審神(さにわ)

■審神について
キーワード サニワ さにわ
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ただダラダラと歩くのではなく、若返るための有効手段として真剣に「明るい」気持ちで歩くことが大切です。これを通勤でも、意識します。
そして、バランス良い食事をして、生かされていることへの感謝想起をします。
このようなことでも意識して継続しますと、人間は悟ることが「突然に」「起こり」ます。
そのように人間はプログラミングされています。

問題は、このようなことを最初は意識して実行しないと、悟りは「起こりません」。
意識して継続しますと、それが無意識となり、忘れても実行している時にカンナガラ(内在神の自動運転)モードに入り、その内に悟り、見性、意識の無限性、すべては1つなる存在、というものが腑に落ちるように飛び込んで「来ます」。
近代インドの聖者ラーマクリシュナも、外を歩いている最中に、飛んでいる鳥を見た瞬間に大悟しています。一休さんも似たような瞬間に悟りに落ちています。

そして、その来たもの・「起きたこと」が正しいか否か、憑依や魔境では無いかを判断(サニワ)する特徴としましては、そのような経験を感じましても、
* それは大した事では無いこと、
* 今まで気付かなかっただけのこと、
* それよりも「何気ない今の日常生活」が二度と無い貴重なお宝であり、
* それが「神様の正体」であり、「神の姿」だったことを、
* 言語と理屈を超えて真から思い知ること。
このような特徴が言えます。


大いなる無名の功労者 2012-10-29 11:43:18

この章でのメインは、老子様が
「神というモノは名乗り出た時点で、それは神では無い」
ということを仰っています。
その意味の説明が、この章の全部を掛けてされています。
これは本当の真理だと思います。
サニワ(霊的な判断)としても、低級な存在ほど大きな神名を自称する事実があります。

ましてや人間が、私が神の化身だ、救世主だ、などと自称する者がいれば、それは笑い者(物)にしか過ぎません。
この意味では、精神世界の先生で顔を出す人間には本物はいません。それで飯を食う必要がある、他の商売に利用する必要があるから表に出るのです。今までに有名人で本物を視たことが一切ありません。
ほんとうに国を支えているのは、無名な一般人の方々が懸命に生きる努力をしている御蔭です。
悟りや目に見えない事、証明できない奇異で飯を食う人間が国民の1割にも成れば、その国は破綻するでしょう。
それを行う人間が増えれば国が滅びるような物事とは、間違った魔界の行為である証拠なのです。


実は見ていなかった 2011-09-13 10:02:23

幼児などは、何でもイヤイヤというものです。しかし、脳の成長と共に、イヤイヤが減ります。
実は、知性と同様に、上記のことは霊性の進歩にも言えることなのです。
釈尊には、嫌いな人間が一切いませんでした。どんな人間でも、真から愛おしかったのです。敵対する者にも、慈悲心を持っていました。
自分の霊性の進化をサニワ(判断)するポイントとして、嫌いな他人がいるかどうかの増減を自己観察するのも良いです。

感謝の先祖供養を始める前は、親に対しての許し難い感情が湧く人もいます。しかし、供養により家系の霊線(遺伝子)の浄化が進みますと、なんとなく親を許せるように成るものです。


「一切皆変化」 2011-09-11 10:22:23

とにかく、日本のお経は誤訳だらけであり、インドの言語の音読みを漢字にするなど、言葉の意味を成さないのが真実です。
例えば、アメリカを亜米利加と表記するのと同じです。日本では、この「亜米利加」という4文字に深い意味と「何かの見えない功徳」があるんだゾウ~と解釈を重ねているのが実情です。

だから、有料先生などが悪霊を祓うのだと自称して、お経やナントカ祝詞を血相を変えて懸命に唱えるのを見ますと、本当の魔物は口をポカーンとさせて笑っているのが霊的な実態です。自称先生の集金のためのパフォーマンスに過ぎず、霊的な効力は一切無いです。
これは、有料先生や集団がどんな滑稽な行動をするのかをサニワ(判断する)出来る視点でもあります。すべてが集金のための演技です。
悪霊が嫌がるのは、愛情であり、慈悲心であり、奉仕の心であり、・・・・「感謝の思い」、が最強の祓いを起こします。言葉では表現できない「思い」を重視なのです。
これを、それぞれの民族の分かりやすい日常言葉で思えば、強い祓いの実践が起こります。



「自分が無い信仰」を正しくしますと、宇宙法則として勝手に与えられるのです。
欲しい願望信仰が先に立ちますと、魔境に迷うだけで結果も悪いものです。
この辺りの上記の事は分かってはいるけれども、「今の自分の信仰はどうなのか?」と思う人が居ます。
この様に思える人は正しい信仰であり、上記の「観察する視点」を持ち実行している事に成ります。
動物形象に憑依された信仰は、この視点が消えます。「自分は正しい」だけに成ってしまいます。
これらの事は、古神道で言うところの自分自身で行うサニワ(正邪の判断)の一種と言えます。
絶えず自分で自分自身を観察して「サニワして行く」のが人間の人生だと言えます。


赤子は審神できます 2008-09-23 09:43:25

審神者(さにわ)とは、古代の神道の祭祀において神託を受け、神意を解釈して伝える者の事で本来はありましたが
○○○などの新興神道系が、個人の魂の「格」、背後存在のランキンク゛(分かり易く言えば)を判定する妖術の使い手、
先生を指す事に現代では使われています。

(中略)

人間に何も教えずとも数千年続く宗教は、日本の神道だけです。この奇跡を起こせるのは、神が本当に居るからです。
今日も、伊勢神宮に神は、い・ま・す。


関連コメント

今までにお会いした何人かの方で、有名無名に関わらず、もちろん人間なので、全てにおいて完璧という事ではないでしょうが、表面上、または社会的には素晴らしいということではなく、神人といってもよい域にいる方たちだと感じたことがあります。個性も状況もそれぞれ違っていましたが。その方たちは、その頃既に、神人の領域におられて、先を行っておられたのでしょうか。私も見習いたいと思います。

。。。まず、自分のサニワ・判断を過信しないこと。
あなたが、相手のどこまで分かっているのか?どこまで見ているのか?

勘違いが多いです。
他人よりも自分自身を見詰めないとダメです。
すでに他人を見ている時点で、勘違いしてます。

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するべきことが分かります。実践が教え導きます。

自分の過去を知ることから。
2014-10-01 13:22:17


まだまだ登山途中の私には「サニワ」はできませんが、『なんとなく感じるもの』『その人を包んでいるベールのようなもの色』といった感じでよろしいのでしょうか?

。。。いえ、それではサニワを間違います。
明治時代の審神も、問答という会話で相手を見分けます。
悪霊ほど良くしゃべります。自慢して、怒り、笑います。
要は、常識で素直に判断するのが無難です。
本当の審神は、相手の霊的形象を視ますが、
見れなくても、見かけの常識からの審神は8割は間違いが無いのです。

相手が変な人だと思えば、まず神霊ではありません。
正神は言挙げせず、つまり高次元ほど主張はしません。気品があります。
2014-09-25 19:15:36


20141003

  • 最終更新:2015-04-20 19:45:36

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