老子の人生論(第五十一章〜第五十九章)

老子の人生論(第五十一章〜第五十九章)について
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第五十一章 育てても、これを所有しないこと


参考記事:老子の言葉 第五十一章『自分が育てても所有はしない気持ち』

「老子の人生論」第五十一章


法則(天の働き)が、全てを生み出します。
そして、善徳(思いやり・慈悲心)が、全てを育てます。

最初に法則により形が置かれれば、それは何かの働きをするように善徳によって完成して行きます。
だから宇宙は、法則を重んじて、善徳を貴重だとしています。

法則や善徳が非常に大切であるのは、誰かに教えられてそう感じるのではありません。
誰もが分からなくても、大いなる未知の存在を漠然と感じています。

法則が万物を生み出し、善徳がそれを養い育てることによって、
万物を育成し、その形を整えて中身を充実させて、それらを養育して守ります。

でも、万物(子供)を育てても、これを所有しません。
万物(子供)に恩恵を与えても、見返りを求めません。
万物(子供)を成長させても、支配をしません。

これこそが、本当に奥深い善徳なのです。

(感想)

・ 「育てても、これを所有しない」

自分が大切に育てて、今もそれを保護するが、自分のモノだとは思わない練習。
まず、この練習が大切だと思える人と、
まったく大切だと思えない人、それが必要だとも思えない人に、
人間は分かれると思います。

「自分のモノだ」・・・・この思いは、その人の自我(じが:独占欲)の大きさを表していると感じます。

(中略)

考えて見ますと、
・ コノ世に自分のモノなど、有るのでしょうか?

すべては「借り物」「預かったモノ」だと感じます。
この肉体でさえも、自分のモノでは無くて、先祖(遺伝子の集合体)から預かっている「乗り物」だと感じます。
「乗り物」には、メンテナンス(睡眠・食事・運動・楽しみ)と、年に一度の車検(定期健診)が大切です。

お金も財産も、今の自分が一時的に預かっているだけです。
死ぬ時は、誰もがまったくの裸で帰ります。
「イヤ〜ん」と思いましても、裸に成るのです。

これを忘れなければ、嫌な争いもしませんし、悩みも減ります。
その先に、本当の自由が待っているということなのです。

第五十二章 注意深くあれ

注意深くあれ 2018-10-16 11:36:39

参考記事:老子の言葉 第五十二章『自分自身で変わることが可能なのです』

「老子の人生論」第五十二章

宇宙には始まりが有ります。
この生み出した働きを、宇宙の母とします。

母親のことが分かれば、その子供であるコノ世のことも良く分かります。
コノ世のことが良く分かれば、またその母親(宇宙)のことも良く守ることが更に可能に成ります。
そう成れますと、コノ世に住む人々は、死ぬまで生涯にわたり幸福に暮らすことが可能に成ります。

コノ世の盲点を塞(ふさ)ぎ、危険な入り口を閉ざして行けば、死ぬまで心労で疲れることが起こりません。
逆に、コノ世の盲点に注意を払わず、盲点に引っ掛かって行けば、生涯にわたり苦労が絶えません。

小さなことにも気付けることを、本当の知恵と言います。
柔軟な人物こそが、本当に強い人です。

小さなことにも気付ける知恵の光を働かせながら、
常に知恵を頼りに戻ることが出来る冷静さならば、
自分の身に災いが起こることは有り得ません。
これを「常に学んで行く道」と言います。

(感想)

昔の人は、「その親を見れば、その子供のことが良く分かる」と言ったものです。
昔の企業には、面接試験に親(または親代わりの親族)を同伴させる会社もありました。その後に問題視されて、親族の同伴面接が廃止されたはずです。

(中略)

しかし、世の中には反面教師という言葉もあります。
自分の親がどんなであっても、逆に注意点が良く分かって、
子供は良い方向に生きることも多々あるのが実際です。
コノ世の成功者には、貧しい家庭の人も多いのが現実です。
何が幸いに転ずるのかは、自分次第なのです。

(中略)

