原始仏典:ダンマパダ(第26章)

原始仏典:ダンマパダ(第26章)について
目次

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社会で修行する人々よ。
悪い惰性があれば断ち切りなさい。
そして勇敢でありなさい。

ただし、そうするにはワレヨシな欲望が有ってはならない。
そして、すべての物事は必ず終わることも知って置くこと。
そして、天国が実在すると信じる者でいなさい。

(原始仏典 ダンマパダ26章-383)

(感想)
今の社会には、転職をするか否かで悩む人が多いです。
せっかく入った会社でも、何か辛いことが有りますと、誰でも一度は転職を考えるものです。
多くの人々は、常に転職を考えながらでも、それでもそのまま定年になるまで居ることも多いのが社会の現実です。
社会の現実は甘く無いです。

転職を夢想することが、一時の清涼剤であり、自己逃避であり、休息なのかも知れません。また、自分で夢を見ているとも言えそうです。

ー中略ー

果たして、以前の会社の辛さとは、本当に逃げるべき苦痛だったのでしょうか?
新規で一から丁稚奉公する大変さを分かっていたのでしょうか?
コノ世のすべては、自分の想定不足に注意なのです。

ー中略ー

しかし釈尊は、この項で
「勇敢でありなさい」
と仰っています。
本当に「悪い惰性があれば断ち切りなさい」とも言っています。

これを転職に置き換えますと、非常に良いヒントを釈尊は述べています。
本当に転職するには、
(1)「ワレヨシな欲望が有ってはならない」
これは逆に言えば、
「自分だけ」のことを思っての転職ならば止めてしまえ。
という示唆でもあります。

ー中略ー

ただし、どこに行きましても、コノ世では
「すべての物事は必ず終わることも知って置くこと」
つまり、
* 執着するな、
* どこでも問題は有ること
* 何でも限界があり、いずれ自分もコノ世を去る人間であることを忘れるな。

そして、
* 天国が実在すると信じる者でいなさい。
つまり、死後の世界が有る前提で生きなさい。
だから、悪い事をすれば必ず罰がある前提で居なさい。

死ねば終わり、と思う人間は悪事もしてしまう可能性が有るからです。
バレなければOK、という発想では危険なのです。
自分が植物のように、コノ世にただ生えた、と思ってはダメです。
その前の人生が有ったからこそ、心はここまで複雑なのです。

だから安心してください。
コノ世は、自分の良心(内在神)に従って生きて、感謝の気持ちを忘れなければ100%天国に行けます。



社会で修行する人々が、
* 絶え間なく心配する心を止めること。
* 物事を静観する知恵を身に付けること。

この2つのことを完全に習得したならば、
その人はすべての真相を知る人に成っていきます。
そうなりますと、その人はあらゆる意味でコノ世で完全に自由な人に成ります。

(原始仏典 ダンマパダ26章-384)

(感想)
* 心配する心を停止させること。
* 成り行きを静観することが出来ること。
この2つを身に付けるだけで、人の運命は変わる。完全に自由な人に成れる。
と釈尊は仰っています。

ー中略ー

釈尊は、この項で断言されています。
* 人間は、自分の心配心を停止させようと、意識的に努力をしなければいけない存在であること。
つまり人の心とは、放置をして置きますと、本当に際限なく心配が増大するサガなのです。
多くの人は、心配心とは自分で止めるものだ、制御をしなければいけない、ということを知らないのです。
自分の心配心を放置したままでいます。

ー中略ー

そして釈尊は、心配心を停止させる為に更には
* その流れを静観することを身に付けなさい。
としています。
ムダに心配する前に、
「先ずそれを冷静に静観しなさい」
と言っています。つまり、

(1) 自分が心配することを停止させる意志を持つこと。
(2) それ、を静観する気持ちを持つこと。
(3) 心配をすることよりも、「それ」に関する何らかの「準備と行動」を実践すること。
(4) 何も動かずに休んだ状態で心配することほど、心配心を暴走させることを知って置くこと。

この4つで、自分の心配心が引き起こす2次的な問題を防止します。
悪循環を停止させます。



アノ世であろうと、コノ世であろうと関係なく、
それどころか、
アノ世とコノ世という区別なるものが無い人。
そして何も恐れ無い人。
何の縛りも受けない人。

そういう人を、私は「最高の人」と呼びます。

(原始仏典 ダンマパダ26章-385)

(感想)
釈尊が言われるのは、「最高の人」の場合の心境です。
別に最高の人に成る必要も無いのですが、
「理想形」「本当の真相では」「真理では」「宇宙の視点」
の「答え」を知って置いた上で、普通の人であることも大切なのです。

「答え」を知った上で普通の生活をするのと、「答え」を知らずに普通に生きるのでは、やはり違うのです。
本当の答えでは、
* 区切りは無い。区切りを考えて生きるな。今だけを見て生きなさい。
* 本当は、何も恐れなくても良いのだよ。
* 何の縛りも受けないでも良い。
ということなのです。

