原始仏典:スッタニパータ(第1章7節その2)

原始仏典:スッタニパータ(第1章7節その2)について
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専業の修行者や、在家の真面目な信仰者たち、

または苦労する路上生活者を、

嘘(うそ)を付いて騙(だま)すような人。

このような人こそが、最低の人間である。

(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章7節-No.129)

(感想)
(1) 自分は被害者なのに、相手が元気な場合は、自分自身の生活も見直すこと。
(2) 自分が真面目な生活者、努力者、苦労人になれば、過去の悪い相手に反射が始まる。
霊的には、この2点が言えます。

特に2番は、霊的世界の独特なものです。
一見すれば、時間の流れに逆らうような変な現象です。
済んだことなのに、「今の自分が正されれば」過去の帳尻も正されるように流れ始めます。

(中略)

だから自分が被害者に成れば、淡々と真面目な生活者、より真面目な信仰者に成ることが、遠因では悪人を懲らしめることに自然法則として起こり得ます。
この反射は見えないだけで、実際には社会で多々起こっています。
悪人が事故死したり、病気に成っている事例には、過去の被害者たちが真面目に暮らしていること、悪人が罪を償っていないことが影響しています。

見えない世界の怖い面は、「どんな縁も継続中」だということです。
済んだ過去など無いのです。
今も並行する宇宙で、過去の所業も「並行して」稼働中です。
だから今も思い出す現象が起こります。

これを修正・改善するには、
・ 悪人も、善行で「上書き修正」をして行くこと。
これで因果の相殺が起こって行きます。

今日の言いたかったことは、
・ もし自分が被害者に成れば、より真面目に自分の生活を正して見ること。
これが意外にも、悪人への復讐方法に成り得るということです。
被害者は出来る社会的対処はした上で、

・ 悪事の被害に対しては、善徳をもってお返しをすること。

これが思う以上に強力だったという御話でした。



食事の時に、修行者が訪ねて来ましたら、

何の食事も提供しないで、食事時に来ること自体が失礼だと修行者に対して怒る家の人。

このような人こそが、最低の人間である。

(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章7節-No.130)

(感想)
「食事の時に訪ねて来た修行者が、何も提供されないと、その家人を最低な人だと言い怒った。
そのような修行者こそが、最低の人間である」

このように読み替えますと、厳しい断食苦行で死に掛けた釈尊ならば、いかにも言いそうな発言です。
釈尊は、当時の荒稼ぎをする伝統宗教の修行者たちを罵倒し続けた為に、何度も暗殺にも遭いかけた御方です。
従って、むやみに食事を請求する修行者を庇うとは思えません。
むしろ「飢えて死になさい、修行者ならば」と釈尊ならば言いそうです。

ただ、霊的な真実を書いて置きます。
その訪ねて来た食事を乞う修行者が、本物の善徳の有る修行者ならば、食事を捧げた果報は非常に大きいのです。
その供えた1食で、家系3代にまで続く幸運が来るかも知れません。



ほんのわずかな物の為に、

それが欲しい為にウソをつく人。

このような人こそが、最低の人間である。

(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章7節-No.131)

(感想)
釈尊が言われるには、何かを得る為の小さなウソも、大きなウソも同等なのです。
私達は、小さなウソならば「まあ良いか」と思ってしまうかも知れません。
しかし霊的には、小さなウソも、大きなウソも、「それが言えること自体が」心の本性としてダメだということです。

(中略)

ウソをつくには、「ウソの境界線」を超えるか、否か、が大問題のように感じます。
ウソの境界線を超えない人には、小さなウソも、大きなウソも、その違いが無い訳です。
でも一度でも、ウソの境界線を超えた人は感覚が麻痺し、段々とウソの世界に住むことが日常に成るようです。

息を吐くようにウソをつく人。
呼吸自体もウソのような人。
このような人間や国家には成っては生けません。

このように成る人も、最初にウソの境界線を超えるか否かの葛藤が有ったと信じたいものです。
だから、最初が肝心な訳です。
釈尊は、最初にウソの川・境界線を渡らない為のイマシメとして、

