慈悲心

慈悲心について
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慈悲心(じひしん)と言いますと、「優しさ」「愛情」「情け心」などを連想しますが、その本質は、
・ 自身の心を成長させるために、
・ 苦労、災難、病気、不幸も、泣く泣く大きな愛情の中で、
・ 自分のために起こってくれる、
・ 仏様、神様、天による方便(ほうべん:仏教で、人を真の姿に導くための仮の手段)。
と考えます。

慈悲とは、4つの概念である四無量心(しむりょうしん)の内容である「慈・悲・喜・捨」(じ・ひ・き・しゃ)の内、最初の2つの文字を取って名付けられています。
四無量心は、

・「慈しみ」の心。 他人や相手の楽を望む心です。
・「悲」の心。 他者の苦を、取り除いてあげたいと思う心です。
・「喜び」の心。 他人の幸福を、自分のことのように喜ぶ心です。
・「捨」の心。 仏教では、「平静」、相手に対する平静で落ち着いた心。動揺しない落ち着いた心を指します。

この4つの心が、慈悲の意味であり、本質とされています。
この4つの心を、私達が大きくするために、苦労、災難、病気、不幸も、泣く泣く大きな愛情の中で、家庭や職場、学校の中で起こって行きます。



「慈悲心(じひしん)って何ですか? よく分からないです」
と思う人は多いです。

別の言葉では、愛情の心、同情心、情け心、と言っても良いでしょう。

仏教において慈悲心とは、他の生き物に楽を与え、他の生き物が持つ苦を取り除きたいと希望する心の働きを指します。
だから慈悲心とは、対人だけではありません。人が動物に対しても「可哀想だ」と思える心の働きです。

でも、慈悲心とは、これの先の次元の心境が在ると私は感じます。
慈悲(じひ)=自否(じひ:自分が無いということ)

つまり、慈悲心とは、
・ 相手の気持ちに成り切れる気持ち。
・ 相手の身に成ったつもりに成れる心境。
だと感じます。

だから、
・ 悲しむ相手には、自分もその悲しみの立場に成り切れる心。
・ 痛みを訴える相手には、自分も心に痛みをもって寄り添う気持ち。
・ 怒る相手には、その怒る気持ちを理解する心。

つまり、慈悲心とは、自分の自我を無くして、自分自身が鏡(カガミ)に成る心境と感じます。
どんな相手にも、その相手を自分という鏡に映してあげて、一人では無いという安心感を与える心に感じます。



どんな人類の中にも、良心・慈悲心とも呼ばれる最高神が実在することを信じるべきです。
人間に感得された、名前という「個性」を持つような存在は既に最高神では無いのです。
良心としか言うことが出来ない内在する存在が、人間や生物を「生かしめている」無名の最高神・創造神です。人間が死亡して、この存在が消えた肉体は、本当にただの肉片へと変化します。
自分の心の内在神に、日々生かされている感謝をすることが大切です。


慈悲心が幸福を呼びます 2012-12-18 11:15:14

老子様が、慈悲(じひ:情け心)の重要性を言っています。
「天界は、慈悲の心を持つ人間を、頼まれなくても陰から守護してくれる」
と老子が述べる意味は大きいです。

祈祷(きとう)や呪詛(じゅそ)、調伏(ちょうぶく)などの言葉を聞きますと、何か攻撃的なイメージを持たれるかも知れませんが、もし攻撃心を持つ人間がこのような行為をしたり、このような思いを持ちましても機能はしないのです。
そのような害する思いのパワーとは、実際には弱くて継続性が無いのです。
だから、あの上司は嫌いだ、あの人間は嫌いだなどと思っている内は、自分自身の生命力を削り取るだけであり相手は平気なのです。
つまり、他人を呪っている間は、自分自身が損をするだけです。

そうではなくて、自分の良心で判断しても相手が悪いと思いますと、その相手を気の毒な人間だと思って、その先行きを心配して上げるほうが相手に色んな気付きの現象が起こり始めます。
仏典の観音経を読みましても、観音様の偉大なパワーの源泉は
「情け心」「思いやりの心」「他を救い助けたい心」
から起動することが良く分かります。そこには他を害する心や攻撃心などは一切ありません。



釈尊は肉体の限界まで瞑想で座り続けた結果、もう身動きが出来ないまで肉体が衰弱してしまい、そのまま死を待ちました。
この時に重い牛乳を運び労働するスジャータが、木陰の下でボロ雑巾のように死にゆく釈尊を見かけました。
「ああ、死にそうな人だわ。」と思いながら通り過ぎましたが、やはり気になり引き返したのです。
なぜ彼女は引き返したのでしょうか?
これは彼女の、慈悲(じひ:情け心。愛情)の気持ちからでした。



