原始仏典:ダンマパダ(第24章)

原始仏典:ダンマパダ(第24章)について
目次

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自分の性欲のままの行動を立ち振る舞う人は、愛欲への執着の網に巻かれていきます。
これはまるで、尻を赤らめた猿が森の中で果実を追い求めるように、来生もさまようことに成ります。

(原始仏典 ダンマパダ24章-334番)

(感想)
2500年前のインドでも、人のサガ・性が大きな問題だったのです。現代社会でもまったく進歩せずに同じです。
精神科医・フロイトなども、人間行動の原理のすべての根底には、その人の性欲からの転写の形が表れているとしています。
その人間が選び着る色やファッションなども、その人間が持つ性欲の種類や強弱、嗜好性が無意識に表現されているのでしょう。

この項も注意深く読みますと、釈尊の深い洞察が隠れています。
(1) 自分の性欲を表に出して行動にするほど、その人間の欲求はますます増大するということです。

人間は生きるエネルギーとして、誰もが心中に性欲を抱えています。何歳になってもです。
これは生きるためには必要なエネルギーであり、心中に思うことは問題は無いのです。
生命力の「性の火」が燃え続けているのであり、その「火」を消す必要は無く、むしろ消してはダメなのです。

この「火」を心中から取り出して、他の人への行動として火を点けて回るか否かが問題なのです。
何箇所(複数の異性)にも点け火をしていますと、いずれは自分自身が大きな炎に巻かれて焼かれてしまうことになるということです。
自分が始めた点け火により、自分自身が焼死します。

(2) 「性欲のままの行動を立ち振る舞う人」とは、本人は気付いていませんが他人から見ますと、まるで尻を赤く染めた猿のように滑稽に見えると釈尊が指摘します。

釈尊にしては珍しく、人を「発情した猿」に例えるとは非常に強い揶揄(やゆ)した表現だと思います。
どうして、このような強い表現をするのかの理由が、

(3) 「自分の性欲のままの行動を立ち振る舞う」こととは、来生にも転生する大きな因果を残すほどの強い影響を与えるからなのです。

そして来生も、その人は性欲のサガに巻かれて同じような失敗と苦しみの苦悩の海に浸かることに成るということです。
自分が発情した猿のように性欲に巻かれた行動をしていますと、自分の家庭だけでなく、他人の家庭を破壊してそこの家族を路頭に迷わせたり、他人を自殺に追い込むことも有るのが社会のパターンです。
非常に強い悪い因縁を来世に残すことに成ります。



自分の性欲への執着のままに、社会の中で振る舞う人は、
性欲以外の悩みや問題が増え続けるものです。
それはまるで、雨後に増殖する繁殖力が強い雑草のようにです。

(原始仏典 ダンマパダ24章-335番)

(感想)
会社の中でも、自分たちの性欲を中心に置いて、仕事をしていると思われる男女を観ることがあります。
中には管理職にも居るかも知れません。
こんな男女が居ますと、その人達が関わる仕事は成果が出にくいものです。またトラブルも起きやすいものです。

それはナゼかと言いますと、周囲のマジメな、理論的に仕事をしている同僚や部下たちが、アホらしくなりヤル気が失せるからです。
周囲に不倫がばれていることに気が付かないのは本人同士だけであり、第三者から見ますとまさに滑稽に見えているものです。

このような人々の特徴は、
(1) 責任感が薄い人である。
(2) ころころと意見が変わる。
(3) 他人を思いやる気持ちが無い。
このような人々が多いと思います。
そのような色情の猿が職場に居ますと、それが嫌で仕事を黙って辞めて行く人もかなりおられるものです。周囲の人々をアホらしくさせるのです。

ー中略ー

釈尊は更に、
「色情で動いている人間には、悩みやトラブルが増加していく」
と仰っています。
それはそれは強い雑草が繁殖するように、自分に不幸が起こるとしています。
これは逆に見ますと、自分には幸運が付いていない、トラブルが多いと気付いた時は、自分自身が欲求不満に成っていないか?を注意しましょう。
知らずに自分の性的ストレスが、色々な不運を引き憑けていることが有るということです。

これに気が付けば、冷静に自分の情欲を静観することで、不運のサイクルを断ち切ることが可能です。
そこで、自分の色情を消すことは出来ません。それは、それで良いのです。
自分の色情を冷静に静観することで、少なくとも性欲による無意識な立ち振る舞いを抑止することが可能に成ります。これで良いのです。
これにより、自分の服装の選択や仕草の変化、以前の立ち振る舞いにも気付く点が有ることでしょう。



