原始仏典:ダンマパダ(第23章)

原始仏典:ダンマパダ(第23章)について
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戦争で使われるゾウは、弓矢に当たっても耐え忍びます。
私たちも、他人からの非難を耐え忍ぼうではないか。
そもそもが生まれ出た人間とは、誰もが色々なサガ(性)を持つからです。

(原始仏典 ダンマパダ23章-320番)

(感想)
歴史的には、軍事用に使われた象のことを戦象(せんぞう)と言い、主にインド、東南アジアや古代ヨーロッパ世界で用いられたようです。突撃して敵を踏み潰すか、あるいは敵の基地を破壊することを主目的とした兵器として武装した象の集団が使われました。飼いならされた象は、よく耐えて人の言うことを聞いたようです。
釈尊が生きた時代にも、耐え忍ぶ象の姿がありました。

現代の私たちは、普通の平和な社会の中に居ましても、他人からの言葉や視線だけでも自分で勝手に心身を傷めるほど響かせている人が多いです。
この項では釈尊が、私たちも戦象を見習って他人からの非難を耐えましょうと言われています。

なぜならば、コノ世に生まれ出る人間とは、そもそもが誰もが何らかの色々な訳有りのサガを「持つからこそ」生まれ出て来るのです。

(中略)

だからサガが強い者ほど、元気にコノ世を闊歩しているとも言えそうです。
しかし仏教では、サガが強いほどコノ世に生まれ変わることが終わらずに、何回でもサガが消え入るまでコノ世で誕生と死を繰り返すとしています。
誕生をリピート体験する内に、自分のサガ(ワレヨシな自我)を減らして心が浄化して、繰り返す転生を終えることを仏教の目的とします。

究極の目的は、コノ世に生まれ出ずに永遠に別次元の天国(涅槃)に安住することが、仏教の最終目的だと言えます。チベット密教でも、自分が間違った世界に生まれ出ないための生き方を説いています。
自分のサガ・自我が昇華するほど、コノ世だとかアノ世だとかの境界が消えて、今の生活の中で心が安住します。

私たちは時間限定で、誰もが短いコノ世に存在しています。しかも、稀有な日本にです。
この貴重な短い期間ぐらいは、どんなことも思い出として耐えて、その中でも楽しみながら永遠へと自分の心を行(逝)かすことを目的としましょう。
このように楽しみながらも、他人のサガの中を耐え忍びながら頑張って生きますと、コノ世に居る中でも天国を味わうことも可能なのがコノ世です。



よく躾けられたゾウは、戦争にも駆り出されたり、または王様の乗り物にもなり得ます。

だから人間も、ゾウのように世の中での苦難によく耐えて、

その中でも自分を安心させている人は、

多くの人々の中でも高貴な御方なのです。

(原始仏典 ダンマパダ23章-321番)

(感想)
釈尊いわく、ゾウとは、
*自分に与えられた環境・運命に素直に従い、その中でも良く耐える動物であること。
*どんな環境の中でも安心・リラックスしている動物であること。
*だからこそゾウは、王様の乗り物として高貴な御方と一体に成ることも可能な神聖な動物であること。
このように示唆されています。釈尊は、非常にゾウの精神性を高く評価されています。

(中略)

人間も、厳しい環境の中で働く人が大勢おられます。
釈尊は、そんな環境の中でも頑張りながら、
自分の心を安心・安定させることが出来る人は、
王様に匹敵するような高貴な御方だと、この項で示します。

イヤイヤ我慢するのではなくて、その中でも自分の心を安心させることが出来る人が、稀有な人なのです。
アノ世に帰れば、真の勝利者と呼ばれる魂です。
変な宗教的な修行をするよりも、社会の中で厳しい環境で働く人の方が、悟る可能性が高いという釈尊の示唆でもあります。


人間と動物との分岐点は 2015-05-03 10:40:30

よく飼いならされた労働するロバの雑種も素晴らしい。
インダス川の地域で育つ伝統ある馬の種族も良いです。
クンジャラと呼ばれるような凄く大きなゾウも素晴らしい。

でも、自分自身を安心・制御させている人は、どんな聖なる動物たちよりも優(まさ)ります。

(原始仏典 ダンマパダ23章-322番)