優しさとは、思いやりの心であり、慈悲(じひ)という崇高な気持ちです。
そして、優しさを持つ人とは、最高に強い人間でもあるのです。
上記の例を見ましても、心の優しさが現実的に肉体的な強さもプレゼントしてくれます。
優しさとは、十一面観世音菩薩そのものの正体です。慈悲と憤怒の強さを兼ね備えた観音様なのです。

私たちも、自分の生活の中で優しさを意識し続けますと、自分の心に内在する観音様が発露をし始めます。どこか他所から観音様が飛んで来るのでは無いのです。
すでに自分に内在する観音様を出すことが、空海さんが仰った即身成仏(そくしんじょうぶつ)と言う、人間が“生きながら”菩薩・如来様にも成れるのです。
人間は、心の外側ばかりに良い物を探しますが、実はすでに求めるべきものが内在しているのです。あとは自分で気付く・自覚するだけです。


くやしさも楽しむ 2011-12-06 10:30:40

この世の面白いところは、悟りは無だとか、この世は1つだとか言っていましても、子供は育ちません。
しょせんは、その先生の一人遊びにすぎないのです。
大切なのは、その先に在る慈悲(じひ:情け心。思いやり。)の心を人間が持つことが、神の御心であり、如来の心境なのです。
現に私たちは、大いなる存在の「思いやり」で、地球という舞台を「与えられて」います。本当に何も無いのが世界の真相ならば、産まれるという現象は止まります。自分が存在すると言うことは、既に大いなるモノからの愛情と慈悲が存在した証拠です。

自分の慈悲心を無くすような、信仰や修行ならば直ぐに止めることです。
社会生活で苦労した先に、自然と慈悲心を持つ人がいます。
これこそ正しい信仰と修行を成し遂げた人だとも言えます。


実は見ていなかった 2011-09-13 10:02:23

幼児などは、何でもイヤイヤというものです。しかし、脳の成長と共に、イヤイヤが減ります。
実は、知性と同様に、上記のことは霊性の進歩にも言えることなのです。
釈尊には、嫌いな人間が一切いませんでした。どんな人間でも、真から愛おしかったのです。敵対する者にも、慈悲心を持っていました。
自分の霊性の進化をサニワ(判断)するポイントとして、嫌いな他人がいるかどうかの増減を自己観察するのも良いです。

感謝の先祖供養を始める前は、親に対しての許し難い感情が湧く人もいます。しかし、供養により家系の霊線(遺伝子)の浄化が進みますと、なんとなく親を許せるように成るものです。
供養が進むにつれて、自分の慈悲心(情け心)が発露を始めますと、嫌な他人を見ても冷静に相手を見ることが出来るように成ります。
その根底には、人間のサガ、仕方がなさ、さえも理解が出来る心の大きさが出て来るのです。
自分の心(内在神)が大きく成れば(発露する)、自分自身の自我が真から救われます。
自分の心が、自分自身を真から救うのが霊的な真実なのです。

ただ、この世は物質の世界(次元)です。このようなことを机上で理解していても、意味を成さないのです。
「郷に入れば郷に従え」と言うように、物質次元では行為が意味を成すのです。
今の「時間が存在する」と思える次元においては、“見えない先祖にも”線香をワザワザ用意出来る自分の慈悲心が素晴らしいのです。
その自分の慈悲心により、無意識下において自分が救われて行きます。


幸運の秘訣 2011-01-07 11:53:25

ただ、どんなテクニックを開発しようが、何を実践しようが、自分から“出す”他への「思いやり心」「情け心」「愛情を掛ける」という、自分から“与える思考”には絶対に敵いません。仏教的には、これを慈悲(じひ)の心とも言います。これは最強の心「境」です。キレイな鏡(かがみ)と自分が成ります。


反射する世界なのです 2010-11-26 11:54:20

人間は自分が他人に出した思いやりや慈悲心(じひしん:愛となさけ心)により、相手よりも自分が救われて「いる」という霊的側面があります。
他人に思いやりを向けたところで、それが相手に影響しない、理解もされない、というのが普通です。
ただ、自分がそのような気持ちを他人に持ったという事実が大切なのです。


神に何を見せるのか? 2010-08-26 11:50:37

釈尊は、宇宙は縁起(えんぎ)が反映して、必ず循環して流れて行くと言いました。
今までの人は、この解釈を間違って、過去からの反射ばかりを心配して無駄な信仰行事ばかりに金銭を費やして来ました。
済んだ過去からの反射では無く、今から良い因縁を創る視点を持ちましょう。

