自我とは(分離)

■ 自我とは(分離)について
関連項目 自我
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分離の感覚

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釈尊は、天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ・ゆいがどくそん)、コノ世にもアノ世にも全体で大きな大きな1つ・大きな一人しか存在していない、と断言されています。
一人の人間も無数の細胞(70億人を超える人口と相似)から構成されていますが、大きな視点で見ますと細胞全体で一人の人間なのです。

「木を見て森を見ず」(物事の一部分や細部に気を取られて、全体を見失うこと)と言いますが、人間の真相にもこれが言えるのです。
私たちは、自分が自分が(自我)という「木」しか見られない存在となり、「森」(全体・真我)を観る能力を大昔に失くしてしまったのです。第六感の能力の退化です。
釈尊が言われた「唯我独尊」とは、1つの大きな森(宇宙)を意味する本当の話なのです。

だから、人間が行う行為の全ては、自分自身への行為、自分へのレクイエム(鎮魂)でもあるのです。
誰もが生きながら、死後の自分自身へのプレゼントを作成中です。
そのプレゼントが、他人への悪口や、他人への悪事ではダメなのです。死後の自分を苦しめることを、今の自分がしている人が多いです。しかも嬉々としながら・・・・。



(返答)
エンジン君がエンジン君として、よそ見をせずに懸命にエンジンの機能に成り切り、その躍動感に入った(落ちた)時に、
* 自分がエンジンだという部品の意識が消えます。
* 自分はエンジンでは無くて、全体で1台の自動車だと分かります。

この例えを人間に戻しますと、
* 人が他人を見ずに、自分の生活に没入して自分で自分を静観し続けた時、
* 自分(自我)だと思っていた存在は、それは成長過程で身についた先入観であり、思い込みだということが分かり始めます。
* ダメな自分も、成功した自分も、本当は存在しないことが分かります。
* 大いなる同じたった1つの命・存在(神様)が、水戸黄門のように身分を隠して、それぞれの個人という出現(肉体)の中に入って「体験している」ことを直感で、理屈ではなくて、思い知ります。
これが、悟りの瞬間です。


神様には主語が無い 2014-06-15 09:45:16

脳科学的には人間の脳は、自分が思っている内容の「主語」「主人公」が誰を指すのかを理解が出来ない可能性があるようです。
つまり、自分の自我の意識が相手を特定して、「○○さんが悪い」「○○さんは酷い人だ」と非難したり、罵倒したり呪ったりしていますと、自分の深層意識では主語を「区別しない」性質のために、他人を罵倒しているつもりが結局は自分自身をも罵倒していることに成る可能性があるのです。
その結果、他人を非難しますとナゼか後で自分自身が自己嫌悪に成ったり、自分がウツに成ることが起こるのです。(参考サイト:http://matome.naver.jp/odai/2136590852040993701

“自我は他人を区別するが、真我(内在神)は他人を区別「することが出来ない」”
これは真理です。見性(けんしょう)、覚醒、悟る、カンナガラ(内在神との一体感)を体験しますと、理屈抜きに分かることです。
でもこのように書きますと、いきなり難しいというか、自分には理解が出来ないことだとあきらめてしまうでしょう。ここで、

「悟りとは、自分の脳から主語が消えること」
「内在神とは、主語のない活動をする存在」
「神界とは、主語の無い状態を指す」
このように言い変えますと、何となく分かる気がしませんか?



多くの人間が、自分という有限の中に生きています。有限な自分(自我)ですから、色々な心配が尽きません。
これを抜け出すには、宮沢賢治さんも言うように、
「自分を勘定・感情に入れずに」
が生活の中で重要に成ります。
自分(自我)が消えるほどに、無限が心境にも生活にも反射して来ます。

そうなりますと、段々と他人の幸福も、自分のことのように本当に嬉しく成ります。
他人の悲しみは、自分のことのように悲しく成れるのです。
思い返しますと、昔の人間ほど、ニュースを見ては日本や世界の全体のことを、自分のことのように一喜一憂していました。

しかし、自分(自我)の中に生きている有限な人間は、有限の境界線の縄張り意識が強くて、他人のことに無関心です。中には、他人の不幸を喜ぶという地獄の心の人も居ます。
このような自我が強い人間の死後は、やはりこれが継続します。そのような他人ばかりが居る世界へと自ら引かれて行きます。重力・引力に逆らうことは不可能です。
そして、自分と似た人間ばかりを見て、自分の何がいけないのかを学びます。



大きな1頭の象さんの心中で、象のシッポに宿る自我が、象の鼻に宿る自我を見て、うらやましいと思っていたことに気付きます。
シッポと鼻の自我が消えれば、もともとの象としての意識が戻ります。
自我という分離の錯覚に、人類は永いこと苦しんでいるだけなのです。


新しい子供たち 2011-04-16 11:39:27

大津波の被災地の小学生の中には、「津波が来たのはボクのせいだ」と真剣に考え込む子供が居るそうです。
なんと純真なのでしょうか。ボクがイタズラをしたぐらいでは大津波が来ないのは明らかなのですが、子供ながらに「人間の」連帯責任を感じているようです。
自我(じが)という「他人との垣根」が薄い幼少期は、心に内在している人類に共通する神という存在に近いために、良い意味での全体責任を感じるのです。
これはお年寄りにも見られます。年を取り自我が薄まった老人は、ニュースを見ては「自分の事のように」心を痛める方が多いです。他人の不幸が、自分の不幸のように感じられます。
これが若い頃のイケイケな時には理解が出来ないのです。自我(我良し)の固まりなので、他人は他人だと感じてしまいます。

人間は死にますと、すべてを捨て去って一人裸で死んで「行き」ます。この世で守るべき自我などは無いのが本当です。


自分の選択に負けないぞ 2010-02-16 11:12:18

しかし、本当は「自分と言う枠」は、幻想なのです。本当は、生まれた地域の精霊であり、更には日本の国土の精霊であり、更に・・・地球と言う生命体が自分であり、更に宇宙そのものが自分だったと言うのが答えです。
しか~し、苦しい事は苦しい現実が私たちに在ります。
自分が宇宙そのものだと聞かされたところで、空いた腹は収まりません。
ここで、逆転の発想があります。
宇宙でも神でも良いですが、大いなる存在(自分)が、自分(自我)と言う「狭い枠」をあえて選択して体験しに来たとは思えないでしょうか?しかも期限付きのタイムサービス(寿命)の間だけ、不自由を楽しみに来たのです。


関連コメント

私と認識している存在者は内在神ではないのは明白と思いますが、それでは魂なのでしょうか?それとは別の存在者のような感じがします。私はどのような存在なのでしょうか?

。。。自我が私を認識します。
だから、悟れば、自分が消えます。
2015-09-15 00:42:06



  • 最終更新:2016-06-29 18:52:07

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