涅槃(ねはん)

■涅槃(ねはん)について
キーワード 「無」、「三昧(ざんまい)」
目次

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アノ世では肉体を無くして感覚(心)だけの世界であるために、苦痛でも快楽でも悩みでも喜びでも、コノ世の10倍の大きさだと思ってください。
従って、自分の心に隠し事がありましても、自ら暴露するほどの衝動に襲われます。
自ら罪を自白し、その苦悩に苦しみます。
コノ世で他人を傷付けた経験がありますと、アノ世では自分で自分自身をその10倍の強度で「自傷」します。

(中略)

自分の心にやましい思いも、行為も無かった心(魂)は、死後は天界(霊界、神界)へと渡ります。
ここでの快楽がそれはそれは凄いのです。コノ世の10倍です。まさに釈尊が涅槃(ねはん)、極楽浄土と呼ぶくらいの快楽の世界が存在します。



生きる間に強制的に帳尻が合わされる人は、まだ霊的には幸運なのが真実です。その人には、それが本当に「救い」なのです。
もし、コノ世で帳尻が合わないままでコノ世を去りますと、生死をまたいでもトコトンにタイムラグを埋め合わせる重力が働くのが宇宙の法則です。これが厄介と言いますか、厳格と言いますか、体験する舞台が死後の世界に変わっていますので、大きな利子が付いての帳尻合わせと成ります。

肉体を失くしていますので、心で体験する帳尻合わせとは、コノ世の10倍の鋭敏さだと思えば良いです。
悪い帳尻合わせならば、まさに絶叫します。
自分がした善行による帳尻合わせならば、まさに涅槃(ねはん・ごくらく)の圧倒的な快楽の海を体感します。コノ世のどんな快楽よりも10倍増しです。



私たちは、天国や涅槃や、悟りの心境に「行く」、今の自分とは違う心境に成る、
何かが変わる、・・・・・という想像をしてしまいます。
でも、そうでは無いのです。

善行を積み「重ねる」ことが出来れば、その今の自分の心境こそが、それは既に天国であり、涅槃に居り、悟りの最中なのです。
悟りの最中に居る人は、自分が悟り中・ingだということに気付け無い皮肉があるのです。
「おまえは既に死んでいる!」というアニメの決めゼリフではありませんが、
「おまえは既に悟りの中に居るんだよ!」というのが真相なのです。



今悩んでいる人が多いです。でも、それこそはコノ世の貴重な期間限定の最中のことであり、大神の視点から観ますと、本当に可愛い人々なのです。
だから自分をカッコ悪いと思わずに、「大いに」悩み悲しみ怒り・・・・そして我慢して、
それでも「生かされていること」「体験できることに」感謝を致しましょう。

そうすれば、これこそが悟りの手前に居る最中であり、
その継続は、行け行け、進め進め、と涅槃(大いなる喜び)の中に自然と入って行くのです。



老子の言葉 第四十五章

(独自の超訳)

本当に完成したモノは何時まで経っても未完成に見えますが、その働きは十分に発揮します。
(絵でも文章でも人間でも、本当は十分に完成していましても、何時まで経っても何かが不足しているように思うものです。)

本当に大きな器の人間ほど中身が空っぽに見えますが、その働きの可能性は無限にあります。

(中略)

これと同じことが人間にも言えます。
「自分なんてダメだ」「何をしても中途半端で嫌に成る」
などと私たちは誰でも思うものです。
しかし真実は、そう思えた時点で、その人間は完成「した」のです。

(中略)

私たちも、悩みながら、苦しみながら、楽しみながら、何かに不足を感じているものです。
ボロボロに成っても、生き「よう」とします。
この「途中の状態:ing」こそが、すでに完成しており、悟っているのです。
悟りが、悩みの終わりだとか、何かの区切りだと自称先生も一般人も勘違いしますが、そうでは無いのです。
常に今からだ、さあ大変だ、嬉しい、この「途中の状態」こそが生命の歓喜=涅槃(ねはん:天国)だと私は常に感じます。



無が、どうして最高の快楽、仏教でいう涅槃(ねはん)、「三」昧(さんまい)の境地、なのでしょうか?
それを老子は文章の最初に、人間が視覚・聴覚・触覚を「超えた先」に存在するのが「無」であり、恍惚としか言葉が無いとしています。
逆に言えば、人間が視覚・聴覚・触覚に“ダマされている間”は、本当の恍惚を体験することが無いとしています。