過去からの反射は、今する行為に比べれば、まったく大したことではありません。
今の行為に「愛情」と「思いやり」が少なければ、弱い過去の反射が大きく作用する錯覚が起こるだけです。
がんばって、今から創造して生きましょう。


今の目の前の事に感謝 2010-03-16 10:59:56

釈尊でさえも、あらゆる行を試して「それがダメだと言う事が分かった」と言っています。そして、死を意識している時に女性からの思い遣りを受けて、自身が感謝の思いに包まれた時に「落ちた」のです。


慈悲と感謝 2007-12-09 13:04:19

釈尊も、あらゆる全ての荒行や修行法(自己観察を含む)を実践してみて、それが余りにも徹底していた為に、体力を無くして死の手前まで行かれました。その時、分かった事は、宗教的な修行や苦行では、悟りを得る事は出来ない、と言う事でした。 そして、本意では無いが死を受け入れて、死を待っていた時に、見かねた他人から恵んで頂いた乳粥を食した時、その他人の 慈悲心 に心を打たれて、悟りの片鱗を観たのです。 釈尊は、他人の慈悲心を受けて、心も身体も救われたのです。


現状への感謝 2007-09-08 09:46:22

釈尊の魂は、太陽神界から来ていました。
釈尊の先祖である釈迦族は、太陽信仰の民族だったと観じます。その縁で釈尊が生誕したのです。
この太陽信仰の元は、超古代に日本から伝わったと霊視できます。  月が支配する、強いもの勝ちの世紀に、太陽神界から来られたのです。 未来への、布石の為に・・・・。
釈尊が伝えたかった事は、単純な言です。
”現状を受け入れ、感謝すること” です。

関連コメント

愛情 と 慈悲 は 同じ 意味 では 無いのですか?

。。。。。慈悲のほうが、すべてを受け入れる高度です。
2019-02-12 03:05:52


人間がいつも慈悲の視点を持つことは、やはり難しいのかな と感じることが最近ありました。供養はご先祖のためであることは勿論ですが、年数を重ねるほど慈悲心は育ち、出しやすくなるものでしょうか。あるいは個人差がありますか。

。。。誰もが自分の中から、
観世音菩薩を出せば良いのです。

私はよく、慈神、じしん。
とサインします。誰もの右胸に居ます。
2015-07-03 23:06:07


同情と慈悲の違いがよくわかりません。

。。。同情=相手と同じ目線に立ち、相手と共に迷うこと。
慈悲=相手のすべてを思いやりから俯瞰し、相手に最善の方法で見返りなしで救おうとすること。
2014-10-25 21:09:27


現実問題としてあまり慈悲深いと頼られたり、巻き込まれたりしやすくないですか?

。。。まず、慈悲を気持ちの良い、という時点で自分の自我です。
見せたい心があります。

それぞれの段階があるので、自分なりのヒントで良いです。無理は不要です。

自分が観音力を持つには、慈悲心が必須です。

「読むだけで人生が変わるたった一つの方法―伊勢白山道Q&A事典」を出来れば何度も再読してください。
まず自分の過去が分かります。
2012-12-18 12:38:48


凄い人と、凄くない人の差って何ですか?

。。。愛情力・慈悲心の大きさの違いです。
2012-06-28 14:58:25


先祖供養を継続していると人相も変わってくるとの事。耳たぶが脹らんで若干大きくなったようなきがします。どんな意味があるのでしょうか。

。。。良いことです。
慈悲心が増しています。
2012-04-21 19:11:44


『立て分け』とはどういうことが基準になって分けられて行くのでしょうか?

。。。慈悲心です。先祖の為の感謝の3本供養をしましょう。3本目で「家系」の水子を意識しましょう。応援されます。
2011-09-23 18:40:09


観音様ってなんですか?どういった存在ですか。観音様の何が良いんですか?

。。。。観音様=自分の心の慈悲心、のことです。
個人で、その心の発露具合、大きさが違います。
「だいじょうぶ!「幸せの神様」が微笑んでいる」本、「読むだけで人生が変わるたった一つの方法―伊勢白山道Q&A事典」を出来れば何回も再読してください。
2011-07-10 00:43:42


なんども、生きる限り全ての人間は先祖供養と神祭りはすべき、とハッキリ言われているのに、念のためどうしてもお聞きしたいのです。

。。。。生きる間に、慈悲心や思いやりを、見えない存在に対しても持てるのか?ということ。
社会でも陰で働く人の存在のお陰を忘れることがダメなのです。
目立つ人ばかりだと、崩壊します。
2010-12-30 23:58:06

関連項目




  • 最終更新:2021-02-15 15:01:17

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