禅・坐禅

■禅・坐禅について
関連項目 道元
キーワード 座禅 作務
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今日の私が言いたかったことは、自分の生活行為に思考をさせることが、奥義の視点に在ることなのです。
「頭で考えるな。自分の生活行為が考えて決めてくれるのだ」ということです。

これは勉強にも言えます。勉強への努力の行為が自分の体に染み付いていて、問題を頭で解くのではなくて、体の条件反射で問題を解くとも言えるのです。これが霊的には正しいのです。
霊体に蓄積された勉強努力の磁気が、問題を解きます。

これは難しい話では無いです。単純なことなのです。
自分の悩みが「来る」様子を、自分で観察しましょう。それは自我からの幻であり、過去の行為からの反射に過ぎません。
だから、今から良心が同意する生活努力をして行けば、今の悩みも必ず改善して行くのです。

禅が作務(さむ。生活行為)を瞑想以上に重視することは、まったく正しい本質を突いています。



人間は活動を止めますと、思考の漏電が始まります。

これは禅においても、作務(さむ)という日常生活の活動を修行として最重視する真理と通じます。
作務の後の瞑想は、リラックス時間であり、自分を静観する時に過ぎません。
世の中が勘違いしていることは、霊的真理では作務が主役であり、瞑想は付録時間に過ぎないことです。
これが逆転している勘違い先生が多過ぎます。作務(日常生活)を正しく成し得ていない瞑想は、魔境へと必ず通じます。
社会や家庭の中で懸命に自分が出来る努力をする人は、全員が最高の修行者です。



「生活をしながら」自分を見詰めるとは、神様を知る一番の近道です。神様を「思い出す」ことが出来るのです。
これこそが「生きた瞑想」なのです。道元(どうげん:禅を確立した本物)さんが目指したものです。


工夫しましょう 2010-12-08 11:44:07

工夫の2番目の意味に、「心の修行などに専念すること。」というのが辞書にありました。これは知りませんでした。工夫とは、禅で使われる言葉でもあるようです。
自分の人生を与えられた条件の中で、精一杯に自分なりに工夫して生きれば、それは神様の視点では素晴らしい人生です。
だから他人との比較という魔境に惑わずに、けなげに工夫して生きましょう。
神様が示す”人生=工夫すること”とは、この中の「する」に重きがあると私は感じます。
たとえ右往左往しても、”する”ことに意味が在ります。



道元(どうげん:作業しながら禅を極めて神を見た人)さんにしても、親鸞(しんらん:究極の下から目線で頂点の神を見た人)さんにしても、また日蓮(にちれん:太陽神を見た過激な隠れた神道家)さんにしても、久遠(くおん:永遠な)な一つなる究極の存在を、全員が光の存在だと表現しています。
要は、この世には光しかないのだと。
釈尊にしても、亡くなる時の遺言は
「自灯明(じとうみょう:自分の心の良心=内在神)の光の気配を頼りにして、大きなサイのように突き進め」でした。
動物のサイは、視力が悪くて先が見えないのです。見ようとしても、風景が見えません。だから真っ直ぐに、ためらうこと無く突き進みます。
人間も自分の思惑の先行きが見えません。


悩む前に動きましょう 2010-10-22 11:31:16

禅の本質は、作務(さむ:作業をすること)に在ります。瞑想などは、余暇の休息にすぎません。ここに世間の認識の間違いがあります。作務が禅の本質です。
掃除・洗濯・料理・食材の確保・・・このような作務の作業の中で、見性(けんしょう:自分の心に神仏が内在することを知る)を重ねて行くのです。
だから皆さんも、自分の現状生活の中で見性体験をする気持ちで生活をすれば、それは禅を実践していることに成ります。
作業する自分を観察していくのです。
これは思考だけでは、理解できません。作務をするしかありません。



瞑想で光を見たウンヌンの人間は、真の瞑想をしていません。それは魔界に落ちただけのことです。
瞑想とは、感謝しながら「今」に懸命に生きることです。禅の作務(さむ)こそが、瞑想の本意です。いつのまにか座る事が本意にされてしまいました。