* 何かを得する為に、小さなことでもウソをつく人は最低だ。

とわざわざ指定したと感じます。
ただし現代社会では、自分や家族の防犯の為には、例えば異性を自称・偽装したりするようなウソは仕方がないとも感じます。

この切り分けは、自分の良心が知っています。
命を守る為のウソと、金銭を得る為のウソは、切り分けて考えましょう。



慢心し、自分自身のことを自慢しながら、

他人を見下して罵倒するような人。

このような人こそが、最低の人間である。

(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章7節-No.132)

(感想)
この項の指摘では、
・ 自分自身のことを自慢する時は、立場の弱い人を叱らない。
・ 自分の自慢話だけで留めておくこと。
このように釈尊の言葉を切り分けることも出来ます。

でも、自慢だけで収まらずに、自慢の後に立場の弱い人を叱るパターンが人間に有るようです。
それは、どんな時か?
上司と部下で飲んだ時に、非常によく見られる光景でした。

この項は、
・ アルコールを飲んだ時は、自分を自慢しながら、他者を罵倒しては生けない。
このようにも、言い換えることも可能です。

人間のサガとは、
・ 自慢する時=それは他者を見下している時。見下したサイン。

これを知っておれば、
「もしかして自分は自慢しているかも?」
と気付けた時は、
「その時の相手を見下していないか?」
と自分で注意をすることも可能です。

要するに、
・ 他人の恨みを買わない
・ 悪い因果を作らない
ためのイマシメでも、この項はありそうです。

自分の自慢 + 他者を罵倒すること。
このセットは、釈尊がわざわざ指摘するほど悪いことだと言うことを覚えて頂ければ幸いです。



他人の悪口ばかり言う人。
御礼を言うことを知らない人。
悪行を行うことを好む人。

他人に物をあげることを嫌がる人。
ウソをついてでも、他人に羨ましがらせることを好む人。
悪いことでも、恥を知らない人。

このような人こそが、最低の人間である。

(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章7節-No.133)

(感想)
釈尊が具体的に、因果的にも最低な人に成る条件を上げています。
人として、最低だと見なされる条件です。
来生の転生(生まれ変わり)に影響する霊的な因子でもあります。

このような人は、偉い人、裕福な人、にもたまに見掛けます。
つまり生まれた環境や、社会条件は関係がなくて、個人の魂のサガ(性・自我)から生じるものだと言えそうです。

この中で気になる表現は、
・ 「御礼を言うことを知らない人」
良い人ではあるのですが、何かを提供されても「無言」のままの人がたまに居ます。
本人は、悪気は無くて、何とも思っていません。

これだけは、親のシツケや、受けた教育が影響する問題に感じます。

(中略)

いくら貧乏でも、恥ずかしいと思われることはしたくないものです。
富裕に関係なく、心は高貴に、高潔(こうけつ:正しく)に、生きることは幾らでも努力で可能です。
上記のような卑しい行為から離れて、自分の良心に従って生きて行けば、どんな環境に住んでいても大丈夫です。
必ず天国に行きます。



釈尊を非難したり、
出家した専業の仏教修行者を非難したり、
在家の真面目な仏教信仰者を非難する者は、

このような人こそが、最低の人間である。

(原始仏典 釈尊の言葉  釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章7節-No.134)

(感想)

この項は、後世の仏教者による加筆だと想定します。
釈尊の言葉を感得が出来ません。

それどころか、
「私を非難するな。
私の弟子たちを非難するな。
もし非難するような者が居れば、それは最低の人間だ」
・・・・このようなことを釈尊が言うはずがありません。

(中略)

・ 他人からの非難を異常に怖れること。
・ 自分が非難されていると勝手に思い込むこと。

これの行き着く先は、自分だけが、どんどんと落ち目に成って行くだけの大損となります。
その頃には、相手は言った悪口すら忘れており、もう関係がありません。

他人の悪口を異常に怖れた結果が、いつのまにか自分自身が他人を呪うような人になっていたということにも成りかねません。
もしこうなれば、最初に悪口を言った相手よりも、自分自身の方が地獄に行く可能性も出てしまいます。

必ず死んで行く人間とは、誰もが弱い・儚(はかな)い存在なのです。
だから非難をする他人とは、その人も弱いからこそ、他人を非難する訳です。
だからそこで、もし自分が他人からの悪口で苦しむならば、

