悟り(全般:関連記事1)

■悟り(全般 関連記事)について
関連項目 悟り

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人間は、どんな仕事でも、どんな人生でも、それを突き詰めて行きますと同じ1つの境涯に達するのです。
悟りを開くためには宗教は必要ではなくて、人生を真剣に生きれば自然とアル境涯へと人間は誰でも導かれるのです。どんな仕事でも誠意を持って真剣に打ち込めば、人間は悟るのです。

(中略)

私たちも、自分なりの人生の「経過」を生きましょう。
そうすれば最後に行き着く場所は、皆んな同じなのです。だから安心しましょう。



そして悟りとは何か? その答えは、そのような望みや希望を持てる今の生活、不満な生活にも、生かされているからこそ味わえると「感謝が出来る心境」が1つの悟りです。
生かされている生命の原点に人間が感謝している時は、誰でも心・魂が輝いて後光が差しています。
生きる短い間に、人間は何回の感謝の思いを発することが出来るのかが大切です。
常に感謝をしていれば、後光も光背となり、その人間に常態化しています。



真理とは、このようにアタリマエの前提条件として、既に生活の中に溶け込んでいる物事のことなのです。
だから、自分が深刻な病気に成らなくても気付ければ良いのです。
しかし、これが非常に難しいと老子は指摘しています。

このようなアタリマエの物事=真理に目覚めた人間は、たとえ身なりはボロでも苦しく無いのです。
病気に成っても、心は大丈夫なのです。
それ以上の歓喜を、それでも生かされていることに感じられるからです。これが悟りの最中の状態です。

このような話は、自分が体験しないことには分かりません。
他人が教えてもムダなのです。それはまた違うモノなのです。
人間一人ごとにオリジナルであり、特有であるべきことなのです。
だから真理や悟りを金銭と交換で他人に聞かせる人間が居れば、それこそ個人の悟りを妨害する人間だと思って間違いないです。迷いに誘う悪魔の任務を、結局は金のためにしています。



老子の言葉 第四十五章

(独自の超訳)

本当に完成したモノは何時まで経っても未完成に見えますが、その働きは十分に発揮します。
(絵でも文章でも人間でも、本当は十分に完成していましても、何時まで経っても何かが不足しているように思うものです。)

本当に大きな器の人間ほど中身が空っぽに見えますが、その働きの可能性は無限にあります。

(中略)

これと同じことが人間にも言えます。
「自分なんてダメだ」「何をしても中途半端で嫌に成る」
などと私たちは誰でも思うものです。
しかし真実は、そう思えた時点で、その人間は完成「した」のです。

(中略)

私たちも、悩みながら、苦しみながら、楽しみながら、何かに不足を感じているものです。
ボロボロに成っても、生き「よう」とします。
この「途中の状態:ing」こそが、すでに完成しており、悟っているのです。
悟りが、悩みの終わりだとか、何かの区切りだと自称先生も一般人も勘違いしますが、そうでは無いのです。
常に今からだ、さあ大変だ、嬉しい、この「途中の状態」こそが生命の歓喜=涅槃(ねはん:天国)だと私は常に感じます。



過去古今東西において、「悟り」を求めて悟った人間など居ません。今後も絶対に出ません。
その理由は、悟りを求める時点で、真の悟りからは離れて「行く」からです。
悟るために、家族を犠牲にしたり、仕事を変えたり、・・・・そこに在るのは、自分の「ため」の悟りだからです。
悟るどころか、悟って自分が(我)楽になりたいという我良しが、悟りを求める時点で発生しています。

(中略)

だから、これから悟ろうと思う人は、悟った後に何をするのか?何をするべきなのか?を先に考えることが大切なのです。これで目が覚めます。
悟ったと自称して、悟りをネタに集金活動するようなモノは全部100%ニセモノです。
悟りとは、他人に分けて切り売りすることなど不可能です。金銭で他人に「伝える」ことが出来るモノでも絶対にありません。
瞑想も同じです。他人から習うことでは無いのです。
自分の生活の中にこそ、真の瞑想が在ります。