人は、
* 今だけを見て生きること。
* 目の前だけを見ること。
が苦手なサガだと思います。それが苦しいのです。

ー中略ー

つまり、人が自分で期間を区切る時は、
* それは自分の自我(サガ・ワレヨシ)が出ていないか?
ということを忘れないでいましょう。



静かに思いを秘めながら、
良心に反する行動が無く、
常に落ち着いており、
自分のするべき仕事を頑張り、
ワレヨシな欲を捨て去り、
自分なりの高い目的に向かっている人。

そういう人を、私は「最高の人」と呼びます。

(原始仏典 ダンマパダ26章-386)

(感想)
やはり、
「黙って実行する」
「秘めた思いを持って当たる」
ということは、他人の影響を気にすることなく、自分の実力を出しやすいと思います。

また、物事を始める・挑戦する前に、アレコレと心配し過ぎる人も達成力が弱いと思います。
これは他人の生霊は関係は無いのですが、自分が心配で出す自分自身の生霊で先に疲れてしまうのです。
これを、自分の生霊の磁気(生命力)が漏れる意味で、「漏電(ろうでん)する」と私は表現しています。

何かを始める前に心配に成るのは、
* まだ準備不足
* それについての情報不足・勉強不足・想定不足
だと言えます。
過剰に心配に成る時点で、おかしいのです。変なのです。

私は初めてのことを始める前に、その件についての「想定が出来るあらゆる最悪パターン」を洗い出します。
これは心配をする漏電では無くて、前向きな準備であり、「不言実行」の一部なのです。
ただ心配する漏電とは違う、前向きで明るく秘めた心配も有ることを知って置いてください。

この項で、もう1つ光る言葉は、
「自分なりの高い目的に向かって"いる"人」
自分にとっての高い目的(夢)を持ち、それを達成するように向かって行く・ing人。
やはり、人はコノ世に生まれた限りは、「もっと良くなりたい」と頑張る姿を内在神に見せることが、
* 神様への礼儀であり
* 神様への賛歌
だと思うのです。

自分が気付けないだけで、今の自分が存在していること自体が、途方も無い数の他人や神様・先祖の苦労の御蔭なのです。
これに気付けずに、自分なんか、しょうもない人間だ、死にたい、と思う人が多いです。
しかし、これは本当に大間違いなのです。



自分が好きなモノ(人・肉体・品物・行為・嗜好・・・)への執着を少なくすることは、
社会で修行する人々にとっては、とても良いことです。

他人を非難する心が減るにつれて、自分自身の悩みが消えて行きます。

(原始仏典 ダンマパダ26章-390)

(感想)
「他人を害することは、自分を害することに必ず成る」
という真理を釈尊は述べています。
釈尊が言われた、「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)
「天上にも天下にも、自分しか存在していない」
「すべては1つしか存在していない」
「宇宙は、たった1つの存在だ」

という真理から観ましても、
「他人を害することは、自分を害する」
という、「すべては自傷行為だった」ことは言えるのです。

今が苦しい人は、自分の生活や行為の中に「自傷行為」が無いか?
をよく考えることが必要です。

自分が好きなモノ(人・肉体・品物・行為・嗜好・・・)を持つことは生きる上で良いことです。
しかし、それに縛られて(執着すること)はダメだと釈尊は言います。
それで他人を「縛ってもダメ」ということです。
そのほうが楽に生きられることに人は成るのです。
そのほうが自分が成長出来るのです。

* 自・他を非難する心を減らすこと。
* モノに縛られないように・負かされないように心掛けること。

この2点に注意する人は、必ず安心して行くことに成るという法則です。



自分の肉体、自分が発する言葉、自分の心。
この3つに対して、悪い事をさせないこと。
この3つにおいて、自制心を持つこと。

こういう人を私は最高の修行者と呼びます。

(原始仏典 ダンマパダ26章-391)

(感想)
自分の肉体・言葉・心。
この3要素が人の全てであり、重要であること。
この3つに悪事をさせないことが、コノ世での最高の修行だと釈尊は言います。

つまり、普通の会社員、学生、家庭の主婦でありましても、この3つを自制して生きる人は最高の修行をしている訳です。
だから、本当の修行とは、宗教的な行為には無いのです。

* 誘惑の多い社会の中でこそ、この3つを努力することが意味を持ちます。

ー中略ー

満たされない苦しい環境の中だからこそ、この3つが重要で有り、その人の運命を変えることが可能になります。
仏教では、蓮の花こそが最高の花であり、最高の心境を意味すると考えます。
その理由は、泥の中でこそ咲くからです。
清流の中では咲かないのです。

ー中略ー

別に修行なんかしたく無い、成長もしたく無い、と思う人が大半かも知れません。
でも、自分が必ず100%いつか死ぬ人間だと言うことを忘れないで欲しいのです。
アノ世に帰りますと、大きな修行のチャンスを捨てていたことを全員が後悔します。



「正しく」悟った覚者=仏陀が発言した真理の言葉は、
それがどんな人からの又聞きであろうとも、
それを教えてくれた人を大切にしなさい。

まるで、神官が火祭りの種火を絶やさないように大切にするようにです。

(原始仏典 ダンマパダ26章-392)

(感想)
(1) 「正しく」悟った・・・・悟りにも善悪、段階、個人差、が大きいことを釈尊が示唆しています。
釈尊が、わざわざ「正しく」と念押しをされています。
だから、良い話をする先生だからと言って、全面的に信用をしては生けません。
必ず、色々な段階と裏も有ることを認識した上で、自称の真理の言葉を見なければ生けません。