老子は、「盲点に注意して生きなさい」と、心配する親のように教えてくれています。
それでも人生では、色々な目に遭うものです。
その時は、
・ 柔軟で居なさい。
とも教えています。

臨機応変に、意地を張らずに、柔軟に生きましょう。
これこそが、本当に強い人の生き方なのです。
「柔よく剛を制す」、なのです。

第五十三章 天を畏れることを知りましょう


参考記事:老子の言葉 第五十三章『自分の良心と向き合った生活が大切』

「老子の人生論」第五十三章


もし私に高い地位があるならば、全員が幸せに成れる道を歩きます。
個人的な幸せを追求する道だけは、入ることを恐れます。

全員が幸せに成れることを目指す道とは、本当に平和です。
しかし民衆は、個人利を好みます。

国家の官庁では汚職がまかり通り、何も国民のための生産性(利益)を成してはいない。
それなのに、公的資金を空っぽにするまで、豪華な衣装を着て、権力の剣を腰に差し、公金を使って吐くほど飲食を行い、私腹を肥やすこと山のごとし。

これこそ本当の盗賊の「親玉」と言えます。
天に背く道とは、本当に恐ろしいことです。

(感想)

要するに、天を畏れる人間であるか、否か?
これが、人間を分ける大きな分岐点だと言えそうです。

天など居ない、関係ない。
こう思う人は、何でもすることでしょう。
今生は良くても、来生が問題です。

来生など無い。コノ世で終わり。
こう思う人は、それで良いです。
私は、死後の管理された厳格さを知っています。コノ世が存在するのと同様に、これ以上に知恵が進んだ世界が死後に存在します。

コノ世こそが、ユルクて、優しい世界なのが本当です。
だから犯罪も自由に犯せるのです。
人が罪を犯すのも、試されているのは生きるその人間側なのです。
その人間の本当の本性を出させるために、自殺も犯罪も自由な世界がコノ世です。

でも天が見ていると、老子でも畏れています。(天や神様を怖れる場合は、畏れという漢字です)
天が見ていると畏れること。
これを子供のように信じる人は幸いです。
何事にも、敬意を持って、畏れて生きて行きたいと思います。

第五十四章 信仰の意味は、広いです

信仰の意味は、広いです 2018-11-16 11:59:23

参考記事:老子の言葉 第五十四章『老子が先祖供養を絶賛する』

「老子の人生論」第五十四章

しっかりと正しい信仰を持つ者は、引き倒されることは無い。
しっかりと正しい信仰を胸に抱く者は、道を外れることが無い。
そうすれば、その子孫も、その祭事を続けて絶やすことが無い。

正しい信仰を個人の身に修(おさ)めますと、その人の人徳がより充実します。
家の代表者が、正しい信仰を持ちますと、その家は豊かに繁栄します。

村の代表者が正しい信仰を村内で行いますと、その村の成長は継続します。
地方全体を治める者が、各地域で正しい信仰を修めますと、その地方は繁栄します。
国家全体を治める御方が、正しい信仰を維持しますと、その恩恵は民衆の生活の全体に行き渡ります。

つまり、それがどんな信仰かと言いますと、
「自分を観察するという信仰」によって、自分自身をよく観察することに成ります。
「家を代表するという信仰」を行うことによって、自分の家をよく観察することに成ります。
「村を代表するのだという信仰」を行うことによって、その村をよく観察することに成ります。
「地方全体を治める責任感という信仰」を行うことによって、その地方全体をよく観察することに成ります。
「国家全体を治めるための信仰」を行うことが、その国の全体をよく良く観察することに成ります。

だから私(老子)は、何によって国家全体の現状と未来・行く末(いくすえ)のことが分かるのかをタネ明かしをしますと、
「国家全体を治めるための信仰」を行う御方が、その信仰をしっかりと行っているか否かを観察することによって、分かってしまうのです。

(感想)

老子が何を信仰していたのか?
老子が書いた文章には「道」とだけ表記されて、それが何を指すのかは話の内容ごとに、様々な意味を持たせています。

その大半は、道=道徳、を意味します。
しかし、ここでは、
・ 正しい信仰=その信仰の対象をよく観察することに成る。
という示唆がされています。

(中略)