毎日、自分の死を覚悟して見つめて生きていますと、朝に目が覚めると
「ああ今日も生きているのか。有り難いことだ」と心から思うそうです。
そして、外の畑や山々の景色が、本当に光り輝いているのが薄い視力で分かるそうです。
老人の生活自体が「禅」であり、働きながら本当の瞑想をしている状態と成るのです。
金を徴収して、「わざわざ座る形」の瞑想は、ただのヒマ人の道楽に過ぎません。座ろうと「する」時点で、本当の瞑想から外れています。魔境にしか行けません。


日常の中に答えが在る 2010-07-19 11:12:57

仏教で言うところの悟りについても同じです。
悟りたいと思い、瞑想する時点で悟りから離れています。生活の中で、心が何も考えない状態に成れれば良いのです。労働の合間の、ボーとする休息時が既に瞑想です。坐禅を組まなくても、自然に体がリラックス出来る形が良いのです。つまり、人によりリラックス出来る形は変わります。
もし働きながら無心に成れれば、給与を得ながらにして、大いなる存在に私たちが生かされている感謝に気付けるかも知れません。すべてが溶けて和解します。
この時、悩みは現実に在るのですが、受け入れて楽しむ事が出来るのです。覚醒しても、最後は通常通り病気で死にます。



写真は、禅の悟りの過程を10段階の絵図により表現した「十牛図」(じゅうぎゅうず)の内の最終段階の図です。最終段階の10枚目の絵は、悟りを得た後の最高の心境を現しています。入鄽垂手(にってんすいしゅ) の境地です。
この絵で大切な事は、悟りを得た修行者が着飾らずに笑みをたたえた布袋さんの姿に成って、「街へ」出ている事です。持ち物は袋1つだけです。そして大人では無く、「心が幼い」子供と遊ぶ姿だと言う事です。
これは、心が幼い未熟な人物とも、共に遊べると言う事を意味します。


霊的師は害悪 2009-03-28 10:45:45

禅の世界ではよく、
「師に会ったら師を殺せ、仏に会ったら仏を殺せ」と言います。とくに一休さん、そして白隠や道元も似た意味を示唆しています。 これのハッキリとした説明が残されていません。
これらの大悟した先達の後に、組織運営をするにあたり支障があるからです。 説明が無い、あやふやな状態で言葉だけが継承されました。



禅寺の修行でも、何も考えずに無心で家事・掃除へ一心に集中する、目を開けた瞑想を重視します。
人の心とは、絶えず揺り動く厄介なものです。
これを肉体作業に集中させる事により、逆に心の深い領域を開く事が出来るのです。


至高体験は唯の通過点 2008-08-06 19:48:04

禅の悟りの段階を10段階で示唆する「十牛図」においても、「見牛」・・・悟りの状態を垣間見るレベルは、初期のほんの3段目に過ぎないと位置づけられています。


低くて、結構。 2008-01-25 21:48:34

特殊な個人の神秘体験を悟りとしては、いけません。
それは、唯の自己満足オナニーのレベルです。 意味が有りません。 禅の十牛図は、真理の一面を現しています。
個人の悟りとは、10段階の内の6番目にしか過ぎないと表現されています。


近道は日常に有り 2007-12-12 19:12:04

曹洞宗は、ただ、ひたすら禅をする、ひたすら掃除する、ひたすら食事する、と、今する行為にひたすら没入する事を大事として、そこには自己観察をする行為や、自分の心の動きを落ち着かせる努力、秘密の御経も存在しません。 人間の日常に有る、作業や行為、仕事に没入して一体に成ると、自然と、自己の心に住む仏と一体に成れる、とするようです。


幻覚麻薬は絶対駄目! 2007-10-20 18:47:36

禅では、意識の奥に潜り見えてくるものは、魔境の存在だと断言し、排除します。もし、神仏の形で現れるものが見えたならば、対峙して、決して相手にしては駄目だとします。これは、真実です。 ましてや、見えたことに喜び感動して、会話をする人間は、精神の分裂が起こり、心が病んで行きます。