(2) そこで、もし本当に「正しい」真理の言葉に自分が出会ったならば、
* それが又聞きであっても凄い価値が有ること。
* 真理の言葉を紹介して教えくれた他人も、正しい真理と縁を持てることが出来た素晴らしい知人であること。

ー中略ー

(3) 「火祭りの種火を絶やさないように大切にする」
日本でも、千年以上も祭事場の火種を細々と維持して守る信仰の場が複数あります。
直ぐに消えてしまう火なのですが、これを大切に代々引き継ぐ伝統が日本にも有ります。
比叡山にも1200年を超える種火の継承が有ると聞きます。

つまり正しい真理の言葉とは、聞く人がいない、聞ける善い因果を持つ人がいない、と火が消えてしまうように直ぐに絶えてしまうということです。
* それを教えてくれた人も素晴らしい。
* それを素直に聞ける自分も素晴らしい。
ということです。
これが因果の視点からも言えるのです。

ー中略ー

私が感じますことは、本当に正しい真理の言葉は、コノ世的な組織や規模・金銭には無縁なモノなのです。
むしろ逆です。
本当にその言葉と、自分自身との、1対1の関係なのです。
自分が読んで胸が喜べば(内在神が反応します)良いのです。それで分かります。これが本当の個人が持つ縁であり、真理との因果関係なのです。

真理を教えてくれた知人も大切ですが、その人もコノ世の努力しだいで善にも悪にも変わって行かれます。
やはり、人は自分一人で自分自身の宇宙を完成させて行くしか無いのです。



右巻きの巻き貝のような髪型に結ぶから、その人が真の修行者なのではありません。
人の苗字が修行者の家系を意味するからと言って、その人が修行者ではありません。
生まれる家の階級によって、その人が修行者なのではありません。

真理と道徳を大切にする人は、安らかな心境の人です。
そういう人こそが、本当の修行者なのです。

(原始仏典 ダンマパダ26章-393)

(感想)
古代のインドでは如来を目指す意味で、直毛の修行者は髪全体を右巻きの貝殻のように大きく束ねていたのです。
釈尊は、「髪型を真似ても、修行者とは言えない」と仰っているわけです。

この項の釈尊の言葉を逆に読みますと、
* 人の外見を信じては生けない。
* 自分の生まれた環境など関係ないのだ。

* すべては、「今の」自分の行動で人は決まるのだ!

と示唆されています。
よく、「自分は~~が無いからダメなんだ」
と最初から諦めている人が多いです。
学歴、外見、配偶者の有無、子供の有無、財産、収入、仕事・・・・・、最初から「条件」の線引を現実問題として人はするものです。

でも、高学歴で社会的地位のある裕福な人でも、変なことをして逮捕される人は後を絶ちません。
人は、過去の実績にダマサれて、今のその人を見ないものです。
人は、他人の過去と、未来ばかり気にして、「今のその人」を正しく見ようとはしないサガが有るのです。

ー中略ー

やはり、「今の」相手の行動を冷静に見て判断することが大切なのです。

「真理と道徳を大切に“する人”は、安らかな心境の人です。」
今、真理と道徳を大切にしている・ing、ことが最大事なのです。
今を真面目に生きる人の全員が、真の修行者です。
日本には、真の修行者が多いと思います。



そこにいる愚かな人に告ぐ。
右巻きの巻き貝のような髪形の「螺髪」(らはつ)にしているからと言って、何を主張しているのか?
四足の動物の革の腰布を着けてどうするの?
修行者の衣をまとっただけで修行者になれるのか?

多くの人は、心の内側に汚物を溜めながら、外見だけを着飾ろうとします。
これは愚かな人です。

(原始仏典 ダンマパダ26章-394)

(感想)
人間は、基本的に自分の弱点・気にしている事を隠そうとするサガを持つと感じます。
他人の悪口をよく言う人は、
* 自分自身が他人から悪口を言われることを強く恐れる。
常に怒っている人は、
* 自分が怒られることを恐れ、怒られることに弱い。
* 強そうな入れ墨をするような人は、本当は心が弱い。

このように感じます。
老子が言われますように、
「すべては逆に出る」
と陰陽の法則から言えます。

逆に言いますと、
* 今が不安ならば、安心するように成る為の有り難い不安だということ。
* 今が病気ならば、体を健康に戻すための病気・現象だということ。
* 願いが叶わない場合は、もっと良い道が自分には有るからだということ。

このように思うことも人生には大切なのです。
コノ世に叶わないことが多くても、自分の心に汚物を溜めないように生きたいものです。
人は自分の環境や条件ばかりを気にします。しかし、そんなことよりも自分の心が「真っ黒」では無いか? ゴミを溜め込んでいないか? を自分で「気にすることが出来る人間」であることが大切だと釈尊は示しています。

だから自分なりで良いです。
自分の外側よりも、自分の内側を気にする人間でありましょう。



私は、高い階級の女性から生まれた人、高い階級の母親を持つ人を高位の者だと思ってはいません。
高い階級の人は、私も含めて他人を「おまえ」と呼ぶ人だと陰で言われています。
そういう人は、階級や持ち物の優劣に左右される人です。

私は、無一文であっても物にも何事にも執着をしない人こそを最高位の人間だと呼びます。

(原始仏典 ダンマパダ26章-396)

(感想)
釈尊こそは、王様の息子であり、最高の階級に生まれた人間です。
しかし、釈尊が修行者となりますと、高い階級の人は釈尊の出自を知っていても、もう「おまえ」呼ばわりをしたのでしょう。

そのような相手の階級を見て呼び方も変える人間こそが、物に負けた卑しい人間だということです。
釈尊にとっての最高位の人間とは、裕福であろうが、貧乏であろうと関係なく、
* 何事にも執着をしない人
だと、この項で指摘されています。

ただ、「何事にも執着をしない人」を、努力をしない人、努力はしなくても良い、と勘違いをしては生けません。
最高の努力、最高の修行をするが、
* その結果に囚われない人
* その結果に拘らない、気にしない人
だということです。
「結果」には、身分・階級、財産、名誉、美醜、仕事、・・・・というコノ世での結果も含まれます。

ー中略ー

今の自分の生活の中で、
* その過程や努力「する」ことを大切にし、
* その結果には、拘らない、執着しない、
という視点を覚えて置いてください。
きっと、生き生きと楽しく生きることが可能に成って行くことでしょう。



コノ世には色々な束縛があるが、それに囚われない人。
コノ世には多くの心配事があるが、それを恐れない人。
コノ世の様々なことに執着しないで、それを超越する人。

私・釈尊は、こういう人こそを最高の人間だとします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-397)

(感想)
ダメな時は、ダメな現象を冷静に静観することです。慌てて映画館(コノ世)の座席から逃げようと(自殺)しないことです。
今は、そういう映画の場面に来ているだけです。
大切なことは、淡々と自分がするべき仕事に最善を尽くしている・ingことです。
映画の展開に惑わされて、この努力を止めることが最悪なのです。

この項を見ましても、釈尊が「最高の人」「最高の修行者」と呼ぶ人には、宗教的なことは一切関係ないのです。むしろ宗教的な行為とは逆なのです。
コノ世の善悪も色情も欲望も渦巻く中だからこそ、「その中であっても」清浄に生きることに価値が有るわけです。
誘惑も無い中で清浄に生きましても、それは修行にも成長にも成り難いということです。

今の苦しい自分の悩みこそが、自分を成長させる可能性を持ちます。
悩みから逃げたいと思うからこそ、苦しくなるだけです。
逆に、現象を見てやろうと思いましょう。
すべては、必ず過ぎ去り、嫌なことも思い出に変わって行きます。

私達は、これを体験するためにアノ世から来た「旅人」であることを忘れないでください。
大きな悩みほど、旅の収穫に後から成って行くのです。


常に今から再スタート 2016-01-24 10:42:27

自分に罪が無いのに罵倒され、
殴打され、
拘束されることを耐えて、

我慢する力を持ち、
心が折れない人。

こういう人を私は「最高の人間」と呼びます。

(原始仏典 ダンマパダ26章-399)

(感想)
釈尊は、
* 怒る側の悲しい面、そうなったサガ。
* 怒られてしまう人が持つ縁。
そのすべての訳を因果の視点から慈悲・愛情で観た結果、

その上で言えることは、理不尽に怒られても、それでも
* 明るく我慢が出来る人。
* 心が折れない人。
こういう人が最高の人間だとしています。

生きていれば、色々と心配なことも、理不尽なことも、誰にでも有るものです。
これに病気も加わります。
でも、これこそがコノ世の修行として、成長のために起こってくれています。そういう仕組みに出現した世界なのです。

すべては必ず過ぎて行き、そして思い出に変わります。
誰もが必ず死ぬのですから、短い視点だけを観て悩まないことです。
まだまだ頑張りましょう。
常に今からがスタートなのが、コノ世の最高の秘密なのです。



怒らない人間。
謙虚である人間。
規則を守る人間。
欲望を増長させない人間。
身だしなみを清潔にする人間。
心身の状態を自分なりに最善にしようとする人間。

このような人を私・釈尊は、最高の人間とします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-400)

(感想)
社会であるモノが流行する現象が起こることも、同時に大勢が観察したことにより起こると言えます。
そうなりますと、釈尊のこの項の意味が大切であることが分かります。
やはり人間は、普段から理想を言い聞かせて行かないと、変な方向に進んでしまうのです。

だから量子力学的には、理想論をバカにせずに素直に読める人は大丈夫だと言えそうです。さらに言えば、
* 観察する、注視するときにどのような想像力を持って注視するのか?
* どういう理想を思いながら注視するのか、で変化の方向が変わってしまいます。

良い理想を思いながら注視することが出来れば、バス事故も幼児虐待も、地震や異常気象も、良い変化が起きると感じます。

* 運命を注意・観察することで、改善することが誰の人生にも言えるのです。

それが起きないようにする理想の防止策や、もし起きた時はどうすると良いのかの理想の対策を考えながら注視するならば、悪いことは緩和される、外国からの侵略や国内テロなども防止される可能性もあると感じます。