老子は、代表者ほど、自分の仕事はただの仕事では無くて、信仰を行っていると思ったほうが良いと、この章で示唆をしています。
日本という国が、今まで長く継続が出来たのは、「祈るような気持ちで」努力をされた様々な分野の代表者が居られたからでしょう。

(中略)

自分が受け持つ仕事を、信仰にまで高めることが出来れば幸いです。

でも、こんな安月給だから嫌だ、というのも人間であり分かります。
では、自分は何を信仰(注目)するのか?
何もしないのか?
時間限定・厳守の人生期間に、1度でも考える機会が有れば魂には幸いです。

第五十五章 変化の無い同じパターンの生活こそが、真に有り難いことだった


参考記事:老子の言葉 第五十五章『自然で在ることが大切』

「老子の人生論」第五十五章


善徳が大きく豊かな人ほど、赤ん坊に似て行きます。
赤ん坊には、毒虫類や毒蛇たちも咬むことがありません。
猛獣類も、襲うことをしません。
空の猛禽類も、つかみ掛かることがありません。

赤ん坊は、骨は弱くて、筋肉も柔らかい。でも、こぶしを握る力はとても強い。

赤ん坊はまだ、男女の性交に興味も抱かないのに、性器がよく立っています。
これは、精気が充満しているから起こることです。

赤ん坊は、一日中も泣き続けましても、声が枯れることがありません。
和気あいあいの気を持つからです。

心身の和の状態を知っていることこそが、「一定的で変化が無い」という理想の極致なのです。
「一定的で変化が無い」生活を継続させることが、崇高な内在する叡智からの知恵が在ると言えます。

自分だけが生きることに執着することを、妖気が有ると言います。
自分の欲望の気持ちを活発にすることを、「頑張り」と言います。

コノ世では、勢いが良く強くなるという変化が起こってしまうことは、それは衰退が既に約束されています。
変化が起こること自体が、それは既に真の道理から外れています。

道理に叶っていないことは、早く衰退します。

(感想)

・「大きな変化を見せた」 = 「一定的から離れた、理想から離れた状態。衰退が約束された」
・「常に一定的で変化が無い生活」 = 「和の理想が在る、崇高な叡智からの加護が在る生活」

でも私達は、毎日通勤と帰宅という変化が無い生活を、情けない人生だと思って悲観します。
こういう人生は、嫌だと不満をつのらせます。
でも老子は、それは違うと。
それこそが、真に平和である証拠であり、大きな叡智により稀有にもたらされた状態だと絶賛しています。

(中略)

何も変化が無いパターンを繰り返す生活の継続をしていてこそ、
そこに善徳を積む行為が有る場合に、
赤子へと心身が若返ることに成ると示唆しています。

(中略)

・ 自分だけが生きることに執着をしない、妖気が無い生活を継続したこと。
・ 自分の欲望の気持ちを活発にしただけの、悪い「頑張り」が無い生活を継続したこと。
・ 何も変化が無いパターンを繰り返す生活の継続をしながら、善徳を積む行為が有る場合に。

赤子へと自然と人が変化するのは、問題はない訳です。

第五十六章 無我で生きましょう

無我で生きましょう 2018-12-10 11:54:00

参考記事:老子の言葉 第五十六章『それで良いのだ』

「老子の人生論」第五十六章

本当に悟った人は、悟りについて語りません。
悟りについて語る人は、本当の覚醒者ではありません。

本当の覚醒者は、我欲が生じる目や耳の穴を欲望から閉じています。
我欲が生じる、すべての穴の入り口を閉じています。

そして何も考えないアホに成り切り、
懸念という知識が引き起こす心配心から解放されており、
社会のどんな階層の人々にも、子供のように合わせることが出来ます。
これを真理との、神妙なる一心同体と言います。

つまり、本当に悟った人には、誰も近付こうとはしません。
でも、無理に疎(うと)んじて阻害する気にも成れません。

だから、悟った人には、利益を上げることも出来ず、
悟った人に損害を与えることも出来ません。

真に悟った人を、持ち上げて祭り上げることも、
侮辱することも出来ません。
だからこそ、真に悟った人は、社会全体の尊い存在と成り得るのです。

(感想)

