老子(言葉)第十一章〜第二十章

■老子(言葉)第十一章〜第二十章について
関連項目 老子老子(言葉)
目次

第十一章

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老子の言葉 第十一章

(独自の超訳)
台車の円形車輪とは、三十本の棒が中心の輪っかに集まって出来ています。
その輪っかに車軸を通すための丸い穴があいているからこそ、車輪としての使用が出来るのです。
もし穴が空いていなければ、車輪であってもムダな物なのです。

粘土をこねて容器を作ります。
その容器の中に何もない空間があるからこそ、容器として使用が出来るのです。
もし中に空間が無ければ、ただの土のカタマリにすぎません。

家には戸や窓を作り付け、中には空間が広がります。
家中に何もない空間が有るからこそ、それが家としての用を為しています。
空(から)が在ることが大切なのです。

つまり、色んな物が生きて役立つのは、そこに「空」が存在するからなのです。
これは物だけではなくて、人間も含めた森羅万象すべてに言える真理(道)なのです。
だから心に「空」を心掛ける者、この道理を知っている者は、自由自在に生きられます。


原文
「三十輻共一轂。當其無、有車之用。埏埴以爲器。當其無、有器之用。鑿戸牖以爲室。當其無、有室之用。故有之以爲利、無之以爲用。」

(感想)
この十一章は、普通は簡単だと学者には思われるかも知れません。普通のアタリマエの道理を老子が言ったと思われるでしょう。
しかし私には、感動的な真理を老子が伝達していると感じます。
これこそは、空海がその生涯を懸けて言いたかった真言密教の真理の根本です。
老子はいとも簡単に、密教の真理を開陳しています。

第十二章

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老子の言葉 第十二章

(独自の超訳)

色とりどりの色彩は人の視覚をくらませます。
色んな音を同時に重ねますと、人は聞き分けることが出来ません。
色んな種類の調味料を入れ過ぎますと、本来の味が壊れます。
競馬の賭け事や、犬を使った追い込み狩猟の趣味は、人間の心を獣のように狂わせます。
多くの財産を保有することは、狙われる身の危険性が増し、その人に間違った行動(収賄・愛人・・・・)も行わせます。

だからこそ真理を知った聖人は、自分の「腹」(心の良心)を満足させることを重視し、目に見える物事にだまされません。
目に見える快楽よりも、良心が満足することを求めます。

原文
「五色令人目盲。五音令人耳聾。五味令人口爽。馳騁畋獵、令人心發狂。難得之貨、令人行妨。是以聖人、爲腹不爲目。故去彼取此。」

(感想)
この文章で最も大切なことは、「腹」の概念です。前半は腹のための前フリに過ぎません。
多くの学者がこの「腹」を、老子は快楽を否定するが食事は大切だと言った、満腹まで食べることを良しとしたと解釈しています。しかし、これは間違いです。

ー中略ー

それならば、人生を生きている間に、自分の腹(良心)を満足させるという概念に“色んな悩みのお蔭で”気付くことが100倍も大切なのです。自分の死後にも持参出来る、本当の財産に成るのです。
とにかく人間は、それを追求した先に何が有るのか?残るのか?を想像することが出来れば幸いです。

第十三章

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老子の言葉 第十三章

(独自の超訳)
人間は、他人から賞賛されたり、侮辱されたりするたびに、面白いように他人の評価に一喜一憂して暮らしています。
まるで、自分が不治の病に罹ったのか、不治の病ではなかったのかに一喜一憂するぐらいの気の仕方を、他人からの評価に対してしています。

なぜ他人からの評価を、驚くほど人間は気にするのでしょうか。
それは、他人からの賞賛を良いことだと思い込み、自分への非難を悪いことだと受け取り、驚くほど敏感に一喜一憂するからです。

何ゆえに人間は、他人からの評価を自分の命を左右するほどの大問題にして気にするのでしょうか。
他人からの評価を気に出来るのも、そもそもが自分の命があってこそなのです。
いずれは自分の命が無くなることを、日々の生活の中で認識していれば、何を他人の評価などを気にすることがありましょうか。