コノ世に生きている間に湧き起こる、なんとも言えない自分の色情というものを静かにさせた人には、その他の悩みも静かにその人から無くなっていくものです。
それはまるで、蓮華の葉から水滴が滑り落ちるように、色々な悩みがその人から落ちて行きます。

(原始仏典 ダンマパダ24章-336番)

(感想)
人間には色々な悩みの問題が有りますが、その悩みの多くの根底には自分の欲求不満な色情というものが有るという示唆です。
逆に言えば、色情が消えている人は、すべての物事に優しく成れるということです。
「まあ、いいか」「そんなことも有るよね」と、素直に物事を受け入れやすくなり、怒りに巻かれることがありません。

問題は、自分の色情を無くすにはどうすれば良いのか?ということです。
言えますことは、自分の性的な欲求不満を解消しようとして色情行為を繰り返しましても、色情も欲求不満も決して無くならないのです。逆にますます、嫌な色情の火が大きくなるものです。今までの色情行為では物足りなく欲求不満となり、更に色情欲が増すものなのです。これは、人のサガのパターンです。

結局は、自分の色情という感情を冷静に静観して行くことでしか、色情を収めることは難しいです。
色情が湧き起こりますと、「その感情は本当の自分なのか?」
という視点を持つことが大切です。どんな人間でも、その本性は内在神を抱える安心した存在だからです。色情が人の本性であることは、絶対に有り得ません。だから色情は、いつか必ず飽きる時が来ます。

ー中略ー

この項で大切なことは、色情ウンヌンだけではありません。
「蓮華の葉から水滴が滑り落ちるように、色々な悩みがその人から落ちて行きます」
つまり、自分の意識が変われば、それに同調する悩みの中身も、自然と葉を流れ落ちる水滴のように「流れ落ちる」ということがエッセンスなのです。

自分の気持ちが変われば、やって来る課題も変わるということです。
今の自分に生じている悩みは、やはり霊的な自業自得・丁度良い・今の自分にお似合い、必要なのかも?という霊的側面を知って置いてください。
このような視点が、自分の気持ちを慌てさせずに大らかにして行きます。


何でも元を観る大切さ 2015-06-29 11:16:27

木の幹を切りましても、強く張る木の根っ子を掘り出して切らない限りは、木は再び成長します。

これと同様にして、自分に表れる色情の表面だけを見ていてもダメであり、その奥に潜む自我(ワレヨシの思い)を滅しない限りは、色情による苦しみは繰り返し起こります。

(原始仏典 ダンマパダ24章-338番)

(感想)
釈尊は、人間は表面の行動だけを注意していてもダメであり、その色情の奥に在る自分の「自我」というものを静観して鎮めない限りはダメだと仰っています。
人に自我が在る限り、色情を始めとする色々な悪い欲望が消えることがありません。

自我を分かりやすく説明しますと、
* 神道的には、ワレヨシの思い。素直では無い心の面。
* 心を占めている神性以外の、後から溜った垢。
* 自分の個性だと錯覚している心の領域。
* 自分は自分だと思っている錯覚。
* 自我は、本当は存在していない。生きる上で生じて来る錯覚。

このように色々な視点で、自我を表現することが可能です。
悟りという体験も、自我が消滅して、
「自分というモノは、本当は存在していなかったのだ」
と体感することを指します。

ー中略ー

要するに今日の話は、自分の色々な欲望の奥に隠れている自分の自我というものを、静観することを覚えて置きなさいということです。
これにより、色々な欲望が終息して行く可能性があります。
これにより、自分の悩みも緩和して行くことでしょう。



コノ世には、人の快楽に向かって流れる三十六種類もの大きくて激しい流れの余興(よきょう・お楽しみ事)が有るものです。

このような余興は、色情を抱く人間を翻弄(ほんろう)して行くものです。
すなわち、すべての余興には人の色情が隠れています。

(原始仏典 ダンマパダ24章-339番)

(感想)
近代社会でも、ある国を弱体化させるには、武力よりも3S政策をその国内で広めれば十分だという考えが有ります。
スポーツ・SEX・スクリーン映画(TVも含む)。この3つが広がれば、自然とそこの国民が弱体化し、国民が自分で自分の国を内部から破壊し始めることに成るという政策です。そのキーワードの「自由」を叫びながらです。
人間の心理学を究めに究めた結果、導き出された破壊政策です。

近年では、更にこの3Sに加えてゲームのGが加わり、子供たちが勉強を放棄して仕事もせず、ニート(無職の引きこもり)と成り家庭内から破壊し始めるという事態が進んでいます。

ー中略ー

人間の欲望に根ざした自由とは、本当の自由では無かったのです。
自由の履き違えに気付いていない民衆が多いです。

2500年前に生まれた釈尊は、その当時の社会にある余興を見て、世間のすべての余興の奥には人間のサガ・色情が在ると看破しています。
子供を産むためにも色情は必要ですが、色々な社会的な余興(コンサート・観劇・旅行・映画・習い事)の奥には、実は色情が在るという認識の上で「正しく楽しむこと」が大切だということなのです。
これらが不倫や乱交の切っ掛けの場で有ってはダメだということです。それでは、自分の家庭と幸福を失くします。

心理学者のフロイトも、人間が見る夢のすべてを色情と結んで解釈していますが、この重要な人の色情というものを「正しくコントロール」することが、その人間の人生と幸福を「決める」と言えそうです。
努力して得た社会的な地位も財産も、色情で失くす人は実際に多いです。

人間の自由にも、正しい自由と、悪い自由が有ることを再認識して、自分の人生を歩きましょう。
こういうことを認識しているだけでも、その人の人生と幸福が改善して行きます。



(人の快楽に向かって流れる三十六種類もの大きくて激しい)色情の流れは、
日常生活の中の色々なところで起こります。
常に、色情のツル草が芽を出しています。

日常の中に色情のツル草の「芽」を見た時は、知恵によりその色情のツル草の「根っ子」を断ち切りなさい。

(原始仏典 ダンマパダ24章-340番)

(感想)
釈尊は、色情の落とし穴は、常に至る所に開いていると仰っています。
そして重要なことは、色情の「芽」を1つ見たならば、芽だけを摘むのでは無くて、元から絶ちなさいと示されています。
それも、知恵により断ち切ることが可能だとしています。

ー中略ー

昭和の古いTVコマーシャルに、
「くさい臭いは、元から絶たなきゃダメ!!」
というキャッチフレーズがありました。
くさい臭いを避けていても切りがなく、元から絶たなければ臭いは消えないということです。
まさにこの項の意味することと同じです。
人間は、知らない内に真理を指し示すことが有るものです。

コノ世の悩みは、知恵でしか解決が難しいこともこの項は指し示しています。
良い知恵、悪知恵、の相克が有ります。
悪知恵に呑み込まれないように致しましょう。国家でさえも、悪知恵に要注意です。



人間の快楽を求める欲求は、いつの時代でも社会で広まるものです。
人は、色情への執着で満たされようとするものです。
実際に人々は、快楽に浸りながら更なる自分の欲求を満たそうとします。
そして人は、生誕と老衰死を繰り返して行きます。 (341番)

色情に取り憑かれた人間は、捕らえられたウサギのように暴れ回ります。
人は、色情のクサリに縛られますと執着を起こし、生きる限り色々な苦悩に自ら近付きます。 (342番)

色情に取り憑かれたウサギのように成らないために、
修行して成長する意志を持つ人は、
自分が何事にも執着しないことを望み、
色情のクサリに巻かれないように注意をしなければなりません。 (343番)

(原始仏典 ダンマパダ24章-341番・342番・343番)

(感想)
この原始仏典「ダンマパダ」を読みますと、「執着するな!」と同様に、わざわざ一つの章を設けるほど釈尊が強く仰っていることが、
「色情に巻かれるな!」
なのです。
人が色情に巻かれることは、それほど人間の人生を、魂の成長を破壊することに成るという釈尊の教えなのです。

現代社会でも、色情に取り憑かれた主婦が何も不自由が無い家庭(金銭・住まい・子供・・・)をあっさりと捨て去ることが起こります。
勉強して苦労して得た社会的地位を、部下との不倫で簡単に失い無職になる管理職の男性もいまだにいます。
色情の破壊力とは、分かっていても、警戒していても、やはりクサリに縛られたウサギのように人も逃れられないものです。

だから釈尊は、少しでも良くなりたい、成長したいと思える人間は、自分の良心に反する「悪い」色情からは離れて置きなさいと言っています。
アタマで分かっていてもダメなのです。離れて置くしか避けることが出来ないのです。恐るべしは人間の色情のサガです。



色情の森(関係)から離れていながら、人は再び色情の森へと流されやすいものです。
せっかく色情の森から離れていたのに、色情の森へとひた走るものです。
そういう人をよく見て置きなさい。
人間とは、嫌な束縛から離れましても、自ら再び束縛に近付くサガ・性を持つものなのです。

(原始仏典 ダンマパダ24章-344番)

