親鸞

親鸞について
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全般


・ 貪欲にむさぼり求める心。
・ 怒りの心のこと。「いかり」・「にくしみ」などを指す。
・ 愚痴(ぐち)を思う心のこと。これは自分の無知、愚かさから来る。
この3つの毒気(どくけ)に注意を釈尊は言われました。

仏典のこの内容を読んで悩まれたのが親鸞聖人(しんらんしょうにん)です。
比叡山でも修行して、一生懸命に先輩僧に言われたことを頑張りましたが、自分からこの3つの毒気が抜けることが、まったく無いことに悩まれたのです。

(中略)

・ 私は、三毒を消すことも出来ない、頭が禿げた、愚かな僧であることを忘れないでいよう。
・ 私という「おろかなハゲ」は、自分が三毒を抱えながら生きている者だから、他人よりも余計に自分の三毒を出さないように注意して生活をしよう。
・ 自分に三毒が有ると自覚して意識している分は、他人に三毒で迷惑を掛けることを減らせるかも知れない。
このように考え方を親鸞さんは変えられました。

すると、「自分には三毒など無い」「三毒って、何?」という人々の生き方とは、
・ 三毒への注意の意識そのものが無いために、
他人に無意識に三毒をばら撒いているのです。



「よろずのこと みなもって そらごとたわごと まことあることなきに
ただ念仏のみぞ まことにておわします」
(『歎異抄』より)

・ 社会には、中身のない言葉ばかりで、まことの言葉はない。
・ しかし、ただ一つ念仏のみが真実の言葉です。
このように親鸞さんが言われています。

このように言われますと、人は、
・ では、その念仏の中身は、どんな言葉なのか?
・ その念仏の言葉ばかりを見て、その言葉の深意や真偽の議論ばかりをするものです。

でも、親鸞さんが言われた、「ただ念仏のみぞ まこと」とは、
・ その言葉の内容では無くて、それを唱える人の誠意こそ、真実だ。
・ 如来という未知の存在も認め、謙虚に思いを寄せる姿勢。その姿こそに人の真実が在る。そこに仏が在る。

このように親鸞さんの言葉を、私は感じます。



人生は、真剣に成ることは大切だが、深刻(しんこく)に成っては生けない。

今朝は、このように響いて来ます。
仕事でも、家族の将来のことも、自分の老後のことも、

・ 人の悩みの半分以上は、まだ起こっていないこと。

私達は、まだ起こっていない想像のために、生気を削るように悩みます。
でも、悩んでも良いのです。
それが、事前の最悪想定となり、未来を無難に変えていることが大半だからです。

しかし、大切なことは、深刻に成ってはダメなのです。
悩んでも良いですが、どんなことにも深刻に成っては生けません。
失業も、離婚も、病気も、大いに悩んで良いです。
でも、どんなことも深刻に成っては生けない法則です。

(中略)

最近に思い出すことは、
・ 親鸞(しんらん)さんの阿弥陀如来への信仰とは、
・ どんな悲惨で、深刻なことも、それをハッキリと正視して逃げずに、
・ 冷静な笑顔で、阿弥陀如来様に預けること。
・ そして、笑い飛ばすこと。
・ そして、いつか自分も阿弥陀如来の元へ、死んで行くこと。
これを感じます。

浄土真宗でいう「妙好人」(みょうこうにん)とは、
・ 幸も不幸も、すべては阿弥陀如来の導きの上での、「最善」だと受け取ります。
・ 詐欺に遭えば、それも阿弥陀如来が「観ている」上でのことだと悩まずにいます。
・ どんな悪いことも、その御蔭で、自分の命を守るための相殺(そうさい:差し引き・打ち消し)の上での最善であり、阿弥陀如来の導きと考えます。
・ この阿弥陀如来との一体化した生き方、アホウと言われようが、天国に行くこと間違いなし。
という観念です。

でも、霊的には、これは有り得るのか。
これは古代インドでいう、バクティ信仰(神様への信愛主義)にも通じ、
・ どんな悪い事も、守護神(内在神)による相殺のための現象であり、常に自分の善徳予算の中での最善だけが起こっている。
という真理にも通じるのが妙好人と言えそうです。