だから世間の評価よりも、自分の健康を大切に出来る人にこそ、安心して天下国家を任せる事ができます。
天下国家の事よりも自分の心身を大切に出来る人こそ、本当の意味で天下国家を大切にする事が可能なのです。


原文
「寵辱若驚。貴大患若身。何謂寵辱若驚。寵爲上、辱爲下。得之若驚、失之若驚。
是謂寵辱若驚。何謂貴大患若身。吾所以有大患者、爲吾有身。及吾無身、吾有何患。
故貴以身爲天下、若可托天下。愛以身爲天下、若可寄天下。」

(感想)
またまた目からウロコが落ちるような強烈なことを老子様が仰っています。
若い政治家がよく、「国家のためならば死んでも良いです。自分の身体など、どうなっても良いです。」
と現代社会でも言っています。
しかし老子は、
「自分の心身も大切に管理も出来ない人間に、どうして国家が管理できようか。
小が出来ない人間に、どうして大を成すことが出来ますか?
自分の家族も大切にしない人間が、ほんとうに国民を大切に出来るのですか?」
とも言っています。



討論番組において、ある有名な政治家の御方が、
「あなたは、国のために命を懸けることが出来ますか?」
と質問されていました。
この質問に対する答えを、実は2500年も前に老子様が答えてくれています。

「自分の命を簡単に懸けるような無責任な政治家には、国家を任せては生けない」
「もし自分が先に死ねば、残された国民がどうなるのか?
自分が行った政治の責任を、生き残って最後まで責任を取る政治家であるべきだ」
「自分の命を簡単に懸けるような政治家は、国民の命も同じく軽く懸けるであろう」
「天から預かった重大な命を懸ける政治家は、命の本当の大切さを分かっていない」
「政治家が命を懸けると口に出して言えば、その政治家を信じては生けない」

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このようなことを、様々な表現で老子は示唆しています。

第十四章

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老子の言葉 第十四章

(独自の超訳)

私たちが見ようとしても見えないモノ、これを「見えないモノ」と名付けましょう。
耳で聞こうとしても聞こえないモノ、これを「聞くことが出来ないモノ」と名付けましょう。
手で触(さわ)ろうとしても触(ふ)れられないモノ、これを「触ることが出来ないモノ」と言いましょう。

見えない・聞こえない・触れない、この3つをそれぞれ別々に追求しても、その正体を決して理解することが出来ません。
なぜなら、同じ1つのモノ(真理)を指すからです。
この真理の上を見ても下を見ても、まったく同じなのです。
同じ1つの真理が、コノ世のどこまでも貫徹しています。
結局は、このようなことを名付けることが出来ないので、「無」としか表現が出来ません。
コノ世の真理である「無」とは形がなくて、お縄に出来るとらえどころが一切ありません。
だから「無」を、「最高の喜び」(恍惚:こうこつ)と私は表現します。

無という真理に向かって行っても、その頭も見えず。
真理に従っても、その後ろ姿さえも分かりません。
古来からの歴史の流れを見て知り、その上で今の社会を見ますと、見えてくる真理が存在します。
それこそが本当の真理の道なのです。

原文
「視之不見、名曰夷。聽之不聞、名曰希。搏之不得、名曰微。
此三者不可致詰、故混而爲一。其上不皦、其下不昧。
繩繩不可名、復歸於無物。是謂無状之状、無物之象。
是爲惚恍。
迎之不見其首、隨之不見其後。執古之道、以御今之有、能知古始。是謂道紀。」

(感想)
老子が、コノ世の言語を駆使して、真理というモノを説明しようとされています。
これほどまでに真理を指摘している(言い当てている)文章は、近代にも無いと思います。
これを二千年以上も前の王様に仕える官僚組織のサラリーマンが、世間の中で隠れながら残しているのは凄いことです。