(感想)
この釈尊の言葉を逆の視点で読みますと、
「自分自身を安心・制御させることも出来ない人間は、動物たちよりも劣ります」
と言えます。
今の社会で起こる事件を見ましても、自分の幼い子供を家畜を虐待するように暴行して殺す事件が跡を絶ちません。
まさにイライラした人間とは、道徳的にも性的にも動物以下の行為をしかねません。

つまり、自分を安心・制御させていることが、その人自身を動物では無くて「人間にしている」だけなのです。
いつでも誰もが、動物以下にも成ってしまう可能性を知って置きましょう。
大切なことは、イライラする自分を放置しないことです。
それも仕方がない、ではダメなのです。
人間と獣性を分けている唯一の違いは、自己節制の気持ちが有るか否かなのです。

(中略)

今の自分の心境こそが、すべてを決めて行く最中であることを知りましょう。
誰もが自分の心を安心・制御させる義務が有ります。
少数の制御させることが出来ない人類がいれば、それを上回る人々が自分自身の心を安心させることで、全体を無難にすることが可能です。



いよいよ死ぬ時は、コノ世で高貴なゾウに乗るような人物でもニルバーナ(天国:絶対安心の境地)に行くことは出来ません。
そこには、謙虚な人が、更に自分自身を安心・節制させますと、行くことが出来る可能性があります。

(原始仏典 ダンマパダ23章-323番)

(感想)
天国に行くには、謙虚な人が、更に自己を節制する気持ちを維持してこそ、やっと行き着くことが出来ると釈尊はこの項で示しています。
白い象(神様)に乗る時点で、その人は既に謙虚さから逸脱しているかも知れませんね。

では、謙虚さを維持し、自己を節制してまでしてニルバーナに行く必要があるのか?そんな価値や意味はあるのか?
そんな我慢をするよりも、どうせ死ぬのだから好きなことをしたほうがお得では無いか?
と思われる人もいるかも知れません。

この答えは、我慢するに値する価値も意味も「十二分に」あると私は断言して置きます。
なぜならば、コノ世に居る期間は誰もが短く、アノ世で過ごす時節が圧倒的に長いからです。
残念ながら、コノ世だけで自分の意識が切れることはありません。死後も継続しています。

私たちはどんなに着飾ろうとも、それを美しいと感じたり嫌だと感じたりは、そう認識する自分の意識「だけ」の問題であることを思い出しましょう。
私たちは、コノ世の外見のことで喜怒哀楽をしますが、そのように感じる自分の意識の問題なのです。
この意識が、コノ世だけで終わらずに死後も継続をするのです。

死後は、今の自分の意識が10倍の敏感さに成ると想像してください。
嫌なことも10倍に感じ、自分がした良心に背くことも10倍の罪悪感に感じ、快楽や楽しみの感情も10倍に成ると思ってください。
コノ世で体験する快感の10倍とは、コノ世でのどんな手段の悦楽も凌駕するものです。

コノ世の短い期間だけを自己節制するだけで、ニルバーナ(絶対安心・想像を超える快楽)の境地にアノ世で長い期間にわたり安住することに成ります。
100m競走(コノ世)に出場(誕生)した限りは、その短い間ぐらいは一生懸命に走れば良いだけなのです。その100m走行中に、休もうとすることが滑稽であり、自分が参加した意味がありません。多くの観客(先祖)も応援席で見ています。

今日も自分の生活を楽しみながら、その中でも謙虚さと自分の良心に基づいた自己節制に挑戦して見ましょう。
その継続が、自分をニルバーナへと連れて行きます。



自制心の無い大食いを繰り返し、
惰眠を貪り、
どんな場面でも眠そうで投げやりな態度で、
いつもボーッとして真剣さの無い人間は、
大きな家畜のように肥え太っていきます。

その結果は、繰り返し母体の腹に受精し、
迷いのままの人生を繰り返します。

(原始仏典 ダンマパダ23章-325番)