つまり、人間はどんな自分の生活の中にも、悟りも瞑想も神も仏もすでに在るのです。
何かのカタチを変えなければ、生けないとか、気付けないとか言うことはありません。
カタチを変える苦労は不要であり、今の現状の中で真の安心を誰でも得ることが可能なのです。


倍バイ・ゲーム 2012-06-23 10:49:37

人間は、他人を見ながら、自分の生活・人生を決めている人が多いのです。
だから、相手(環境)が変わるだけで、簡単に自分の人生がフラつきます。他人を見ながら決めるので、判断も間違うのです。
幸運な人とは、自分の良心を信じる人であり、他人への思いやり(与える視点)の視点で判断する癖を持つ人です。
この視点が、なんとなく無難へと導くのです。

「生活をしながら」自分を見詰めるとは、神様を知る一番の近道です。神様を「思い出す」ことが出来るのです。
これこそが「生きた瞑想」なのです。道元(どうげん:禅を確立した本物)さんが目指したものです。
わざわざ有料で座りに行く瞑想などは、それは死んだ瞑想であり、真の瞑想からは最も遠い行為です。
何かを目指す瞑想などは、真理の視点から大きく外れた道であり、有り得ないのです。
今の生活行為の中で、自分を見詰めて、現状への感謝が出来ることが「悟り」です。
だから悟るとは、心からの感謝が出来た回数でもあるのです。
ここに過去の覚者が、人生で悟った回数は数知れず、と発言した意味が在ります。



女性から愛情を掛けられた釈尊は、この時にストンと覚醒へと落ちました。
釈尊が忘れていた情け心・愛情に気付かされたからです。(釈尊は求道のために、家族を捨てています。)
どんな苦行でも悟れなかったのが、愛情により目覚めたのです。
では、苦行(社会生活など)は不要でムダだったのか?
いいえ、やはり必要な過程でした。

つまり人類には、
1.自分のために・何かのために(自分の成功のため。悟りのためなど)と行動してもがき、
2.これが苦しみの体験を生み(自我の増幅)、たとえ何かを勝ち得ても、最後まで何か不安で不満足のままであり、
3.ほんとうの最後は、他人からの慈悲・愛情により、自分自身の愛情に目覚める。
このようなパターンが在ります。


平凡とは凄いプレゼント 2012-02-26 10:36:36

やはり人間とは、現状の有り難さに気付けない、目にフタを自分でするサガを持つようです。
実際は、自分から不幸に進んだのです。
しかし、これに「も」人間は気付け無いのです。その原因を他人や運命や霊の責任に「見ようとします」。
自分を見ようとはせず、原因にまで他人を見て悩んでいます。自分のことを自覚しない限り、同じような誤ちを人は繰り返します。

釈尊はこれを、無知、無明(むみょう)と言いました。
無明とは、自分の中に明かりが無い、とも言えます。
人間は生きる限り、自分の中に明かりを求めて、その明かりで現状の有り難さ・素晴らしさを見ようとする姿勢が大切なのです。

(中略)

人間とは、現状の有り難さに気付けることが1つの悟りであります。
現状の有り難さが分からない間は、無明へと進みます。
さあ、今日も1回だけでも悟りましょうか。



偶然とは、「今の」自分の思いと行為が、明日の偶然と必然を日々形成して行くのです。未来は白紙です。
今の自分を縛る過去などは無く、「過去と未来を心配する自分自身が」自分を霊的に抑制して、今を捨てているからダメなのです。
犯人は、今の自分自身だということに気付きましょう。

だから逆に言えば、今の自分が「出来る努力をしながら」脱力(だつりょく:お任せの心境。何事にも執着しない。)をして、生かされている感謝の磁気を置いて行くことです。
そして、自分を過去の思いから解放することが、小さな解脱(げだつ)という悟りを心に刻むことに成ります。


慌てる必要が無い 2012-02-08 10:43:20

私の永い魂の視点から思い出しましても、人間とは、この不安定で見通せない世の中においてこそ、生かされている感謝に気付くことが悟りなのです。泥の中で咲く蓮華のようにです。
だから、悟るためには、この雑多な世界が逆に必要なのです。あの世で悟ることは出来ません。
この世の人生では何回も悟り、また迷い、また悟るを繰り返すものです。その内に、他人を助けたく成るのが、悟り(差を取る。他人との差が無くなる。全てとの一体感。)の中に住む御方と成ります。
そのまま死ねば、自分と似た世界へと休みに行くだけです。



