悟り(悟りに至らない行為)

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日常を離れ、悟りを目指すこと

不滅の言葉 No.1 2013-07-08 10:39:00

古代からの、あらゆる聖典に
「この世界自体が神である」「世界は神の因子だけで構成されている」
という記述が見られます。
この修行者は、これを証明するために、真から知る(悟る)ために、色んな所を放浪して探して来たと言います。

私が感じますことは、
彼は、放浪するから、それが分からないのです。
彼は、それを探すから、知ることが無いのです。
彼は、そのための苦行(瞑想)をわざわざするために、理解が出来ないのです。
これが答えなのです。



過去古今東西において、「悟り」を求めて悟った人間など居ません。今後も絶対に出ません。
その理由は、悟りを求める時点で、真の悟りからは離れて「行く」からです。
悟るために、家族を犠牲にしたり、仕事を変えたり、・・・・そこに在るのは、自分の「ため」の悟りだからです。
悟るどころか、悟って自分が(我)楽になりたいという我良しが、悟りを求める時点で発生しています。



「悟り」というものを目指す限り、その人は悟りからドンドン離れます。
悟りは目指すものでは無いからです。これは幸福も同じかも知れません。
すでに自分に在る、有り難さに気付くことです。
目の前の仕事が霊的な縁として生じていますから、これに専念することが思いもよらない幸福をもたらします。

馬のように、鹿のように、馬鹿になって目の前の物事に専念しましょう。
幸福も良縁も、向こうから「来る」ものなのです。


日常の中に答えが在る 2010-07-19 11:12:57

仏教で言うところの悟りについても同じです。
悟りたいと思い、瞑想する時点で悟りから離れています。生活の中で、心が何も考えない状態に成れれば良いのです。労働の合間の、ボーとする休息時が既に瞑想です。坐禅を組まなくても、自然に体がリラックス出来る形が良いのです。つまり、人によりリラックス出来る形は変わります。


目に見える物を大切に 2010-05-29 11:55:20

*見える物事への感謝→見え無いで隠れている、それを創造させた神の世界へのアプローチ。
*見える物事の軽視→見える物を創造した神への軽視→魔界への接続。
だから家族が生活の為に働く中で、自分だけが瞑想して悟りを得る事などは無いです。必ず魔境に行く事になります。

悟りは、労働の中にこそ在ります。



人間の本当の深い悟り・目覚めとは、目を開けた状態で起こります。日常の生活の中で起こるのです。
目にするすべての中に神性を観て、自分自身も神様と既に一体だったことを思い出します。
実は瞑想などをしようと座る時点で、既に悟りの本質から外れています。その座ろうとする気持ちが、すでに自我のワナに誘導されているのです。
なんの為に自分は座るのか?自分が瞑想をしようとするのは何故なのか?をよく考えなければ生けません。
先人がしていたから。偉い人が瞑想していたから。悟りたいから。。。
これでは50年瞑想したところで、真の悟りは来ません。100%無理です。

宗教・有料先生・他人


「暗証」(あんしょう)とは、そもそも何かを辞書で検索しますと、非常に興味深いことが書いて有りました。複数の辞書をまとめますと、

暗証(あんしょう):
・ 仏教用語であり、禅語(ぜんご:禅の修行における独特な言葉)である。
・ 座禅だけをして、経典の実践や、社会への奉仕なしに、独りよがりに悟ったと自称する人間を揶揄してあざ笑う言葉が暗証。
・ 自称の、独りよがりの悟りを意味する。正しくない悟りのこと。
・ 自分の世界だけに通用する、正しくない悟りの意味が暗証。

更には、この暗証は奥深くて、
・「自分だけにしか通じない」自称の悟りを主張する人を、「暗証の禅師」(あんしょうのぜんじ)と日本では古来から言って来たのです。
今の社会でも、「暗証の禅師」が有料先生として、座禅や瞑想で稼いでいると言えます。

(中略)

日本語とは、本当に不思議な言葉です。
暗証は、「暗礁に乗り上げる」の暗礁(あんしょう:水面下に隠れている大岩)とも同じ発音です。
隠れている危険を意味する暗礁とは、座禅に隠れている、幽界へ侵入する錯覚の魔境をも暗示します。

魔境に入った体験を、素晴らしい神秘体験=悟り、だとしている有料先生や、一般人が、多く散見されます。
そういう神秘体験は、直ぐに忘れて捨てるのが最善です。
それを大事にして更に求めれば、中年以降の心身に注意です。

独りよがりに、どんな体験をしようが、それは、悟りとは関係ない。まったく意味が無いのです。



人間は、どんな仕事でも、どんな人生でも、それを突き詰めて行きますと同じ1つの境涯に達するのです。
悟りを開くためには宗教は必要ではなくて、人生を真剣に生きれば自然とアル境涯へと人間は誰でも導かれるのです。どんな仕事でも誠意を持って真剣に打ち込めば、人間は悟るのです。

(中略)

私たちも、自分なりの人生の「経過」を生きましょう。
そうすれば最後に行き着く場所は、皆んな同じなのです。だから安心しましょう。



真理とは、このようにアタリマエの前提条件として、既に生活の中に溶け込んでいる物事のことなのです。
だから、自分が深刻な病気に成らなくても気付ければ良いのです。
しかし、これが非常に難しいと老子は指摘しています。