(感想)
何と、自分にとっての嫌な事や、我慢したり、節制することが、自分を真の意味で救ってくれる恩寵(おんちょう:プレゼント)だったのです。
自分が避けたがる物事が、自分を悟りへと導くための守護だったのが霊的真相です。

多くの人が、自分に強力な守護神や守護霊がいれば楽ができるのではないかという勘違いをしています。しかし、高位の守護神や高級な守護霊(先祖)ほど、その人の人生内に色々な「課題」を無駄なく寄こさせるのです。
時間限定の人生内で、それはそれはキッチリとしたスケジュール管理をするように、色々な嫌なことも配置されます。

それは、その魂のためだからです。限定時間をムダにさせないように、ただ浪費させることが無いように、気付き(色々な悟り)を起こさせることを最優先させます。
残念ながら高位の次元ほど、コノ世で誰もが欲しがる価値観とは、別の価値観なのです。

だから上記の釈尊の言葉のような、怠惰な人間に対する高次元からの対応や、覚者が取る態度は、非常に厳しい言葉として「心配するがゆえに」出されます。
怠惰な人間に対して、釈尊は「家畜」と呼び、空海さんは「狂人」と表現されています。
それほど神様の視点でも、せっかく生まれ出ても怠惰で投げやりな態度でいる人間は許せないのです。徹底的に落とされます。
これは愛情を持つがゆえの、怒りなのです。

ダメでも、けなげに頑張る姿勢に、神様が降りて来るのです。
その結果では無くて、「生きる姿勢・ing」に神様も悟りも宿るのです。
一生懸命にそれでも生きようとする姿勢は、いつか人を「自分は知らぬ間に生まれた」という状態から解放させます。
生きていようが死んでいようが、自分の生きる姿勢(志・こころざし)が今のその生活の中でも絶対安心の心境に心を常駐させます。



過去の私は、自分の好きなように、欲望するままに、快楽を求めて、さまよっていました。

しかし今からの私は、ゾウの調教師が先端が曲がり尖った金属の棒を持って、発情で暴れるゾウを完全に支配するように、自分の心を自制するつもりです。

(原始仏典 ダンマパダ23章-326番)

(感想)
どんな人間でも生きる限りは、自分自身を自制する志(こころざし)が必要だということです。
自制心無しでは、どんな人でも切りがなくなり、さまようことに成るのです。たとえ釈尊であっても、生きる限りは自制する志を持たれたのです。

(中略)

今の自分自身が、色々な縁を創造中であることを知らない人が大半です。
今の自分が創る縁が、不満やアキラメ、他人への羨望だけで終わっている人は、今の生活を維持するだけでも大変に成って行きます。

そうでは無くて、今のこの瞬間から、
「しかし今からの私は、ゾウの調教師が先端が曲がり尖った金属の棒を持って、発情で暴れるゾウを完全に支配するように、自分の心を自制するつもりです」
と思えれば大丈夫なのです。

生きる限り、自分に自制心が有る間は、その人は成長ができるのです。
老人だというだけで自制心の無い人は、やはり人間としてはダメなのです。
自制心を持つこと=成功への第一歩。
ということを知って置きましょう。



自分自身を、泥穴に落ち込んだゾウを救い出すことと同じようにして、

自分のするべき仕事に懸命に成ることを楽しみなさい。

自分の心を守るようにしなさい。

自分自身を泥穴から救い出しなさい。

(原始仏典 ダンマパダ23章-327番)

(感想)
穴に落ち込みますと、もがけばもがくほど周囲の壁の土が崩れ落ちて、穴が大きく成っていきます。
人間も、自分自身が助かりたい一心で、社会の中で、周囲の人間関係の中で、家族の中で、無理にもがくほど周囲の人が離れて行き、自分一人の空間が広がっていくものです。
まさに泥穴に落ちたゾウのように、自分自身が成ります。
では、どうすれば良いのでしょうか?
この項で釈尊は、明確に答えておられます。