「悟り」というものを目指す限り、その人は悟りからドンドン離れます。
悟りは目指すものでは無いからです。これは幸福も同じかも知れません。
すでに自分に在る、有り難さに気付くことです。
目の前の仕事が霊的な縁として生じていますから、これに専念することが思いもよらない幸福をもたらします。

馬のように、鹿のように、馬鹿になって目の前の物事に専念しましょう。
幸福も良縁も、向こうから「来る」ものなのです。


神さんが体験したかった 2011-10-06 11:25:01

鈴木大拙(すずき・だいせつ1870年―1966年) は、日本とアメリカを行き来して、日本の禅を世界的に広めた人物です。
外国人で禅に興味を持った人の大半が、大拙の英語本を読んでいると言っても過言ではありません。

(中略)

私たちは、悟りというものを、難しく考え、特別な状態を想像するかも知れません。
でも、これは違うのです。悟っても、自分の生活にも能力にも、何も変化が起こりません。
旦那の浮気を心配したり、明日の支払いに苦心したり、子供の先行きを考えたりと、人間の生活に有ることは悟った人間にも起こります。
しかし、悟った人間は、この経験さえも愛おしい貴重な「今だけの」経験であることを知っています。
神様が共に体験していることを知っているのです。


愛語(あいご) 2011-09-26 11:31:00

禅僧である良寛(りょうかん)さんの心中には、禅宗の開祖・道元(どうげん)が示された愛語(あいご)の精神が生きていました。
良寛さんは、まじめに、不器用に、愛語の精神で生きることを生涯守り、実行されました。
愛語とは、要するに自分の生活の中で、
1.他人に対しては、「良い言葉」「愛情の在る言葉」しか発しないことを、自分の修行の柱とするのです。
2.言葉にしない時は、黙って心中で他人へ「愛情のある言葉」を思うのです。
3.言葉に出来ない時は、黙って「愛情のある行動」を他人にします。
人間とは、生活の中でこれを実践するだけでも悟りが開けます。


それ、今だよ今 2011-06-23 10:08:39

この二千年間、悟り、意識の目覚め、求道、・・・などについては、多くの無数の人々が持論を述べてきました。
しかし、ではその行き着いた後は、何をするのか?については述べられていないし、注目もされてきませんでした。
登り詰めるまでの過程などは、個人的な幻想とも言えます。目に見えない過程であり、その是非もハッキリしないものです。
悟ったと自称するならば、その後に、その人がどう生きたのか?何を他人にもたらしたか?という見える実績は、誰の目にも明らかであり、比較することが可能です。
まさか、会費を集めることが覚醒者の仕事では無いのは確かです。宗教の世界でさえも、その後に何をするのか?の視点が大きく欠落しているのです。

(中略)

どんな人にでも、生きてさえいれば、必ず現状に幸福が在ります。
今の中でも幸福に気付けなければ、遠い未来でも気付けないままなのです。
現状の中の感謝すべきことに気付けることが、1つの悟りであり、この世のゴールなのです。
だから、生涯で悟ること数万回。人生のゴールを味わうことが数十万回あっても良いのです。


どんな道でも目覚めます 2011-06-03 11:24:35

「心の成長」と上記で何度も書きましたが、これは本当は正しくは無いのです。
心は成長し切った神の分神であり、すでに完全な既に悟った存在です。
だから心の成長とは、思い出すこと、どれだけ目が覚めるか、と表現するのが正しいです。
自ら目隠しをして生まれて来て、与えられた限定時間(人生)の間に、どれだけ「自分自身で」目のフタを取れるのか?
というゲームを、私たちは行っている最中なのです。
このゲームを何回生まれてでも試して来たのです。
もうそろそろ全員が目隠しを取りますよ。
これには時間感覚の変化が関係します。この物質世界を創りだしている正体は、時間だったのです。



