釈尊(全般:関連記事)

釈尊(全般:関連記事)について
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自分の心の配分比率 2016-11-05 11:06:08

釈尊は、・・・慈悲(愛情)3割:透明な知性3割:無の境地4割。
ただし、この静止した状態では、現実の社会生活は難しいものです。

そこで釈尊は、中道(ちゅうどう)が最善と言い残しています。
すべての感情の「中間」「ほどほどに」を意識して、喜怒哀楽を持てば良いとします。



釈尊と阿難の出会いは、釈尊が独立されて世間ではまだ無名の時代のことでした。
小川のほとりで、まだ幼児だった阿難が裸で水辺で村の子供たちと遊んでいた時に、遠方から村に訪れた釈尊が村に入る前に沐浴をしようと水辺に来られました。

阿難は、その見ず知らずの若い男性が非常に背が高いことに驚き、また全身が微かに発光していることに子供ながらに惹かれました。
男性の顔には微笑みが絶えずありましたので、怖い人では無いと思った幼い阿難は「遊んで!遊んで!」と男性に飛び付いてその服を手で掴んで離さなかったのです。

釈尊は困ったと思いましたが、服を幼児に掴ませたまま村へと入って行きました。
村で働く人々に「心の生き方・活かし方」を話した釈尊は、いざ村を離れようとしましたが、服を掴んだままの裸の幼児がどうしても離れてくれません。
もう村を出るから離れるように言いましたが、幼児は付いて行くと言い聞きませんでした。

村人に幼児の親のことを聞きますと、村に住みつく孤児だということでした。
これは困ったと思った時、釈尊は幼児の瞳に自分自身が子供の時に出会った家庭教師の先生の面影を見つけました!!
その時、釈尊の心は懐かしさを感じ、激しく動揺したのでした。

それから釈尊は、ある決意をして幼児をそのまま連れて行くことを村人に請いました。
村人は、どうぞどうぞ御自由にということでした。
これが釈尊と阿難の最初の出会いです。



私の脳内の映像では、釈尊ほどの美しい男性を今までに観たことがありません。
背は高いのですが、非常に中性的で「高貴な愛情」を秘めた尊顔をしています。決して堅物などではありません。



中国人である老子も、インドに生まれた釈尊も黒髪に黒瞳です。実は、イエス・キリストも同じく黒髪に黒瞳だったのです。
ラマナ・マハルシも含めて、人類の精神の進化に関与する人類の特徴なのです。
この原因は、今の月の中心核を鋳造した違う宇宙文明にあったのです。


生きる意味 2012-10-04 11:49:39

老子は、中国の周国を水牛に乗って立ち去ったのが最後の姿だとされています。
徒歩ではなくて水牛に乗っているということは、よほどの遠方へと行く覚悟だったのでしょう。
私は、その後に老子がインドへと行かれたと思っています。
そして、若い王子である釈尊に対して、老子はその知恵のすべてを教えたのだと夢想します。

北極星を背負う老子が、太陽を背負う釈尊に知恵を授けたのです。
夜空の北極星は、時代ごとに北極星に成る星が定期的に変わって行くのが宿命ですから、老子も同じくして人生において大移動をしたのでしょう。
そして、若い釈尊を教えた老子は、その後はヒマラヤ山中に消えて逝かれたと私は思っています。
役所の中間管理職として世間を見ながら苦労し、最後まで有名になることを拒んで隠れた老子こそは、真の聖人だったのでしょう。


自分の価値に気付くこと 2012-06-25 10:37:25

釈尊は、人間が生まれるためには、
「世界に1つしかない小舟の船底が、大海を漂流する間にすり切れて小さな穴が開き、その穴に世界に1頭しかいない非常に用心深い目の見えない海亀が、100年に1度だけ海底から首を出した時に、その首が船底から偶然に突き出るほどの稀有な条件が必要だ」
「世界中の海岸の砂浜から、たった1粒の自分という砂粒を見つけ出さなければ生まれることは出来ない」
という有り得ない条件を例えられました。


自信を持てば大丈夫です 2012-06-08 09:33:00

ひたすらサイのように自分の内面(自灯明)に突き進めと仰った釈尊が、救世主の降臨など言うはずが無いのです。
ちなみに釈尊ご自身は、自分が救世主だと発言したことは1回もありません。
それどころか釈尊は、逆に人間とは外部の物事に左右される限りは救われず、自分自身の執着を見詰めて滅し、内在する良心(内在神)に目覚めない限りは安心(涅槃)に至ることが不可能だと言いました。