やはり、良い言葉を読み、
* 自分の良心(内在神)に沿って生きることが最大事。
と人間には言えるのです。
頑張りましょう。



コノ世に生きながらにして、
自分の苦しみに一切の影響を受けない人。
生きることを苦しく思う重荷から離れる人。
何事にも執着しない人。

そういう人を、私・釈尊は最高の人と呼びます。

(原始仏典 ダンマパダ26章-402)

(感想)
この項で釈尊は、まったく別の視点を苦しみに関して指摘されています。
「自分の苦しみに一切の"影響を受けない"人」
つまり、

* 生(性)老病死・・・・人間に苦しみは必ず付き物だ。それがコノ世なんだよ。
* だから、苦しみを無くそうと思うのが大きな間違いなんだ。
* 苦しみは誰にでも必ず有る。
* つまり、苦しみが有っても、その影響を受けなければ、苦しみとは無いに等しいモノなんだ。

という釈尊の思いが伝わって来ます。
そして大切なことは、
「コノ世に生きながらにして」
つまり、コノ世に居る間に、自分が元気な内に、
* 苦しみは有っても、その影響を受けない人に成れること。
が最高の人間だと釈尊は言っています。

ー中略ー

霊的な真実では、自分の心境が上がれば、そこに同じ苦しみが存在していましても、その人から本当に苦しみは消えるのです。むしろ、
* それでも有り難い
* 大いなるチャンス
* 借金を返し、幸福になるための機会

だと思え、更に心境が進めばコノ世に居ながらにして
* 絶対歓喜(ぜったい・かんき)
という、すべては有り難い黄金色、幸福の中に既に自分が存在することをコノ世に居ながらにして本当に分かるのです。いまだに苦しみの問題は存在してもです。
すべては完璧な神様の慈愛の中での出来事なのです。

ー中略ー

すべては自分の「今の」心境が、やはり明日を形成させています。
* 悩みは有っても、その影響は受けないでおこう。
* ソレからの影響を受けてたまるか!受けてやるものか!
という心の思い方を知って置いてください。
自分の明日を変えて行くことに成ります。



敵意ある人々の間に自分が居ても、自分は敵意を持たない人。
暴力を振るう人たちの中に居ても、自分は平静で居られる人。
欲望に執着する者たちと一緒に居ても、自分は執着することが無い人。

そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-406)

(感想)
どうして自分は、アノ連中に腹が立つのだろうか?
どうしてソレが気になるのだろうか?
と冷静に見ることが大切なのです。

自分の意識が高まれば、どんな中に居ましても笑っています。
もし自分が実害を受ければ、淡々と鬼のように冷静に対応すれば良いだけです。
大切な私生活の時間まで、いら立ちと心配で捨てていることこそが大損しています。

もう二度と無い家族との貴重な時間を、ムダに捨てている人が多いのです。
日々を共にする家族でありましても、毎日が一期一会です。
このことに死別してから気付きましても、その時は遅いのです。

コノ世の真相は、何でもすべてが「同調する世界」であることが真相です。
金運、結婚、職場、健康、妊娠、友達、霊、神霊・・・・コノ世のすべてが自分自身との「同調現象」で決まっているだけです。
自分が持つ振動数に合うものが、寄って来ます。自分に与えられます。

だから、自分の意識(振動数のカタマリ)を上げない限りは、ソレは自分には寄って来られないのです。定着することが出来ないのです。

ー中略ー

自分の心の振動数を上げるには、
* どんな中でも、生かされていることへの感謝をして行くこと。
* 自分の仕事を懸命に頑張ること。
* 先祖への感謝を普段の中ですることが大切です。
この実践の継続が自分に教え、すべてを変えて行きます。



鋭利な刃物の先端には、極小の植物の種も定着できずにこぼれ落ちます。

人間も、愛憎と、怒り、おごり高ぶり、ウソを言うことが、心から脱落した人。

そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-407)

(感想)
「鋭利な刃物の先端には、何も乗ることが出来ない」
これは凄い表現をされています。高い心境を言語で表現するには、これ以上の言い方は無いでしょう。

この一文を見ただけでも、釈尊が真に悟っていた御方であること、高い境地を体験しているからこそ出来る表現であることが分かります。悟りを説明するには最高の表現だと思います。

人間は心境が高まるほど、心からすべての悪い思いが去って行きます。まさに「脱落する」という言い方がドンピシャリです。古来から有名な禅僧たちが、
「心身が脱落する」
と言って来ましたが、これは比喩や大げさな言葉では無くて、本当に自分自身から心身が脱落するのです。

ー中略ー

人間の真相・秘密を言いますと、誰もが既に最高の心境を持っています、内在しています。
何事にも影響されない高い心境が自分には無くて、他から与えられなければいけないモノでは決して無いのです。
人間は、自分自身の高い心境に気付けないだけなのです。
「既に自分に在るモノに気付くこと」
これが悟りなのです。人間の真相・秘密を言いますと、誰もが既に最高の心境を持っています、内在しています。
何事にも影響されない高い心境が自分には無くて、他から与えられなければいけないモノでは決して無いのです。
人間は、自分自身の高い心境に気付けないだけなのです。
「既に自分に在るモノに気付くこと」
これが悟りなのです。



荒々しくなく、
物事を誠意を持って伝えようとするウソの無い言葉を話し、
自分の言葉により他人の気持ちを傷付けない人。

そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-408)