これから、多くの人々が強い不定愁訴(ふていしゅうそ:原因不明の体の不調)に成る可能性があります。呼吸器系から始まっています。
後、数ヶ月も経過すれば具体的な色んな病名が付けられ始めるでしょう。それは、個人で違います。
人類が脱皮する前の、再誕生の苦しみかも知れません。
逆に言えば、心を成長させる大きな最期のチャンスです。
いつか必ず肉体を脱ぐ時が、誰にでも来るのです。その視点で現状を見渡せば、その現状の中にも感謝をすべき事に気付けます。
これに気付くことが悟りであり、生まれて来た大切な目的です。



今の生活行為の中で、自分を見詰めて、現状への感謝が出来ることが「悟り」です。
だから悟るとは、心からの感謝が出来た回数でもあるのです。
ここに過去の覚者が、人生で悟った回数は数知れず、と発言した意味が在ります。



この世は、今のどんな現実の中でも、感謝しながら生きることが大切です。
この不自由を体験したくて、楽しみたくて、みんな「わざわざ」生まれて来ているのです。時間限定でね。
これを幻想だとか、空だとか、悟りだとかを見る必要も、求める必要もありません。それは「死んだ」考えであり、今を懸命に生きていないのです。郷に入れば郷に従い、その中でも楽しむことが大切です。
この世で大切なことは、生きている短い時間の間に、愛情や感謝の気持ちを少しでも発露させることなのです。生きながら、死んでいてはダメです。
頑張って自分なりに生きて、楽しみましょう。



浄化させると自称する行為は、霊的垢を逆に憑けて霊動(れいどう:無意識に体が動くこと)させます。これは正常な人の精神(正神:内在神)を弱めさせる危険な行為にすぎません。
また、悟りを自称する者も現実を離れた感覚を、さも崇高な体験をしたかのような幼稚な魔境を語っています。

結局は、集金をするために奇異な体験を一般人にさせる「必要があった」だけのことなのです。
現実を離れるのを良しとする時代は、もう終わりました。


安心感は挑戦を望みます 2011-01-23 11:43:18

アノ世では、この世での「自分の行為からの反射」をひたすら繰り返し受ける時間が止まった次元(現実界の時間イメージの表現では、数年から数百年間と魂の所業によりバラバラです)を過ぎますと、次の転生(てんせい:生まれ変わり)までは絶対安心の境地の次元にすべての魂が在りました。
もう本当に絶対安心の境地です。この世の人間が、悟りだと呼んでいる状態です。



生活の中で、笑い、楽しみ、体を動かし、好きな音楽を聞き、そして「現状への感謝をする事」が出来れば、、、それは悟りです。


生まれた時点で祝福 2010-09-03 10:23:11

よく掃除された神社の参道を歩く事は、とても霊的な浄化の過程であり、すでに最高の御祓であり、とてもスピリチュアルな事なのです。
良い神社ほど参道は長いものです。ただ、ムダに歩かせている訳では無いです。
参道の正中(せいちゅう:道の真ん中)を「意識して」歩くことは、無言の教えに満ちています。釈迦が達した悟りの精神である中道(ちゅうどう:すべてに偏らず、執着しないこと)と同じ意味が在ります。
真ん中を見ながら人生を歩いて行くのが、その人にとって結局は最善であり、幸福への最短となります。
真ん中ではおもしろくないと、極端を目指すのも良いですが、それは継続はしないのです。
(参道は正中を意識しながら、参道の片側の幅の中を歩きます。正中の真上は歩きません)


日常の中に答えが在る 2010-07-19 11:12:57

仏教で言うところの悟りについても同じです。
悟りたいと思い、瞑想する時点で悟りから離れています。生活の中で、心が何も考えない状態に成れれば良いのです。労働の合間の、ボーとする休息時が既に瞑想です。坐禅を組まなくても、自然に体がリラックス出来る形が良いのです。つまり、人によりリラックス出来る形は変わります。