今日の言いたかったことは、
・ 自分にとってのどんな悪い事も、真剣に対応して、しかし深刻にはならずに笑い飛ばして欲しい。
ということでした。 



ふと、親鸞(しんらん:1173年 - 1263年 浄土真宗の宗祖)さんのことを思い出しました。
あくまでも似たような名称の現代に伝わる解釈や組織では無くて、「当時の」親鸞さん「だけ」を思い、参考にします。

親鸞さんは、ご自分のことを、ぐとく【愚禿】とよく自称されました。
自分は頭が禿げた、ただの愚かな人間ですと。
自分は弱い人間であり、スケベで、頭が悪いし、おまけに顔も悪い。

だからこそ自分は、阿弥陀様を忘れることが無い。
常に、阿弥陀如来と共に生きるしか生きる道は無いだろう。
私はアホだから、日々、真面目に一生懸命に勉強しないと、他人様のように正しく生きられない。

でも、人生を振り返ると、自分は愚か者だという「自覚」こそが、自分を人並みの生活をさせていたことが良く分かる。

もし自分が、私は聖なる人間だ、他人よりも賢い、と自覚していたならば、その心には阿弥陀如来を思うことが有ったのだろうか?
・・・・忘れることだろう。

日々の生活を努力したのだろうか?
・・・・おそらく、していない。

すると、「自分は愚か者だと自覚するほうが、結果的に人は救われるのではないか?」
アホのほうが、伸びシロは無限だ。
でも豊満な肉体の女性を見ると、つい・・・・。イカンイカン、阿弥陀様の名前を唱えて気持ちをやり過ごそう。
今日も罪を犯さずに、阿弥陀様に自分は救われたのだ。

本当にどうしようもない自分だ。
ますます、阿弥陀様だけを心に思って仕事をしよう。

この継続は、人生の結果的には、阿弥陀様と称する神仏の存在の御蔭で人は救われて行きます。そして、
* 「人は愚者になりてこそ往生する」
(自分は愚か者だと自覚するものこそ、天国に行く)
は、霊的な真実と成ります。



もし、コノ世の今の自分が不幸だと思っても大丈夫です。それも深い意味では、真の意味では有り難いことが在るのです。
大切なことは自分が生きる間に、自分の良心に恥じない生活と、感謝を置いて行く人は、どんな過去がありましても必ず救われます。
人生の途中は紆余曲折していましても、「終わり良ければ全て良し」というような、自分の良心を大切にしたいと思い、すべてに感謝の思いを発することが出来る心境に成れれば、必ず救われます。

これと同じことを親鸞(しんらん)さんも言っています。
南無阿弥陀仏とは、「すべてに感謝をします」ということが本質です。
死ぬまでに、そう思える人は必ず救われるのです。
今日も自分の良心との真剣勝負を致しましょう。



親鸞(しんらん)さんの浄土真宗などは、「死ねば全員が100%極楽浄土(天国)の仏様に成るのだ!!」と断言しています。故人に対して悪人だとか、地獄という観念自体が存在しないのです。
これは、自我を超越した高度な真我1つの心境では、本当の真実です。
(過去記事より:【モノの哀れを知ることが大切 2013-12-27 10:43:23】)

(感想)
地獄とは、コノ世に「だけ」存在しています。ニュースを見ましても、色々な地獄を毎日のように実際に見ることが出来ます。
イジメ地獄、殺人地獄、放火地獄、強盗地獄・・・・人間は麻痺しているだけであり、実際には地獄の中に住んでいるとも言えます。
その一方で、コノ世は天国も共存している稀有なる世界です。色々な楽しい場所も、心が暖かくなる物事も無数に存在します。

(中略)

親鸞さんの方便(ほうべん:目的のための手段)の場合は、だからひたすら寝ても覚めても仏様の名前を呼びなさいということでした。悪事に心を寄せるよりも、ひたすら仏様の名前を呼んで心を寄せている方がマシだということです。
これを子供のように信じて徹底して実行すれば、ウソでは無い結果には成るでしょう。
しかしその一方で、コノ世の貴重な時間を楽しむ、感謝するという行為が不足していますと、やはりアノ世に帰りましても後悔することに成ります。



親鸞(しんらん)さんの浄土真宗などは、「死ねば全員が100%極楽浄土(天国)の仏様に成るのだ!!」と断言しています。故人に対して悪人だとか、地獄という観念自体が存在しないのです。
これは、自我を超越した高度な真我1つの心境では、本当の真実です。



