原始仏典:ダンマパダ(第8章)

原始仏典:ダンマパダ(第8章)について
目次

関連記事

悪い因果の本当の切り方 2014-09-07 12:08:28

戦いの場において、無数の敵に打ち勝つことよりも、

自分自身に打ち勝つ者こそが、

本当の勝利者なのです。

(原始仏典 ダンマパダ8章-103番)

(感想)
コノ世には、色々な戦いの場があります。本当の紛争地もあれば、会社内の戦いもあれば、学校でのイジメ、家庭内での逃げることが出来ない相克・・・・。
外出先で長い列を並ぶこと1つにしましても、無言の戦いが生じているかも知れません。

しかし釈尊は、どんな戦いの場にも勝利者は「いない」。
自分に打ち勝つ者こそが真の勝利者である。
と仰っています。
考えてみますと、70億人も人間がいる中で、お互いに懸命に戦う縁とは、嫌なことではありますが、海岸の砂浜で接する砂粒同士のような稀有なことです。
冷静に考えますと、こんな不思議なことは無いのです。

悪い縁ではありますが、お互いに戦いますと、勝ったところで他人を傷めた因果は残ります。
自分が負けたとしましても、それを自分が恨むようでは、やはり「いつかの時代に」「どこかの国で」再び引き合い出会う縁(重力)として継続して残ります。
誰かの段階で、このようなヤラれればヤリ返すという「悪循環」を切断しなければ生けません。

(中略)

相手を許すことで、自分の執着が切れ、自分の魂がいつか相手と逆の立場での縁を持つ機会を昇華させることに成ります。

* 表面は別として、相手を自分の心中で許すことの大切さ。
* 他人よりも、自分自身に打ち勝つ重要さ。

この二点を知っているだけでも、悪い因果を残さずに、今生も来生も変わって行きます。



自分自身に勝つということは、他の人々に勝つことよりも真に素晴らしいことなのです。

いつも自分の行いを慎み深くして、自分自身を安心させている人は、つまり人間としての最高の勝利者です。

このような真の勝利者を打ち負かすことは、神々でさえも、天の眷属神たちでも、悪魔でも、根源神でも出来ないのです。

(原始仏典 ダンマパダ8章-104番・105番)

(感想)
自分自身に勝つ=神を超える、ということを釈尊が真剣に仰っています。
なぜそう言えるのでしょうか?それは、

* この雑多な社会の「煩悩」(ぼんのう:利己的な欲望)と悪い「誘惑」に満ちた中で、
* 堕落することも、自分の自由に出来る中で、
* 必ず死ぬという、時間限定の中で、

このような中でも「自分に勝つ」ということは、すべての設定(神)を超える、負けなかった、ということなのです。
仏教では、泥の中でもキレイに咲く蓮(ハス)の花が重視されています。
ハスの花を仏の化身、宇宙そのものの化身・縮図として大切にします。
それは何故でしょうか?
泥の中でもキレイに咲くからです。

もし蓮の花が、お花畑の中で咲く花ならば、ただの花で終わっています。
泥の中でもキレイに咲く花だからこそ、仏の化身とまで崇拝されるのです。
つまり人間は、最悪の家庭の中でも、最悪の地域の中でも、最悪の国家の中でも、もし
「いつも自分の行いを慎み深くして、自分自身を安心させている人」
と成り、自分なりの花を咲かせることが出来ますと、その人は宇宙全体の化身となり得るのです。
これは神々(設定・完全法則)を超える人なのです。



自分の願い事を叶えたいがために、
人がコノ世で神様を祭って、多くの奉仕とイケニエを年中捧げたとしても、
火炎に多くの貴重品を捧げて燃やしたとしても、
それから得られる恩恵は正しい生活行為の数割にも満たない。

つまりは、祭事よりも真面目に働く人々を尊敬するほうが、その恩恵は大きいのです。

(原始仏典 ダンマパダ8章-108番)