老子は、コノ世の真理は「無」だと言っています。
私たちが「無」と聞きますと、何もない、虚しい、つまらない、寂しい、・・・・などと思いがちです。
しかし老子は、文中で「無」を恍惚(こうこつ)だと断言されています。
これは凄いことを言っています。
無とは何もないどころか、恍惚、絶対的な歓喜、最高の快楽だと言っています。

第十五章

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幸運に成るエッセンス 2012-09-29 11:28:18

老子の言葉 第十五章

(独自の超訳)

古くから継続される、善いとされる良心に従った生活を行うことが出来る人間は、
何も考えずに行う生活上の動きと選択が神妙であり最善でもあり、その不思議さは他人には理解出来ません。
しかしあえて、その不思議な様を説明してみます。

良心(道・真理)に沿って生きる人間は、
氷の張った川の上を歩くように慎重であり、
普段の生活中でも四方に対して注意を払い、
お客様に接する時のように身なりをいつでも正しており、
溶け始めた氷のように丸く素直であり、
切ったばかりの生の木材のように生き生きとし、
深い谷間のような奥深い心を持ち、
動く水のように簡単には心の底が見えません。

流れ動くにごった水が静止して、その水の上澄みが清まるまで時を待つことが出来ますか?
逆に安静な自分の気持ちをもって、停滞した物事に動きを与えることが出来ますか?
良心に沿った道を生きる人間は、自分の欲望を100%まで満たそうとはせずに、ほどほどを知っています。
ほどほどを知るがゆえに、困難に遭っても耐えることが可能であり、新たに復活することが出来ます。

原文
「古之善爲道者、微妙玄通、深不可識。夫唯不可識、故強爲之容。
與兮若冬渉川、猶兮若畏四隣、儼兮其若客、渙兮若冰之將釋、敦兮其若樸、曠兮其若谷、混兮其若濁。
孰能濁以靜之徐清。孰能安以動之徐生。
保此道者、不欲盈。夫唯欲不盈、故能蔽而新成。」

(感想)
これは老子が、カンナガラ(神妙さと共に生きること)で生きる人間の様子を説明しています。

ー中略ー

他人から見ても不思議なほど幸運で恵まれた人間も居るものです。それが“一時的では無くて”そのようなホンモノの人間とは、老子が言うには
(1)普段の生活でも慎重であり、絶えず周囲に注意をする「努力をしている」人間であること。
(2)いつも身なりを清潔にして、部屋掃除もすること。
(3)素直な気持ちで生活していること。
(4)生活の中で、生き生きとすることを心掛けること。
(5)気持ちを安静に冷静に維持する心掛けを持つこと。
(6)時を「待つことが出来る」人間であること。
(7)臨機応変に打って出る、行動を起こすことが出来る人間であること。
(8)何事においても、ほどほどで止めることが出来る人間であること。
(9)そして、自分の良心に沿って生きること。

このような生活の「努力」を行なっている人間こそが、他人から見ても不思議なほど幸運な選択と、生活での良い動きをして行くのがコノ世の道理(法則)なのです。

第十六章

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生きる意味 2012-10-04 11:49:39

老子の言葉 第十六章

(独自の超訳)
自分の心をカラっぽにして、自分に起こる物事を静観しましょう。
そうすると、色んな物事が順番に並ぶように生じていますが、必ず消えて行くことが分かります。
コノ世に生命もドンドン生み出されて来ますが、必ずすべてが根源へと帰って行きます。
根源に帰ることを「静寂」と言い、これは大きな命の元に帰ることなのです。
命の元に帰る途中の過程を人生・生活と言い、人生・生活の本質を知ることを「知恵」と言います。
知恵が無ければ、人生と生活に迷うことに必ず成ります。

人生と生活の知恵を持てば、人生を正しく・楽しく生きることが出来ます。
人生を正しく生きる人は、公人(こうじん:社会のために尽くす人間)と自然と成ります。
社会に尽くせる人は、人生の本当の意味では王様なのです。
社会に尽くす王様とは、天の太陽と同じです。太陽は、与える一方の奉仕のカタマリです。
人の人生も、太陽と同じなのです。
人間も朝日のように生まれ、高く昇り、そして日没のように消えて行き、永遠の命の元に帰るのです。