この章を読んで浮かびました姿は、日本画家の巨匠・横山大観が描いた「無我」です。

(中略)

まさにこの章は、この子の姿を語っています。
どんな大人にも、昔はこんな姿の時も有ったはずなのです。
でも、段々と自我が膨張するにつれて、着る物は引き締まったかも知れませんが、欲望と心配心の渦に巻かれています。

膨張した自分の「自我」が、自分で自分を殺すことも起こっているのが社会です。
でも、ふと、このような「無我」の姿が本当の自分だったことを思い出したいものです。

大変な仕事で、命をすり減らすように暮らす人が多いです。
でも、誰もがアホの子に成ったつもりで、戻ったつもりで、その荒波の中をタリラリラ〜ンと泳いで欲しいものです。

なぜならば、眉間にシワを寄せて働いても、アホの子に成って働いても、出る給与は同じなのです。
同じように時も過ぎて行きます。
それならば、健康な人でも日々に増殖と減退を繰り返すガン細胞に、エサを与えるような心配心を持たないほうがお得なのです。

何が有っても、自分の心まで痛めないぞ!
こういう誓いも良いものです。
自我が起こす心配心よりも、無我が与える安心感を重視して生きましょう。

第五十七章 いつの時代にも言える真理


参考記事:老子の言葉 第五十七章『執着すれば、逆にダメに成って行く』

「老子の人生論」第五十七章


正しい方法によって国を治め、
軍隊は変わった使い方をして活かして、
無難に天下をまとめることが可能です。

私がどうして、そういうことが言えるのかを説明します。
社会に禁止事項が増えるほどに、民衆は動きが制限されて貧しくなって行くものです。
民間に武器所有が広がるほどに、国の未来は暗く成ります。
人々が新しい先端技術を持つほどに、新しい詐欺も次々に生まれます。
法律が増えて厳しくなるほどに、盗賊もますます増えることに成ります。

だからこそ聖人は言います。
国を治める人が、何もしないことで、民衆は自力でより良く生きようと変わります。
国を治める人が、静かであるほどに、民衆は自らを正します。
国を治める人が、社会を縛らないほど、民衆は生活が豊かに成って行きます。
国を治める人が、無欲であるほど、民衆は自然と素朴に成って行くのです。

(感想)

・「民多智慧、邪事滋起。」
=「人々が新しい先端技術を持つほどに、新しい詐欺も次々に生まれます。」

これなどは、最近のインターネット詐欺の広がりと共通していると思えます。
偽メールによって、カード番号情報や、銀行口座のログイン・パスワードの再設定をさせて、中身を盗む詐欺が増えています。
10年前には無かった、あの手この手の方法が後を絶ちません。

・「民多利器、國家滋昬。」
=「民間に武器所有が広がるほどに、国の未来は暗く成ります」

これなども、特に今の南米などは、武装集団と軍隊との衝突という血の抗争が悪化しています。
被害を受ける一般市民も、誘拐される政治家もいます。本当に、その国の未来が心配です。

・「以奇用兵」
=「軍隊は変わった使い方をして活かして、」

これも、今の日本の自衛隊などは、災害救助で大活躍しています。
混乱した災害現場の治安を守りながら救助活動にあたり、住民たちに衣食住を迅速に提供しています。
数々の大型重機も駆使しますから、ただの救助隊では出来ないことも成し遂げます。

この章で老子が特に言いたかったことは、代表者(家庭・会社・組織・国家)の態度1つで、周囲のすべての者が変わることを指摘しています。

(中略)

