟りも在るのです。
誰もが、既にすべてが揃っています。
後は、自分で気付く(悟る)だけなのです。



このように人間とは、自分自身のこと以上に他人ばかりを見て、喜怒哀楽をしているサガ・性が有るのです。
更に言いますと、コノ世の喜怒哀楽には必ずそこには他人が居るということです。
もし、これを反転させることが出来て、他人に左右されずに自分だけを見詰めることが出来ますと、いわゆる聖者に成れる可能性が有るのです。
近代インドの真の聖者であるラマナ・マハルシにしましても、
「自分自身を見詰めなさい」というこれ1本だけで聖者に成った御方です。

2500年も前に存在した釈尊ご自身も、自燈明(じとうみょう)つまり、
「自らを灯明とし、自分の心の火だけを頼りに自分が歩く先を照らしなさい」
と発言しています。

本当に他人を見ずに、自分の心だけを静観することが出来ますと、心が真から平安に成ることが可能なのです。
他人を観察している限りは、自分の心が安定することはありません。
他人を見ないということは、決して自己中心的に成れということではありません。やはりそこは中道(ちゅうどう:バランス)の視点を自分が持ち、自分の良心から判断して自分自身を見詰めるのです。


不動の自分を信じること 2013-11-16 10:24:25

最近は、他人からの言葉や態度に一喜一憂している人が多いです。
このような人は、自分を見詰めずに、いつも他人ばかりを見ているのです。これは本当にツマラン人生に自分から向いています。
そうではなくて、自分に内在する「絶対に不動の自分」というものを、日々の生活の中で見詰めようと、意識しようと、しなくては生けません。
これが自分の人生を改善する第一歩と成ります。

本当の安心感とは、「絶対に不動の自分」を見詰めることで、内心から起こって「来ます」。
「絶対に不動の自分」を信じることが、これが本当の信仰であり、信心なのです。
他を信じることが、本当の信仰では無いのです。
これを釈尊は、自燈明(じとうみょう)、自らを明かりにして先行きを照らし進みなさい、と言いました。


祈りの本質 2011-07-26 10:40:57

この世に生まれた限りは、「自分の心の中に」、神を求め、慈悲深い仏を見ようとし、自分自身が神の子供としてのキリストであることを知り、釈尊のようにひたすら内在へと突き進まない限り、幸福には成れません。
この世で喜怒哀楽を体験しているのは、いったい誰なのか?それは他人ではなく、あなた自身です。
体験するのは自分なのに、なぜ他に幸福が在ると思うのでしょうか?
とても美味しいとされる物を食べたところで、「自分自身の味覚が機能していなければ」、味が無いのです。分かりますか?
だから、どんなに美味しい物を「他に求めたところで」、自分自身の味覚が正常でなければ、美味しさを体験できないのです。むしろ不味いと思ってしまうかも知れません。本当は美味しいのにです。



釈尊の教えも、「自分の心を見詰めること」が、その教えの「すべて」だったと感じます。
だから、南無妙法蓮華経ならば、
「自分の心の中に、美しい蓮華の花(華)を感謝の心で咲かせましょう。」
南無阿弥陀仏ならば、
「自分の中に居られる如来(内在神)様に、感謝(=南無)します」
天照太御神ならば、
「心の太陽神(暖かさ)に、感謝で向かいましょう」
などの解釈が文字から響いて来ます。

「今の貴重な時間を大切にしながら、自分(良心)に帰りましょう。」
と言うことです。
日本の霊域を離れて観まして、上記のような事を思いました。



釈尊が仰った真理は、永遠不滅なものです。
「人は生まれた(神からの一時的な独立)ならば、自己に内在する心(神・内在神)に帰ることが、最高の幸福である。」
というのが教えです。
救世主の誕生と言うような、自分自身を信じる心を捨てさせる、他者に依存させるような話は絶対にしていません。
本当に個人を救ってくれるのは、一人一人に内在する真理の光(内在神)だけだと断言され、それに「向かって行く」ことを何回も仰っていたのです。



釈尊にしても、亡くなる時の遺言は
「自灯明(じとうみょう:自分の心の良心=内在神)の光の気配を頼りにして、大きなサイのように突き進め」でした。
動物のサイは、視力が悪くて先が見えないのです。見ようとしても、風景が見えません。だから真っ直ぐに、ためらうこと無く突き進みます。
人間も自分の思惑の先行きが見えません。


一種の振り込め詐欺 2008-10-10 20:05:17

これからは、自分自身の良心(=内在神)と先祖霊のみを信じて生きる事が大事です。
絶対に、最後の最後まで裏切りません。
共に、あの世まで同行してくれます。
釈尊が死ぬ間際に、自灯明(じとうみょう)を自分自身の拠り所にしなさいと言ったのは、この事です。



  • 最終更新:2020-10-22 19:27:01

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