(感想)
誰もが必ず死んでコノ世から去ることを思いますと、釈尊の上記の言葉が重要な意味を持つことが分かります。
他人への態度は、自分自身への言葉でもあるわけです。

* 自分自身の運命を決めているのは、自分が他人へ取る対応・態度の反射だった。

ということが完全に言えることを感じます。
やはりコノ世は完璧に自業自得・因果の法則が貫徹をしています。
だから焦らずに、心配せずに、すべては自分次第であり、誰もが本当の自分(内在神)との対話・心のキャッチボールをしています。

他人への誠実は、自分自身への誠実であることを忘れずに、世間の人々の中を生きましょう。
どんな小さなこともムダではありません。
短い期間(人生)ぐらいは、我慢も苦しさも本当に良い思い出に変わることを私は思い出します。
誰もがまだまだ行けます。生けます。
行け行け、進め進め。自分の心の深奥が許すまで。


真の近道とは 2016-02-19 11:57:33

社会の中で、
何かが長じていようが、短かろうが、
何かが大きかろうが、小さかろうが、
キレイであろうが、汚かろうが、

自分に与えられたモノを大切に出来る人。

そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-409)

(感想)
この項にあります、「自分に与えられたモノを大切に出来る人」の英語の原文は、
「何でもすべて、自分に与えられていない物を、取ろうとはしない人」
が直訳に近いです。こういう人が釈尊は最高の人間だと仰っています。

* 自分に与えられたモノだけを大切にし、
* 自分に無いモノをわざわざ自ら取りに行かない人。

という意味ですが、現代人はこれを消極的で成長が無い人だと受け取るかも知れません。
でも霊的な真相は違うのです。
* 現状を大切にすることで、
* 自分の現状に感謝をすることで、
* 新規のモノのほうからやって来るのです。

新規のモノ(金・仕事・人間・健康・・・・)のほうから、自分も
「大切にされる」
「きっと大切にしてくれる人だ」
と思って波長を合わせて来てくれるのが霊的な真相なのです。

すべてのモノに波長・波動という意識(電磁波)が存在することを知って置いてください。
山・川・海・草木も波長を出しながら常に「揺れている」のが霊眼では視えています。
少ないお金にも「感謝して」使うことが、貯めることが、更なる仲間を呼ぶのが霊的には言えます。

既に自分に在るモノ、自分が既に持つモノに感謝をして行きましょう。
これがリスクが無い近道だったということです。



自我の願望をコノ世に期待せず、
アノ世にも自我の願望を望まない。
自我の欲望が消え去り、
すべての自我の欲望から自由な人間。

そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-410)

(感想)
自分の努力の実行をしない思考だけの人が、努力をする前から、
「しょせん自分はダメだ」「何をしても同じ」「何も期待しない」
と思うだけで終わっています。
* 一生懸命な行動が無いのです。

そうでは無くて、本当に自分の最大の行動と努力を人がした時、明るく欲望も願望も消えて行きます。
中途半端な努力では、欲望は残り続けます。

* 結果だけを求める人は、コノ世では生きることが苦しく成っていくものです。

* 経験すること、過程を大切にする人は、悪い結果でもコノ世が楽しく成って行き、幸運のほうから寄って来る人に成ります。

人間は、生きているだけでも有り難い、という真理が本当に分かり始めますと、どんな結果も明るく受け入れて、何でも明るく頑張り続けることが可能に成ります。

もう疲れた、もう嫌になった、と思う人は、まだまだ自分の自我の欲望が強い人です。
これでは「諦めた」と自分で言いながらも、死んでも死に切れない執着が強くて成仏は出来ません。

自我の欲望が脱落するまで「自分なりに」出来る努力をすることに、新しい境地の世界が待っています。



何事にも、こだわらない人。
悟りたいという思いも終わっている人。
物事に疑惑を持たず、有りのままを見る人。
生死という心配も超えた人。

そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-411)

(感想)
この項の釈尊の言葉も、上記の最高の人間と私たちとの違いは、
* コノ世のあらゆることに執着をしない努力をしたこと。
* 悟りを求めて苦労した上で、悟りを開き、そして悟りをも捨てたこと。
* 何事にも疑問を持つ視点から、有りのままを見て受け入れる心境に至ったこと。
* 生死を心配する心境を超えて、死の恐怖を超えたこと。

という求道の有無、経験の有無、だけなのです。
困難な求道の上で至った心境と、
社会で普通に暮らして成った心境と、
その結果は同じ暮らしをしています。ただ、経験の有り無しだけが違うのです。

ただ言えますことは、無意識に至った心境と、求めた求道の上で至った心境は、その盤石さに天地の開きが存在します。
何気なく知らずに至ったゴールの心境は、経験を経ていないために刺激があれば簡単に崩れ去ります。

でも知識として、ゴールの理想形を知っていることが自分を助けます。
そういうものだという知識は、大変な苦労の上で得たものと同じ心境の答えを教えてくれます。
すると、経験の無い人でも悟った人間と同じ心境でいるためには、その知識を信じるか、信じられないか、だけなのです。

