悟り(覚者)

■「悟り(覚者)」について
目次

全般

関連コメント

覚醒者と覚者について、ご返答ありがとうございました。恐れ入りますが関連質問をお願いします。
>「覚醒者」。。。。。一時的な悟り体験者も含む。
安定性は、完全では無い人もいます。
>「覚者」。。。。道徳観を備えた霊格であり、死後の自由性も得ている人物。稀な人物。

稀である覚者の中で、最高段階に達した方が人類共有意識に溶け込んだ19人と理解していますが、
この19人と他の覚者との「差」は何なのでしょうか?

。。。覚者、に成れる転生が、1度だけではダメなのです。
何度生まれ変わっても、どんな環境でも、新たに覚者に成る成功を果たした魂が、共有意識に入ります。
2015-08-12 15:06:05


老子

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それで良いのだ 2012-12-04 10:33:18

「神秘なる合一」=悟り、です。
老子が言うには、悟りの段階には色々と有り、最高の究極の「合一=悟り」に達すれば、逆にすべてを語ることを止めてしまうことに成ると教えています。
そして、悟ったとは言えない低級な段階の人間は、悟りの入り口の「門」を見ただけで、それについて大いに語り、人々に教えるということです。しかし、その者は何も分かっていない先生だと、老子は断言しています。

そして、これよりも更に低俗な先生は、悟りについて語りながら一般人からナゼか集金する商売にしてしまうということです。
さらに低俗な先生は、悟りをネタにしながら生徒とされる一般人の異性と、乱れた性交を繰り返すことが現代社会でも見られます。これでは人間の心境どころか、ケモノの心境です。

老子は、真に悟れば語ることを一切止めて、一般人の中に紛れて静かに生活することに必ず成ると示唆しています。


釈尊

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釈尊こそは、激しい苦行のために餓死寸前まで体験した御方です。

そして、釈尊が死を覚悟した瞬間に分かったことは、
「苦行では人間は悟れないことが分かった」
というオチでした。
なんということでしょうか。宗教的な修行の本当の価値とは、道徳を守ることや日常生活を守ることの崇高な価値に「気付くために」あるのかも知れません。

(中略)

苦行で悟れなかった釈尊を悟らせたものは、道端で餓死しつつある釈尊を見捨てることが出来なかった、働く女性から差し出された「乳がゆ」でした。
女性からの「情け」と「愛情」と「思いやり」を受けた時に、釈尊は初めて悟りました。
普通の女性が、釈尊に悟りの引導を渡したのです。

だから、普通の私たちも、他人に「情け」「愛情」「思いやり」を掛けたいものです。
その影響を受けた他人は、社会に何かをしてくれるかも知れません。
その恩恵が回りまわって、いつかは自分も社会から救われるのが因果の法則です。



神社において一番神聖な場所として、本殿の中の密封された空間を「神の間」として祭ります。
「空間が御神体」であることが、古神道の奥義に在ります。

(中略)

「空を祭る」という思想は、釈尊が悟られた「無」、空海が達した「空」の心境、ラマナ・マハルシが言う「真我」と同じことを指しています。
神社に参拝したり自宅で神祭りをすることで、日本人はその意味を知らずに、「空を祭る」という究極を日々しているのです。
上記の偉人たちの、更に上を行く究極が、何もない「空を祭る」という「行為」に存在します。



実例では、釈尊は厳しい苦行や瞑想では悟れなかったと死を覚悟した時に、働く女性からの慈悲を受けて悟りました。
一休は、自殺しようとするほど激しく悟りを求めても悟れず、自然の静かな動きを観た時に悟りに落ちました。
悟りを「求める」ことを停止した時に、今を正しく見ることが出来ます。

「衆生本来仏なり」(白隠禅師の言葉)が真実です。
自分がすでに神仏を宿す存在であるのに、いったい何に成ろうというのでしょうか?
自分が神仏ならば、他者のために喜ばれることを、後は「する」だけなのです。



女性から愛情を掛けられた釈尊は、この時にストンと覚醒へと落ちました。
釈尊が忘れていた情け心・愛情に気付かされたからです。(釈尊は求道のために、家族を捨てています。)
どんな苦行でも悟れなかったのが、愛情により目覚めたのです。
では、苦行(社会生活など)は不要でムダだったのか?
いいえ、やはり必要な過程でした。



釈尊が悟られた内容には、最新科学が近年にようやく可能性を見出した理論と同じものが幾つもあります。
釈尊いわく、
「この世のすべてのモノは、仮の姿(途中の姿)であり幻想です。
しかし、目の前のモノ(結果)は存在しているように見えます。
これは、目の前のモノと自分との“2つがそろって”初めて出現しています。
つまり、すべてのモノには実体が無く、その周りのモノとの関係性こそが、物事を出現させています。
単独では、出現が出来ないのです。」

これは現代物理学の量子力学理論そのものです。
過去の物理学は、原理原則の「結果重視」でしたが、量子力学では結果だけでは矛盾が存在し、観測者「側」の視点と影響を考え始めています。
要は、観測する視点により「結果が変わる」ことが分かり始めています。

つまり、自分のことを日々生かさせているのは、自分自身では無いのです。
自分と関係する、縁ある人々や家族・仕事・モノ・生きがい・趣味・・・・大自然・先祖・内在神・・・・なのです。
“相手が在ってこそ”、自分自身がこの世に出現しています。

だから今の自分を構成(生かす)しているのは、自分の心配な子供であったり、嫌いな旦那であったり、嫌な会社であったり、または自分が愛する人々であったりと、必ず対象が必要なのです。
一人ぐらしでも、必ず社会との関係性が必要であり、逆に言えば「関係を持つべき」なのです。
他との関係性を持つ限り、自分自身が「生かされる」のです。



釈尊が悟りに落ちた切っ掛けは、貧しくて懸命に働く女性から懸けられた「思いやり」に触れたときでした。釈尊でさえも、自分一人では悟れなかったのです。
自分の周りには、善い人も、嫌な人も、悪い人も居ることでしょう。
しかし、どんな人(家族)も自分自身が成長する為の刺激を提供してくれている人です。


近道のヒント 2009-03-17 11:38:46

釈尊は、断食と瞑想を死ぬ寸前のギリギリまでトコトン遣り抜きました。しかし、最後まで心にある宇宙と一体と成る感覚を得られませんでした。 釈尊でも瞑想修行では駄目だったのです。
修行を諦めた釈尊は既に動く体力が無く、木陰で薄れいく意識の中で静かに死が訪れるのを待っていました。
(中略)
女性の仕事は牛乳を運ぶ仕事でした。牛乳を少しでもこぼしたりすると運搬先での計量で分かり、ムチで打たれるか、または賃金が引かれました。女性は釈尊を見捨てる事が出来ずに、ムチ打ちを覚悟で釈尊に一杯の牛乳を飲ませて立ち去りました。
働く女性の慈悲に触れた釈尊は、その後にポンと内在する宇宙に溶け込みました。 その女性も、その後に絶対の安心の境地に自然と至りました。 


関連コメント

悟りを目指せば悟りから離れる。釈迦は悟りを目指して結果として悟った。どうして? 離れてるはずなのに。

。。。違いますよ。
釈尊は修行や苦行では悟れないと思い知りましたが、その時に衰弱のために死を覚悟したときに、スジャータの慈悲に触れて悟りました。
過去記事に詳細があります。
2012-01-10 00:44:14


周利槃特(シュリハンドク)



道元

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倍バイ・ゲーム 2012-06-23 10:49:37

人間は、他人を見ながら、自分の生活・人生を決めている人が多いのです。
だから、相手(環境)が変わるだけで、簡単に自分の人生がフラつきます。他人を見ながら決めるので、判断も間違うのです。
幸運な人とは、自分の良心を信じる人であり、他人への思いやり(与える視点)の視点で判断する癖を持つ人です。
この視点が、なんとなく無難へと導くのです。