生きている間は、表面だけの見せ掛けの自分(自我)の眼(芽)が強くて自覚が出来ませんが、どれほどの奇跡(内在神)の実体を預かって、今の状態が出現しているかを人は認識できないのです。
親鸞さんは、これと同じ意味を、「阿弥陀様を人間は預かっている」と表現されました。
ダメなのは、自分の自我というワレヨシ・自分勝手な我であり、それは本当の自分(魂)では無いのです。



まず、僧侶の御話の概要は、
「浄土真宗には、人の死後は極楽浄土という天国しか存在せず、地獄という世界の観念がそもそも無い。どんな人間でも死にますと、全員が仏様に成れる」

「そもそもが、生きている私たちの全員が、死後の極楽浄土(天国)に向かって歩いている最中の人間であり、どんな人間でも故人の死後を左右することなどは出来ないし、故人を成仏させることなど出来ない。故人自らが極楽浄土に行かれて成仏するのだ」

「しかし私たちは、自分が知る故人が地獄に落ちていないか?苦しんではいないか?と心配をします。
だからせめて、死後の故人のことが“分からない”からこそ、定期的に法事を開いて故人のことを“思い出して”偲びます。
この生きる人間が持つ故人への愛情こそが、故人と生きる人間をも極楽浄土へと導くのだと理解します」

という内容でした。

(中略)

とにかく浄土真宗の宗祖・親鸞(しんらん)さんの方便は、極楽浄土の原理主義にダマされたとしても、それを本当に「実践すれば」正解に行き着く「正しさ」を感じます。
インドのバクティ主義(神への絶対的な愛と信頼)にも通じる、理論よりも「行為」により後で答えを思い知らされるのです。
親鸞さんは、阿弥陀如来という名称さえも本当は不要なのを知りながら、「南無阿弥陀仏」と日々ひたすら自分の心を「向けさせる」ことで、大いなる存在へと本当に導かれる法則を知っておられたのです。



人間は、自分の心の内在神を意識すれば、全員が必ず救われます。
親鸞(しんらん)さんが仰った阿弥陀如来は、「既に」自分の心に住んで居られるのです。


明るく悩み見詰めること 2011-09-16 10:15:39

浄土真宗の開祖、親鸞(しんらん)さんの言葉に、
「罪業もとよりかたちなし、妄想転倒のなせるなり、
心性もとよりきよけれど、この世はまことのひとぞなき」 と、いうものがあります。

私なりの感応では、
「行為での犯罪は罪として実在するが、人間がひそかに心で苦しむ罪悪感とは、それは考えすぎなのです。
人間の心が、本当に本当に清ければ、そのような人はこの世にそもそも生まれないかも知れません。それは人間では無いのです。
人は悩み苦しむからこそ、本当の真の人間へと成長できるのです。
罪悪感を捨てて、正しく悩み苦悩しながら生きるのが誠の人間の姿なのです。」

このように親鸞さんが仰っているように読めます。
やはり、親鸞の目線とは、究極の下から目線だと常に感じます。
人間の仕方がなさ、恥ずかしいサガ、心の弱さから視線を外さずに、「これを見詰めることで」真の人間に成る道を示されています。



考えて見ますと、悩みの無い状態からは何が生まれるでしょうか?すべてが停止・衰退に向かう可能性が高いです。
人類をここまで進化成長させたのは、ストレスだったとも言えるのです。
太古の地球では、植物が発生して二酸化炭素を放出するまでは、酸素のストレスにより生物はすぐに死ぬことを繰り返していたのです。この酸素ストレスへの対応をする内部構造を有した生物だけが成長を始めました。
だから精神が覚醒する人間とは、それだけ悩みが大きい人物でもあるのです。
親鸞・一休・道元・・・ラマナ・マハルシ、ラーマクリシュナ・・・、みんな死ぬほどの悩みを初期に抱いた人間ばかりが自己の中に光(内在神)を観ています。



道元(どうげん:作業しながら禅を極めて神を見た人)さんにしても、親鸞(しんらん:究極の下から目線で頂点の神を見た人)さんにしても、また日蓮(にちれん:太陽神を見た過激な隠れた神道家)さんにしても、久遠(くおん:永遠な)な一つなる究極の存在を、全員が光の存在だと表現しています。
要は、この世には光しかないのだと。