「信仰」の真の意味は、正しい知識・知恵を信じられるか否か、の「信」なのです。
自分に経験が無くても知識への「信」が"本当に持てれば"、その人はゴールの中で暮らせます。
信じる力>経験
と霊的には言えます。

ー中略ー

間違いが無いのは、自分の心に神仏が存在することを「信じる」ことです。
この信は、社会での成功も貧乏も、色々な経験の有無も超えて行きます。
自分の良心(良い心・内在神)というものを信じて見ましょう。



コノ世の幸福とか不幸だとかに、こだわらずに生活する人。
色々な問題が有っても、心配せずに生活する人。
清潔で心身を清らかに生活する人。

そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-412)

(感想)
人間の幸福と不幸の感覚とは、
* 有って無いようなモノ、
* 場所で変わるモノに過ぎないこと、
* 個人的な幻想であること、
とも言えます。

ー中略ー

* 「色々な問題が有れば、心配せずに静観する」
これが心配する側にも、心配される側にも、最善となる可能性が高いのです。

要するに、
* 幸福とか不幸だとかに、こだわらずに、不幸には大きな視点から見てみること。
* 色々な問題には、心配するよりも、冷静に静観すること。

このようなことが言えそうです。



明るい夜の満月のように、清らかに澄み渡り、曇りが無い人。
自我が欲する欲望の行いが枯れた人。

そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-413)

(感想)
ただ言えますことは、
* そこに愛情が有る生活があったか?
* 愛情を受けて育ったのか?
これが貧富の差も超えて、その人の心の清らかさ、素直さ、曇りの無さを決めて行くことを感じます。

お金持ちで裕福な環境に育ちましても、心を曇らせた人がいます。むしろ多いかも知れません。
それは物やお金が有っても、愛情が無い環境だったのかも知れません。
貧乏な環境でも、片親でも、愛情に溢れた環境ならば、子供は透明な良い子供に育って行くものです。

大事なことは、愛情の大切さだと思います。
そうしますと最初に挙げました、
「自我(ワレヨシ)の欲望の行いが枯れた人」・・・・・真の愛情を人が発揮するには、「駆け引きのない」愛情を人間が持つには、自我の欲望が無いことが必須かも知れません。

つまり、生きる上での欲望は、特に若い頃には大切ですが、自分が真の愛情を発揮する意味では、自我の欲望が無いことが理想です。
自分が真の愛情を持つ視点では、「自我が欲する欲望の行いが枯れること」は大切だということを知って置いてください。



コノ世の色々なハンディを抱えながら、
困難な道を渡り、
繰り返す輪廻転生(死後)や物事へ心配する気持ちを乗り越えて、

冷静に物事を静観し、激昂すること無く、自分に怪しい行動が無く、何事にも執着せずに、
その上で安心している人。

そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-414)

(感想)
どんなダメな状態に自分が在りましても、
* 自分の良心に対して一切の曇りが無い人は、必ず安心が出来ます。

コノ世には多くの他人がいますが、本当の真実の真相は、
* 自分の心と、良心(内在神)との、1対1の真剣勝負を誰もがしているのが答えです。
自分が見ているすべての他人も環境も条件も、真実は自分自身の反射であり、自業自得で出現するスクリーン映像なのです。

ここでも釈尊の「天上天下 唯我独尊」(てんじょうてんげ ゆいがどくそん。コノ世にも宇宙にも、たった一つの存在しかいない。全体で、大きな大きな1つが存在している)が言えます。
誰もが自分一人の中での勝負をしています。
残りの人生を、本当の自分自身(良心・内在神・真我)と向き合って生きましょう。



快感であるとか、
不快であるとか、
そういう感情を捨て去り、軽やかに清らかに生きる人。

何事にも執着せずに、コノ世のどんな刺激にも負けなかった凄い人。

そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-418)

(感想)
人間は、自分の幸福感とか、それが嫌だとか、あの人が嫌い・好き、などという自分の感情を疑ったほうが良いと感じます。
* それは本当に正しいのか?
* 公平なことなのか?
を冷静に見る必要があると思います。

間違った感受性は、自分の運命を大きく変える可能性があります。
本当は凄い幸運が目の前に在るのに、自分の間違った感受性がそれを捨てているかも知れません。

ー中略ー

自分の感情を冷静に自分自身で静観することで、
* 自分の感情の是非が見え始めます。
自分の生活の中で、自分の感情を静観しながら暮らして見ましょう。

そうしますと、既に目の前に在る幸運にも自分で気付けるように成って行くのです。
幸運とは来るものでも無くて、既に目の前に在るものの中から自分で気付いて行くことで、自分から幸運に歩み寄るものなのです。



人々や、生き物たちの生死(せいし)を常に思いやれる人。

嫌なことへの執着をしない人。

より良く生きようとする人。

よく見聞きして色々なことが分かっている人。

そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-419)

(感想)
常に、
「明るく生死の視点を忘れない」
ことは、自分を色々な意味で「正す」ことを感じます。
また、これが武士道の本質にも感じます。
武士道とは、人が簡単に死んでしまう存在だからこそ、命を大切にする道だと感じます。

