老子の人生論(第十一章〜第二十章)

老子の人生論(第十一章〜第二十章)について
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第十一章 心に何も無い=最善・最強・最高


参考記事:老子の言葉 第十一章「空を知る者は、「成す」ことが出来ます」

「 老子の人生論」第十一章

・ 車輪は、中心に穴が空いているからこそ、芯棒と繋ぎ大きな役割を果たすことが可能に成ります。
もし中心に穴が空いていなければ、ただの粗大ゴミに過ぎません。

・ 容器は、中に空間が在るからこそ、色々な物を入れることが可能になり役立ちます。
容器の中まで粘土が詰まっていれば、無用のカタマリです。

・ 家も、中の空間こそが命です。
空間が無ければ、家には成りえません。

・ つまり人間も、心を空(から)にしている者こそが、色々な可能性に生きることが出来ます。
心を空にしていることが、社会で役立つ人間に成らしめます。
心を空にしていることが、幸運を呼ぶ秘訣です。宇宙の真理に合うからです。

(感想)
心を空(から)にするにはどうすれば良いのでしょうか?
座禅や瞑想で、心を空(くう)に出来るのでしょうか?
わざわざ座る時点で、既に心が空に成ることは不可能なのです。これはポーズに酔うだけの見せ掛けです。

そこで、感謝の気持ちを持つことが、心を空(くう)に近付ける大きなヒントに成ります。
人が感謝をする気持ちには、「自分が」(自我)という部分が少なくなり、空(くう)の領域に近付くことに成ります。

色々な心配が在りましても、それでも、
・ 生活が出来ることに感謝します。

自分の心を悩ます仕事や、家族、嫌な他人も、それでも、
・ その存在が、自分が生活する為には欠かせないことに感謝します。
・ それを本当に失くした時に、それで自分の心は安心するのか?を想像します。

私の好きな言葉は、「仕方がない」です。
・ 潔(いさぎよ)さ。
・ 執着の無さ。
・ 大きな包容力。
これが「仕方がない」の中に内在します。

私が「仕方がない」と思えた事は、逆にその大半は改善します。変わるのです。
・ 仕方がない=心を空(から)にすること
とも感じます。

第十二章 自分の良心を満足させる事が全てだ


参考記事:老子の言葉 第十二章「物事を追求した後に残るモノを、先に想像すること」

「 老子の人生論」第十二章

視覚、聴覚、食感などを満たしたい欲。
バクチへの欲望、自分の趣味への欲望。
金銭欲、色情欲、悪事への憧れの欲望。

このような肉体と五感を満足させようとする欲望は、過剰になると「毒」に変わります。
自分を犯罪者にもしてしまいます。
そして、どんなに自分の欲を満たしても、満足することは決して無いのです。

だから真理を知る聖人は、肉体と五感を満足させようとは、初めからしません。
それがムダであり、毒に変わることを知るからです。
従って、自分の肉体と五感にダマされることがありません。

聖人は、自分の良心が満足と納得をすることを求めます。
これは逆に、コノ世のすべてを得て、真から満足することに成ります。

(感想)
結局、どんなに欲望を追求しても、永遠に満足はしないということが、コノ世の落ちなのです。
どんな金持も、不足感は消えません。
これは逆に、コノ世への大きなヒントなのです。

コノ世を創った仕組みの原理とは何か?
・ 今、このままで、それでも良いから、自分の現状に満足すること。感謝をすること。
これが答えなのです。

こんな貧乏で悲惨な環境で、満足ができるかい!そんな人間はおらん!
と思われるかも知れません。
でも、どんなに環境が改善しても、人が持つ怒りも、不満も、欲望も不足感も、決して消えることが無いのです。

満たしたい欲望を追求した結果、無理をして病気に成ったり、早死にしたり、犯罪者にも成るかも知れません。
そこで老子は、
・ そもそもが望むべき方向が、間違っているのだ。
と指摘しています。

コノ世で人間が真から満足するには、
・ 欲望への追求では不可能。
・ 自分の良心が納得する生活をすることで、深い満足が起こる。

でも、老子先生がそうは言っても、
・ 一度は栄華を体験したい。満足はしなくても。
これが人情かも知れません。

その場合は、
・ それでは、満足は出来ないよ。
これを知っているだけでも、その人は無難に成ります。
罪を犯すまで行きません。

自分の良心を納得させることに、真の満足も栄華も在るという答えだけでも、先に知って置くだけで、人の運命は改善します。

第十三章 他人からの評価を気にする人は、病んで行きます


参考記事:老子の言葉 第十三章「他人からの評価を気にすると、間違った選択をしてしまいます」

「 老子の人生論」第十三章

他人からの自分への評判を、異常に気にして暮らす人が多いです。
まるでガン検診の判定に、一喜一憂するがごとく、隠した本心では他人からの評価を気にして暮らしています。

どうして、命懸けのごとく、他人からの評価・評判・風評を人は気にするのでしょうか?
そもそもが、自分の命あっての人生です。
日々、死に向かって歩いているのが人間です。
これを日々に認識していれば、他人からの評価を気にしている場合では無いことが良く分かります。

他人からの評価を気にする小さい人よりも、自分自身の健康管理を気にする人に、大きな事を安心して任せることが出来ます。

更には、大きな事よりも、自分自身の命を大切に出来る人は、その大きな事を必ず成し遂げることが可能な人なのです。

(感想)
他人からの評価を気にすることは、なんとアホらしいことでしょうか。
貴重な時間も、健康も、評価を気にする人は失くしています。

ここで老子は面白い事を言っています。
・ 他人からの評価よりも、自分自身の健康を気にする人間を信用しなさい。
・ 他人の評価を異常に気にする人間は、いずれ病んで行く。
・ 切りが無いことを気にする人間は、ダメだ。

これは、今の社会でもまさに言えると感じます。
会社内で病んで行く人は、同僚の態度や発言が気になり、帰宅しても思い続けます。
もし、自分の仕事に自信があれば、他人の発言も笑って聞き流すことが出来ます。
そして、自分に反省すべき点が有れば、その部分は素直に受け取り、向上への努力をします。

でも、自分の仕事にも自信が持てない人は、仕事への努力をすることよりも、他人からの評価・発言を異常に気にします。これは間違った、自己への防衛本能とも言えます。

更に老子は、
・ 自分の健康を気にする人間を信用しても良いが、良い結果を残せるかは別だ。
・ 自分の健康だけでは無くて、自分の命というものを大切に出来る人は、他人の命も大切にすることが出来て、ゆくゆくは大きな事を成し遂げる。

このように示唆しています。
この項の話で、特に覚えて置いて欲しいことは、
* 他人の評判を異常に気にすること=自分の心身が病んで行くことに成る。
これを心の隅に置いて頂ければ幸いです。

第十四章 無いことを楽しむこと。これ最高


参考記事:老子の言葉 第十四章「難しいことよりも愛情が大切です」

「 老子の人生論」第十四章

見ることも出来ない。
聞くことも出来ない。
触ることも出来ない。

「何も無い」、とは素晴らしいことだと思いませんか?
有る、ということは、いずれは必ず苦しみに変わります。
なぜならば、コノ世のすべては最後は無に帰るからです。
(命、肉体、家族、家、財産、ペット、経歴、・・・・)

だから、最初から「無」ということを楽しみましょう。
「何も無い」ということを、もし楽しむことが出来る人がいれば、これが最高の人なのです。
「無」の良さに、楽しさに、気付けた人は、逆に最高の贅沢を楽しむことが出来ます。

古来からの人間の栄枯盛衰をただ繰り返す、大きな流れを冷静に見ることが出来れば、
「何も無いこと」「何も持たないこと」
これで十分だと真から分かり、何も無いことの楽しさが分かります。
真理とは、こういうモノなのです。

(感想)
・ 無いことも、楽しみましょう。
・ 無いことを、楽しむ。

これに気付けた人は、
・ 無いことも楽しみ。
・ 有るモノには、その有り難さに「更に」感謝して楽しむ。
つまり、どんな人生を歩みましても、成功・失敗に関わらず人生を楽しむ人に成れます。
これは本当に幸福な人生なのです。

今日からは、「ソレが無いことを楽しむ視点」を、工夫しながら心掛けて見ましょう。
何かが有る時には気付けなかった、新たな有り難さに気付けるかも知れません。

・ 無いことを楽しむ。

これを見せ掛けでは無くて、底辺の心から分かり始めた時に、
見ること、聞くこと、触れることのすべてに、神様の芸術を見る感動を人は覚えると私は感じます。
コノ世のすべては、歓喜の振動をしています。
後は、自分が気付くだけなのです。

第十五章 善を意識した真面目な生活の「継続」がもたらすモノ


参考記事:老子の言葉 第十五章「幸運に成るエッセンス」

「 老子の人生論」第十五章

善を意識した真面目な生活の「継続」がもたらす、人の「動き」とその行う「選択」とは、人知を超えた神秘をもたらします。
これが起こる道理をなんとか説明してみましょう。

善を意識した人間のする生活とは、
・ 周囲に対しての気配りと、謙虚さを忘れません。
・ 素直さを忘れません。
・ 生き生きとした表情を忘れません。
・ 陰では、物事を注意深く静観する思慮深さを持ちます。
・ 自分が思うことを何でも軽々に口にしません。

そして更には、
・ 濁った水が、静かに上辺が透き通るまで、見えるように成るまで、待つことが出来る人。
・ 止まっている物事に対しては、静かに意見を言って、「動き」を与えることが出来る人。

善を意識する真面目な生活を継続する人は、ほどほどの中間であっても感謝をすることが出来ます。
だからこそ、こういう人こそが本当は最も強い人であり、良い状態が継続することに成ります。

(感想)
この項の前半の戒(いまし)めとは、まるで老舗旅館の女将(おかみ)さんのような人の姿を思いました。
家庭でも、こうありたいものです。
会社でも、このような態度の男性ならば、伸びて行くことを思います。将来は独立も可能な人です。

*「口は災いの元」
これが人の人生を簡単に変えてしまうことが、会社でも家庭でも有ります。
注意をしたいものです。

更にこの項で感心する言葉は、
*「濁った水が、静かに上辺が透き通るまで、見えるように成るまで、待つことが出来る人」 

多くの人が、
・ 時間経過を、見る冷静さ。
・ 時間経過を、味方に付ける術(すべ)。
を忘れています。

上記の悪人の顛末と同様に、時間経過は色々な情報を、
・ 教えてくれます。
・ 最善の選択を示してくれます。

でも、
* 止まっている物事に対しては、静かに意見を言って、「動き」を与えることが出来る人。
これは、真面目に努力して静観していれば、
・ 「機を見るに敏」
チャンスを逃さずに動くことが可能に成るということです。

以上のすべては、
* 善を意識した真面目な生活の「継続」がもたらす。
ということなのです。

第十六章 人生の本質は静寂だった

人生の本質は静寂だった 2017-10-07 11:38:56

参考記事:老子の言葉 第十六章「生きる意味」

「 老子の人生論」第十六章

自分の心を常に空白にして置こう。
そうすると、身の回りでは色々な出来事が起こっていましても、黙ってそれを静観していれば、過ぎ去って行くことが良く分かります。

だから命だって同じなんだよ。
生まれた命は、みんな必ず過ぎ去って逝く。
すべての命は、たった1つの大きな根源へと必ず帰るのだ。
コノ世では分離していたが、誰もが死ねば大いなる1つに帰るのさ。

大きな1つの命に帰る過程を「静寂」と呼びます。
過程とは、人生そのもののこと。
人生は激しく動いているように見えるだけであり、本当は静寂へと帰る過程なのさ。

人生の本質が静寂であるということに気付くには、知恵が必要だ。
起こっては、必ず消えて行く過程を静観することで、人生は静寂であることが良く分かります。
この法則に気付いた者は、「大いなる知恵」に触れています。

この知恵が無い人は、人生で必ず迷います。
行き当たりばったりで右往左往します。
人生が静寂であることを思い知った人間は、

・ どんな人も、真に公平に見ることが出来ます。
・ 他人や社会に、懸命に尽くしたいと思います。
・ 人生を心から楽しむことが出来ます。

このように成れた人は、人としての真の王様です。最上の人間です。
こういう人間が歩く過程(人生)は、誰もが歩くべき「道」を残します。
その道は、永遠という存在に誘導してくれる道なのです。

(感想)
・ 波は来ても、必ず去って行くことを静観しなさい。
・ 本当は、何も起こっていないのだ。
・ 大いなる母性の命へと、誰もが帰るから心配するな。

命を意識した時に、コノ世を冷静に見ることが出来ます。
すべての肩書き、立場、貧富の先入観が吹き飛び、命からの視点ですべてを見ることが可能に成ります。
その時に、真に公平で中立で、冷静な判断が人は出来るのです。
これを「知恵」と、老子は呼びます。

静観という知恵を得た人は、
大いなる母性へと死んでから帰って逝くだけが人生だと心から分かり、大安心します。
そうすると、生きている短い間は、

・ 何でも思いっ切りやってやるぞ!
・ 何でも来い!
結局、すべては来て過ぎ去って行くだけではないか。それの何を恐れようか。

・ よし、他人に良いことをしてやるぞ!
・ どうせ消えて行く命ばかりではないか。明るく、与え尽くしてから死んで行くぞ!

