悟り(悟るための道筋、日常生活)

悟り(悟るための道筋、日常生活)について
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日本の禅の大本山の1つである永平寺(平泉寺白山神社とも縁が深い)を開いた道元禅師(どうげんぜんじ)の言葉に、

「抜群無益」(ばつぐん むえき)

という言葉が有ります。
この言葉から感じますことは、
・ 集団から離れて逃げても、何の成長も利益も無い。
・ 嫌な群れの中に居てこそ、得るものが多い。
このように浮かびます。

ここで思い出しますことは、禅の悟りにいたる道筋を牛を題材にした十枚の絵で表した十牛図(じゅうぎゅうず)のことです。

真の悟りに至る修行は、町に、社会に、嫌な会社や家庭、他人との関係性の中に居てこそ在ると指摘します。
これは禅の十牛図の最後の十段目の「悟った後の姿」として、絵に残されています。



・ 愛情が強い人
・ 包容力が有る人
・ 慈悲(思いやり力)の有る人
この3点は、
・ 悟るためにも必須条件である。
・ 精神的な理解センスに影響する。
ということなのです。

(中略)

死にかけるほどの苦行でも悟れなかった釈尊が、
・ スジャータという女性からの「愛情」と「思いやり」を受けて、1発で悟りました。
上記の3点が、最後の最後に釈尊に不足していた点だったとも言えます。
これが以上の分析の方向性の正しさを後押ししています。


愛情力は運命を変える 2017-02-07 10:06:45

今日は詩人・教師だった宮沢賢治(菩薩の転生者)さんのことを思い出していました。
彼の短い生涯は、植物への愛情、土への愛情、大地への愛情、生徒たちへの愛情・・・・とにかく「深い愛情」から「知恵」と「悟り」を得た御方だと感じます。

彼を観ましても悟りとは、どんな道から入っても、行き着く心境は同じだと分かります。
* 主婦道も愛情を持って極めれば、必ず悟ります。

* アルバイト一筋の不安定な人生であっても、「板子一枚下は地獄」(いたごいちまいしたはじごく :船底の一枚下は、落ちれば死につながる恐ろしい海であること。ギリギリの境界を指す)
の中でも愛情を最後まで無くさずに仕事を極めれば、やはり人は悟るのです。
宗教的な修行など不要です。


悟りと願望達成について 2016-09-12 11:16:50

もし人間が、過去や未来に意識を飛ばさずに、今の現状の中に100%生きることが出来たとしたら、その時に起こる現象が「悟り」です。
これはカンナガラ(神人合一。内在神との完全同化現象)でもあります。
しかし、これが難しいのです。大半の人が目の前の作業から気が散っています。

この理論を証明するのは、一心不乱に作業に打ち込む工芸作家や職人、芸術家にも悟りの現象が「起こる」ことです。悟る「為に」と、瞑想する人には悟りは絶対に「起こりません」。

目の前の作業に無思考で集中する生活をしていますと、ある日に悟りの恩寵(おんちょう:プレゼント)が到来します。

ロシアの神秘家・グルジェフは、悟りのことを「結晶化する」と表現していました。
これは西洋からの視点であり、悟りの真相・中身・「過程」を表現する重要な表現です。
(日本ではこれを、「霊化する」と呼ぶ人もいました)



未来に幸福に成る、のでは無くて今のこの瞬間でも本当は誰もが内在神と共に生きている稀有で幸福な時間に居ることに「気付くこと」にカギが在ります。
誰の右胸にも、「生かそうとする情熱の海」=「情熱のカタマリ」=内在神、が隠れています。
自分の内在・内面へと救いを求めずに、外在するモノに救いを求めるほど、「情熱の海」は心の奥へと隠れてしまい、何をするにも不安と不満が付きまとい満足も納得も絶対にしないのが人間なのです。

人間とは、
* 自分自身を満足・納得させるために生きているのであり、
* 自分で自分自身を供養している最中が今であり、
* 自分自身を成仏させるためにコノ世に来たのです。

自分で自分を成仏させる。何と壮大なことでしょうか。
自分自身を成仏させることが可能なのは、絶対に他人では無くて、
* 自分が生きた過程と経験と生活努力の継続と、
* 自分自身が多くの他人(今生きている人も、故人も)を成仏させてあげること、
で「起こります」。

