原始仏典:ダンマパダ(第7章)

■原始仏典:ダンマパダ(第7章)について
目次

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人生で色々な経験をする旅を自分の中で終えたと思う人は、

心配することを止め、

すべてのことにユックリとし、

色々な束縛が有っても気にすることがありません。

そういう人は、悩むことから自然と本当に解放されます。

(原始仏典 ダンマパダ7章-90番)

(感想)

この話は、まるで老人のことだと思われるかも知れません。
でも私は、たとえ若くても
「色々な経験をする旅を自分は終えた」
と真から思える若者もいると思います。実年齢ではなくて、その人の心の経験値だと思うのです。

ー中略ー

* もう心配することを止めることです。
自分が出来る努力をした上で、「成るように成る」という心境を意識します。

* もう慌てることを止めることです。
人生の結果とは、慌てて悪く成ることは有りましても、良くなることは無いということを思い知ることです。

* 色々な束縛や悩みが有りましても、自分の気を病まないことが重要です。
これが、人の運命を変えます。

ー中略ー

人間は、嫌なことを「無くそうとする」から苦しみます。
それが無くならないから自分はダメだと思い込みます。
それが有るから、すべてがダメだと感じてしまいます。
しかし、それは違うのです。
嫌なことの「存在」も認めてあげた上で、自分の良心の存在を優先して感謝する生活を実践します。
この継続は、いつの間にか悩みの存在を少なくして行きます。
そして人生を楽しむことが出来ます。


飛び立つ鳥のように 2014-08-29 11:10:54

自分の心を“無心”に安定させている人は、目の前の仕事によく集中して努力します。

そういう人は、住む環境にも左右されることがありません。

大きな白鳥が池を飛び去るように、その人は自分の家も、コノ世にさえも執着をすることなく飛び去ることが可能になります。

(原始仏典 ダンマパダ7章-91番)

(感想)
死ぬまでに心をカラ(空・無心)にする術(スベ)を身に付けた人は、色々な束縛から心が離れ、いわゆる悟りを経験します。

問題は、空海さんも目指した心を「空」にする方法です。
何も考えるな!では初めから無理です。
すると釈尊は、心を空にするには、

(1) 宗教的な苦行や行法では、空に成ることは不可能です。
仕事や生活の中での苦行以外の、悟るための苦行・行法からは一切離れなさい。
つまり、そんなことに打ち込む時点で、すでに空から離れているということです。
目の前のするべき仕事に専念しましょう。

(2) 自分自身を絶えず、何事にもニュートラル(中立・中道)に“置きなさい”。
思想も、思考も、行動も、食事も、・・・・すべてを偏(かたよ)らない「中立」に居ようとしなさい。
思想が中立とは、何事にも縛られない自由でもあります。

(3) コノ世のすべてに、生(性)老病死にも、何事にも、執着(しゅうちゃく)をしては生けない。
自分が何かに執着するぐらいならば、努力をした上で「仕方がない」と思い込むか、まだアホに成っているほうが良いのです。
釈尊は、とにかく生活努力をした上で、それに「執着するな!」と何度も述べています。
空を最後まで妨害するのは、何かに「執着をすること」なのです。

(4) 自分の生活を静観することです。
第三者の視点から、自分の良心の視点から、自分の行為と思考を静観していくことが大切です。

以上の4点、
* 目に見えない宗教的な苦行・縛りから離れて、自分の生活を努力すること。
* すべてにニュートラル(中道)を意識して、自分自身を中道に「置いて行く」こと。
* 何事にも、自分が出来る努力をした上で、執着をしないこと。
* 自分で自分自身を静観していくことです。
これらの継続した実践が自分に教え、先行きを「空」「無心」へと導くことを釈尊は示唆されています。

そして自分の心を無心に置いて生活をして行きますと、自分が住む環境からの影響にも自由に成り、最後にコノ世を離れる時も淡々と旅行に出掛けるように飛び立つことが可能に成るということです。
誰もが大きな白鳥になることが可能です。



金銭を集めることに執着をせずに、
自分が食べる食物についてはよく調べて吟味をします。

そういう人々が悟り、無心に成れた場合は、その人の運命は未知なものと成り、
その未来を知ることが出来ません。
それはまるで、大空を飛ぶ鳥の軌跡が見えないようにです。

(原始仏典 ダンマパダ7章-92番)

(感想)
金銭というものは、欲しい時には集まらない「生き物」です。
釈尊は、財産を持つな、金を儲けるな、とは仰っていません。これを誤解してはいけません。
集金団体が、「釈尊が財産を持つなと仰っている」という逆の解説をして、一般人から金銭を集めることに執着をします。これこそが大罪です。

釈尊の本意は、金が有ろうが無かろうが、そのことに「執着をするな」と言うことです。金の有無に左右されるなと言うことです。
大金持ちでも金銭に執着が無ければ、それは素晴らしいことであり、財産を保持したままでも因果を受けません。
お金が無くても、それで自分の心を傷めなければ、心が豊かな人物に成ることが可能です。

