原始仏典:ダンマパダ(第4章)

■原始仏典:ダンマパダ(第4章)について

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常に何かを学び取ろうとする人は、
その住む土地で自由になり、そして地獄界と神界とコノ世でも自在に成ることでしょう。
「原始仏典 ダンマパダ 第4章(第1節)44番」

(感想)
人はコノ世に生まれた限りは、良いことも悪いことも、何が有っても常にそこから何かを学ぼうとすれば、その人はコノ世でもアノ世でも自由に成れるだろうと釈尊が言っています。
本当の物事の善悪とは国でも人でも変わり、真に大切なことは「そこから何かを学ぼうとする姿勢」が有る限り、人間は救われて行くということです。
学問ばかりが勉強では無いのです。人生を生きることこそが、最大の学びなのです。

ー中略ー

コノ世では、痛い思いを経験してから分かったのでは遅いことが有ります。
経験する前に、想像すれば事前に分かることが多々有るのです。
釈尊は、これを知恵と言い、生きるための知恵を持つために常に学ぶ姿勢が人には大切だとこの章で仰っています。
悲劇を経験せずとも、自分に常に学ぶ姿勢が有れば回避も出来るし、もし経験しても無難にすることも可能なのです。



花職人が花だけを上手に摘み取ることが出来ますように、
学ぶ姿勢を維持する人々こそは、多くの物事の中から真理の知恵“ばかり”を
かき集めることが可能に成ることでしょう。
「原始仏典 ダンマパダ  第4章(第2節)45番」

(感想)
同じ言葉を読みましても、同じ映画を見ましても、見る人によりそこから得るもの感じるものは千差万別です。
だから本当の真理の言葉に出会いましても、それが大切だと思える人と、何とも思えない人とに分かれます。

このことを釈尊は、
* 花の職人は、「花だけ」をピンポイントで傷付けずに摘み取ることが可能である。
* 人は同じ体験をしましても、そこから何かを学ぶ姿勢を持つ者だけが、大切なエッセンスを身に付けるであろう。
と仰っています。

ー中略ー

すべての物事から何かを学び取る姿勢を維持しましょう。
そして出来れば、その中に「愛情」・「思いやり」・「情け」・「慈悲」という視点を持ちましょう。
人は自分が持っている視点の人に、その容姿も生活も環境も変化して行くのです。
そうすれば誰もが最後には、愛情深き善い人と成っています。



自分の肉体とは直ぐに消え去る泡(アワ)であることをよく自覚して、
自分が影のようなはかない存在であると真から思えたならば、
悪魔が仕向けるサガ・性という「花」のワナを自ら切断して、
死神から遠ざかる生活をすることが可能に成ります。
「原始仏典 ダンマパダ 第4章(第3節)46番」

(感想)
この章で大切なことは、
「自分とは泡のような、必ず消え去る存在であることを深く自覚したならば、
それは死神から遠ざかり逆に長生きをすることが可能に成る」
という内容です。
自分自身を病気にしている原因とは、
「自分が必ず死ぬ存在であることを忘れている」
ことだと言えるのです。
実際に、自分の死を自覚した人が奇跡的な病気の回復をすることも有ります。

ー中略ー

釈尊の教えの重要なテーマに、「明るく死を自覚して生きること」が何度も出て来ます。
これが死神・不幸を遠ざけることに成るからです。
今日も明るく、自分がいつか死ぬ存在であることを忘れずに、少しでもより良く生きて見ましょう。
時間限定ですから、死を前にすれば、どんなことも本当は大した問題では無いのです。皆さん自我(じが:ワレヨシの思い)にダマされています。
これに気付くことが、悟りとも言えます。



花のような必ず枯れて行くモノを集めるのに、人々は夢中になっています。
これを集団でしている人々の村を、大雨がさらって行くように、
必死にモノを集める人々を死が必ず連れ去って行きます。

花のような必ず枯れて行くモノを集めるのに夢中な人々は、
どんな人も自分の望みを満たさないまま、
死神がその人を必ず連れ去ります。

(原始仏典 ダンマパダ4章-47番・48番)

(感想)
「必ずいつか捨て去るモノのために、お前は何を必死になっているんだね?」
「必ず枯れて行くモノのために、自分の命を懸けるなどは本当の大バカ者だ」
という釈尊の声が聞こえて来そうです。

そして、「必ず枯れて行くモノ」への欲とは、どんなモノでも手に入る支配者でも切りが有りません。それを“集めようとする限りは”絶対に切りが無いということです。底なしなのです。
ではどうすれば良いのでしょうか?