釈尊こそは、「他人の生死を常に思いやる人」だったと思います。
だからこそ、大きな「慈悲」「情け深い」御方でした。

人間は、自分が必ず死ぬことを忘れているから、他人をイジメることが出来るのかも知れません。
自分も他人も必ずいずれ死ぬ存在であることを常に忘れなければ、
* もっと他人に優しく成れるかも知れません。
* 期間限定だと思い、嫌なことも今より我慢出来るかも知れません。
* もっと精一杯に明るく生きることが可能に成るかも知れません。

今日も、誰もが必ずいずれ死ぬ儚い存在であることを忘れずに、だからこそ精一杯に「明るく」生きて見ましょう。



ワレヨシな欲望を無くして、正しく生きる人。

そういう人の未来の行き先は、神々も眷属神(けんぞくしん:半神半獣であり強い霊力を持つ)たちも、

知ることが出来ない。

そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-420)

(感想)
釈尊はこの項で、
「ワレヨシ・自我の欲望を無くして正しく生きる人の未来・運命は、
神々でも分からない」
と発言しています。運命が改善されて、未来が変わって行くからです。

これは逆に言いますと、
「ワレヨシな欲望の強い、間違った生活でも平気な人の運命・未来は、
読める。決まって行く。」
とも言えます。
まるで、ロボットのように決まったパターンを進むということです。

言えますことは、未来は白紙だということです。
今の自分の生活次第で、明日からの運命を日々固めて決めて行く・ingということです。
この時に、
* ワレヨシな欲望の強弱・有無
* 良心・道徳の有る生活態度
が明日の運命を決める重大な要素に成るということなのです。

このような要素に注意して、日々の自分の生活を懸命に生きれば、誰でも大丈夫だということです。
年齢も関係ありません。
人間は死後から、今生の人生の残りの半分(今生の反射の人生)が始まるからです。これで細部まで完全に公平なバランスが図られます。

正しく生きる限り、誰もが青春を生きることに成ります。



過去にも、未来にも、今も、何も所有せずに、

何も持たずに、何物にも執着せずに、

自分の為の取り置きをしない人。

そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-421)

(感想)
それは自分のモノだ、自分の所有物だ・・・・、という思いが強く成るほど、その人は、

* それを無くす法則がコノ世に有ります。
* それ、が自分の思い通りに成らなく成って行きます。
* それが、自分から離れ始めます。それを無くし始めます。

このような因果の法則が、コノ世に貫徹しています。
ソレ、とは何にでも言えます。
恋人でも、家族でも、財産でも、仕事でも、投資でも・・・・、それは自分のモノだ、と思い始めることで自からの束縛・強要・自我(ワレヨシな思い)が強く成り始め、自分自身が段々とその物事から嫌われて行きます。

その根底に在ります、「自分のモノだ」という横柄な思いが、すべての関係を水面下で破壊して行きます。
しかし、コノ世で暮らすには、自分の住まいも必要ですし、自分の服も靴も必要です。
自分の子供は、どうしても我が子だと強く思ってしまいます。夫婦ならば、相手の隠れた行動が気になるものです。

では、どうすれば良いのでしょうか?

この項で釈尊は、
* 自分のモノだと思ってはダメ
* それに執着してはダメ
* 自分の為に持って置こうとするな
と示されています。

つまりは、コノ世のすべての物事は、家族でさえも自分が、
「預かっているだけ」
「自分に一時的に持たせて頂いているだけ」
という視点が大切なのです。

このような謙虚な姿勢で自分が居ますと、家族とも良い関係が継続し、自分の財産も無くさないように運気が向くのです。



自分の過去の人生の生き方を正しく認識して、

また、天国と地獄をも体験し、

すべてへの執着を滅するに至り、

直感力を完成させた聖なる人。

自分がするべきことを全て終えた人。

そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-423 最終項)

(感想)
この項が、「原始仏典 ダンマパダ」の最後です。
これをもって、釈尊の御言葉の1つの区切りと成ります。

全体を通して改めて思いますことは、釈尊は難しいことは何も仰っていなかったということです。
人の生活を中心に置いた内容であり、誰もが知っておくべき「生き方の知恵」を集大成したものでした。
これは現代社会における会社員、主婦、学生たち、経営者が知っておくべき内容です。貴重な人生を「生き切る」ための方法が随所に見られます。

2500年も前の人の生活も、今の時代の生活も、人が悩むポイントはまったく同じであり喜怒哀楽に変わりがありませんでした。
この項では、

(1) 自分の過去を正しく認識すること。
(2) 天国も地獄も経験したことがムダでは無い。
(3) ワレヨシな欲望・拘りという自我の執着を無くすこと。
(4) 正しい直感力を身につけること。
(5) 自分がするべきことを、やり切ったと真から自分で思える人。

というのが人の理想の生き方の姿だと釈尊は示されています。最終項にふさわしい御言葉です。

ー中略ー

以上をもちまして、「原始仏典 ダンマパダ」の私的な柔訳を終了します。
私が柔訳を飛ばした項は、後世の弟子による加筆だと感得したものです。
釈尊の御言葉とは、素晴らしい叡智にあふれた光る霊的磁気を今でも宿すものでした。
皆さんの解釈の参考にして頂ければ幸いです。


【編集者注記】ダンマパダについての記事は「番号昇順」とします。


  • 最終更新:2016-03-31 20:25:16

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