自分自身を成仏させる=悟り、でもあります。


神様には主語が無い 2014-06-15 09:45:16

これからは、瞑想などのワザワザ座る自我の行為をしなくても、生活の中で
「主語の無い生活」をすることで悟ることが可能です。
なぜならば、「主語が無い」とは究極の核心を突いていると私は感じるからです。
釈尊が仰った「無」という概念も、「主語が無い」「主語は存在しない」を理解しますと、まったく同じ境地であることが私に響きます。
「見ている者」と「見られている者」、この両者が消え去り「全体の1つ」しか存在していない核心が響いて来ます。


とにかく Doing ! 2014-05-18 10:56:59

物理学において素粒子(そりゅうし)とは、物質を構成する最小の単位のことです。この素粒子でも、色々な性質で分類がされます。
でも、素粒子を更に細かく見ますと、結局はコノ世のすべては、1つの物質・エナジーで構成されていると科学的に言えます。

ここで興味深いことは、
*自分の心が、今何を思っているのかを見ること。
*自分の生活の中で感謝をしていくこと。
*目の前の仕事を一生懸命にすること。
*自分が生かされていることに気付くこと。
*自分の「良心」が思うことを、とにかくスル(Do)こと。
*先祖(遺伝子)に感謝をすること。

このような「継続」をして行く中で、「私は誰か?」「自分は何者か?」を静観して行きます。
すると、自分、自分自身だと思っていたモノは、
「それは本当の自分では無い気がする」
「本当の自分とは、そんなモノでは無いとナントナク分かる」
「自分だと思っていた人は、本当は存在しないようだ」
「他人も、見える景色も、自分自身だと言える気がする」

更に、以上の継続をしている最中に、
「コノ世が光り輝いている気がする」
「大いなる存在が居ることも、その愛情がすべてに浸透(神道)していることが、
分かる気がする」
更に、以上の「継続」は、
「すべては1つの存在だった。1つの物質(愛情)だけで構成されていることが腑に落ちる」
ここに行き着きます。

つまり、自分の心の探求が、現代物理学と同じ答えに一致することが起こります。
本当の真理ならば、どんな側面から見ましても一致するということです。
実は以上の話は、今日の趣旨では無いのです。
上記のようなことは、悟り、覚醒、見性、・・・・などと呼ばれています。

(中略)

人は悟ることよりも、
他人に良いことをしたい。
何かで他を助けたい。
という行動・行為を期間限定の中で「自分なりにする」ことが、人が生まれて来る真の意味なのです。
たとえ行動が出来なくても、そういう「思いを持つ」だけでも重要です。

コノ世での行動・行為こそが、一時の見性体験よりも大切なのです。


それで良いのだ 2012-12-04 10:33:18

「神秘なる合一」=悟り、です。
老子が言うには、悟りの段階には色々と有り、最高の究極の「合一=悟り」に達すれば、逆にすべてを語ることを止めてしまうことに成ると教えています。

(中略)

では、なぜ悟れば、語ることを止めてしまうのでしょうか?
私の経験から説明しますと、「既に全てがOKだから」「それで良いのだ」だからです。
「今さら何を言う必要があろうか」ということが真から分かるのです。
でも、苦しい今の自分はどうすれば良いのか?もっと成長したい!と誰もが思っているものです。
しかし、真の合一の視点では、そのような色んな状態、生きていること自体が、歓喜するほど素晴らしいことであるのが分かるからなのです。
それなのに、「その上で、更にお前は何に成ろうとしているのか?」ということなのです。

人間が存在している不可思議に真から気付きますと、病気であろうが、失業しようが、独身であろうが、罵倒されようが、それは生きる間だけの些細なオプションに過ぎないことが良く分かります。
更に言えば、そのような全ての環境は、魂への有り難い刺激であるのが真相なのです。
すべての人間と生命が、既に最高に素晴らしい存在である真相が分かりますと、
「悟る必要も無かった」というオチを知るのです。だから何も言わなくなります。

だから、生かされていることに感謝しながら暮らすことが、最も聖なる生きる道なのです。
これは、悟りを超えた先に存在する「行為」なのです。



女性から愛情を掛けられた釈尊は、この時にストンと覚醒へと落ちました。
釈尊が忘れていた情け心・愛情に気付かされたからです。(釈尊は求道のために、家族を捨てています。)
どんな苦行でも悟れなかったのが、愛情により目覚めたのです。
では、苦行(社会生活など)は不要でムダだったのか?
いいえ、やはり必要な過程でした。