それに夢中に成らずに、淡々と必要な分だけを集めましょう。その後はお任せで良いのです。
そして、集めるために必死にならないほど、その人から死(リスク)も遠ざかるということです。
自分なりの努力をした上での「現状が最善」であることは、どんな人にも言えまして、これは真理です。

いや、人生の中では、集めるために必死になることも経験してみたい!
これも確かに言えます。
ただし、その結果に執着をしないことが一番大切なのです。
本当に多くを集めることが出来る人とは、実は集めることに執着が無い人なのです。



他人の悪い所ばかりを見てはいけません。
他人が行ったことと、しなかったことばかりを見てはいけません。
自分自身が行ったことと、出来なかったことだけを見るようにしましょう。

(原始仏典 ダンマパダ4章-50番)

(感想)
人間とは、自分自身のこと以上に他人ばかりを見て、喜怒哀楽をしているサガ・性が有るのです。
更に言いますと、コノ世の喜怒哀楽には必ずそこには他人が居るということです。
もし、これを反転させることが出来て、他人に左右されずに自分だけを見詰めることが出来ますと、いわゆる聖者に成れる可能性が有るのです。
近代インドの真の聖者であるラマナ・マハルシにしましても、
「自分自身を見詰めなさい」というこれ1本だけで聖者に成った御方です。

2500年も前に存在した釈尊ご自身も、自燈明(じとうみょう)つまり、
「自らを灯明とし、自分の心の火だけを頼りに自分が歩く先を照らしなさい」
と発言しています。

本当に他人を見ずに、自分の心だけを静観することが出来ますと、心が真から平安に成ることが可能なのです。
他人を観察している限りは、自分の心が安定することはありません。
他人を見ないということは、決して自己中心的に成れということではありません。やはりそこは中道(ちゅうどう:バランス)の視点を自分が持ち、自分の良心から判断して自分自身を見詰めるのです。



人として生まれた限りは、
必ず死ぬということわり(理)なのだから、
多くの善いことをしてやろうではないか。
多くの花を集めて美しい花の飾りを順番に作るように。
「原始仏典 ダンマパダ 第4章(第10節)53番」


(感想)
どうせ死ぬ運命(定め)ならば、思いっ切り善いことをして、花のように散ってやろうではないか。ということです。
逆に、どうせ死ぬんだから、自分の思うようにワレヨシで生きたい、と思う人も居ることでしょう。
しかし、本当に自分が病気か何かで死に近い体験をしますと、ワレヨシ経験は間違いだったことが誰でも心底から分かるのです。それは理屈ではなくて、体験として誰もが思い知ります。

ワレヨシで生きたいと思う間は、必ず死ぬということを軽く見ているのです。
本当に死の淵(ふち)を自分で経験しますと、とても厳正で崇高な世界が本当に間近に存在していたことをリアルに思い知ります。
このときに自分のワレヨシな行為とか思いが、走馬灯のように脳裏に一瞬で走り、
「申し訳が無かった」ということが真から分かるのです。



香料の香りとは、肉体の表面的なものであって消えていくものです。
しかし、善行の行為が有る人々の香りとは内面から出ており、
その香りが尽きることがありません。
この香りは天の神々にも捧げられています。
「原始仏典 ダンマパダ 第4章(第13節)56番」

(感想)
ここで釈尊は重要なことを仰っています。
「人間の心の内面から醸(かも)しだされる香りは、普段から神界への奉納品と成っている」
つまり、人間とは生きながら、天の神々に大切なモノを納める役目があるのです。これは人間が存在する1つの理由でもあります。
神にとっても、人間が必要なのです。壮大な親子関係が存在しています。

では人間の善行では無くて悪行から出る臭いは、どこに奉納されているのでしょうか?
やはり悪魔であり地獄界に奉納されています。極端な話、人間界から悪行が無くなれば、悪魔も地獄界も存続が維持出来ないということです。エサをやっているのは、私たち人間だったのです。

人類が存続するのか自滅するのか?私たちの行い次第、自業自得だということです。ある意味では、これは完全に公平で自然なことです。
日本も道徳観の有る人間が減って行くほど犯罪が国内で増えて、自滅することに成るでしょう。

ー中略ー

「相手の匂いを視る」という習慣を覚えて置いてください。これは心の眼で観ることと成ります。
相手の表面にはダマされないで、正しい選択をさせます。
犬もふくめた動物たちは、視力が意外にも弱くて、その大半が匂いで判断しているとも言えます。
匂いからの判断は、かなり事前に色々なことを教えてくれるのです。

人間は、「匂いで判断すること」を忘れてから、第六感を失ったとも言えます。
縄文人は、風の匂いで天候を事前に知っていたと感じます。
匂いで判断する視点も知っていることは、人生に役立つことでしょう。


【編集者注記】ダンマパダについての記事は「番号昇順」とします。

20141229

  • 最終更新:2015-03-31 21:41:32

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