(1) まず、自分の仕事を一生懸命にして、それを苦痛に思わずにイヤイヤせずに、
「その仕事の中でも」楽しむ努力をしなさい。

(2) 仕事の中で、生活で生きる中で、どんなに辛いことや嫌なことが有っても、
それで自分の心までは傷付けない、響かせない、という決意をしなさい。

(3) そして、自分を自分自身で救い出す覚悟を持ちなさい。
他人に救われることを待っていてはダメなのです。
大きなゾウは、自分自身で泥穴から這い上がることでしか「助からないのです」。
自分自身で這い出す決意を持ちなさい。

このように釈尊は示しています。
誰もが、自分で自分自身を救い出そうとしているのが、今の人生の意味であり霊的な目的なのです。
私たちは、期間限定でコノ世に生まれ出て、それぞれの自分の環境の中で、自分という「今回」だけの存在(自我)を、「永遠である」本当の自分(真我・良心)が発露して救えるのか否かの冒険ゲームをしている最中です。

このゲームのような魂の旅は、自我(色々なサガ・性を持つ自分)を自分の良心が救い出せるまで繰り返し再現します。
他人の幸福を素直に思える気持ちこそが、自分の中の神様の思いです。
自分の中の神様(良心・真我)を大きく出せるまで、この旅は継続します。

自分自身を本当に救えるのは、自分の良心(真我・内在神)だけであることを知って置きましょう。
今日も、大穴に落ちた自分を救い出しましょう。
自分自身を本当の意味で真・深から救えるのは、あなた御自身だけです。



思いやりが深く、
思考が素直で、
真面目な生活をしている人。

もし、このような人をパートナー(仕事・夫婦・仲間・先生・・・・)にすることが出来るならば、
どんな障害も気にすること無く、
心から喜び、
思いを冷静にして、
離さないようにしなさい。

(原始仏典 ダンマパダ23章-328番)

(感想)
釈尊は、自分自身がこのような三つの徳を持てれば、コノ世のどんな最上のお宝よりも価値があり、人間としても完成形だと示しているのです。
霊的な視点から観ましても、この三徳を「目指す」だけでも運命の改善が起こり始めると感じます。

個人で差が出る幸運や金運も、本当に影響する霊的因子は、このような三徳の有無によるのが霊的真相です。
祈願で引き寄せる幸運は継続せずに、逆に金利が付いて後から色々な形で請求が来ます。
でも、三徳による幸運は継続性があり、後からも何の請求も来ません。
更には死後にも、人間修行としての完成の世界へと招待されます。まさに良いことばかりと成ります。

今日も自分の生活の中で、
自分なりの、
* 思いやりが深く、 *思考が素直で、 *真面目な生活をしている人。
を意識して「行動」してみましょう。
その継続が、自分自身を本物にします。
ただの思考だけで終わらずに、実践が自分に教え、先行きを導きます。

でも、それがなかなか出来ない、難しい、欲望にまみれた、理不尽な、コノ世の中で挑戦しようとするからこそ、本当に「かけがえの無い」最高の価値が有ることを知って置いてください。


大切なヒント 2015-06-02 09:42:20

しかし、* 思いやりが深く、 *思考が素直で、 *真面目な生活をしている人。
もしこのような人をパートナー(仕事・夫婦・仲間・先生・・・・)にすることが出来ないならば、
国(家)を捨てた王様(主人)のように、
森の中を独りで進むゾウのように、
自分一人で歩いて行きましょう。

(原始仏典 ダンマパダ23章-329番)

(感想)
国を捨てた王様とは、まさに釈尊ご自身の人生でした。釈尊は、自分一人で歩くことを決断した人でした。
人間とは最後は自分一人だけで裸で死んで行くことを見ましても、どんなに地位や名声が有りましても、どんなに素晴らしい家族に囲まれて暮らしていましても、自分の先祖や内在神を普段から心の拠り所にしていないと、心の真の安心感は継続しないのです。
目移りするもの、自分が執着するものが身の周囲に多い人ほど、一喜一憂することになります。

その代わり釈尊は、多くの人々を励まそうとし、多くの人々の心を救おうとされました。
他人には頼らないが、他人を救う・助けたいという思いを行動にして実践されました。
だからこの項で勘違いしてはいけないことは、ただ一人孤独に成りなさいという意味では無いのです。
自分は他人を頼らないが、自分が他人を助けるという意味なのです。
これは昔の日本人の精神でもあると私は思います。