つまり人類には、
1.自分のために・何かのために(自分の成功のため。悟りのためなど)と行動してもがき、
2.これが苦しみの体験を生み(自我の増幅)、たとえ何かを勝ち得ても、最後まで何か不安で不満足のままであり、
3.ほんとうの最後は、他人からの慈悲・愛情により、自分自身の愛情に目覚める。
このようなパターンが在ります。


愛語(あいご) 2011-09-26 11:31:00

禅僧である良寛(りょうかん)さんの心中には、禅宗の開祖・道元(どうげん)が示された愛語(あいご)の精神が生きていました。
良寛さんは、まじめに、不器用に、愛語の精神で生きることを生涯守り、実行されました。
愛語とは、要するに自分の生活の中で、
1.他人に対しては、「良い言葉」「愛情の在る言葉」しか発しないことを、自分の修行の柱とするのです。
2.言葉にしない時は、黙って心中で他人へ「愛情のある言葉」を思うのです。
3.言葉に出来ない時は、黙って「愛情のある行動」を他人にします。
人間とは、生活の中でこれを実践するだけでも悟りが開けます。


考えるよりも、歩く実践 2010-07-17 11:35:35

自分自身が、欲しがる・避けたがる・逃げたがる・楽をしたがる、から苦しいのです。
自分から、与える・情けを掛ける・思いやる・気配りする、だけの視点で生活をすれば良いのです。
ここには、「自分の立場」と言う物が薄くなっています。つまり、自我が薄い状態です。自我が薄いとは、悟りの方向に自然と向かいます。
つまり、人間は「与える」だけの視点を持てば、悟り(解放)に至る仕組みが神様によってされています。
悟りを求めて一人何も成さずに座るだけでは、真の悟りは絶対に訪れません。
逆に言えば、真からの悟りには、自分が与えるべき他人が必要とも言えるのです。だから神様は、イザナギ・イザナミの二神の争いから始まるのです。聖書でも人類の始祖は、ダマしダマされるアダムとイブの二名です。

色々と在る家庭や社会生活こそが、自分自身に悟り(泥沼からの脱出。悩みからの解放)を提供する場所なのです。
自分の隣にいる嫌いな苦手な臭い人は、悟りの師匠かも知れませんね。まさに気付きを伝授してくれる人です。


関連コメント

人が結晶化(悟り)しますと、何が起こるのでしょうか?
(中略)
そして結晶化すると、いわゆる霊的なものはすべてできる、分かるというようになるのでしょうか?

。。。。すべての苦労や義務は、自分を結晶化させる刺激です。
ムダではないのです。
介護の苦闘も、子育ても、仕事も、すべて結晶化への刺激です。

第4の体 デヴァイン体まで結晶化が進めば、
次に、すべての苦労は、苦労のほうから離れて行く。寄り付かなくなる。

心地よい状態に居ることになる。
悟った人と、呼ばれ出す。

実践が自分に教え、先行きを導きます。

これは理屈で覚えても、まったくムダ。
体験して行くしかないこと。
だから、無理に理解は不要。
2020-01-19 20:40:56


宇宙万象3のQ33に対しての返答にありました「悟る一歩手前の経験を少なくとも三回以上の転生をコノ世で経験しないと、今生では悟れません」という文中の、「悟る一歩手前の経験」と同じと捉えても問題ないでしょうか?

。。。。どの段階の悟りなのか?
でも違います。

今生を真面目に生きれば問題はないです。
2019-01-18 11:57:04


ズバリ、リーマンさん、悟ることは大事ですか?それとも、そんなことは凡人が考える必要はないですか?

..............輪廻の繰り返しを思うと、悟りを意識した生活のほうが、来生も良い環境に生まれます。
2018-12-11 00:23:54


>結局は、自分(自我)=時間だとするのです。だから、自我(じが:ワレ良しの気持ち)とは、時間と同>じで消えて行く物、また本当には無いモノだとしたのです。
>時間も自我も、本当は無い物なのです。
-------
それなら、自我を無くそうとか「悟り」とか考えなくても、ただひたすら良心の命じるままに、自分の生活の中で自分の出来ることを一生懸命すれば良いということですね?

。。。。そうです。
今日の題名です。
2011-02-18 23:59:27



  • 最終更新:2020-01-28 22:04:34

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