・ どうして自分は、他人からの悪口を気にするのだろうか?
・ 自分の良心に恥じることが無ければ、何も心配する必要は無い。
・ もし反省点が自分に有れば、素直に反省しよう。
このような視点を参考にして欲しいものです。

・ 他人からの悪口を心配すれば、損をするのは自分だけ。

これを忘れないことを参考にして頂ければ幸いです。



陰では、尊敬を受けるに値する行動の人物では無いのに、
尊敬・崇敬を受ける立場を自称して居座っている人。

こういう人は、神様をも欺く(あざむく:だますこと)コノ世の最大の盗人である。
このような人こそが、最大の最低な人間である。

以上に列挙した様々な「最低な人物」の所業が、人として真に最低だということを知って置きましょう。

(原始仏典 釈尊の言葉  釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章7節-No.135)

(感想)
釈尊が言われるには、立場・地位を悪用した悪事とは要するに、
・ 本音では、神仏の実在を一番信じていない人。
・ 神仏を信じていれば、絶対に出来ない悪事。
という訳です。

(中略)

つまり、立場のある人でも、人前に出ている時間が短い人は、陰の時間が長いと言えます。
教師や医師の内でも、日に10時間以上も人々の前で働く人は、やはり周囲の人々はその先生の善悪が分かりやすいものです。
でも日に数時間しか人々に面しない地位ある人は、良い偽装をするのは簡単であり、陰の生活が分かりません。

(中略)

コノ世で他人をダマして、泣かせて、得をしたと思っていましても、果たして何年間?長くても数十年間の事に過ぎません。
死後の人生は、無限に長い訳です。
死後の長い人生を、快適に、穏やかに暮らすには、コノ世での善行貯金が必要です。
コノ世での悪徳貯金が有れば、アノ世で必ずそれに見合った環境が出現します。

* 死後の人生を恐れよ! 畏れなさい!

これは、すべての人間に言えそうです。



人間は、生まれた家によって、最低の階級の人間に成るのではありません。
生まれた家の階級によって、最高の人間に成るのではありません。

人間は、自分自身の行為によって、
最低の人間と成り、
最高の人間にも成ります。

(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章7節-No.136)

(感想)
釈尊は、コノ世のすべての立場と当時の厳しい階級制度の裏側を知った上で、体験した上で、
・ 「それでもなあ」
・ 「これが本当に大切なことなんだ」
という真理を説かれた訳です。
やはり、真実の言葉、宇宙の法則を見抜かれた黄金のようなお言葉ばかりです。

そしてこの項では、
・ 人間は生まれた家柄は関係ない。
・ 自分の行為・行動で、その人間が決まって行く。

これは更に、
・ 人間は、自分の生まれた家を悲観しては生けない。
・ 生まれた家の親の責任にして、逃げては生けない、諦めては生けない。
・ 自分の生まれた環境のせいにして、悪事をしては生けない。
・ どんな環境に生まれようが、自分自身の行為により、人間は分かれて行く。

このような釈尊の厳正な言葉を感じます。
やはり人間は、今日の自分が、行う行為と行動が大切なのです。
このような話をしますと、過去の自分の行為を後悔して、心配するあまり、今日の自分の行為が疎かに成る人が居ます。

でも、これでは生けません。
今日の自分の行為こそが、過去の自分の生活も上書き修正して行く唯一の手段であることを知って置きましょう。

過去を悔やんでも、そのままです。
今日の生活が、過去も今も未来も、改善をして行く唯一の手段です。
釈尊も、今の自分の行為が、その人間を決めて行くと仰っています。

人間は、生まれによる永久免許は無いのです。
今日の自分の行為による、「毎日更新の免許証」だったということなのです。



これから私(釈尊)は実例をもって説明しますが、これにより私が言わんとする本意を知って頂きたい。

マータンガ聖者が、階級制度により忌み嫌われる生活習慣の中で生まれ育ったことは知られています。
しかし、彼は誰もが知る有名な聖者である事実を知りなさい。
(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章7節-No.137)

マータンガ聖者は、絶え間ない不断の信仰への努力と、御自身の人徳により、彼が生まれた身分階級に関係なく、数々の王族や、多くの修行者たちから尊敬されて信仰されている事実を知りなさい。
(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章7節-No.138)

