老子(言葉)第二十一章〜第三十章

■老子(言葉)第二十一章〜第三十章について
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目次

第二十一章

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老子の言葉 第二十一章

(独自の超訳)

真に徳を備えた人の生活とは、ひたすらに「道」(自然な流れ。生活の中の真理)に従うだけです。
生活の中の自然な流れとは、ただぼんやりとして目には見えません。
ただ、ぼんやりとして目に見えなくても、「生活の流れ」の中には何かが存在しています。
ぼんやりとして目に見えなくても、「生活の流れ」の中には確かに形があるのです。

それは奥深くて見えないモノなのですが、精気を宿しています。
その精気が存在することは本当に真実であり、それは本当に信頼できるモノなのです。
その精気は、はるか太古から今に至るまで実在しています。
この精気の御蔭により、すべての社会は生まれ、そしてまとまっているのです。

どうして社会が精気の御蔭で成り立っているのかを私が知っているのかと言いますと、
流れ(道)を観察しているから分かるのです。

原文
「孔徳之容、唯道是從。道之爲物、惟恍惟惚。恍兮惚兮、其中有物。
恍兮惚兮、其中有像。窈兮冥兮、其中有精。其精甚眞、其中有信。
自今及古、其名不去。以閲衆甫。吾何以知衆甫之然哉、以此。」

(感想)
この章では、老子が非常に重要なことを説明しています。
よく言われますのが、「神様と言うものは本当に存在するのか?それは目に見えるのか?」
これは古来から社会で問われていることであり、今でも同じです。

すると老子は、古来から継続する社会を見なさい。歴史を調べなさい。
ほんとうに謙虚な視線で、白紙の気持ちで、その流れを見なさい。
そうしますと、その「流れ」の中に
「何事がおわしますかは分からないが」、大いなる意志=精気が実在すると考えるほうが科学的だと言っているのです。

第二十二章

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老子の言葉 第二十二章

(独自の超訳)

遠回りで曲がった人生だからこそ、逆に成長して悟る(完“全”に成る)ことが可能に成るのです。
人生の苦労には一切のムダがありません。
人生が曲がる体験をするからこそ、逆に真っ直ぐに直す人生体験をすることが可能に成るのです。
人生で落ち込めば、そのヘコんだクボミが大きいほど、逆に大切なモノ(愛情など)で満たすことが可能に成ります。
物事が破れれば、また新たな挑戦をすることが可能に成ります。もし破れなければ、出来ないのです。
財産や持ち物が少ない人は、もっと大切な物事に気付けて成長が可能に成ります。
持つモノが多い人ほど、迷い悩むことも増えます。多くを持つ人は、それに執着しないことが大切です。

だからこそ聖人は、その生き方(道)を人々に見せて、世の中の模範と成ることが可能に成ります。
聖人は自分から説明や誇示をしないからこそ、逆に自然と世の中に知れ渡ります。
聖人は自分のことをほめないからこそ、逆に世間から認められます。
聖人は自分の功績を言いませんから、逆に世間から功績を認められます。
聖人は自ら自慢をしませんから、世間から長く賞賛されます。
聖人は誰とも争いませんから、世間から叩かれることもありません。
他人からイジメられる人は、自分の中に他人をイジメる気持ちが無いかを見ましょう。

以上のことから、曲がりくねった木のような苦労の多い人生を歩む者は、その人生を完成させることが出来ると昔の人が言ったことは、ウソではなくて真実なのです。
その人から生まれた誠意が、そうさせるのです。

原文
「曲則全、枉則直、窪則盈、敝則新。少則得、多則惑。
是以聖人抱一、爲天下式。不自見故明、不自是故彰。不自伐故有功、不自矜故長。夫唯不爭、故天下莫能與之爭。
古之所謂曲則全者、豈虚言哉。誠全而歸之。」

(感想)
まさに老子の巨視、巨大な視線が炸裂しています。
会社が倒産したと泣いている元社長を老子が見れば、
「普通の平凡な会社員には体験出来ない貴重な体験ではないか。
その御蔭で、またゼロから立ち上がる青春を味わおうではないか。」
と言いそうなのが目に浮かびます。

第二十三章

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老子の言葉 第二十三章

(独自の超訳)

たまに出る自然な言葉こそが、本当の思いなのです。
どんな強風も朝まで継続することはありません。
どんな豪雨も、一日中は継続することがありません。
誰がこんな操作を出来るのでしょうか?それこそが天地自然なのです。
天地自然ですら、同じ物事を長く継続させることが出来ないのです。
ましてや、私たち人間が同じことを継続出来るはずがありません。

だから、真理に従って生活する人は、真理と一体化することに成り、
道徳に従う者は、道徳的な生活と成り、
無礼な者は、無礼な生活に染まります。

真理に従う者は、真理のほうからも求められ、
道徳に従う者は、道徳のほうからも求められます。
無礼をする者は、無礼をすることを楽しむように成ります。

つまり、人間は自分が信じない物事には、向こう側からも信用されません。
人は自分が信じたことと、一体化をします。

原文
「希言自然。故飄風不終朝、驟雨不終日。孰爲此者、天地。
天地尚不能久、而況於人乎。故從事於道者、同於道、徳者同於徳、失者同於失。
同於道者、道亦樂得之、同於徳者、徳亦樂得之。同於失者、失亦樂得之。信不足、焉有不信。」

(感想)

前半は、どんな物事も必ず変化して行くから安心しなさいと言うことです。
そして、強制では無くて、自然な流れを大切にしなさいとも示されています。

後半は、要は、同類同士が引き合うと言うことです。
これは人間同士に限らず、読む本や信仰、遊び、食事・・・・何でも自分から求める物事は、向こう側からも自分のことを求めているから出会う縁が生じることを言っています。

前半と後半の2点を合わせますと、老子は人間が作った規則や強制を嫌った意味もあります。
この時の老子は、公務員の中間管理職として、職場で言いたいことも有ったのでしょう。

第二十四章

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老子の言葉 第二十四章

(独自の超訳)

つま先で立つ者は長い時間は立てず、大股で歩く者は遠くまでは歩けません。
自己弁護する者は他人から認めてはもらえませんし、
自画自賛する者は他人から評価されることがありません。
自慢する人間ほど本当は功績を持ってはおらず、どこに居ても長続きはしません。

これらの人間の不要な行為を真理(道)の視点から表現しますと、
「余計な食べ物」「行き過ぎた行為」だと言います。
このような行為をどんな者でも嫌悪しますから、良心(道)を持って生活する人間にはそのような人は一人もいません。

原文
「跂者不立、跨者不行。自見者不明、自是者不彰。自伐者無功、自矜者不長。
其於道也、曰餘食贅行。物或惡之。故有道者不處。」

(感想)
つま先で歩くのも、大股で歩くのも、他人を意識しているから行う無理な姿勢です。
他人を意識していなければ、人は自然な姿勢で歩くものなのです。
人間は、他人への挑戦では無く、自分へのチャレンジをして行くことが短い人生において大切です。
そして、自分が歩いた跡が道となり、その道が続く方向(流れ・未来)が自分自身を最善の幸福へと導きます。
その道を歩き切れば、自分にとっての王道と成ります。

第二十五章

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大いなる母性 2012-10-16 11:49:55

老子の言葉 第二十五章

(独自の超訳)

なにか混沌として混じり合ったモノが宇宙の始まりに存在しました。
それは、天地が生まれる以前から存在しています。
それは、静寂として独自に存在しており、新しく変わるという事も無く、
あまねくすべてに浸透して存在しています。
それは、この世界の宇宙を生み出した大いなる母と呼ぶべき存在です。
しかし私たちは、その正体を知ることが出来ません。

だから私は、この存在を「道」と名付けます。
さらにどうしても名付けるならば「大」とでも言いましょう。
この大いなる存在は、どこまでも拡大して行きます。
拡大して行けば、どこまでも遠くに達します。
そして、ほんとうの遥か遠くに達し切れば、また縮小して戻って来ます。

だから、道は大であります。
天も大であります。
地も大であり、
人間(生物の王様)も大であります。
この世には四つの大いなる存在があります。
人間もその重要な一つを占めています。

人間は、大地にそって存在します。
大地は、天にそって存在します。
その天は、道(大いなる母性)にそっています。
道(大いなる母性)は、自然のあるがままにそって存在しています。

