悟り(覚者:一休)

悟り(覚者:一休)について
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一休(いっきゅう:室町時代の僧)さんというのは、アニメ漫画のキャラクターと実際は大違いで、食えない反骨の破戒僧(はかいそう:戒律も守らない破天荒な僧侶)でした。
でも、悟った経験(過去形)を持つ人であるのは、間違いがないと感じます。

(中略)

一休が悟りを得る経験を持てたのは、

・ 天皇の御落胤(ごらくいん:皇室には認知されない側室の子供だった。でも生活は保障された)だった生い立ち。

・ 頂点の世界の生活を体験した経験と、浮浪者の生活という地獄を見た経験から、コノ世の上辺と底辺、常識と非常識とウソ、を体験したこと。

(中略)

多くの人が、人生で落差体験をします。
・ 楽しい恋愛と、失恋から来る地獄。
・ 事業の成功と、その後の破産体験。
・ 夢を持った結婚と、相克(そうこく)の上での離婚。
・ 希望校への進学と、その後の落第。
人生には、様々な落差体験が有るものです。

このような落差体験を、ただ苦しいと受け止めて、自殺する人もいます。
でも、一休のような人は、そこが違ったわけです。
落差体験をした結果、

・ コノ世の、面白さ。
・ 神様が創ったコノ世の、劇場性に気付く。見る者と、見られる者。
・ コノ世の表面、社会の上っ面にダマされない、真相を見る視点。

要は、落差体験をした結果、「死にたい」では無くて、「限りなくオモシロイ」に気付けたということです。
私達は、コノ世の「苦しさ」ばかりを見ることも出来ます。
でも、そうでは無くて逆に、コノ世の生死を超えた「オモシロサ」に気付けたならば幸いです。
嬉々とした永遠性のエネルギー(神様)が分かり始めることでしょう。

永遠性に触れた体験(悟り)を持つ一休の言葉は、

・ 悟りなどない、ということを悟った。
(自慢するような「悟り」などウソであり、クソ食らえ)

・ 自心すなわち仏たることを悟れば、阿弥陀願うに及ばず。自心の外に浄土なし。
(自分の心が仏であるから、今さら阿弥陀如来に頼むことも無い。
天国は、自分の心の中に既に有り、外の世界に天国は無い)

・ 大丈夫だ、心配するな、なんとかなる。
(後世に作られた言葉の可能性を感じるが、一休の心境には合う表現)

・ 有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け。
(コノ世からアノ世に帰る旅を楽しんでいるだけさ。
だから旅の最中は、雨も降れば良いし、風も吹きたければ吹けばいいさ)



悟るためには、「人間の師は」むしろ邪魔であり、「神の恩寵」こそが絶対的な必須条件なのです。

これを念押しするために、ラマナ・マハルシは
「教え、講話、瞑想、などは二次的な援助に過ぎません」と、発言しています。
つまり、教え、講話、瞑想、・・・・このすべてが人間の師が行う行為です。
人間の師が行う「行為」を、ラマナ・マハルシは控えめに「二次的」と表現していますが、霊的真相は邪魔に成ります。むしろ個人の悟りの妨害に成ります。

これは禅におきましても、臨済宗の宗祖・臨済の発言に、
「祖に逢うては祖を殺せ」とあります。
また、一休さんも悟りを得た後に、最も悟りの邪魔をしていたのは「師の存在」だった、これでは修行者が悟ることが難しいのは当然だった、として権威への反骨行動が始まっています。



実例では、釈尊は厳しい苦行や瞑想では悟れなかったと死を覚悟した時に、働く女性からの慈悲を受けて悟りました。
一休は、自殺しようとするほど激しく悟りを求めても悟れず、自然の静かな動きを観た時に悟りに落ちました。
悟りを「求める」ことを停止した時に、今を正しく見ることが出来ます。

「衆生本来仏なり」(白隠禅師の言葉)が真実です。
自分がすでに神仏を宿す存在であるのに、いったい何に成ろうというのでしょうか?
自分が神仏ならば、他者のために喜ばれることを、後は「する」だけなのです。



  • 最終更新:2020-06-13 15:01:56

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