(感想)
人間とは、自分が嫌だ嫌だと思うことほど、逆に引力で引き付けられるように成る法則が有るということです。

ー中略ー

すべては、自分の「執着」が逆向きの引力を引き起こしています。
釈尊は、人間は何事にも嫌な執着をしなければ、すべての束縛(引力)は解けると断言されています。
勘違いしてはいけないことは、執着をしない=努力をしない、ことではありません。
人間は、何事にも執着せずに、最高の自分なりの努力を継続することが、涅槃(ねはん・天国)への道なのです。

2500年も前の釈尊の言葉は、現代社会でも活き活きと生きています。本当の真理とは、時代も時間も関係なく貫徹するものです。
皆さんの生活にも、「逆に成る」「逆に向く」ということを参考にして頂ければ幸いです。


真の拘束とは 2015-08-04 11:10:01

本当に深い知恵の有る人々は、
鉄材や木材や繊維ヒモで造られた拘束道具を、
強力な縛りだとは思っていません。

それよりも、宝石の指輪、イヤリング、ブレスレットなどを欲しがることや、
更には妻子や家族に惹(ひ)かれること。
これこそが本当に強固な縛りであると、知恵ある人々は考えます。

なぜならば、それらはごく身近に有り、優しいものに見えますが、
決して離れ難いものなのです。
だが宗教遍歴してしまう人間は、これらさえも捨ててしまいます。

(原始仏典 ダンマパダ24章-345番・346番)

(感想)

ー中略ー

釈尊の視点は、「解放の有る無し」にあります。
誰もが武器から解放される可能性が必ず有るものです。
しかし、自分や家族の生命や生活費の縛りから解放されることは、生きる最中は無いと言えそうです。

では生きている間に、生命や生活費への執着から解放されることは、それは良いことなのでしょうか?
その答えは、ここでは釈尊は出されていません。
しかし、「だが宗教遍歴してしまう人間は、これらさえも捨ててしまいます」
という一文で終わっています。

釈尊こそは、大きな財産と家族を捨て去り、求道された御人です。
しかし、厳しい修行をやりすぎて、餓死で死ぬ寸前に思い知ったことは、
「苦行では人間は悟れなかった」
ということでした。
その時に、働く女性から乳粥を提供されて、他人の「愛情」を思い知った時に、悟りに落ちました。

この事実の流れを見ましても、
「宗教遍歴してしまう人は、本当に大切なモノも自分の無知から廃棄してしまう」
と私は解釈します。
人が、真に恐るべきことは何か?をたまに考えることは大切です。

コノ世だけでは無く、死後の影響を考えますと、
「人が真に恐れるべきことは、自分の良心(内在神)に反すること」
だと私は思います。
自分の死後に地獄を出現させるか否かも、自分の良心が判断することだからです。
既に、自分の心に天国も地獄も有り、自分の良心がこれを「決めて行く」ことを忘れないで居ましょう。


現実的な話 2015-08-08 10:34:01

自分の色情に慣れ従って流されている人は、世の中の苦難にも遭いやすく成って行きます。

それはまるで、クモが自ら張った網にそって進んで行くように、確実に悪い方に向かいます。

知恵のある人は、このような流れを断ち切り、色情に囚われずに、すべての苦悩を避けるように歩くことが可能に成ります。

(原始仏典 ダンマパダ24章-347番)

(感想)
ダンマパダ24章とは「色情」がテーマであり、まだまだ続きます。
2500年前の社会でも、人間にとって色情に関する不幸・トラブルがいかに多かったかと言うことです。
良い意味では、子孫を残すための大切な人間のサガ・性ですから、

性欲力=シバ神

と例えられるほど、インドでは神聖視されたシャクティ・パワー(性欲力。根源的なパワー)の1つです。
このシバ神にも通じる性力を「正しく使いこなせば」、コノ世での子孫繁栄、商売繁盛、不老長寿・・・・という叶わざることが無いという信仰も成されました。

ー中略ー

この項では釈(シャク)尊が、シャクティ・パワーを使いこなす注意点と、使う方法を説明しています。

要するに釈尊ご自身が、色情と性力が持つ大きなパワーを認めていたと逆に言えます。人間の幸福には、これを無視できないということでもあります。
シャクティ・パワーに関する注意点は、

(1) 「自分の色情に抵抗せずに、安易に流されてはいけない」、ということです。

ー中略ー

(2) 自分の色情を「節制」「抑制」「我慢」する意識を持つこと。
(3) 知恵・知識を持つ努力・勉強をすること。

(4) 性欲は、特定の相手を決めること。
オリジナル磁気の意味で、自慰も問題は無いです。

この(2)により、シャクティ・パワーの蓄積が起こります。強大なパワーと成り得ます。
この大きなパワーを、(3)により沈静化します。
どうしても発散する時は、(4)が大切だということです。