原文
「致虚極、守靜篤。萬物並作、吾以觀復。
夫物芸芸、各復歸其根。歸根曰靜、是謂復命。
復命曰常、知常曰明、不知常、妄作凶。
知常容。容乃公。公乃王。王乃天。天乃道。道乃久。沒身不殆。」

(感想)
老子は、人間は死ぬまで勉強して知恵を持ち、すべてを静観する気持ちを維持しながら、他人への奉仕の気持ちを持てれば、その人は人生の真の勝利者だとしています。
金持ちが人生の勝利者では無いのです。
真の勝利者とは、他人や社会に尽くせる人間のことなのです。
なぜならば人間は、必ず死んで行くからです。

第十七章

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老子の言葉 第十七章

(独自の超訳)

最も理想的な王様とは、「何事のおわしますかは知らねども」という感じで民衆はその存在を知っているだけなのに、なぜか尊敬される王様のことなのです。王様の見えない徳が、国家と民衆を幸福に導いています。
この次に良い王様とは、民衆が王様がした仕事の内容を知っており、民衆からほめられるような王様が良いのです。
その次の王様とは、民衆を刑罰で縛るために怖がられるような王様のことです。
さらに下の王様とは、民衆から陰で罵倒されているような王様です。

王様に正しい信仰が無ければ、民衆から信仰されない王様と成るのです。
だから理想的な王様とは、ただ黙って存在しているだけで、
なぜか国家が順調に発展して、それは王様の御蔭ではなくて民衆が頑張った御蔭だと庶民が花を持たされている形に成るのです。

原文
「太上下知有之。其次親而譽之。其次畏之。其次侮之。
信不足、焉有不信。悠兮其貴言、功成事遂、百姓皆謂我自然。」

(感想)
この老子の言葉を読んで、最初に浮かんだのは日本の天皇陛下のことでした。
まさに老子が理想とする君主に、日本の天皇陛下は近いです。

ー中略ー

老子の視点には、2番目が政治におけるポピュリズム(真実よりも風評を優先する愚行)への戒めも含んでいると感じます。
そして、最後に民衆に花を持たせる形にするというたとえには、老子の視点の奥深さに敬服をしました。
更には、上に立つ者には、「信」=信用・信頼・信仰・・・が最重要だと教えてくれています。
やはり見えない幸運は、「信」から「来る」のです。



老子の言葉 第十七章

(独自の超訳)

最も理想的な王様とは、
* 「何事のおわしますかは知らねども」という感じで民衆はその存在を知っているだけなのに、なぜか尊敬される王様のことなのです。王様の見えない徳が、国家と民衆を幸福に導いています。

この次に良い王様とは、
* 民衆が王様がした仕事の内容を知っており、民衆からほめられるような王様が良いのです。

その次の王様とは、
* 民衆を刑罰で縛るために怖がられるような王様のことです。

さらに下の王様とは、
* 民衆から陰で罵倒されているような王様です。

王様に正しい信念・信頼が無ければ、民衆から信仰されない王様と成るのです。
だから理想的な王様とは、
* ただ黙って存在しているだけで、なぜか国家が順調に発展して、それは王様の御蔭ではなくて民衆が頑張った御蔭だと庶民に花を持たされている形に成るのです。

原文
「太上下知有之。其次親而譽之。其次畏之。其次侮之。
信不足、焉有不信。悠兮其貴言、功成事遂、百姓皆謂我自然。」

(感想)
王様の理想の姿と、その評価の分かれ方が分析されています。
「王様」と言われますと、「そういうものなのでしょう」という程度の解釈で終わりピンと来ないかも知れません。
でも、これを家庭の親子関係に置き換えて見ますと、老子の真意が見え始めて来ます。
原文の王様を、親・父親に置き換えて新たに解釈して見ます。(以下)

* 理想の父親とは、
外でどんな仕事をしているのかは良く分からないが、家に居るだけで、子供たちから良く尊敬されています。
父親が持つ見えない徳が、家と子供たちを幸福に導きます。