原文
「有物混成。先天地生。
寂兮寥兮。獨立而不改。周行而不殆。
可以爲天下母。吾不知其名。字之曰道。
強爲之名曰大。大曰逝。逝曰遠。遠曰反。
故道大。天大。地大。王亦大。
域中有四大。而王居其一焉。
人法地。地法天。天法道。道法自然。」

(感想)
二千年以上前に生きた老子が、現代宇宙学における宇宙誕生の仮説である「ビッグバン」を描写して説明しています。

ー中略ー

老子は宇宙の四大要素として、人間、大地、天、宇宙の母性、を挙げています。
四つの中に、人間が入っていることの重要性と、その責任を感じます。
人間は、自分のことも、他人のことも大切にして生きて行かなければ生けません。
それが大いなる母性を助けることに成ると、私は思えてなりません。


関連コメント

宇宙を表すには3本としきりに書いていたから、男性的なもので男性でないと宇宙は完成しないと思ってた。3本は道のどこら辺で登場しますか?宇宙の具体的に何が3本ですか?

。。。今日のは3本の裏付けです。
4つめの大いなる母性は、先の3つにも溶けこんでいます。
だから実態は3つの分岐です。
2012-10-16 18:44:09

第二十六章

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老子の言葉 第二十六章

(独自の超訳)


重いモノには、それを支える軽いモノがその根底に陰として必ず存在するものだ。
大木を支えているのは細かい根っこであり、大国を支えているのは一人一人の弱い人間に過ぎない。
しかし、軽いモノが多く集まればこそ、大きな重いモノを支えることが可能に成ります。

物事を静観することで、多くの心配心や心のざわめきを操縦することが出来る主人に自分が成ることが出来ます。

このようなことを理解している聖人は、一日中ずっと行動しましても、働いてくれる荷物を積んだ馬車の側を離れようとはしません。
下で働く人間や動物たちの労働の御蔭を知っており、またこれが自分の財産を守ることを知るからです。
また聖人は、きらびやかな光景や豪華な宴席に迎えられましても、下々の人たちのことを忘れずに超然として心が左右されることがありません。

ましてや、一国を代表する人間は、天下の物事に軽々に左右されてはいけません。
代表者の行動が軽ければ支える人々を失い、心が落ち着いていなければ、その立場を失うことに成るでしょう。

原文
「重爲輕根。靜爲躁君。
是以聖人。終日行。不離輜重。雖有榮觀。燕処超然。
奈何萬乗之主。而以身輕天下。
輕則失本。躁則失君。」

(感想)
大きな物事には、その下の陰で支える軽い物事の御蔭が在るとは、日本人にはとても理解しやすい真理です。
このように考えますと、一見はムダだと思われるような物事も、大きな物事を支える役目をしていると言えそうです。

第二十七章

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どんなことも見捨てない 2012-10-18 11:58:31

老子の言葉 第二十七章

(独自の超訳)

本当の良い行為=善行とは、行われたとしても他人には誰がしたのか分からないものです。
真に良い言葉とは、他人を傷付けることがありません。
真に優れた計算とは、ソロバンを弾くような計算ではなくて、心で判断します。
真に優れた家の戸締まりとは、カギを掛けなくても泥棒に入る気自体を起こさせない工夫のことです。
本当の約束とは、契約書などの縛る道具が無くても、決して破ることが出来ないものです。
道具よりも、心同士の約束を取ることを心掛けます。

このようなことを良く熟知している聖人は、
常に人を救うことが出来ます。だから聖人は、他人を見捨てることがありません。
聖人は、どんな物でも上手く使いこなします。だから聖人は、物であっても見捨てません。
これが明知(めいち:真理)を知っているということです。

だからこそ、善人は悪人にとってのお手本となり、悪人は善人にとっての反省材料と成り得ます。コノ世の一切にムダが無いのです。
つまり、どんな物事であっても自分の師として尊び、それを愛することが大切なのです。
このような心の姿勢が無ければ、どんな知恵者であっても必ず迷うことに成るでしょう。
以上のことを、要妙(ようみょう:不可思議な真理)と私は言います。

原文
「善行無轍迹。善言無瑕謫。善數不籌策。
善閉無關鍵而不可開。善結無繩約而不可解。
是以聖人。常善救人。故無棄人。常善救物。故無棄物。
是謂襲明。故善人者。不善人之師。不善人者。善人之資。
不貴其師。不愛其資。雖智大迷。
是謂要妙。」