とにかく大切なことは、
・ 自らを正せば、周囲も変わって行くこと。

これを長い目で、見て欲しいのです。

第五十八章 正解が無い世界を楽しむこと


参考記事:老子の言葉 第五十八章『謙虚さが幸運を呼びます』

「老子の人生論」第五十八章


人を締め付けない国の住民ほど、純朴です。
人を締め付ける国の住民ほど、段々と表から隠れて行く。

災難には、逆にチャンスが隠れています。
幸福には、災難が隠れています。
その究極の分岐点は、誰にも分からない。常に動き変わります。

そもそもが、何事にも正解など無いのだ。
正解でも、違う視点から見れば間違いに成る。
善行も、違う人から見れば、怪しい行為に見えてしまう。
このようにして人間は、大昔から迷って来たものなのだ。

だから聖人は、
正しいことを言っても、他人を傷付けない言い方をします。
鋭い指摘を他人にしても、その人の心を刺すことはしません。
自分が正しくても、それを押し通すことはしません。
自分が光っていても、他人の目を不快にさせることがありません。

(感想)

・ 自分の子供や他人に厳しくしても、相手が本心を隠すだけだよ。
相手は何も変わらない。

・ 本当は、災難も幸福も表裏一体だから、一喜一憂せずに常に安心しているのが一番お得さ。

・ 正解って何さ? 本当は、そんなもの無いよ。
大昔の人も、迷って来たよ。だから、迷うこと自体が正解だった。

・ 賢い人ほど、謙虚で、他人を傷付けません。

この章をまとめますと、こういう内容です。
さすが老子、という数千年を経ましても通用する真理の言葉です。

(中略)

コノ世に正解など無いとすれば、すべてが遊びだった。
宇宙の遊戯は、時には残酷を見せ、時には嬉々とした天国を見せる。
そして、そこにたたずむ自分という存在。

このような大きな視点で、これからの残りの人生を生きて見たいものです。
人生に正解が無いならば、気楽に居ることが一番です。
「迷うこと自体が正解だった」
ならば、迷う姿も楽しんで見ましょう。

第五十九章 「ケチな人」にも2種類が有ります


参考記事:老子の言葉 第五十九章『質素倹約は強運を呼びます』

「老子の人生論」第五十九章

社会を導く人、社会で成功する人に成れるには、「物を惜しむ人」に成らなければ生けません。
「物を惜しむ人」と言われれば、「ケチな人」を想像するのでしょうが、ただのケチではダメなのです。

「物を惜しむ人」とは、すべてを大切にする人物のことを言います。
「治人事天」すなわち、天地自然・山川草木に住む神々を大切にするために祭り、
社会の下々の中でも生産者である百姓を特に大切にする人こそが、
国家社会を正しく導くことが可能な「物を惜しむ人」「偉大なケチ」に成れます。

このような「偉大なケチ」ならば、子供の頃から正しい道を選びます。
正しい道を歩こうと意識する人は、早くから善徳を積み始めます。
善徳を繰り返し積んで行けば、これに勝てる人はコノ世には居ません。
このような人に勝てる人が居なければ、善徳者が持つ力は無限に成ります。

このような無限の力を持つ善徳者ならば、国家も安らかに「継続」をさせます。
天地自然・山川草木に住む神々を大切に祭り、民衆と百姓を大切にする善徳を維持するならば、その国は無限に「続き」ます。

このようなことを、心に深くしっかりと刻み込んで行けば、「物事が長く継続して」生きる道と成ります。

(感想)

原文の「治人事天、莫若嗇」の最後に有ります「嗇」とは、
「吝嗇」(りんしょく:ケチ、下品なケチ)を意味しており、日本では「嫌なケチ」を指す意味で使用されています。

しかし、古代中国では、
・ 収穫物を1粒でも大切にする心。
・ 食べることも惜しんで、大切に頂く。
という意味合いだと解釈します。
まさに「質素倹約」の意味が強いです。

この章は、個人の生活におきましても、幸運や金運を高めるための秘訣が書かれています。
「治人事天」=人を善徳で治め、天に仕える気持ち。
このような気持ちを忘れないことが大切です。

(中略)

真の成功=継続性、なのです。

人も物も、心から大切にする気持ちが強まるほど、それを継続させるために「良い意味のケチ」「質素倹約」を自然と心掛けることが善徳に成ります。


【掲載順序】本ページは「日付昇順」とします。



  • 最終更新:2020-08-25 21:09:36

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