この次に良い父親とは、
* 子供たちが父親がする仕事の内容をよく知っており、家族からもほめられるような父親が良いのです。
家族が認識が出来る範囲では、良い父親像の親です。

その次の父親とは、
* 子供たちを懲罰で縛るために、家族から怖がられるような父親のことです。
厳しい面が多々有りますが、その他には良い面もあるかも知れません。

さらに下の父親とは、
* 家族から陰で罵倒されているだけの父親です。
父親が恐怖で縛るだけであり、家族から意見も言うことが出来ず、家族から陰で悪口を言われています。

親に、正しい物事を信じる習慣・信念(信仰)が無ければ、家族からも信頼されない親と成って行きます。

だから理想的な親とは、
* ただ黙って存在しているだけで、なぜか家と家族が順調に発展して、それは親の御蔭ではなくて、家族の全員が頑張った御蔭だと子供たちにも花を持たされている形に成るのです。 (以上)

ー中略ー

* 見えない徳の重要性について。
* 恐怖感で縛らないこと。
* 弱者への配慮を忘れないこと。
* 正しい信念・正しいことを信じる心。

このようなことに注意することが、家系・家族の発展、国の平和な維持の「継続」には重要だと指摘されていると感じます。
以上の4つのポイントは、良い友人を増やすための注意点、会社を維持・発展させるエッセンスでもあると感じます。


関連コメント

これは、真の王を貶め殺してしまうのは、実は、そうやって王に何かを期待し何かをして貰おうと要求する、民衆なのだという示唆を裏で雄弁に書かれています。王を国を滅ぼすのは、目に見えて実益をもたらせる王(政策)であることが一番の王なのだと思い望む(神に御蔭を要求するように)国民だと。
ようは、その国の大多数の神に対する姿勢がそのまま国家を造っていると。神への姿勢と神をどういうものとして観ているかの反映が、このように現れてくるのであり、その国の在り方、国力と未来を決めてると。

これは、今回リーマンさんが意識的に暗に盛り込まれた示唆でしょうか。それとも原文、老子も意図して漢文にこの示唆を入れてましたか。老子のその当時からこのような指導を必要とするような民衆の意識だったのかということです。

。。。老子が凄いのは、それを完全に意味して含ませています。
真に統べることを知るからです。
2012-10-05 19:03:36

第十八章

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老子の言葉 第十八章

(独自の超訳)

人間の本当の生き方の道(愛情・思いやり・真理)が無くなりつつあるからこそ、逆に道徳や礼節というものが人間に必要とされるのです。
法律や細かい規則が増えるほどに、逆にそれを上回る犯罪やウソが増えるのです。
人間は家族や親戚・近所の人々と仲良く出来ないからこそ、逆に親孝行や親睦をせよと声高に叫ばれるのです。
国家が乱れて不安定に成るほどに、逆に国に尽くすことがホメられるようにも成ります。

原文
「大道廢、有仁義。智惠出、有大僞。六親不和、有孝慈。國家昬亂、有忠臣。」

(感想)
老子が、独特な逆説的な表現をすることによって、本来の正しい姿を説明しようとされています。
だから上記の文章を逆に言い換えますと、

(1)すべての人間が自然と道徳や礼節を自ら守って生きていれば、それを社会で叫ばれることがありません。道徳や礼節の必要性が社会で叫ばれること自体が、それは乱れた社会だと言うことです。
ただ、白紙の子供には、道徳や礼節を教えることは有りなのです。

(2)法律が厳しい国家ほど、それは犯罪が多い国である証拠です。
正しく安定した国ほど、逆に法律は無くなって行くでしょう。

(3)親孝行や他者との親睦を努力していれば、皆んなと仲良く居られます。

(4)皆んなが自然と国のために尽くせば、国家は安定します。忠臣という概念すら出て来ません。

第十九章

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老子の言葉 第十九章

(独自の超訳)