(感想)
老子は、物事や人物を「活かす」こと、「再生させる」ことが出来る達人だったのでしょう。
おそらく老子の部下に、どんな使えない人間が入って来たとしましても、1年も経てば有能な部下に変身したことでしょう。
しかし部下には、自分自身が成長したことと、老子が陰で導いて誘導してくれていたことが分からないのです。
真に優れた人物が居ますと、その周りの人間も自然と成長するのです。

ー中略ー

一番重要なことは、
「どんな物事であっても自分の師として尊び、それを愛することが大切なのです」と言うことです。
ここで老子は「愛」という文字を選んでいます。
やはりコノ世は、仕事でも勉強でも他人にも、それを尊び愛して「育てる気持ち」を自分が持つことが大切なのです。

第二十八章

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人間は純朴さが大切 2012-10-19 11:05:50

老子の言葉 第二十八章

(独自の超訳)

男性的な強さを持った上で、女性的な母性の心を保つことが出来ますと、
その人は社会の成功者と成ることが出来ます。
社会的な成功者と成れば、常に社会貢献を重ねる徳積みを行い、その人は赤子のような純粋性をだんだんと取り戻します。

表面的な他人から見える生活を知られるだけではなく、隠れた私生活でも道徳を守っていれば、その人は社会の模範と成ります。
社会的な模範の人と成れば、さらに徳の有る生活を行い、善悪も白黒も無い中立的な悟りの心境に帰ることが出来ます。
大成功した生活を知った上でも、底辺の時の生活も忘れなければ、その人は真の成功者と成れます。

真の成功者となれば、常に徳(良心)の有る心で満たされて、大自然から出る原木のように純朴な人間に成ります。
要は、人間が成功を真に極めて至る最後の姿は、原木のような純朴な人間なのです。
従って、初めから純朴な人間が居れば、その人は社会に役立つ器と成れるでしょう。
もし聖人が純朴な人々を使うならば、組織の責任者に登用します。
そうすれば、社会は丸く収まります。

原文
「知其雄、守其雌、爲天下谿。
爲天下谿、常徳不離、復歸於嬰兒。
知其白、守其黒、爲天下式。
爲天下式、常徳不忒、復歸於無極。
知其榮、守其辱、爲天下谷。
爲天下谷、常徳乃足、復歸於樸。
樸散、則爲器。聖人用之、則爲官長。
故大制不割。」

(感想)

人間が懸命に頑張って働いて、しかも更にその中でも本当に社会的に大成功した人間が至る姿とは、
赤子のような、大自然の原木のような、純朴な人間に成ると老子が言っています。


関連コメント

今一、純朴さの具体的な姿が分からないのですが。??素直??感謝できることかな?!

。。。。素直です。神に直結の直です。
2012-10-19 16:46:52

第二十九章

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老子の言葉 第二十九章

(独自の超訳)

まさに人間は、天下を取ろうと欲張って頑張りますが、私は人間が天下を取ったのを見たことがありません。
天下や社会とは、神様の意志を受ける容器であって、これに対して人間が何かを為そうとしたり、支配しようとしても、そうは成らないのです。
天下に何かを為そうとする者は必ず失敗し、天下を取ろうとする者は大きなモノを必ず失います。

この世の物事というものは、誰かが天下を取ろうとすれば、同様に他者も天下を取ろうと現れます。
物事には、弱い勢いの時もあれば、強い勢いの時もあります。
強いモノもあれば、弱いモノもあります。
育てる者も居れば、それを壊す者もいます。
このような様々な状態が混ざることが自然であり、これを人間が統一することなど不可能なのです。

だからこそ聖人は、やりすぎる事を避け、おごり慢心することを捨て去り、なまけることをしません。

原文
「將欲取天下而爲之、吾見其不得已。天下神器、不可爲也、不可執也。
爲者敗之、執者失之。凡物或行或随、或歔或吹、或強或羸、或培或隳。
是以聖人去甚、去奢、去泰。」

(感想)
人間とは、自分が天下を取ったと思った瞬間から、次の崩壊が始まっているのでしょう。
過去の歴史を見ましても言えることであり、国や企業や個人の栄枯盛衰を見ましてもしかりです。
しかし、これを避ける、良い状態を継続させる方法が、ただ1つだけ存在します。

ー中略ー

この章で老子は、もっと大きな自由な「中間」を言っています。
「中間を意識する縛りも不要だ。そんなことを一々考えて生活することも愚かな中間だ。
それよりも物事を支配しようとするな。何かを持とうと悩むな。
幸福も不幸も、その来る自然な“流れ”を楽しめ。
そう成れるためには、
やりすぎる事を避け、おごり慢心することを捨て去り、何事にもなまけることをしないことだ」
このように老子の気持ちを感じます。



「人間とは、自分が天下を取ったと思った瞬間から、次の崩壊が始まっているのでしょう。」

「人間は、中間・中立の状態が大切なのは間違いではないが、自分は天下を取ったと「区切り」を意識したり、
中間で居ようなどと思った瞬間から、既にそうでは無いのです。
自然な流れの最中に、自然に中間で居ることが大切なのです。
人間は、何かの最中に居続ける限り、成長をします。」

人間は、何かを「しよう」と思い続けている最中は、歳を取らないと言いますか、真剣に何かに没入している間は時間が止まると私は感じています。
人が何かに熱中していて、ふと気が付くと半日も過ぎていたような経験は、誰にでもあるものです。
その人の体内時計は、本当に半日も静止していたのではないか?と私は思うのです。

ー中略ー

人間は、何かの「最中」に居ることが多くなれば、時間を超越した永遠を生きることに繋がると私は感じます。
人が死ぬ時も、その人の心が思っている最中の方向へと進むと思います。
このためには、普段から「良いことを思う」最中を繰り返していることが一番に大切なのです。

第三十章

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老子の言葉 第三十章

(独自の超訳)

人道的な良心をもって君主(王様)をサポートしている真に優れた官僚(政治家)は、
軍隊をもって社会を制圧しようとはしません。
もしそんな支配を民衆にすれば、必ず国家に跳ね返るものです。
国家に軍師が居れば、その国の農地は紛争のために荒れ果てることに成ります。
だから大きな戦争の後は、必ず凶作となり国家が飢えることに成ります。

もし善い優れた官僚が国家にいれば、戦争をしなくても目的を果たすことが出来ます。戦わずして勝つのです。
そして勝利しても誇らず、勝利しても自慢せず、勝利しても驕らずに、やむを得ず実行しただけだと言います。
そして勝利しても、相手に更なる強制的な支配をしようとはしません。

コノ世の物事は、強制することは必ずダメに成って行きます。
このことを「不自然な道」と言います。
不自然な道は、早く終わりを告げるものなのです。

原文
「以道佐人主者。不以兵強天下。其事好還。
師之所処。荊蕀生焉。大軍之後。必有凶年。
善者果而已。不敢以取強。
果而勿衿。果而勿伐。果而勿驕。果而不得已。果而勿強。
物壮則老。是謂不道。不道早已。」

(感想)
この章で老子が述べていることは、今の官僚や政治家があるべき理想の姿でしょう。
考えて見ますと、これは家庭問題でも言えることなのです。
家族の中でも力の強い者が、他の家族を暴力と恐怖で縛る事件が社会で多発しています。
もし家庭でも、力の強い者が2名いますと、国家と同じように冷戦状態に成るのでしょう。でも、たまに衝突して事件に成っています。

つまり、先ほどの「何時になれば武器なしでの世界平和が来るのか?」という問い掛けの答えは、私達の家庭に有るのではないでしょうか。
人間の家庭内から理不尽な暴力が消えた時に、世界平和が自然と到来するのです。人類のサガを表す縮図が、家庭なのです。
1つ1つの家庭や個人の意識が、国家や地球の状態に反映すると感じます。

ー中略ー

自然に「本当に」任せるためには、今日の章でも老子は

「勝利しても誇らず、勝利しても自慢せず、勝利しても驕らずに、やむを得ず実行しただけだと言います。
そして勝利しても、相手に更なる強制的な支配をしようとはしません」

と言っています。つまり、自分がするべき努力の実行と、自戒が大切なのです。


20140624

  • 最終更新:2015-01-07 23:43:40

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