以上の話は、色欲の視点から観たコノ世の側面です。
釈尊とは、現実的で大切な恥部の話も、逃げることなく説いていたことが分かります。



あなたの「前」を捨てなさい。
あなたの「後」を捨てなさい。
あなたの「中間」を捨てなさい。

「今」に生きるという極点に至る人は、
すべてのことから解放されます。
そのような人は、もう生まれ変わり(輪廻転生・りんねてんしょう)を
受ける必要が無くなります。

(原始仏典 ダンマパダ24章-348番)

(感想)
釈尊は、この348番の項において、コノ世の究極の真理をスパ~ンと述べておられます。
まさに、これが全てです。あらゆる聖典のすべてが、ここに凝縮されています。

あなたの、「前」・「後」・「中間」とは、何にでも言い換えることが可能です。
素直に、あなたの「未来」・「過去」・「最近」
または、あなたの「前の人」・「後ろの人」・「隣の人」
でも良いです。つまり、

「あなたの、
未来を心配するな。
過去に執着するな。
あやふやな事を捨てなさい。

そして、今という瞬間・瞬間に生きなさい。
これが極まるほど、すべての悩みから解放されて行きます。
これが極まるほど、自由が始まります。
そのような人は、もう強制的な生まれ変わりも必要が無くなり、
完全に自由な魂と成ります」

このような釈尊の思いが伝わります。
人間とは本当に不思議な生き物であり、生きているのは「今」なのに、その考えていることは
未来のことか?過去か?最近のことか?ばかりです。
大切で貴重な今という瞬間を
「早く過ぎろ」「早く終わらないかな」
としか思っていない人が多いです。

ー中略ー
つまり人間は、平凡な今には興味が持てないのです。
でも一生懸命に今日を生きていますと、何んでもない休憩でも楽しいひと時に成ります。ここに大いなるヒントが在ります。

釈尊いわく、「今」に生きるという極点に至る人・・・・・このような人は、何も無い今のひと時に、歓喜の気持ち、感動、感謝の気持ちが持てる人だと感じます。
つまり人間は、平凡な生活の中「でも」感謝の気持ちを持てるように成れば、それは魂の気付きであり、悟りの瞬間だと言えます。


法則を知って置くこと 2015-08-19 11:32:46

色々なことを心配して心が乱れている人。
激しい色情が心に渦巻いている人。

実際にはこのような人なのに、すずしい顔をして愛欲こそは清らかな行為だと言う人がいます。
このような人には、色情がますます大きく成ります。
このような人は、輪廻(りんね・生まれ変わり)の束縛のクサリをますます強固にして行きます。

(原始仏典 ダンマパダ24章-349番)

(感想)

ー中略ー
未だに現代社会でも、神も霊も因果も、その存在があやふやな状態です。信じるか否かのレベルの状態です。
でも、だからこそ意味があるのです。
そのような信じるに厳しい環境でも、それを信じられる心の段階に「因果のクサリ」の昇華は起こり得るのです。

神様は、あえてこのニュートラル(中立)の状態をコノ世に出現させています。
その代わり、為し難きを成すという因果の昇華は起こり得るのです。
先祖供養などしても意味が無い、と思わせる社会の中でも、
* 自分を産んでくれた存在への感謝
* 人類発生以来、何十万年も切れなかった男女(先祖・遺伝子)への感謝
* 自分が生かされている社会・国・地球への感謝

これらへ日々感謝する行為の「継続」が出来る人間の心と、
* 良心に恥じる行動をしない。
* 他人のために成る、他人を喜ばせることをすること。
* 家族や社会のために働くこと。

「感謝」と「行動」という、この大きな2点が重なることにより、「因果のクサリ」の昇華が起こります。
条件の悪い転生(生まれ変わり)をしなくても済むのです。

しかし、上記の法則を本当に理解が出来ますと、今の自分が苦しくても、悲しくても、・・・・
これこそ大きな昇華のチャンスだと燃えることが人には可能なのです。
自分が最善を尽くしていても悪いことが起きれば、その背景には大きな昇華が起こっています。
人生をまたいだ視点では、それは逆にラッキーだったということが法則(神)の視点では言えます。

要は、今の自分に良いことが起これば感謝します。
自分の最善を尽くしても悪いことが起これば、これも霊的には感謝すべき貯金を行っているのです。
要は、「すべて良し」がコノ世の実相なのです。