このようなアタリマエの物事=真理に目覚めた人間は、たとえ身なりはボロでも苦しく無いのです。
病気に成っても、心は大丈夫なのです。
それ以上の歓喜を、それでも生かされていることに感じられるからです。これが悟りの最中の状態です。

このような話は、自分が体験しないことには分かりません。
他人が教えてもムダなのです。それはまた違うモノなのです。
人間一人ごとにオリジナルであり、特有であるべきことなのです。
だから真理や悟りを金銭と交換で他人に聞かせる人間が居れば、それこそ個人の悟りを妨害する人間だと思って間違いないです。迷いに誘う悪魔の任務を、結局は金のためにしています。



過去古今東西において、「悟り」を求めて悟った人間など居ません。今後も絶対に出ません。
その理由は、悟りを求める時点で、真の悟りからは離れて「行く」からです。
悟るために、家族を犠牲にしたり、仕事を変えたり、・・・・そこに在るのは、自分の「ため」の悟りだからです。
悟るどころか、悟って自分が(我)楽になりたいという我良しが、悟りを求める時点で発生しています。

(中略)

だから、これから悟ろうと思う人は、悟った後に何をするのか?何をするべきなのか?を先に考えることが大切なのです。これで目が覚めます。
悟ったと自称して、悟りをネタに集金活動するようなモノは全部100%ニセモノです。
悟りとは、他人に分けて切り売りすることなど不可能です。金銭で他人に「伝える」ことが出来るモノでも絶対にありません。
瞑想も同じです。他人から習うことでは無いのです。



浄化させると自称する行為は、霊的垢を逆に憑けて霊動(れいどう:無意識に体が動くこと)させます。これは正常な人の精神(正神:内在神)を弱めさせる危険な行為にすぎません。
また、悟りを自称する者も現実を離れた感覚を、さも崇高な体験をしたかのような幼稚な魔境を語っています。

結局は、集金をするために奇異な体験を一般人にさせる「必要があった」だけのことなのです。
現実を離れるのを良しとする時代は、もう終わりました。


相手に応じた対応を行う 2010-02-24 11:04:00

現実世界の不自由な次元にワザワザ私たちは来ているのに、見えない次元の悟りなどを商売で聞かせる人物には要注意です。一番、悟りから遠い人物です。
現実界での悟りは、現実の生活の中にこそ在ります。生活を離れては、生けません。


既に居るんですよ 2010-02-04 11:30:50

精神世界の先生の発言で1番滑稽で自身の偽者ぶりを証明している言葉があります。
「悟りましょう」「変わりましょう」「目覚めましょう」「私に会いに来なさい」「どこそこに行きなさい」。。。この様な事を言う先生の両目の奥にはが在るだけです。
今の自分の現状から「変わろうとする」限り、霊的本質から離れているのが真相です。
今の自分の現状の場以外に、悟りの場は無いのです。もう既に、自分は行くべき所に居る事を気付くべきなのです。
だから、慌てないでも良いです。



グルジェフワークとは、人間を覚醒、つまり本当の自分に出会い、自由になる為の道です。私達は、生まれてから死ぬまで、自分を取り巻く環境と流れに、ただ流されて反応する機械の様に、時間を浪費して死んで行きます。
覚醒するには、世間から隔離された環境でのどんな宗教的な修行をしても無駄であると、彼は断言します。これは、釈尊が苦行で悟りを得ることが出来なかったことと一致します。

関連コメント

涅槃=さとりを目指すなという意見がありました。カンナガラと涅槃の境地はどう違うのでしょう。

。。。目指す時点で違うということ。

現状で感謝できれば、サトリです。

「生かしていただいて ありがとうございます 」を出来れば何度も読んでください。
2011-11-05 20:34:36


仏教で無を目指したり、三昧をよいものとして修行しますが、無とは何ですか、どんな状況をさすのでしょうか?無とは魔境に入ったことを言うのですか?
よく無になって悟りを開いたとかいっている人がいるので気になっています

。。。。嘘です。魔境です。
悟りとは、現状への感謝に気付くことです。
だから白隠は、人生で300回悟ったと表現したのです。
2010-10-10 21:12:03


仏教でも他のインド哲学でも、一切皆苦、つまり凡人には苦もあり楽もあるこの現象世界も、悟った者には全て苦でしかないといわれています。

。。。魔境の悟りであり、悟ってません。


しかし私の感じるところでは、本当に悟ったならば、この世で苦と感じられるようなことも実は尊い経験であり、気づきへと導く重要な素材だということを知っているので、苦だとは思わなくなるのではないかと思うのです。
私が思う「悟る」とは、同じこの現象世界で同じ人間として同じ状況の中で生きながらも、物事の見え方が一切変わって、何ごとにも楽しく対応する、全てが一時的な仮の舞台だとわかっていながらも、今はその役になりきるフリをする、感情を感じるフリを演じきるということで、一切に関心がなくなることが無欲で悟ることではないと思うのです。
お釈迦様の説いた

。。。「一切皆苦」=一切歓喜、です。
分かりやすく言えば、一切苦だと思っていれば良いのです。嬉しい有り難いことばかりに成ります。
でも真実なんです。
2010-09-30 16:24:16


悟りを開いた後の人間はどうなるのか?
断言します。頭がおかしくなるのです。
目は虚ろで何を喋ってるのか自分でも分かっていない。廃人になります。ご注意あれ。

。。。だから、それは悟りでは無いのです。魔境に行ったのです。
2010-01-22 11:27:11



  • 最終更新:2020-11-10 21:23:43

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