(感想)
ここまで言いますか?ということを釈尊が仰っています。
これには、釈尊が生きた2500年前の社会事情があるようです。やはり当時でも怪しい修行者が多数もいて、真理を体感した釈尊から見ますと、ムダで幼稚な土着信仰が多かったのです。
神像の前で家畜を殺生して血を捧げたり、火炎の中に貴重な品を燃やすことで、人の願い事を叶えようとしていたのです。

修行者が幅を利かす当時の社会で、
「そんなムダなことをするよりも、真面目に働く家にいるお父さんやお母さんを尊敬するほうが、神様からの利益は大きい」
ということを街の中で触れ回っていました釈尊が、修行者たちから糾弾されていたことは無理がないことでしょう。(今の私も~笑)

(中略)

この章の釈尊の言葉を真面目に聞いて、
働く人々を尊敬して、自分も正しい生活行為を継続するならば、
その人の老後は幸福な状態に「社会的にも」成っていることは間違いがありません。
数十年後の老後が幸福に成れる信仰こそが、本当の真理に沿った正しい信仰だったという証明に成ります。
徒党を組んで自称の正しい信仰をしましても、自分の老後が不幸ならばやはり何かが変だったのです。

もし不幸ではなくても、信仰のために多くの貯金と、家族との二度と無い貴重な時間をムダに捨てていたならば、やはり死ぬまでに後悔をします。
このようなことが無いように、今日も家族の人に感謝の気持ちを送りましょう。
これが釈尊のお墨付きの本当の信仰だったのです。



お年寄りに対しまして、常に礼節を守り、大切にする人には、

四種類の恩恵が増大します。

それは、寿命と、美貌と、楽しみ事と、色々なパワーを保証するのである。

(原始仏典 ダンマパダ8章-109番)

(感想)
やはり老人だからと言って徳の無い人に対しましては、礼節を維持する気に成れない若者がいる気持ちも分かります。

ただ釈尊が、表面的で道義的な意味や比喩的な意味だけで、老人を大切にする人間には、
*自分の寿命が延びる *顔が美しくなる *自分が楽しむ対象が増える
*色々なパワーが増大する
このようなことを意味も無く保証すると言うことはありません。宇宙的な視点でも、そこには必ず霊的な意味と法則があるのです。本当に大きな反射が、親孝行からは起きるのです。

(中略)

このようなことを2500年も前に釈尊が、ここまで具体的に4点を指摘して発言している意味は大きいのです。
これは素直に聞いて置くほうがお得だと言えます。



悪い行いをしながら、心を乱しながら、百年間も生きるよりも、

善行をしながら、心を感謝で満たして安心しているほうが、たとえ短い生涯であってもお得なのです。

(原始仏典 ダンマパダ8章-110番)

(感想)
普通に考えますと、悪行をして自分の好きなことをしながら100年も長生き出来るほうが、本当はお得ではないのか?
と思う人もいるかも知れません。
ただ、これはコノ世だけで人生が本当に終わる、死後の世界は無い、という前提なのです。社会の人の大半が、この前提かも知れません。

つまり、死後の世界が有るか否か、これを信じるか否か、たったこれだけで人の人生も生き方も大きく変わるのです。

(中略)

死後も心(魂)の人生が継続するならば、やはりこの章で釈尊が言われますように、
罪を犯しながら長生きするよりも、短くても良いから善行をする人生の方が、死後の帳尻を考えれば本当にお得であり幸福であるのが真実です。

今も私たちは生きています。死ぬまで善行のチャンスが存在しています。これは本当にお得な機会なのです。
どんな人生にもムダがありません。一切の帳尻が完全に合わされます。
だから逆に安心して、自分の人生を良心(内在神)と共に今日も生きましょう。

関連コメント

比喩的な意味で老人を大切にすると文中にありますが、よく理解できません。教えていただけませんか

。。。ウソや、軽い意味で、老人を大切にとは釈尊は言いません。
本当に大きな反射が、親孝行からは起きる意味です。
2014-09-12 19:57:02


【掲載順序】本ページは「日付昇順」とします。



  • 最終更新:2020-10-16 21:01:22

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード