悟り(その他)

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1つの事でも、11段階の視点、11次元がすべてに内在することを知って置いてください。

(中略)

私は常に11段階の視点を意識しますが、普通の人は1点だけを見て追求する癖が有ることが大きな違いだと思います。

神様の視点では、悟った人の視点では、どんな答えにも、どんな生き方にも、自殺以外はすべて◎二重丸・花丸印なのです。
どんな人生でも、犯罪以外は「それで良いから」「問題はない」と成ります。
今に生きる多くの人が苦しんでいますが、高次元からの視点では誰もが既に救われているし、問題は無いのです。答えは大丈夫なのです。

ただし、その中に感謝の思いが有れば最高です。歓喜や感動も有れば、なおさら意味が増します。
今日も自分の人生を良心の中で、思いっ切り生きましょう。


生まれた時点で祝福 2010-09-03 10:23:11

よく掃除された神社の参道を歩く事は、とても霊的な浄化の過程であり、すでに最高の御祓であり、とてもスピリチュアルな事なのです。
良い神社ほど参道は長いものです。ただ、ムダに歩かせている訳では無いです。
参道の正中(せいちゅう:道の真ん中)を「意識して」歩くことは、無言の教えに満ちています。釈迦が達した悟りの精神である中道(ちゅうどう:すべてに偏らず、執着しないこと)と同じ意味が在ります。
真ん中を見ながら人生を歩いて行くのが、その人にとって結局は最善であり、幸福への最短となります。
真ん中ではおもしろくないと、極端を目指すのも良いですが、それは継続はしないのです。
(参道は正中を意識しながら、参道の片側の幅の中を歩きます。正中の真上は歩きません)



一人一人が、それぞれの環境の中で生きています。人間の性(サガ)として、楽しい事は早く終わり、不満は長く続く性質が在ります。
これは、この世の意味が心を成長させる事に在るからです。
枯渇状態だからこそ、いつも何かを求めるのです。
今、苦しい人や悩み多き人は、まだまだ成長できる可能性が有る人です。ひょっとしますと、悩みから悟りに至るかも知れません。だから、不満や悩みを継続している自分自身を嫌わない事です。
そういうものなのだと、思って下さい。


今の世界を信じています 2009-10-12 12:40:31

親鸞自身は本当に、人の死後に阿弥陀仏(あみだぶつ)が現れて、仏の名前を呼んだ人の魂を救う確証が在ったのでしょうか?
彼の返事は、
1.自分は、比叡山の修行も挫折して途中で止めた落第僧です。そんな確証は何も無いのです。
ただ、自分も阿弥陀様の救いを「信じて」いるだけです。
2.自分みたいな頭が悪くて、スケベな妄想が頭から離れないで苦しんでいる僧には、何の霊力も知恵もありません。ましてや悟りなんて微塵も分かりません。チンプンカンプンです。
ただ、阿弥陀様の救いを信じているのです。


大いなる決意 2008-12-08 18:41:15

今日は釈尊が悟りを開いたとされる日を記念して成道会(じょうどうえ)の法要が各地で行われる日です。
悟りを開いた・・・私達が聞くと、何か意識が突然に変化した日なのだろうか? 見えない世界が見えた日なのだろうか?
などと想像します。 しかし残念ながら違う様です。
私が感じた様相は、釈尊が決意をされた日でした。

「この世では自分自身を信じ、自分の良心を拠り所として、他人を当てにはしないでおこう」 と決意をされた日です。

関連コメント

北極星リーマンが北極星⇄太陽神界⇄地球を行き来往復することで、地球人類が北極星宇宙レベル覚醒や太陽神界レベルの悟り、が起きやすくするというシステムですか?そしてまた大いなる目的に幽霊界との半肉半霊ではなく神霊界との半肉半霊を起きやすくするという使命がある、そういう話がありますか?

.........あります。

ラマナ・マハルシも、自分が悟った影響は、これから悟る人が増える影響を起こすという示唆をしています。
釈尊が出た影響は、悟る人が釈尊の後に出やすくなった。ハードルが下がって行く。
2023-02-16 01:13:14


「無我夢中」という言葉があります。一つの事に執われて、周りが見えなくなってしまう・・という意味もあるようですが,これだと何だか悪いことのような感じがします。でも,自分・我を忘れるほど何かに一生懸命になれるという事は,とても貴重で素敵なことなんじゃないかなぁ?とも思います。そこで,ぜひリーマンさんのご意見をお伺いしたいです。
Q:「無我夢中」という状態について,どのように思われますか?

。。。。良心に沿った内容ならば、素晴らしいです。
悟りの心境です。

良心に反する内容に無我夢中は、ダメ。
2022-04-13 21:40:18


世の教祖様や聖者様たちは、自分は最高の悟りを得たと思って教えを垂れてると思われますが、例えば、伊勢白山道の神祀りと供養を続けてあるときそのような自覚を得た場合、それが魔境がどうか本人に識別できるでしょうか?審神者をしてくれる誰かが出現しますでしょうか。もしくは審神者を必要としないレベルの確信があるのでしょうか。本来、

自分が本当に悟ったかどうかなど他人に承認してもらう必要のないことでしょうか。
。。。。はい、これです。
2022-02-22 02:11:12


供養による成仏と悟りとは、どのように違うのでしょうか。

供養による成仏。。。縁者の供養による安心の境地。
悟りとは。。。自力での絶対安心です。上の次元です。
「だいじょうぶ!「幸せの神様」が微笑んでいる」本、「読むだけで人生が変わるたった一つの方法―伊勢白山道Q&A事典」を出来れば何回も再読してください。
2011-10-29 22:49:42


愚問かもしれませんが、お伺いしたいと思います。魂は、あの世では悟る事が出来なくて、悟りが起こる次元はこの現実界だけなのだということが昨日の記事にありました。迷っているご先祖様が、私たちの先祖供養を通じて安心した境涯になることは悟ることとは異なるのでしょうか?

。。。やはり、段階の深さの違いがあります。
もう転生しないほどの深い悟り=融合、をする悟りもあれば、時期がくれば肉体を持つ悟りもあります。
2010-04-24 23:29:48


いわゆる悟りを開くと、霊や多次元の存在も見えるようになるのだろう、と漠然と考えてきました。これにはどれほどの真実があるのでしょうか?たとえば白隠、道元、一休など禅のマスターたちや、最澄、法然、日蓮などの人物は霊が見えていたのでしょうか?

。。。見る、霊視する、にも段階があるのです。
低級霊ほど、麻薬の幻覚のような見せ方です。
見る、を一括りで理解してはダメ。
本質を見るのが高い境地。幻は、観た内にも入りません。
2010-01-12 13:19:23



  • 最終更新:2023-02-26 19:58:14

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