ー中略ー

そして珍しいことに、釈尊が自分の食事については良く調べて、自分なりの最善を尽くしなさいと指摘しています。
考えて見ますと、禅宗などは食事を作ること、正しく物を食べることが、重要な修行の要素に入っています。
禅宗では作務(さむ)という、農作業や清掃などの日常作業を修業として行いますが、その中でも食事を作る事、また食事を頂くことが重要な「動の瞑想」に成っています。
道元禅師も「典座教訓」(典座“てんぞ”とは禅寺において食を司る重要な役職)という本を著して食を重要視しておられます。
私も食べ物の記事やコメントをよく書いてますが、霊的な要素としても欠かせないからです。

無心に成れるためには、
* 執着を持たないこと。
* 食事を大切にすること。
この2点の継続が重要なカギに成ることを覚えて置いてください。

次に釈尊が、「無心に成れた人ほど、その人の未来は白紙になり読めません」と断言されています。



食べ物を控え目に節制して、
その人の霊的な穢(けが)れが浄化して、
その人の心が無心(空)の心境に在り続けるならば、
その人が存在した痕跡を知ることは難しく成ります。

それはまるで、大空を飛ぶ鳥の軌跡が見えないようにです。

(原始仏典 ダンマパダ7章-93番)

(感想)

自分なんて、社会の隅に目立つことも無く、今自分が消えても誰も気付かないし、誰も悲しまないだろう。
と、現代社会では思う人が多いことでしょう。
その一方で、社会の成功者が肖像画を会社に残したり、自分の銅像を多くの人々の目に触れる場所に残したりします。

では釈尊の理想とする真に悟った人とは、どちらの人物に近いのでしょうか?
「その人が存在した痕跡を知ることは難しく成ります」
と釈尊は答えています。
つまり、誰にも知られることもなく、陰でひっそりと死んで行く人の中にこそ、真に「尊い人」が存在すると仰っています。

ー中略ー

この章から私が言いたいことは、自分は一人であり、誰にも無視されているからダメだと思わないで欲しいのです。
むしろ真理の視点では、理想に近いのです。ただし、釈尊は
「その人の心が無心(空)の心境に在り続けるならば」
としています。
つまり、何事にも執着心を残さずに、コノ世の陰に居ることこそが、それが正解であり真のコノ世の勝利者なのです。



調教師が馬をうまく飼いならすように、
自分の心身の感覚を安静に維持することを心掛け、
増長しておごり高ぶることを禁止し、
心身が浄化した人間は、
神々でさえもこのような心境の人間を尊び愛します。

(原始仏典 ダンマパダ7章-94番)

(感想)
私たち人間は、電気やライフラインを使用する限りは、社会の中で生きるのがルールです。
すると、やはり人は自分自身を律することが必然なのです。
そこで釈尊は、
* 常に心身の安静を心掛けること。
* 増長・慢心することを厳禁として、謙虚さを維持すること。
* 心身を浄化する習慣を持つこと。

このように自分自身を律する人間を、神々でさえも愛する・愛おしいと思うと釈尊は言っています。

ー中略ー

自分の日常生活を、右胸に住する良心(内在神)に誰もが日々捧げて生活しているのが霊的な実態です。
自分は日々、何を捧げているのか?善悪を含めて自分を「律する」心掛けがムダでは無いことを知って置いてください。



大きな大地のように素直に成り、
隙間が無い建付けの良い門のトビラのように、全てにメリハリのあるケジメを付けていき、
澄んだ湖には汚れが無いように、

このような心境に居る人は、すでに生と死の区別(境界)が消えて生き通(とお)しに成っています。

(原始仏典 ダンマパダ7章-95番)

(感想)
(1) 大きな視野を持って、素直に成りなさい。
(2) すべてに誠意あるケジメを付けること。
(3) 澄んだ心で居なさい。
このような心境の人は、すでに死後も自由である。

と、釈尊が仰っています。
この章で注目すべきは、「生と死の区別が消える」という示唆を釈尊がしていることです。

ー中略ー

今日の章を改めて見ますと、2500年も前の釈尊の教えとは、何とシンプルで、日常生活に即したものであり、現実的であり道徳的な内容なのでしょうか。
これならば、誰でも出来ることであり、知って置いたほうが良い内容です。
このシンプルな3つで、釈尊が「生死の区別を超えられる」と保証する意味は非常に大きいのです。これこそが本当の真理なのです。
奇異な行法を神聖だと勘違いしては絶対にいけません。

社会の中での生活こそが、最も崇高な生活の場であり、最高の修行の場所なのです。
人類は、物事を難解に解釈する癖を持ち始めてから、本当に大切な心の良心を失くし始めたと感じます。



正しい知恵により一皮むけた人は、
安らぎへと帰ります。

このように安らぎへと帰ることが出来た人の心境とは静かであり、
出る言葉も静かであり、
その行為も静かである。

(原始仏典 ダンマパダ7章-96番)