しかし私たちは、いくらなんでも「無」が快楽であると理解できませんから、それは表現と解釈の問題だと思うことでしょう。でも、違うのです。本当に無とは、恍惚とする快楽なのです。
近代インドの聖者の一人であるラーマ・クリシュナは、無の境地に入りますと、あまりの快楽のためにヨダレを流していました。脳から分泌されるドーパミンの影響でしょう。
これは表面的な肉体反応の1つに過ぎませんが、コノ世を出現させている奥には、恍惚とする無の「静寂の海」が確かに存在するのです。
これは自分で体験するしか分かりません。言語表現の限界があります。


自信を持てば大丈夫です 2012-06-08 09:33:00

ひたすらサイのように自分の内面(自灯明)に突き進めと仰った釈尊が、救世主の降臨など言うはずが無いのです。
ちなみに釈尊ご自身は、自分が救世主だと発言したことは1回もありません。
それどころか釈尊は、逆に人間とは外部の物事に左右される限りは救われず、自分自身の執着を見詰めて滅し、内在する良心(内在神)に目覚めない限りは安心(涅槃)に至ることが不可能だと言いました。

要は外部からの救いでは、人間は退化するだけで救われないのです。
釈尊の直弟子たちも、釈尊を救世主だとは思わずに、教えてくれる人だと解釈していました。
その理由は、弟子自身が釈尊の教えの実践で自ら悟り(安心すること)に至りますと、救う者・救われる者という上下関係がそもそも真理には存在しないことを「知る」からです。



自分の魂が納得できるのか?できないのか?これは、すべての人間の死後に影響する重大なポイントです。
相手が大自然ですと、やはり「仕方がなかった」という思いの過程が魂に起こります。
これが人間同士の個人干渉による死ですと、やはり死後も納得が出来ずに執着を起こします。これが次の転生(魂の旅)にも、自分で固執した選択をさせます。

人間は自殺以外の死ならば、全員が根源生命の元へと帰るのです。
大震災により亡くなった魂は、生きる人間が思う以上の涅槃(ねはん:安心・安定・極楽)に居るのが、私の脳内での真実です。これは無理な想像ではなく、素直に感じています。
遅かれ早かれ、自分たちも死ぬことを忘れては生けません。
自分(良心)が納得できる生き方をすることが、死後の大安心に繋がります。


関連コメント

>「今の自分が、どんな自分であっても、上記のようなその生活習慣により、今のままで自分自身を涅槃(天国)に置くことが可能なのが、コノ世の秘密なのです」

この一文は、空海が言う「即身成仏」の本当の意味と理解してよろしいですか。

。。。。良いです。同じ意味です。
2014-09-16 15:41:47


最高の真理は最高に単純である、という古代の哲学者の言葉がありますが、究極の真理は、やはり「無」ですか。
無・涅槃の境地とは、現代的に分かりやすく言えば、自分の魂と内在神との交流・一体感を深めて、生かされている事に心底から感謝できる、ということではないでしょうか?

。。。全員がすでに涅槃に居ることに気付くだけです。
でも生活が苦しい。でも、すでに天国の中なのです。
感謝の先祖供養などの他への慈悲心を起こす練習が目覚めさせます。
継続しかないのです。
2012-09-28 17:14:33


今日の記事の、真理としての「無」と「感謝」や「愛情」は近いもの?もしくは同じようなものなんでしょうか?

。。。。はい。無の中で最高の現象が感謝や愛情が起こることです。
無の本質であり、生命やモノが無から生じる理由です。
2012-09-28 16:47:20


涅槃=さとりを目指すなという意見がありました。カンナガラと涅槃の境地はどう違うのでしょう。

。。。目指す時点で違うということ。

現状で感謝できれば、サトリです。

「生かしていただいて ありがとうございます 」http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4391140942/isehakusandou-22/ref=nosimを出来れば何度も読んでください。
2011-11-05 20:34:36


仏教では究極の目標が涅槃に至ることです。
リーマンさんの教えて下さる道の究極のゴールは何でしょうか。

。。。涅槃=感謝の気持ちで在る事、です。
生きながら涅槃に至れば良いのです。
2010-03-23 16:52:24


20141115

  • 最終更新:2015-01-24 13:46:47

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