「生活をしながら」自分を見詰めるとは、神様を知る一番の近道です。神様を「思い出す」ことが出来るのです。
これこそが「生きた瞑想」なのです。道元(どうげん:禅を確立した本物)さんが目指したものです。
わざわざ有料で座りに行く瞑想などは、それは死んだ瞑想であり、真の瞑想からは最も遠い行為です。
何かを目指す瞑想などは、真理の視点から大きく外れた道であり、有り得ないのです。


一休

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悟るためには、「人間の師は」むしろ邪魔であり、「神の恩寵」こそが絶対的な必須条件なのです。

これを念押しするために、ラマナ・マハルシは
「教え、講話、瞑想、などは二次的な援助に過ぎません」と、発言しています。
つまり、教え、講話、瞑想、・・・・このすべてが人間の師が行う行為です。
人間の師が行う「行為」を、ラマナ・マハルシは控えめに「二次的」と表現していますが、霊的真相は邪魔に成ります。むしろ個人の悟りの妨害に成ります。

これは禅におきましても、臨済宗の宗祖・臨済の発言に、
「祖に逢うては祖を殺せ」とあります。
また、一休さんも悟りを得た後に、最も悟りの邪魔をしていたのは「師の存在」だった、これでは修行者が悟ることが難しいのは当然だった、として権威への反骨行動が始まっています。




実例では、釈尊は厳しい苦行や瞑想では悟れなかったと死を覚悟した時に、働く女性からの慈悲を受けて悟りました。
一休は、自殺しようとするほど激しく悟りを求めても悟れず、自然の静かな動きを観た時に悟りに落ちました。
悟りを「求める」ことを停止した時に、今を正しく見ることが出来ます。

「衆生本来仏なり」(白隠禅師の言葉)が真実です。
自分がすでに神仏を宿す存在であるのに、いったい何に成ろうというのでしょうか?
自分が神仏ならば、他者のために喜ばれることを、後は「する」だけなのです。


宮沢賢治

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悟りの「後」が大事 2010-01-22 11:01:11

宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩には、本当の覚醒をした後の人間の姿が描かれていると感じます。
「日照りの時は涙を流し。寒さの夏はおろおろ歩き・・・」
これが、悟った人、覚醒した人間の姿です。
え、スーパーマンでは無い?ただのダメ親父だと?
そうです。カッコ良くは無いけれども覚醒者の行動です。
誰の為に悲しんでいるのか?なのです。
奇異な体験を覚醒体験としては生けません。奇異体験への道を覚醒への道としてはダメなのです。


ラマナ・マハルシ

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「the Master's grace」=「神の恩寵」です。
これを「a Master」=「人間の師」が必須と、集金のために曲解して来たのが今までの精神世界の本質です。
そのために、ラマナ・マハルシ以降で真に悟りを開いた人間は、どのような精神世界にも皆無です。
どんな有望な魂を預かる人間でも、師匠に仕えたために、師匠の「色」に染められたために、悟ることが出来ていません。
大切な自分オリジナルの霊性が、他人の色で染められたために隠れてしまったのです。

(中略)

ラマナ・マハルシは、悟るためには
「最も欠かせない絶対的な要素は、神の恩寵(おんちょう:祝福)なのです」
と断言しています。
ラマナ・マハルシが言う神とは、すべての人間に「内在する神」を指します。宗教も人種や民族も関係ないのです。
「内在する神は、右胸に住する」と、その場所まで発言されています。

(中略)

ラマナ・マハルシは、人間の師匠が行うような行為(問答や説教、そして瞑想)よりも、聖典や悟ったと思われる聖者の「知恵」を参考にしなさいと言っています。
あくまでも考えるのは「自分で」なのです。



悟るためには、「人間の師は」むしろ邪魔であり、「神の恩寵」こそが絶対的な必須条件なのです。

これを念押しするために、ラマナ・マハルシは
「教え、講話、瞑想、などは二次的な援助に過ぎません」と、発言しています。
つまり、教え、講話、瞑想、・・・・このすべてが人間の師が行う行為です。
人間の師が行う「行為」を、ラマナ・マハルシは控えめに「二次的」と表現していますが、霊的真相は邪魔に成ります。むしろ個人の悟りの妨害に成ります。