要は外部からの救いでは、人間は退化するだけで救われないのです。
釈尊の直弟子たちも、釈尊を救世主だとは思わずに、教えてくれる人だと解釈していました。
その理由は、弟子自身が釈尊の教えの実践で自ら悟り(安心すること)に至りますと、救う者・救われる者という上下関係がそもそも真理には存在しないことを「知る」からです。

見えない信仰においては、魔物ほど上下関係を悪用し、そこから支配と搾取を実行します。
見える社会生活や社会構造では、上下関係は大切であり従うべきものです。
この2つを混同してはいけません。



「排除するべき人間(霊)などいない」と言いましても、今の世の中には悪事をする人間が実在しています。
これをどう説明するのか?
釈尊はこれを、「迷いの最中の人間」と表現されました。
人生とは、この世(陽)とアノ世(陰)の2つ(陰陽)を経験してこそ、1つの人生が成立するのが真実なのです。
今の私たちは、生きている半分(陽・昼間)の人生を、心配しながら懸命に生きています。
しかし誰もが、残り半分の夜の世界(陰・夜間・アノ世)を必ず経験しなければならない「宿命」なのです。


長い視点が大切です 2011-10-02 11:49:10

釈尊も仰ったように、この世では他人が存在するようにバラバラに分離しているように見える人類・人種も、ほんとうの深い実相の世界では、たった一人の人間しか存在していないのが真実なのです。1つなる神様と、たった一人が実在するのです。
だから、他人をイジメる、傷付ける行為とは、自分自身を傷付けている自傷行為なのです。
実は、これを素直に信じた人間は、人生が好転する法則が在ります。
自分の生活の中で、これを意識した行動と選択をするだけで、10年後の人生は変わっています。
運命は変わるのです。
この世で幸福を得る人は、“この事を”教わらなくても「自然と知っている」「自然とそのような選択」をする人なのです。


日常生活の中こそ最重要 2011-09-18 10:49:20

アタリマエな日常の中こそ、神様を自己の中に感得できるチャンスなのです。
神様との距離が、最短の状態であるのが、アタリマエの日常の「中」です。
釈尊が死ぬ直前までの非日常の苦行をされたとき、「これがムダな行為であることを知ったことが、唯一の財産だった」と言っています。
そして、“日常生活の労働を繰り返す”女性から食事の恩恵を受けた時に、目の前の景色すべてが自分の中に溶け込み、大空に浮かぶ太陽・星々のすべてが自分に向かって落ちて来て、自分の中に溶け込んで「来る」体験(覚醒)をされたのです。
覚醒と言われますと、未知の大げさなことを想像しますが、ただ「安心した」ということなのです。それも絶対的な大安心です。
そして、すべてが自分一人しか存在して居なかった、ことを知ったのです。
この状態では、他人も自分自身なので、争うという言葉自体が無くなります。


実は見ていなかった 2011-09-13 10:02:23

幼児などは、何でもイヤイヤというものです。しかし、脳の成長と共に、イヤイヤが減ります。
実は、知性と同様に、上記のことは霊性の進歩にも言えることなのです。
釈尊には、嫌いな人間が一切いませんでした。どんな人間でも、真から愛おしかったのです。敵対する者にも、慈悲心を持っていました。
自分の霊性の進化をサニワ(判断)するポイントとして、嫌いな他人がいるかどうかの増減を自己観察するのも良いです。

感謝の先祖供養を始める前は、親に対しての許し難い感情が湧く人もいます。しかし、供養により家系の霊線(遺伝子)の浄化が進みますと、なんとなく親を許せるように成るものです。


いろんな自衛対策 2011-07-29 10:39:30

日本の神道は、古来から太陽自体を天照太御神として、感謝を捧げて来ました。
太陽を鎮めるには、人間が出す感謝の磁気が必須なのです。
太古の人類の大半が、太陽信仰をしていたのは古代遺跡からも明らかです。キリスト教でさえも、その本当の起源はキリストという個人ではなく、太陽信仰に原点が在ります。釈尊も、太陽族と呼ばれた民族の族長でした。

生活の中で太陽に感謝しながら、生きてみましょう。生きる御神体(太陽)への感謝は、よく自分自身へと反射します。
そして、すべてを無難へと鎮めます。



  • 最終更新:2016-11-06 19:42:22

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