坐禅


だから

座禅とは、

* 心身を休める行為、脳に休息させる行為。

* 労働で乱れた呼吸を、平静に戻すための行為。

という視点も知って置いてください。


作務がメインであり、座禅がサブなのです。

わざわざ座禅を組まなくても人間は、意識が途切れた睡眠中(自我の停止)は、誰もが「良い呼吸」・寝息をしています。

でも、人が起きている時は、自分の自我の思いにより、色々なストレスで呼吸が乱れています。

無心に眠る赤ちゃんからは、大きな寝息が聞こえることがあります。これは、自我が無い状態の中での深い呼吸です。
これこそが禅であり、真の瞑想でもあります。


生活の中にこそ、労働の合間にこそ、深い禅・瞑想が存在することを知って置きましょう。


釈尊の本意 2008-09-24 18:31:37

座禅をして、瞑想しても無駄です。
夢を見るだけです。 魔境という・・・。
日本へ仏教が伝来して以来、何人が覚者に成れたでしょうか? 世界中で数千年間、述べ人数では数十億人が瞑想をして来て、誰が悟りを開いたか?
評価された人を数えても、両手で足ります。


感謝生活は瞑想を凌駕 2008-09-17 19:34:50

禅宗では、座禅中に発狂する人が極稀に発生した為に、禅宗の原初の時代には無かった、警策(けいさく)を江戸時代ごろから取り入れました。
警策とは、座禅中に修行者が動いた時に、木の棒で肩を叩く行為です。 この行為の意味は、現在では色々な伝えが有るでしょうが、本来の意味は、とても霊的な意味を持ちます。


関連コメント

食洗器やお掃除ロボットを使うことはどうなんでしょう?我が家にあるのですが、なんとなく使う事を躊躇しています。
手が荒れやすいため、いつも手荒れしながら食器を洗うので、家族から「食洗器使えば?」と言われるのですが、時間もかかるしガス代ももったいないし、と使う気になれずにいます。私の中の仏が、「ロボットや機械に頼るな」と言っているのでしょうか?
その一方で、家事をロボットにお願いして、できた余裕を他の有益なことに使えるのかな?とも思ったり。

。。。。なんでも重労働が良い、でも無いのです。
全体を自分なりに工夫して最善を尽くせば、それは禅・善です。
2016-06-24 19:14:03


釈尊は、瞑想などしていません。くつろいで休んでいただけです。
傍から見ていた人間が、それを「修行」だと大きな勘違いをしたのが始まりにすぎません。
※これは、これは本当ですか?

。。。道元は正しかった。
ただ、道元以降の短い時代でさえも、禅が主眼にされています。
道元の瞑想は、作務にありました。
釈尊の瞑想などは、存在しません。
心静かに、座っていただけです。
2010-09-19 17:45:50


禅については、リーマンさんは肯定的なお考えだと思っていたのですが、今日の記事では、
自分自身に振り向かせると言う瞑想や禅にしたところで、「他人である」師匠と言う集金システムを悪用しています。こんな物に真理は絶対に在りません。
とのことですが、これは禅自体を否定されているのでしょうか。それとも、師匠と言う集金システムという問題について否定されているのでしょうか。教えてください。

。。。肯定してます。道元は、見神してます。

。。。要は伝統ある禅に見せかけて、素人を騙して外国人からの伝授で大金を稼ぐ輩が多いのです。外見は、禅と瞑想です。
自主的な寄付で成り立つ永平寺などは、正しいと思います。
2010-07-04 17:11:25


澤〇〇〇さんについてはどのように思われますか?
以前に本を読んだだけで、禅や瞑想はするつもりは全くないですよ。

。。。禅僧には、まともな人が多いです。
しかし、独立して瞑想を商売にする、元禅僧はダメです。生きるために垢行為をしてます。
2010-05-17 18:14:53


禅は半眼で座る事と、作務の規律がありますが、何か関係はありますか?