(感想)
この第1章7節は、「こういう事をする人間は最低だ」という説明を、色々な事例で説明している章です。

(中略)

私達も、見掛けだけで他人を判断して、毛嫌いしたり、避けていることがあるかも知れません。
餌を求めて近寄る犬や猫に、石を投げる人もいるかも知れません。

でも嫌った相手の正体は、意外や意外、福の神や、幸運を授けてくれる存在だったかも知れません。
その人自身に、福の神を受け取る人徳がまだ無かったということです。

そういう意味で、この司祭もあの釈尊から直々に話を聞いたこと、長く聞けたことに、両者の間の深い縁を思います。
・ 人間を身分階級や役職、生まれによって、差別をしては生けない。
・ その個人の努力と、行為によって、その人生が違って行くこと。
これを釈尊が教えておられます。

古代インドの厳しいカースト制度の中でも、マータンガ聖者という人物が出たことは真に幸いなことです。
ここに人類が継続するための「良心」というものを感じます。



カースト制度(身分制度)により忌み嫌われる生活習慣の中で生まれ育ったマータンガ聖者は、心境の上昇に伴って、神々が行き来する世界へと生きながら至ります。

この時には、様々な自我(ワレヨシ)の欲望から完全に離れており、心はブラフマン神(ヒンドウー教の最高神)の世界にコノ世に生きながら生まれ直したのです。

マータンガ聖者が生まれた最底辺の身分階級は、彼がブラフマン神の居る世界に生まれ直すのに、何の障害にも成りませんでした。

(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章7節-No.139)

(感想)
マータンガ聖者が生まれ育った非常に苦しい生活条件は、彼を、
・ 非常に慈悲深い人間に上昇させた。
・ どこまでも謙虚で、下から目線で公平に考える人間にした。
・ 誰にもマネが出来ないほど、徹底した修行生活に没入させた。

もしマータンガ聖者が、普通の中流階級に生まれていたならば、彼はブラフマンの世界へと至る人間に成れたのでしょうか?その場合は、
* 人間に、そこまでの決意をさせ難い。
という状況になりがちなのも、コノ世です。

ここで浮かびます言葉は、
・ 艱難汝を玉にす (かんなん なんじをたまにす)
非常な苦労や困難こそが、人を立派な人間にすること。

・ 人間 万事塞翁が馬 (にんげん ばんじさいおうがうま)
私たちの何が、幸いに・不幸に、転じるのかは未知なのです。

このようなことがマータンガ聖者には、実際に起こったと言えます。

(中略)

コノ世での生まれや、絶対的条件に関係なく、自分の心は無限大の自由だということを再認識しましょう。
自分が持つ苦労こそが、自分の心を神々の居る世界まで連れて行ってくれる可能性が誰にでも有るという趣旨の項でした。

どんな条件の中でも、絶望せずに、命をリセットしたいと思わないで、
「期間限定の」コノ世を精一杯に楽しんで見ましょう。



バラモン階級(インドの身分制度の頂点に位置するバラモン教やヒンドゥー教の司祭階級の名称)に生まれ、
ヴェーダ(3200年ほど前から編纂された古代インドのバラモン教の根本聖典。 インド最古の文献)聖典を学習・暗唱し、
ヴェーダ聖典に基づいた生活を代々行う神官たちの中にも、悪しき行為を行う者がしばしば見られます。

(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章7節-No.140)

そうすれば、今生は最高の身分に生まれた者でも、
今生においては、陰で人々から非難されて、
来生は、劣悪な条件の元に生まれます。

つまり、そういう者が今生に生まれた最高の身分とは、
世間から非難されることも、
来生に悪しき環境に生まれ直すことも、
止めることが出来ないものに過ぎません。

(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章7節-No.141)

(感想)
コノ世で成功した人ほど、
・ 謙虚に暮らさなければ生けない。
・ 多い色情の誘惑の手を、我慢しなければ生けない。
・ 地位のある自分の行為で、知らずに他人の人生を壊していないか?
・ 高い地位にある者ほど、公平に生きなければ来生が怖い。