これを無理に信じることは不要です。
自分なりに思いっ切り最善を「尽くし切れば」、誰でも清々しい体験から自然と分かることなのです。


本当の除霊とは 2015-08-26 10:59:15

自分の心配心を静観することにより、安静にさせることを楽しみに出来る人。
肉体は汚れるものだという前提で、いつも清潔に心掛けている人。

このような人は、現実的な悪魔からの束縛(憑依)のクサリを断ち切ることが可能です。

(原始仏典 ダンマパダ24章-350番)

(感想)
現実的で理知的・聡明な釈尊でありますが、その話には意外と「悪魔」が登場します。
その悪魔は、現実的に人を害するパワーを有しますが、釈尊の言われる悪魔とは、自分の外にはいない悪魔なのです。

自分の幻想・心が悪魔を内在しており、自分の「生活により」その悪魔が発露して来るというものなのです。
普通は悪魔と聞きますと、自分の外側にそのような恐ろしい実体が存在すると考えるのが人間です。
まさか自分に原因が有り、悪魔の芽を有しているとは考えないものです。

だから人は、自分以外に問題・原因を探すばかりであり、他人のせい・何かの責任にすることにより、自分で安心しようとします。
しかし答えは、自分の外側を見る限り、改善は絶対にしないのです。
いつまで経っても、悪魔のワナ・束縛を逃れることはその人は出来ません。

自分から何かを取り除くという発想の除霊などは、根本的に霊的に間違っていることが、釈尊が言われる悪魔の定義を知ることにより分かります。
除霊をすると称して金銭を集める時点で、その人はニセモノであることを自ら証明しています。
除外するべきモノは、そういう悪行をする自称先生であるのが霊的真実なのです。
このことを釈尊が保証しています。

ー中略ー

* 他人が自分の悪口を言っている。
* 誰かが自分を狙っている。
* 金縛りに遭う。
* 変な現象が起こる。

このような悪魔的な心配が自分自身に生じた時には、一体どうすれば良いのか?
これをこの項で釈尊は、
* 自分の心配心を静観することにより、安静にさせることを楽しみに出来る人。
* 肉体は汚れるものだという前提で、いつも清潔に心掛けている人。

という心掛けを指摘しています。
* その心配点・懸念点を、慌てずに冷静に静観をしなさい。
* 心身を清潔にするように心掛けなさい。
と言われています。

このような生活の「継続」が、自分に懸かる悪魔を解いて行くのです。
これは霊的に正に実践的で有効な指摘だと今の時代でも言えます。


究極の楽しむ人 2015-09-04 11:23:31

何も恐れなく成れた人。
コノ世の一切に無欲に成れた人。
思い悩むことが無くなった人。
このようにして、悟りの中でも究極に到達した人。

そのような人は、生死の弓矢(ゆみや:転生・生まれ変わりに突き進む弓矢)を超えたことに成ります。
つまり、今生が最後の受肉と成り、卒業します。

(原始仏典 ダンマパダ24章-351番)

(感想)
釈尊が重要な秘密を述べています。
悟りの段階(10段階は有ります)の究極は、その人は、もう生まれ出なく成ると言っています。
普通の解釈ではここで終わります。
だから、今までの多くの求道者は、もうコノ世に生まれ出ないこと、卒業することが目的だと思っています。

しかし、これは間違いなのです。
釈尊が言われる「そのような人」「その人」とは、輪廻転生(何度も生まれ出ること)する「個性」が終焉(しゅうえん)することを指すのです。
* 個性=自我
だと理解をしてください。

転生をし続けている・ingのは、常に魂の「個性」「サガ」=自我、の部分なのです。
人の「自我」が、ひたすら生まれ変わりを繰り返しています。
その自我(ワレヨシ)を、今生で「素直」に変えてしまえば、その連綿と数千年以上も繰り返し「生まれ変わり」を継続して「来た」、1つの個性を終わらせることが可能なのです。
自我の終焉=悟り、です。

多くの人間が、個性=魂、だと思ってしまっています。
これは間違いなのです。
魂=神性(内在神)、なのです。
誰もの心の本当の正体は、それが神様なのです。
しかし、自我(ワレヨシ)の部分が、その魂を「人間」に“しています”。人間に変えています。

悟りの中でも究極に到達した人は、次は転生(生まれ変わり)が逆の意味で自由に成ります。
たまには、素直なまま(神性)を維持したまま、コノ世に遊びに来ることも自由に成ります。
重力により、強制的な因果の借金返しのための自我の転生をした人間とは、少し違った楽しそうな人として生まれ出ています。

ー中略ー

誰もが生きている限り、遅くはありません。
自分の自我(ワレヨシ)を、素直に昇華させて行けば良いのです。その時に、釈尊が言われた、
* 何も恐れるな!
* ワレヨシな欲を無くせ!
* 思い悩むな!