(中略)

先ずは、自分が自分自身を助けなくては生けません。自分で自分を癒やすことを心掛けましょう。
自分自身を助ける人は、他人を頼らずに、他人を助けることが出来る人に成れます。
そうしますと、いつの間にか、その人は他人から求められるようになり、他人から見てうらやましいと思われる環境に成って行くのです。
コノ世で成功する秘訣の1つは、先ずは自分で自分自身を助けようとすることからなのでした。



明らかに愚かだと思える人を、パートナー(仕事・夫婦・仲間・先生・・・・)にしてはダメです。やはり無理があるのです。
それならば、自分一人で歩いて行く覚悟をすれば良いだけなのです。
自分も仲間に成ろうと同調して、相手と同じ愚かなことをしてはいけません。

自分が求めるものは、少ないほうが理想です。
まるで、森の中を独りで進むゾウのように生きなさい。

(原始仏典 ダンマパダ23章-330番)

(感想)
しかし釈尊は、そのような自己犠牲の無理をしてはダメ、相手を理解して救おうとして同様な愚かな行為をする仲間になってはダメ、と言い切っています。
社会には、女性が自分の良心に恥じるような行為をしてでも好きな男性を金銭的に助け、そのヒモのような男は女性が逃げないように違法薬物や悪習慣で中毒にしていくパターンも昔からあります。
でも釈尊は、愚かだと思える「そのような他人に尽くしてもダメだ」と断言されています。

万が一、女性のお蔭で男性が更生して、社会的な成功者になったとしても、そうなれば違う女性と浮気して去って行くのも社会によく有るパターンです。
だから釈尊は、良心に恥じることでも平気で出来る愚かな人間からは、「最初から離れなさい」と言い切っておられます。

良心に恥じることでも平気で行うパートナーのことで苦しみ悩むぐらいならば、
「自分一人で生きていく覚悟をすれば良いだけ」
「自分が独りに成ることを恐れるな」
と釈尊は断言しています。

ここで誤解してはいけないのは、あくまでも「良心に恥じる行為もする相手」「愚かな他人」から離れなさいと言う意味であり、真面目なのに苦しい境遇にいる相手から離れなさいという言う意味ではありません。
社会的な立場は関係なく、あくまでも良心に恥じる愚かな行為が出来る人間か否かが判断の基準です。

そして次に、釈尊は自分の望みは出来るだけ1つに絞りなさいとしています。
人間はあれもこれもと望み過ぎますと、どれも叶わないままで終わります。
そして釈尊が言わんとする、人間が求めるべき望みとは、コノ世的な物質面のことでは無いのは確かです。

それは誘惑の多い森林(社会でもある)の中を進むゾウのように、自分の良心に沿って真っ直ぐに突き進みなさいということだと私は思います。


コノ世の全て、への説明 2015-06-06 02:51:51

* 問題が起きた時に、仲間(友人・家族・ネット・・・・など)があることは心強くて心が楽しく成れます。
* 大きいことでも、小さなことでも、どんなことにでも満足(感謝)ができる人は、人生をより楽しめます。
* 自分なりの善行をしていれば、自分の良心に恥じることが無ければ、自分が死ぬ時もイベントとして楽しめます。
* 人間は、自分の因果を善行により打ち消して行くことほど、コノ世での真の楽しみは他に本当は無いのです。

(原始仏典 ダンマパダ23章-331番)

(感想)
釈尊いわく、
(1)問題や悩みが起きましても、同じ志(こころざし)を持つ仲間がいることは大切だということです。自分の気が合う、顔も知らないブログ仲間でも別に良いのです。
そのような同じ志の仲間がいれば、起こる問題も楽しめるように人は成れると釈尊は示します。

ここで勘違いしてはいけないのは、釈尊は
「まるでサイやゾウのように、一人で真っ直ぐに歩きなさい」
とも言われています。つまり、仲間がいましても、その仲間に頼らずに、「同じ志の人が居るということ」を頼りにして頑張りなさいという意味なのです。