成功しても、良いことが無い。
むしろ来生は地獄に行く機会が増えている。
こういうことにも成りかねません。

でも実際に、メザシの土光さん(昭和に活躍された大経営者)のように、大きな収入が有っても庶民よりも質素で不便な生活をされた御方も実在します。
家族の方々も、大変だったと思います。
しかし、確かに菩薩・如来級の御方だったと感じます。稀有なる人生です。非常に稀な御方でした。

また、今生の自分が苦しい環境に生まれたからと言って、その分、悪事をしても許されることなど絶対に無いのです。
来生は、更に苦しく生まれるのが、転生の仕組みです。

こういうことが、転生の法則として、宇宙に淡々と流れています。
・ これは非常に畏れるべき法則であり、
・ 逆に言えば、どんな善行もムダに成らない。
ということも言えます。

自分がコノ世で行ったことは、善悪ともに、
・ 絶対に消えることが無い。
・ 逃げ得は有り得ない。
・ うやむやに消えることが無い。
・ でも、だからこそ、今からの善行で上書きも可能である。



釈尊は、町に住むバラモン教の最高身分の神官の男性に対して、

「人間は、自分が生まれた家の身分階級によって、
最下層の身分階級の人に成るのではありません。
自分が生まれた家の身分階級によって、
最高の身分階級の人に成れるのではありません。

本人自身がしている生活行為の内容によって、
最低の人間に成ったり、
最高の人間に成ったり、
と決まるのです」

このように再度の説法をしました。
以上のすべての釈尊の説法を聞いた、祭火の種火を祭る最高神官の家柄の主(あるじ)は、

「本当に素晴らしい説法です。真に悟った者であるブッダである釈尊あなたの話は、
・ 倒れた人を起き上がらせるように。
・ フタのしまったお宝の箱を開けるように。
・ 道に迷った人に、進むべき方向を教えるように。
・ 暗闇にランプの火を差し出して、そこにある真実を照らし見せるように。
様々な真理の御話を自在に多用して、見事に説明をして納得させます。

もう私は、あなた釈尊に完敗を致しました。
私は在宅の信者として、あなたの御話を信仰します。
どうぞ私を受け入れて欲しく思います」

このように町のバラモン教の最高神官の男性は、熱心な仏教徒としても生きました。

(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章7節-No.142)

(感想)
この項をもって、第1章7節が終わります。
仏典の7節の表題は、「身分制度について」という意味でした。

そもそもの始まりは、町の神官が朝の祭事の準備をしようとしている時に、糞掃衣(ふんぞうえ:大便を拭いて捨てられていた布で作った黄色い衣装)を着た見ず知らずな若者・釈尊が、家の門に近付いて来て、
「朝食を恵んで欲しい」
と申し出たことから始まります。

バラモン教の最高神官としては、当時としては新しい何教?とも分からない異教徒の若者が訪ねて来て、汚く見える臭そうな衣装を着て立ち、おまけに朝食を出して欲しいと言われた訳です。
これに対して、普通の家の人でも「え?」と成るものです。

しかも祭祀の種火を先祖代々にわたり預かる家柄の主人です。
・ せっかくの朝の準備が台無し。
・ しかも、朝食を出して欲しいと頼まれる。
これに対して怒り、釈尊に水を掛けて追い払おうとした訳です。

そこで釈尊が、「ちょっと待ってください」と言い、色々な話を始めたのです。
・ その状態から、釈尊の話を黙って聞いた神官も、心ある偉い人だった。
・ 相手に聞かせる雰囲気を持つ釈尊は、やはりサスガだった。
このようなことを思います。

(中略)

神官はなぜ黙って、釈尊の話を聞いたのでしょうか?
それには、ボロを着てても釈尊の慈悲深い目の視線が分かった、やはり神官だという人徳もありますが、
・ 非常に納得させる話だった。
・ 具体的な例も用いた、非の打ち所がない内容だった。
・ 斬新な真理を含んでいたから。
このようなことが言えると感じます。

* 人間は、自分自身がしている生活行為の内容によって、
最低の人間に成ったり、
最高の人間に成ったり、
と決まるのです。

* 人間は、身分制度により人生が決まるのでは無い。

* 今の自分の生活内容により、その人が決まって行く。

これを忘れないで、今日も良心に沿って生きたいものです。


【掲載順序】本ページは「日付昇順」とします。



  • 最終更新:2020-06-11 19:45:42

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