今の世界を信じています 2009-10-12 12:40:31

今日は、何故か親鸞(しんらん)の事を思い出していました。
この人は、コンプレックスの固まりでした。現代では日本最大の宗派の宗祖として、伝説の人物として神格化されていますが、実像は全然違います。現在の巨大な宗教施設群を見れば、嘆いた事でしょう。


誰もが上書修正が可能 2008-11-28 19:00:01

私達は日々、色々な感情を持ちます。
悔しい思い、心配、怒り、不安、堕落、喜び、希望、慈悲心・・と、心は休む事無く絶えず動いています。
この色々な感情毎に、その色に応じた霊的磁気が自身から発せられ、自分の体のオーラを構成しています。


偉大な方便 2008-11-10 18:42:23

感想 :
やはり、親鸞、蓮如の弟子として二回も転生された人のお言葉には、真理が含まれています。
親鸞までの「帰命の念仏」とは、時代背景が民衆には苦しい時代でもあり、人の生死を常に意識した信仰だったと思います。 また、親鸞が始めた新興宗教として、一所懸命故の余裕の無さも有ったのでしょう。


これでいいのだ~! 2008-08-09 13:04:48

「これで、いいのだ~~」・・・バカボンパパのこの言葉は深いです。
 赤塚さんが垣間見られた心の境涯が、この言葉だけで分かります。
圧倒的な全肯定です。 親鸞にも通じる境涯です。


御経は前座です 2008-05-14 19:12:54

浄土真宗の僧侶は、良い意味で人間臭く、下から目線の人が多いです。 やはり親鸞が感じた、人間の悲しさ、人間のどうしようもない馬鹿さ、悲哀・・・などを見つめて受け入れる事が宗派の伝統として流れているようです。


皆さんの御蔭です 2008-05-08 19:48:32

人間は悪事を働いた悪人ほど、いったん改心した場合、深く反省し阿弥陀仏を一心に信じる気持ちが強くなるので、普通人よりも成仏し易いと断言し社会に大きな波紋を呼びました。
当時の宗教者は、親鸞は変な奴だと最初は笑っていたことでしょう。

悪人正機(あくにんしょうき)


南無阿弥陀仏


関連コメント

仏教書の中に、歎異抄という本があります。(「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」などが有名)
かなり独特の仏教書となっています。
この本は長いこと封印されていたらしい。実際、著者も不明だし、浄土真宗中興の祖・蓮如上人によって長らく封印されてきたらしい。(その人間のレベルと理解力によってどのようにでも解釈されてしまう危険性がある=>共産主義もそれに近い思想的危険性と脆弱さを持ち合わせている。リーダーの資質が極端に表れやすい)
そこで、リーマンさんの歎異抄評をぜひ聞きたいものだと思います。お答えいただければ幸いです。

.............歎異抄は評価します。
バクティ。絶対的な仏への帰依。

ラーマクリシュナは、歎異抄と同じだった。
2022-05-10 15:40:03


親鸞は晩年、阿弥陀仏を自然(じねん)をあらわす料なり、と法話で述べています。
無量寿経の阿弥陀仏は、そうした大自然の摂理、無限の生命力、慈悲、知恵の光、内在神をわかりやすく、象徴化し、物語り化した存在だと思いますが、実際に過去の文明で阿弥陀仏の前身となるような存在がいて、本願を立て修行して成就したのでしょうか?そして人類の共有意識になっているのでしょうか?

。。。個人の魂ではなく、

阿弥陀仏=太陽神です。
2012-04-02 16:40:47


親鸞の逸話は、よく新興宗教の中でも使われます。信者を引き止めるために、幹部たちが利用します。

。。。自分自身の先祖と内在神を信じるのが最善です。
2009-10-13 13:00:06


親鸞様も 神社にはお参りしてはいけないとか神棚は駄目と言うのは、親鸞さんではなく その後の人たちが そういう事を作ったのでしょうか~。

。。。そうです。弟子達が保身のために、信者が逃げない策略を図ります。
2009-10-04 13:36:47


関連項目




  • 最終更新:2024-02-29 23:42:23

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