考えるよりも、歩く実践 2010-07-17 11:35:35

自分自身が、欲しがる・避けたがる・逃げたがる・楽をしたがる、から苦しいのです。
自分から、与える・情けを掛ける・思いやる・気配りする、だけの視点で生活をすれば良いのです。
ここには、「自分の立場」と言う物が薄くなっています。つまり、自我が薄い状態です。自我が薄いとは、悟りの方向に自然と向かいます。
つまり、人間は「与える」だけの視点を持てば、悟り(解放)に至る仕組みが神様によってされています。
悟りを求めて一人何も成さずに座るだけでは、真の悟りは絶対に訪れません。
逆に言えば、真からの悟りには、自分が与えるべき他人が必要とも言えるのです。だから神様は、イザナギ・イザナミの二神の争いから始まるのです。聖書でも人類の始祖は、ダマしダマされるアダムとイブの二名です。

色々と在る家庭や社会生活こそが、自分自身に悟り(泥沼からの脱出。悩みからの解放)を提供する場所なのです。
自分の隣にいる嫌いな苦手な臭い人は、悟りの師匠かも知れませんね。まさに気付きを伝授してくれる人です。


今すぐ達成出来ます 2010-06-06 11:42:36

自分のあの夢が叶えば、極楽な気持ちに成れるだろうと思うのは錯覚です。もし夢が叶っても、やはり次の課題を見つけて悩んでいるものなのです。
だから、とにかく「今」の自分の現状に感謝が出来れば、それで良いのです。一つの悟りです。
これは現状に満足して努力を止めると言う事では無く、今の現状にとにかく感謝をする気持ちが人生で一番大切なのです。
どんな悲惨な現状でも、生きる事が出来ていると言う視点まで降りれば、どのような人でも感謝が出来るはずです。
自分が生かされている現状に感謝をする事が出来れば、もったいない恩寵(おんちょう:プレゼント)を感じて、より前向きに明るく仕事や勉強が出来る様に成りますし、また、既に多くのものを得ている人は、他への奉仕の気持ちが芽生えます。


目に見える物を大切に 2010-05-29 11:55:20

*見える物事への感謝→見え無いで隠れている、それを創造させた神の世界へのアプローチ。
*見える物事の軽視→見える物を創造した神への軽視→魔界への接続。
だから家族が生活の為に働く中で、自分だけが瞑想して悟りを得る事などは無いです。必ず魔境に行く事になります。

悟りは、労働の中にこそ在ります。

(中略)

人生も必ず終わりが来るからこそ、密度を深める事が出来るのです。これは、現実界だけに悟りが起こる理由です。死後の悟りは無いのです。
さあ、今日も目にする全てに感謝をして生きましょう。


正しく知る 2010-05-22 11:10:50

同じ良心でも、個々の「自我レベルの良心」と、人類に共通した1つの「真我レベルの良心」が在ります。
この違いを無くして一致させる事が、人間の人生だと言えます。
これが悟りです。差を取る、のです。



人間の本当の深い悟り・目覚めとは、目を開けた状態で起こります。日常の生活の中で起こるのです。
目にするすべての中に神性を観て、自分自身も神様と既に一体だったことを思い出します。
実は瞑想などをしようと座る時点で、既に悟りの本質から外れています。その座ろうとする気持ちが、すでに自我のワナに誘導されているのです。
なんの為に自分は座るのか?自分が瞑想をしようとするのは何故なのか?をよく考えなければ生けません。
先人がしていたから。偉い人が瞑想していたから。悟りたいから。。。
これでは50年瞑想したところで、真の悟りは来ません。100%無理です。


過去の自分を救出する 2010-05-16 12:11:13

過去の自分も、今の自分も「並行して生きている」とは、不思議に思うでしょう。
でも、私の意識が異次元を観ている経験から言いますと、そうとしか言葉では表現が出来ません。
実際の宇宙も、同じく並行して空間が無限に存在して循環していると感じます。
人間の一生がすべて並行して存在するとしますと、自分の霊体はいったい何人居るのか?と思われるでしょう。
答えは、「今の自分に集約せねば成らない」と、神様は示します。
分離した状態では、ダメなのです。つまり「今に生きる」ことが出来れば、過去と今が統合されて、初めて1つ(=本当の自分)に成る(誕生)のです。
こう成りますと、悪い因果から解放されて心が自由(悟り)と成ります。
悟っても金持ちには成れませんよ、笑。肉体を持つ間は、嫌なことも病気も来ます。
ただ、現状への感謝が継続するのです。いつも内在神と一緒に居る気持ちに成ります。
すると、まあ良いでは無いですか~と生きていく事が出来るのです。