(感想)
仏教では、「知恵」が湧いて来るように成れるために、
(1) 生まれながらの知能。
(2) 他人から教えられる知識。
(3) 自分自身を静観することで気付く認識。
(4) 日々の生活修行の中から得られる経験知。
この4つが総合的に合体して初めて知恵が降りて来るとしています。

では、生まれながらに(1)が無い人はもうダメなのか?それが違うのです。
自分なりの知能の中での生活から、(2)~(4)を自分なりに実践と努力をすることで、自分に合った最適な知恵が降りて来るのです。
つまり自分に合った知恵こそが最大事であり、他の立派な人の知恵は役には立たないものです。その人への知恵なのです。
他人の知恵を真似ることは参考には成りますが、啓示ですから、その人だけに降りて来る知恵が最善であるのが知恵の正体です。
自分に合わない知恵では、幸福にも安らぎの心境にも成ることは出来ません。

つまり、知恵とは「生き物」でもあります。もし、こんこんと知恵が湧く人に成れますと、ユーモアに溢れた楽しい生活に成ります。
そして、すべての物事が、静かな情熱を秘めながら安静へと向かいます。



自分以外の他の存在を頼らずに、自分の内なる大いなる存在だけを信じ、
自分の心の内に“絶対安心の境地”(ニルバーナ)が存在することを信じ、
生と死が切り替わることを恐れず、
素直に善行を行い、
自我の欲求からの行動をしない人は、

このような人こそが、最高の人間なのです。

(原始仏典 ダンマパダ7章-97番)

(感想)
(1) 自分の右胸に宿る良心(内在神であり創造神)だけを信じましょう。
(2) 自分にも「絶対安心の境地」が心中に存在することを信じましょう。
(3) 自分がコノ世に生まれること、アノ世に死んで逝くことを恐れないこと。
(4) 色々と周囲の反応を気にせずに、自分の良心が善いと思うことを「する」こと。
(5) 心中では自分の悪い欲望を想像しましても、実際の「行動」には移さないように自制すること。

釈尊は、以上のことを「目指す」人こそが、人間として既に最高の人物だと仰っていると感じます。

ー中略ー

人の魂は死後も継続しますから、いつまで経ってもゴールが存在しないのが真理なのです。
ingの最中が今も、これからも永遠に継続します。
すると上記の教訓の真相も、そういう人を自分が「目指す」ことが釈尊の真意だと感じます。
このように成って終わる、新たな心境が起こる、のでは無いのです。
未完成のままの中で、「目指すこと」こそが、今を生きることであり、大いなる魂の目的なのです。
人にはゴールも完成も無いのです。


聖地は人の心で創られる 2014-09-06 10:25:16

街であれ、森林の中であれ、土地の高い低いに関わらず、平野であっても、

心が聖なる人が住む場所こそが最高に楽しい場所と成るのです。

(原始仏典 ダンマパダ7章-98番)

(感想)
人間の幸福とは住む場所で決まるのでは無いんだよ、と釈尊が仰っています。
そして、心が聖なる人、心が清々しい人々が多く集まる場所こそが、最高に活気にあふれた「楽しい」場所に成ると指摘しています。
つまり、良い街とは、その場所が作るのではなくて、住む人々で「決まる」ということです。

ー中略ー

先ずは、今の自分の心が、親や家柄や周囲のせいで決まると思い込むのは止めましょう。
この章で釈尊は、心が聖なる人(聖人)が住む場所こそが、楽しい良い場所に成ると断言しています。
だから自分の心から、少しでも清々しい気持ちを維持することで、自分の周囲が変わって行く可能性を知って置いてください。

たとえ周囲が変わらなくても、自分の心が安静で安心していれば、どんな場所でも影響を受けることがありません。
もし、自分の心がざわつくならば、自分の心を静観して、先祖と内在神(良心)に感謝を送って見ましょう。


関連コメント

この家も聖地にできますか?

。。。出来ます。自分次第です。
生活費と家賃への感謝が大事。
外には地獄があるので注意。
2014-09-06 15:44:27


知恵がわく、ではなく、知恵が降りるとされたのはどうしてですか?

。。。霊界も含めた天からです。
2014-09-05 15:15:46


私が現在、勤めている仕事は、社会的に意義があり誇りあるものと自負していますが、世間の偏見と無知ゆえにか、蔑む人もいて評価は低いとされています。 しかしながら、自分の子供には、世間に蔑れた思いをさせたくないので、私の仕事の価値を世間に知らしめるために、今後の人生の時間を割こうとしています。そうなれば、結果的に、私の名前も有名になりますが、子孫のために、自分の名を残すのは、間違っていますか?

。。。それは良いです。大事なこと。
この記事は、自分の銅像などを残したい心境がダメという意味です。
2014-09-02 17:08:40


人間のサガ・性として、もし明るく受け止める・・・
この「人間のサガ・性」って何ですか?

。。。人間の嫌な欲のことです。
これを否定をしたところで、あるもの有るということ。
これを鎮めるには、欲を静観することが大事。
2014-08-28 23:42:21


【編集者注記】ダンマパダについての記事は「番号昇順」とします。

20150106

  • 最終更新:2015-03-31 21:44:23

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