このような心境に至った人間は、人生を心から楽しむことに成ります。
何をしても、コノ世で成功がしやすい人に、自分が望まなくても成ります。
すべては静寂に帰る。自分も帰る。
これを忘れないで、生活を楽しみましょう。

第十七章 上に立つ人間には、善徳貯金が必須


参考記事:老子の言葉 第十七章「上に立つ者には「信」が大切 (改変版)」

「 老子の人生論」第十七章

(1) 最高のリーダーとは、そこに居るだけなのに、組織(国・会社・家庭など)が発展して行きます。
リーダーが何をしているのか?誰も知らない。
リーダーが居ることを、周囲にプレッシャーに感じさせない。
でも、居るだけなのに、尊敬されている人が最上のリーダーです。

(2) 次に良いリーダーは、自ら良く働き、成果を出し、部下からは真似が出来ないと尊敬される人です。

(3) その次のリーダーは、周囲から怖がられる指導者です。
部下は、ペナルティを恐れて、何とか必死に働きます。

(4) 悪い指導者とは、陰でバカにされて、部下が働かない。
組織が衰退して行きます。

つまりリーダーには、見えない善徳が必要なのです。
善徳は、正しい生活をしている者に自然と備わります。

善徳の有るリーダーの下では、
・ 部下たちは自分たちで成し遂げる喜びを知り、
・ 報酬を得る喜びを味わい、
・ 働く生きがいを持ちます。
そして、組織全体(国・会社・家庭など)が発展して行きます。

(感想)
社会での発展、成功、裕福に成れる。
これには「見えない善徳」が左右する可能性を知って置いて頂ければ幸いです。
悪徳な生活をしている代表者の下では、一時の栄華が有るとしても、継続はしません。

コノ世では、打ち上げ花火のような成功は、栄華を下手に知るがゆえに、後から余計に惨めで辛さを体験します。
成功はしても、しなくても、生活が出来ることに感謝と喜びを感じられる人が、最高に幸福な御方です。
そう思えることも、善徳からだと言えそうです。

第十八章 逆からの視点は、真実をあぶり出します


参考記事:老子の言葉 第十八章「鏡の世界では逆に映り表れます」

「 老子の人生論」第十八章

社会秩序が無い国ほど、乱れた国ほど、法律が立派に成ります。
道徳にあふれた国では、人々を縛る法律が消えます。

その国の知識レベルが上がるほどに、嘘や詐欺が巧妙化します。
知識を競わない国では、人は他人をだます方法も知らない純朴さです。

親孝行が大切だと声高に言う国ほど、親不孝者が多い証拠である。

混乱した国ほど、公務員に国家への忠誠を誓わせる。

(感想)
天国では法律は不要になり、地獄ではペナルティの罰則ばかりと成るのは道理だと言えそうです。

次に老子は、知識ばかりで人間を競わせる社会へ警告しています。
知識が有れば、悪事をしても無事に逃げられる社会ではダメだと指摘しています。

(中略)

知識偏重の社会は、本来の姿は素直なはずの人間を、屈折した人間に変えて行くことを指摘しています。そして、犯罪も増えると懸念しています。

次の指摘、
「親孝行が大切だと声高に言う国ほど、親不孝者が多い証拠である」

・ 社会の今の流行を見れば、ソレが今まで社会に無かったモノでもある。
・ 社会のルールを見れば、ソレがその社会には不足しているものである。

これは、今の自分が欲しがるモノを見れば、ソレが今の自分のすべてを表現しているとも言えそうです。

最後に、
「混乱した国ほど、公務員に国家への忠誠を誓わせる。」

これは例えば、恋人に「愛している」と口に出して言って欲しい時は、愛情の不足感、相手への信頼、が薄らいでいる証拠だと言えそうです。

わざわざ口に出して他人に確認する内容とは、「ソレが無いから」という裏返しだと言うことです。

老子の視点とは、逆からも視ること、相手から見た視点も、必ず忘れないでいる視点だと言えます。
・ 素直に、そのまま、有りのままを見ること。
・ 逆の視点でも、見てみること。

この両方の視点を持つことで、人は何が正しいのか?
真実が見えだすと言えそうです。

第十九章 「数字」を競い「自慢」する気持ちは、恥ずかしいこと


参考記事:老子の言葉 第十九章「そもそもの原点を忘れるな」

「 老子の人生論」第十九章

紙に書かれた憲法や規則を絶対厳守とするほど、社会には人心を無視した、融通が利かないムダや強制廃棄が生じます。
だから民衆の人情や良心を優先することを絶対とすれば、その社会は100倍も裕福に成れます。ムダが生じないからです。

社会観念から嫌々な善行や親孝行を実行させるよりも、自然な関係のほうが行き着く結果は良い。

富裕さや、何かの数字を競わせる社会は恥ずかしいということに人を目覚めさせれば、その社会からは泥棒や自殺者は無くなります。

結局、何を言いたいかとまとめますと、
・ 人間には、純朴さ、純真さ、が最大事であること。
・ ワレヨシ(自我)と私欲を少なくすること。

これを目指すことが、人として最も価値が有ることを知って置きましょう。

(感想)
人間の心や人情よりも、紙に書かれた規則や知識を絶対とすれば、人間はとんでもないムダをすると老子は断言しています。
こういうことを止めて、
・ 常識や人情を、紙に書かれた法律の上に置くこと。
・ 法律や規則で社会を運営するが、最後の判断の時には常識や人情を最優先することを絶対とすること。

こう書きますと、裁判における裁判員制度では、最後の判断の時は民間からの裁判員の判断権限を高めることは、老子の理にかなうと言えそうです。
でも裁判員の選択に偏りが生じれば、怖い問題も内在します・・・・。

そこで老子は、その社会の住民が、どうあるべき住民なのか?
ということも指摘しています。

・ 近所との交流や人間関係、親孝行などの善行を無理に強要させる社会は、その結果は良く無い。

人間は無理に強要された事に対して、ソレに対して逆にアレルギー反応を持ってしまうかも知れません。
これは国家同士では更に言えそうです。下手に交流を強制させますと、自国の社会に悪影響の問題が生じるかも知れません・・・・。

(中略)

数字の高いソレが良い、欲しい、という風潮の社会では、犯罪が増えると老子は言います。
逆に、そのような「数字」を誇り「自慢」する気持ちは、人間としては「恥ずかしい」ことだと指摘します。
高い数字ほど、謙虚さが大切です。

人間は、
・ 純朴さが最大事。
・ 社会の為になる欲は大欲に。
・ 自分だけの為の私的な欲望は、少欲に。

このような志向性の有る社会では、裁判員制度や放送内容も、正しく機能することでしょう。
大切なことは、

・ 「数字」を自慢する気持ちは、恥ずかしいこと。

これに今の人類が目覚め始めれば、新しい社会と、新しい人類に生まれ変わって行くことでしょう。

第二十章 中途半端だから苦しい。極めれば天国が分かるさ


参考記事:老子の言葉 第二十章「生かされていることに感謝できれば、すべてはOK」

「 老子の人生論」第二十章

「絶学無憂」・・・・苦しい勉強なんか止めれば、悩むことも無くなる。
誰もが、こう思ってしまうものだ。
確かに、「YES」と「NO」の答え合わせを知っていることが、大切だとは思えないね。

そして、勉強ばかりしていると、周囲の人々が楽しそうに遊び成長する姿を見ながら、自分はと言えば部屋に閉じこもって動かない大きな赤ん坊のようなものだ。しかも笑顔が無い赤ん坊だよ。
時代遅れの服を来て、勉強ばかりしている為に収入も無い貧乏のままだ。
冷静に見れば、社会に役立たずの愚か者のお荷物人間のようだと思う。

でもな、「絶学無憂」・・・・もう学ぶことが無いほど勉強を極めれば、悩むことが本当に消えるんだよ。
中途半端な勉強が苦しいだけなのだ。
コノ世で悩みが消えるほどに勉学を極めた先に、何を感じると思いますか?

コノ世のすべては、与える一方の大いなる母性の女神に、誰もが生かされていることが本当に心から分かります。
これが分かるのか、否か。
これが人を分ける真の分岐点なのです。

(感想)
霊的に視ましても、どんな道を極めましても、
それこそ、主婦道・勉強道・研究道・武道・掃除道・介護道・経営道・サラリーマン道・職人道、・・・・
本当にソレを極めれば、誰もが神様の実在を感じ始めます。

「すべては、生かされている上でのことだった」
これが分かるのです。
しかも、その神様というのは、老子はこの項で、

* 「而貴食母」、無償で食わせてくれる母親のような神様

だとしています。
大いなる母性の神様です。

それがどんな道でも、極める途中は、誰もが苦しいものです。
周囲で楽しそうにしている他人ばかりが目に入るものです。
そして、「いったい、自分は何をしているのか? まるでノロマなバカみたい」
だと自分で思ってしまうのです。

しかし、本当にソノ道を極めれば、
・ 今までの、全てを、他人も、許す気持ち。
・ 感謝の気持ち。
・ 大いなる母性の神様が実在して「いた」こと。

これが理屈を超えて、分かります。
老子の逆説を言うトリックの深さを、改めて感じる項でした。


【掲載順序】本ページは「日付昇順」とします。



  • 最終更新:2020-08-25 21:08:19

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