(1)変なプライドを捨ててアホに成れば、私たちは今よりも100倍は稼ぐことが出来るでしょう。
(2)無理な他者への道徳や礼節に縛られなければ、人は自然と家族を大切にし、他者との親睦を持てるでしょう。
(3)便利な文明や貨幣制度も無くしてしまえば、そこに盗賊が存在することもありません。

以上の3つの文章では説明不足なので、分かりやすく別の言い方をしましょう。
要は人間は、
(4)素直に成り、
(5)純朴さを大切にして、
(6)自我(ワレヨシ)を少なくして、
(7)欲望を追い求めないことが大切なのです。

原文
「絶聖棄智、民利百倍。絶仁棄義、民復孝慈。
絶巧棄利、盗賊無有。此三者、以爲文不足、故令有所屬。
見素抱樸、少私寡欲。」

(感想)
この老子の文章を読みまして、その先見性・予言性に驚きました。
学者が訳しますと、上記の3番の突飛な文章が混ざることに違和感と不自然さに困ることでしょう。
しかし3番は、そのまま現代文明が面している根本的な問題なのです。

ー中略ー

人類は老子が生きた二千数百年前と、「まだ」変わらないようです。
老子が言われる4~7番を守りながら、生活できることに感謝をして生きましょう。

第二十章

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老子の言葉 第二十章

(独自の超訳)

試験のための勉強が無くなれば、とても気楽だろうな。
「はい」と「うん」の返答の言葉の違いを知っていることが、それがほんとうに偉いことなのだろうか?
人が言う「善」と「悪」とは、ほんとうに違うものなのだろうか?
多くの人間が怖がることは、私も同様にして怖いが、何でも怖がっていては真理(道)から離れるばかりで進歩が無いです。

周りの人々は皆さん嬉々としており、まるで春の高所に登山して宴席を楽しんでいるかのように私には見えます。
しかし私だけは試験勉強のために引きこもり、そのような楽しむ機会は一切なく、まるで笑うことを忘れた動かない赤ん坊のような生活をしております。
まさに疲れ果てた世捨て人のような生活をしています。

世の人々は段々と裕福に成っているが、私だけが何時までも独りであり貧乏に成って行くようだ。
私の心は混沌として、まさに愚か者のようです。
世の人々はキラキラと輝いて見えますが、私独りだけは悶々と暗いです。
世の人々はテキパキと動いていますが、私独りだけはノロノロとしています。
私は、あてどもなく大海に漂い、海の凪(なぎ)のように進歩がありません。

世の人々は全員が役に立つ仕事を持つが、私だけ独りで牢屋(ろうや)に居る役立たずのようです。
しかし、私独りだけが他者とは異なり、大いなる大自然の母性に生かされていることを知っており、これに感謝をしています。

原文
「絶學無憂。唯之與阿、相去幾何。善之與惡、相去何若。人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉。
衆人煕煕、如享太牢、如春登臺。我獨怕兮其未兆、如孾兒之未孩。儽儽兮若無所歸。
衆人皆有餘、而我獨若遺。我愚人之心也哉、沌沌兮。
俗人昭昭、我獨昏昏。俗人察察、我獨悶悶。澹兮其若海、飂兮若無止。
衆人皆有以、而我獨頑似鄙。我獨異於人、而貴食母。」

(感想)
まさに受験生の心境と生活を、老子が言い表しています。
老子の場合は、国家の図書館を管理するような国家公務員であったために、大人になっても常に試験試験試験の生活であったようです。

ー中略ー

最後の1行が、老子が真の聖人であることを示しています。
生きて肉体を持つ間は、老子も含めて人間全員の違いは無いのです。
しかし、自分は大いなる母性(真理、神)に「食」わして(生かされて)もらっていることに感謝(貴)をすることが大違いだと言っています。

逆に言えば、コノ世で成功しようが金持ちになろうが生活を楽しもうが、大自然(道)の母性を尊ばない限りはダメだとも言っています。
更に言えば、その人生に何が有ろうが、大自然の母性に感謝出来る人間は、すべてがOKなんだとも老子が保証しています。


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20140624

  • 最終更新:2017-03-13 14:17:05

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