これは禅におきましても、臨済宗の宗祖・臨済の発言に、
「祖に逢うては祖を殺せ」とあります。
また、一休さんも悟りを得た後に、最も悟りの邪魔をしていたのは「師の存在」だった、これでは修行者が悟ることが難しいのは当然だった、として権威への反骨行動が始まっています。


スジャータ

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釈尊は肉体の限界まで瞑想で座り続けた結果、もう身動きが出来ないまで肉体が衰弱してしまい、そのまま死を待ちました。
この時に重い牛乳を運び労働するスジャータが、木陰の下でボロ雑巾のように死にゆく釈尊を見かけました。
「ああ、死にそうな人だわ。」と思いながら通り過ぎましたが、やはり気になり引き返したのです。
なぜ彼女は引き返したのでしょうか?
これは彼女の、慈悲(じひ:情け心。愛情)の気持ちからでした。

女性から愛情を掛けられた釈尊は、この時にストンと覚醒へと落ちました。
釈尊が忘れていた情け心・愛情に気付かされたからです。(釈尊は求道のために、家族を捨てています。)
どんな苦行でも悟れなかったのが、愛情により目覚めたのです。
では、苦行(社会生活など)は不要でムダだったのか?
いいえ、やはり必要な過程でした。


近道のヒント 2009-03-17 11:38:46

釈尊は、断食と瞑想を死ぬ寸前のギリギリまでトコトン遣り抜きました。しかし、最後まで心にある宇宙と一体と成る感覚を得られませんでした。 釈尊でも瞑想修行では駄目だったのです。
修行を諦めた釈尊は既に動く体力が無く、木陰で薄れいく意識の中で静かに死が訪れるのを待っていました。そこに通りがかったのが、最下層のカースト身分である働く一人の女性でした。 
女性は、ぼろぼろに痩せこけた釈尊を見て、とても可哀そうに思いました。
女性の仕事は牛乳を運ぶ仕事でした。牛乳を少しでもこぼしたりすると運搬先での計量で分かり、ムチで打たれるか、または賃金が引かれました。 
女性は釈尊を見捨てる事が出来ずに、ムチ打ちを覚悟で釈尊に一杯の牛乳を飲ませて立ち去りました。
働く女性の慈悲に触れた釈尊は、その後にポンと内在する宇宙に溶け込みました。 
その女性も、その後に絶対の安心の境地に自然と至りました。 

これは伝承とは少し違う、私の感じる女性スジャータの物語です。
普通は釈尊ばかりに注目がいきますが、私はこの女性に大いなる悟りのヒントが有ると感じます。
極端ですが、働く人から慈悲を受けると、受けた者は成仏しやすく成るのです。


関連コメント

>>働く女性から乳かゆの施しを受けて蘇生
この女性は真の修行僧ですか?

。。。有名なスジャータです。
観世音菩薩の化身です。
2015-01-10 20:58:56


スジャータについて過去に「観世音菩薩の化身」というコメントがあり、お釈迦様に乳粥を食べさせたあと姿が消えています、とあったと思いましたが、とすると「ムチ打ち覚悟」の箇所が理解できませんでした。今回の記事の言わんとすることは判るのですが、観世音菩薩の化身で後に姿も消えている霊視と、実在の人間のように語られる今回のお話とに矛盾を感じてしまいましたが、これはどう理解すれば宜しいのでしょうか?観音様の化身であっても、その時だけは下層の働く一人の女性として次元や歴史を超えて一時的に実在出来たということなのでしょうか?

・・・彼女の魂の出自が観音様でした。
生まれた限りは、最後まで人生を生きなければ生けませんね。
消えたというのは、伝承では色々と彼女のその後があるのですが、私はその様な事は無かったとし、釈尊に牛乳を与えたきりで、そのまま労働者として歴史から消えたという意味です。
2009-03-17 22:31:20


(2chログ)
「スジャータ」

・・・・・霊視しますと、観世音菩薩の化身ですね。 釈迦に乳粥を食べさせた後、姿が消えてます。
   仏典の記述は知りませんが、乳粥を食べさせた後の伝承は無いのではと感じます。 
2007-03-22 21:22:49


20141001

  • 最終更新:2016-03-28 09:46:57

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