大した事は、な~い。 2010-04-23 11:12:51

実は、魂は、あの世では悟る事が出来無いのです。
悟りが起こる次元は、この現実界だけなのです。だから私たちは、自分なりのハンディを背負って、この世にチャレンジしに来るのです。
自分で選んだハンディに負けてしまう人が多いです。内在神は、欲張り過ぎたねと観ているものです。
今、苦しい人も大丈夫です。自分の可能性に賭けている最中です。 
すべては必ず終わり、変わって行きます。
生かされている原点へ感謝する事=救いが起こります。
生きてさえいれば、まだまだ私たちは大丈夫ですよ。



一人一人が、それぞれの環境の中で生きています。人間の性(サガ)として、楽しい事は早く終わり、不満は長く続く性質が在ります。
これは、この世の意味が心を成長させる事に在るからです。
枯渇状態だからこそ、いつも何かを求めるのです。
今、苦しい人や悩み多き人は、まだまだ成長できる可能性が有る人です。ひょっとしますと、悩みから悟りに至るかも知れません。だから、不満や悩みを継続している自分自身を嫌わない事です。
そういうものなのだと、思って下さい。


相手に応じた対応を行う 2010-02-24 11:04:00

現実世界の不自由な次元にワザワザ私たちは来ているのに、見えない次元の悟りなどを商売で聞かせる人物には要注意です。一番、悟りから遠い人物です。
現実界での悟りは、現実の生活の中にこそ在ります。生活を離れては、生けません。



日常生活の中で感謝が出来る事が、悟り、です。
今日も目の前の事を、して行きましょう。


既に居るんですよ 2010-02-04 11:30:50

精神世界の先生の発言で1番滑稽で自身の偽者ぶりを証明している言葉があります。
「悟りましょう」「変わりましょう」「目覚めましょう」「私に会いに来なさい」「どこそこに行きなさい」。。。この様な事を言う先生の両目の奥にはが在るだけです。
今の自分の現状から「変わろうとする」限り、霊的本質から離れているのが真相です。
今の自分の現状の場以外に、悟りの場は無いのです。もう既に、自分は行くべき所に居る事を気付くべきなのです。
だから、慌てないでも良いです。



写真は、禅の悟りの過程を10段階の絵図により表現した「十牛図」(じゅうぎゅうず)の内の最終段階の図です。最終段階の10枚目の絵は、悟りを得た後の最高の心境を現しています。入鄽垂手(にってんすいしゅ) の境地です。
この絵で大切な事は、悟りを得た修行者が着飾らずに笑みをたたえた布袋さんの姿に成って、「街へ」出ている事です。持ち物は袋1つだけです。そして大人では無く、「心が幼い」子供と遊ぶ姿だと言う事です。
これは、心が幼い未熟な人物とも、共に遊べると言う事を意味します。


今の世界を信じています 2009-10-12 12:40:31

親鸞自身は本当に、人の死後に阿弥陀仏(あみだぶつ)が現れて、仏の名前を呼んだ人の魂を救う確証が在ったのでしょうか?
彼の返事は、
1.自分は、比叡山の修行も挫折して途中で止めた落第僧です。そんな確証は何も無いのです。
ただ、自分も阿弥陀様の救いを「信じて」いるだけです。
2.自分みたいな頭が悪くて、スケベな妄想が頭から離れないで苦しんでいる僧には、何の霊力も知恵もありません。ましてや悟りなんて微塵も分かりません。チンプンカンプンです。
ただ、阿弥陀様の救いを信じているのです。


自分色を大切に 2008-12-28 13:05:26

自分自身が師匠の色に染まる事を快感に感じ、進歩だと勘違いしている求道者が多いです。
だから自分の師匠や教祖を崇拝する霊能者は「偽物」です。

その証拠に個性豊かな空海の下からは、メジャーな宗派を生み出すような教祖を輩出していません。
空海が残した霊的磁気の行法では、個人には霊的個性が強過ぎて、悟りに至る事が出来ないのです。
悟りとは、あくまでも自己の内在神との合一であり、他人は関係ない事です。