・・・大いにあります。道元禅は、作務を重視しますね。 半眼にしても、作業にしても、日常を離れるなと言う真理です。
日常から乖離させるものは、魔道、惑う、事になります。
2008-06-28 06:13:23


先祖供養、感謝想起、これは座禅と相通じると、感じました。

・・・そうです。雑多な実社会の中で、働きながら実践する 生きた禅 です。
2007-12-09 20:49:22


(2chログ)
小乗仏教が否定される、とも思う
・・・・そうですね。 たとえば、永平寺の禅僧は、素晴らしい血色をしていて
    厳しい修行をし、心 体  揃うように思いますが、 やはり 片手落ちの感を
    私は感じます。 閉ざされた空間より、世間で色んな重荷を着けながら修行するほうが
    辛いだろうと。

壮大な物語
・・・・良い刺激をありがとう。
   過去スレで釈尊を太陽神界の高位と書きましたが、どなたもスルーだったので・・・。
   霊的には釈尊も天照大神に通じるのです。 仏典は奥深く素晴らしいのですが
   後世にかなり無駄な思索と、カースト制度による湾曲があります。
   スジャータ話も、釈尊が下層卑下階級から施しを受けて、食べたとなると釈尊の全否定的事件に
   なることを、日本人には想像もできないが、インドでは深刻です。 だから、豪族の娘・・・と。
   
   まあ、伊勢へと、仏教、ユダヤ教、キリスト・・・・・と繋がる壮大な夢を私は見てます。
2007-03-23 22:43:54


坐禅

瞑想をしてからだと思いますが、私の嫌いな人の声で、非難や悪口や笑い声も聞こえた事もあります(自宅の中だけですが)。
これも私が、低級霊と同調しているからなのでしょうか?

。。。要は、自分の思いを伝えたい霊は、そこら中に居るのです。
そんな中で、霊的に弱い方が瞑想しますと、寄り代(短冊や位牌のこと)の状態になります。
禅宗でも棒を持つ管理者が背中を叩くのは、霊の雲を払うためです。狂死する僧侶がいるのです。
寄り代(短冊や位牌のこと)による「先祖の為」の感謝の3本供養をしていけば問題は無いです。
霊的に強くなり、平気になります。
瞑想するかわりに部屋掃除が良いです。
2010-06-08 15:09:54


①自分の言動が良心=内在神に恥じないものだったかどうか、内在神というか良心を見つめたり、振り返ったり、反省したりするために、一人静かに思う時間を持つ事は、リーマンさんの「不要」といわれている「瞑想」や「座禅」などの行為とは別と考えてもよいのでしょうか?

。。。。はい。構える時点で、道を外しています。
生活の中で内省すべきです。その方が時間も掛けることが可能です。

② 論語や老子、初期仏典(例えば中○〇先生の著作など)の中には東洋の叡智や生きていくうえで、大切な愛・慈悲・施し・思い遣りなどのヒントになる逸話や箴言も沢山含まれていますが、そういう古典を「自分道」を生きる上でのヒントとする読み方については問題はなと考えておりますが

。。。読んだ後は、忘れることです。
2010-04-25 20:01:55


プロの修行僧は何のために座禅をするのでしょうか?

。。。これは簡単です。自分の生活の為に座禅をするのです。
これをしなければ、飯が食えません。
瞑想と言う形に座ってはダメなのです。
喜怒哀楽の中に、瞑想も座禅も在ります。没入する懸命さが大事。
2010-03-07 23:47:58


あやしげな銭取り団体の瞑想は言語道断ですが、昔から毎日座禅を組んでいる禅僧にボケル人がいないというのは禅僧の間では常識になっています。座禅によって心身が強健になることはちょっと前までは常識でした。

。。。私の過去記事における、禅や禅を極めた人物について読んでください。
瞑想=禅では無いです。
禅は、厳しい作務を行い、禁欲です。
自称瞑想家の乱れた私生活とは天地の違いです。
しかも禅では、見神体験は魔境とみなします。
大きな違いです。
2010-02-28 21:47:14


今は連絡が途絶えた方で、瞑想をすすめているかたや橘〇〇氏も瞑想をすすめていて釈尊は瞑想していたから悟りを開いたといっていたことを良く思い出します。

。。。教師に依存させる必要があるからです。
禅でも導師の監視下で瞑想します。
霊が寄れば、棒で叩く必要があります。
瞑想で、気が触れた人は数知れず。
昔の時代を模倣する必要はありません。
2009-12-17 12:10:28


20141224

  • 最終更新:2016-06-25 11:53:09

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