これで良いのです。
そして、今を一生懸命に生きましょう。


誰もが仏陀 2015-09-07 10:47:23

性交を離れ、
色々なことへの執着が無くなり、
色々なことへの知識と言葉を持ち、
文章を見れば、その奥に在る書かれていない内容をも分かるように成れば、
その人は今生が最後の肉身を持つ御方であり、
大いなる仏陀(ぶっだ:知恵の化身)と後世でも呼ばれます。

(原始仏典 ダンマパダ24章-352番)

感想)
仏陀という名称は、釈尊だけのものではありません。
仏陀(ぶっだ、buddha)とは、最高段階のレベルの「悟り」を開いた人を指します。「目覚めた人」「体験した人」「悟った者」などの意味であります。
仏典には、釈尊以前にも多くの仏陀が地球に誕生していたことが示されています。

この項では、仏陀の特徴が説明されています。
(1) 性欲は有っても、性交は自然としなく成るのです。
ここが多くの求道者が勘違いして来たことです。
多くの修行者は、自分は性欲が有るからダメだと思うものです。違うのです。

健康に成るほど、男性ならば朝の目覚めは痛いほどに勃起をしているのが正常な反応です。これで良いのです。心身が清浄で健康な男性ならば、これは80歳でも変わらずです。血管と心肺が健全な証拠です。
逆に言えば、心身の浄化と健康状態が分かる最善のバロメーターです。
心が弱くなるだけでも、男性は勃起ができません。

女性でも同じであり、健康な女性ほど、毎月に子供を受精したい受け入れ状態へと自然と肉体が開いています。
でも、男性も女性も性交はしない心境に成って行くのです。しかし既婚者は、求められれば応じるのが、家庭を円満に維持するためのコノ世の定めだと思うのも良いでしょう。

(2) 変なこだわりが消えて行き、素直な心境に成ります。
* 明るく前向きな意味での「仕方がない」と思える心。
* 相手を認める、受け入れる、深い愛情を他人に持てるように成ります。
「執着をしない」、これを自分の最高の努力をしない、という意味の勘違いをしないで下さい。
* 自分の最善の努力を考えずとも懸命に行い、ただし結果への執着やこだわりが一切無い心境に成ります。
* 結果よりも、そもそもがその経験が出来る「過程」を楽しむ心境に成ります。

(3) 仏陀に近づくほど、色々な「必要な」知識との縁が自然と生じるように成ります。
とにかく博学に成って行き、コノ世のことを良く知っている人、その本質がなぜか分かる人に成ります。

(4) 文章を読むだけでも、その書いた人物の背景までもが分かるように自然と成ります。
これは理屈では説明が出来ない霊的な力を、自然と持つようになる現象を意味します。

以上のような特徴を兼ね備え始めた人は、今生で自我(ワレヨシな個性)が死に、個性という自我の転生が終結することに成るのです。
来生からは、転生も含めて白紙の自由な魂と成ります。

個の魂という概念も消えて、大いなる1つなる存在(神・宇宙)に溶け込みます。
次に転生するとすれば、神様・宇宙からの任務をする人として、表には出ずに社会の縁の下の力持ちと成ることでしょう。

地味に働いている女性や男性に、多くの仏陀が紛れ込んでいるかも知れませんよ。
そういう存在なのです。
これが十牛図の最終段階の絵にある、すべての悟りを終えた後に、世間の中に遊びに行く姿で描かれています。
人としての原点に戻る事になります。


自燈明(じとうみょう) 2015-09-13 11:38:40

私は、すべての欲望(ワレヨシな自我)に打ち勝った。
私は、すべてのことが分かった。
私は、すべての意味で清浄である。
自分のあらゆることを手放した。
色欲も枯れました。
そして、心は悟っている。
自分で悟ったのです。
つまり、師と呼ぶ他人はいないのです。

(原始仏典 ダンマパダ24章-353番)

(感想)
この項で釈尊が言いたいことは、
「つまり、師と呼ぶ他人はいないのです」
なのです。
2500年前の修行者にも、現代社会の宗教の有料先生にもよく居るのですが、
「悟るためには、師匠が絶対に必要だ」
と主張する先生が非常に多いのです。