大いなる決意 2008-12-08 18:41:15

今日は釈尊が悟りを開いたとされる日を記念して成道会(じょうどうえ)の法要が各地で行われる日です。
悟りを開いた・・・私達が聞くと、何か意識が突然に変化した日なのだろうか? 見えない世界が見えた日なのだろうか?
などと想像します。 しかし残念ながら違う様です。
私が感じた様相は、釈尊が決意をされた日でした。

「この世では自分自身を信じ、自分の良心を拠り所として、他人を当てにはしないでおこう」 と決意をされた日です。


心配するな、何とかなる 2008-10-14 18:19:12

一休の興味深いエピソードは、沢山あります。
特に面白いのは、彼が本当に悟りを得たか否かを、最後まで煙に巻いた事です。
これは、私が感じるには、彼の人間への「愛情」です。
つまり、彼の弟子を始めとして禅に打ち込む人々が、自分は悟りが分からない、自分は駄目な人間だ・・・等々。
中には修行半ばで絶望して、自殺する禅僧もいました。

彼の最後の臨終時の言葉は「死にたくない」でした。
悟りを得た高僧とは到底思えない、一休らしい言葉で人生を終えています。

(中略)

彼は、間違い無く、根源存在に触れた経験があります。
真の愛情のカタマリに・・・。
人間の持つ悲しいサガを、正直に周りの人間に見せ付けながら、真の悟りの一面を世の中に残して去りました。
大いに人生を楽しまれた事でしょう。


低くて、結構。 2008-01-25 21:48:34

苦しい状況でも感謝が出来る人は、既に悟った人かも知れません。 真の宗教的な悟りとは、
「東に病気の子供あれば、行って看病してやり。 西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い。南に死にそうな人あれば行ってこわがらなくてもいいといい。北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろといい。 日照りの時は涙を流し。
寒さの夏はおろおろ歩き。 みんなにでくのぼーと呼ばれ。
褒められもせず。 苦にもされず。」 に、いつも静かに笑っている人です。 ただ、今、を懸命に生きる
人のことです。
特殊な個人の神秘体験を悟りとしては、いけません。
それは、唯の自己満足オナニーのレベルです。 意味が有りません。 禅の十牛図は、真理の一面を現しています。
個人の悟りとは、10段階の内の6番目にしか過ぎないと表現されています。
悟りの最終段階は、世間の中にまみれて、全てに感謝しながら、回りの人間と今を生きる事です。
この雑多な現実界の中で、感謝できる心は真に尊いです。


今、に溶け込む 2007-11-30 20:42:55

例えば、家庭の主婦ならば、するべき家事作業に没入して行けば、その作業の中から、悟りを得る事も十分に有り得る事です。
家庭をホッテおいて、宗教活動やヨガに精進するよりも、100倍実践的な効果をもたらします。
ましてや、とにかく生を体験している現状に、感謝が出来るとは・・・・・。


悟りのヒント 2007-10-03 18:17:48

人生の限られた時間の中で悟りを得ることは、難しいのですね。この長生きしてまで得たい、悟りとは何でしょうか?
私は、生かされていることに気付き、感謝出来ることが悟りだと、感じます。白隠さんは、悟った回数は数知れず人生で300回以上は悟ったと煙にまいたそうです。
これは、悟りの本質を旨く表現してます。
悟っては、元に戻り、悟っては、気分が落ち込み、を繰り返して進んでいくものなのです。道を歩くように。
道教では、この歩く道(タオ)の人生過程こそが、宇宙の真理であり実在だとします。 悟りながら、悩みながら、感謝しながら、歩く道が、万物を育てる根源神と同化できる唯一の手段なのです。



グルジェフワークとは、人間を覚醒、つまり本当の自分に出会い、自由になる為の道です。私達は、生まれてから死ぬまで、自分を取り巻く環境と流れに、ただ流されて反応する機械の様に、時間を浪費して死んで行きます。
覚醒するには、世間から隔離された環境でのどんな宗教的な修行をしても無駄であると、彼は断言します。これは、釈尊が苦行で悟りを得ることが出来なかったことと一致します。


20141002


  • 最終更新:2015-01-28 23:20:59

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