これは何のためでしょうか?
* 先生の立場と権威を守るため。
* 悟るため、と称して弟子から金銭を得るため。
が霊的な真相なのです。
2500年も前のインドでも、そう言いながら金銭を搾取する自称師匠が多かったのです。

釈尊はこれを真っ向から否定し、上記の言葉を仰ったのです。
「私は悟ったが、自分自身で悟ったのです。
師匠と呼ぶ他人などいません」
階級制度や宗教戒律に厳しく縛られた社会では、真相は分かっていても言えなかったのです。
多くの弟子を持つ有料先生が怒り、自分の権威を守るために、この悟りの真相を言う人間を攻撃したからです。

(中略)

誰もが見詰めるべきなのは師匠では無くて、自分自身なのです。
悟るのは自分だ、ということを忘れては生けません。
今日も、自分自身の生活の中で、自分を見詰めましょう。

そこに大切な生活のヒントも、成長も、悟りも在るのです。
誰もが、既にすべてが揃っています。
後は、自分で気付く(悟る)だけなのです。



真理を伝えることは、どんな財産の分与よりも価値を持ちます。
本当の真理よりも美味しいものはコノ世にはありません。
真理を聞ける楽しみは、どんな遊びにも勝ります。

妄想を無くすことで、すべての苦しみは無くなります。

(原始仏典 ダンマパダ24章-354番)

(感想)
この項で一番に光る言葉は、最後の
「妄想を無くすことで、すべての苦しみは無くなります」
です。
釈尊は子供に言い聞かせるようにして、最初の3行で真理がいかに凄いものかを前振り宣伝をしておいて、
子供が「では真理とは何?」と聞く耳を持った時に、
「それはね、妄想を無くすことで、すべての苦しみは無くなります」
と、この項で言いたいことを伝えているのです。

よく考えて欲しいことなのですが、人には色々な悩みが有りますが、実際の現実の何らかの物理的な実害を自分が受けている悩みとは、その内の何%あるのか?
その苦しみは、「そうなるかも知れない」というまだ自分が「現実には遭ってはいない」想像の心配の苦しみではないのか?
ということなのです。

(中略)

つまりは、
* 正しい現実の行動をしながら悩まない。
* 悩む前に行動する、勉強する、求職する、・・・・すること。
という、現実行動ingの姿勢で悩まずに生きて行くことが、現実に人が幸福に成るための真理です。
今日も、自分がするべき仕事をしながら、心配と妄想をすることを止めましょう。



アノ世が有ることを信じる人々は、
違法な快楽により芯まで害されることはありません。
良心の抑制が働くからです。

愚かな人は、違法な快楽のために芯まで犯されます。
違法な快楽に執着するために、愚かな人は他人をも害します。
そして、自分自身を芯から本当に害することに成ります。

(原始仏典 ダンマパダ24章-355番)

(感想)
釈尊が、まさに現代社会の様相を指摘しています。予言しています。
2500年も前のインドでも、麻薬などの快楽により「自分自身と周囲を害する人」がいたのでしょう。
釈尊は、そんなことをする人々は、
「アノ世の実在を信じていないからだ」
「因果の法則が徹底的に追跡することを知らないからだ」
と看破されています。

(中略)

つまりは、社会には色々な信仰が有りますが、信仰の「信」とは、
「アノ世が有ることを信じる」
の「信」がすべての基本だということなのです。

だから、アノ世が有ることを信じられる人は、
* まだ死後が有るために、コノ世で罪を犯すことを恐れることが"可能になるのです"。
* 因果の法則で必ず自分に反射するから、他人をイジメることを恐れることが"出来るのです"。

つまり、「アノ世が有るか無いか」の個人的な「信」念により、その人の運命はまったく変わってしまうのが人間なのです。
出来れば、アノ世が有ると思いながら暮らす人生が、正しい人生を歩むことに確実に成ります。
「アノ世は無い」と思う人の人生は、他人を害することもしてしまうかも知れません。
どちらの人生が良いのか?は、誰でも分かることでしょう。

釈尊が最後に指摘しています、
「そして、自分自身を芯から本当に害することに成ります」
これが重要です。
結局は、アノ世を信じない人は、自分の良心(内在神)を傷付ける可能性が大きくて、人はこのことを最も恐れなければ生けないのが真相なのです。

自分に内在する大いなる存在(良心・自神・自信・内在神)を大切にして生きましょう。
そのように生きた人の魂は、確実に大往生して天国に逝くことは間違いが無いのです。


【編集者注記】ダンマパダについての記事は「番号昇順」とします。


  • 最終更新:2015-09-18 15:23:48

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