人間は、同じ志の人が他にも居る、同じような心を持つ理解者が他にも居る、「というだけでも」天地の違いが生じるということです。

(2)どんなことにでも満足と感謝が出来る人は、本当にお得な人間だということです。
どんなに金持ちでも、心が満たされずに空虚な人はいます。さらには、ぜいたくな物事もアタリマエになり、感謝することを忘れているものです。これは、生活レベルの高低に関わらず、すべての人に何らかの視点では言えることです。

出来れば、アレが叶えば満足が出来ると思わずに、「その前に」先ず今の現状に対して感謝と満足をしてみましょう。
この継続が今の生活を、本当に心から満足と感謝が出来るものへと変えて行くことを釈尊は示唆されています。今の生活の中に、感謝の気持ちを置いて生きましょう。

(3)死ぬ時に、自分の良心に恥じることが無ければ、その死さえもイベントとして人は楽しめるように成れると釈尊が言われています。
つまり、自分が死ぬことを恐れる間は、まだその人には、改善するべきことが有る、反省するべきことが有る、やり残していることが有る、と言えそうです。

さらには、今生で昇華するべきだった因果を積み残しているか、または因果を更に増大させてしまった人は、自分が自然と死んで行くことを異常に恐れる人間になるということです。
つまりは、人は自分の死を明るく受け止めることが出来るまで、もっと今の生活の中で頑張り、自分が改善するべきことが「まだまだ有る」ということなのです。

(4)コノ世でのどんな楽しいことや快楽よりも、自分の因果(借金)を返すことほどの楽しみは無いと釈尊が示唆されています。
アノ世のことを考えますと、これは完璧に言えると私も感じます。

不便な肉体を有する間の楽しみや快楽の度合いとは、肉体を無くした心だけの状態での快楽や楽しみの1割に過ぎないと想像してください。
逆に言えば、自分の良心に恥じることは、アノ世では10倍に巨大化されて自分が苦しむと想像してください。ウソや誤魔化すことは完全に不可能な状態になり、アノ世では誰もが自分の良心に恥じることを自ら告白することに自然と成ります。



老人になりましても、自分を律するためのルールを守ることは楽しいことです。
自分に心から信じる教えが有ることは楽しいことです。
本当に正しい真理の知恵を知ることは楽しいものです。
自分が悪事をせずに、良心に従って生きることは、生活を楽しく導きます。

(原始仏典 ダンマパダ23章-333番)

(感想)
自分が規則正しい生活を普段にするからこそ、休日に寝坊をすることが楽しいのです。
毎日が自堕落な生活をしていますと、休日が楽しみということはありません。つまり、
(1) 「老人になりましても、自分を律するためのルールを守ることは楽しいことです」
これが言える訳です。
人生を楽しみたいと思う人は、自分なりの生活ルール、それも少し我慢すること、を持ちましょう。
これは長生きをして、より楽しむための秘訣の1つです。

(2) 「自分に心から信じる教えが有ることは楽しいことです」
人間とは弱いものであり、やはり自分が信じるものが有るほうが、生活を楽しめるのです。
「それ」が、異性や、趣味の自動車や、仕事、金、家族、宗教、好きな作家・歌手・俳優、・・・・・人により自分が信じるものは千差万別であり、色々な種類と段階があるものです。

(3) 「本当に正しい真理の知恵を知ることは楽しいものです」
でも、本当に信じるべきものは、正しい真理に出会える自分であり、その真理を心の中心に置いて暮らすことなのです。
正しい真理を自分が信じていれば、金銭問題は別として生活が以前よりも段々とましに、より楽しく成っていくはずだと釈尊は言われています。
何気ない普段の生活の中に、嬉々とした、アリガタイという喜びを感じ出します。

(4) 「自分が悪事をせずに、良心に従って生きることは、生活を楽しく導きます」
やはり人間とは、誰もが心に良心(内在神)を抱えているために、悪事をして楽しんでも一時的な快楽に過ぎず、その分、より心が面白く無くなるのです。
どんなに悪事をして楽しんでも、心が平安に成ることは絶対になく、むしろますます不安定な気持ちになり、すべてが悪循環になるものです。

やはり人間は、自分の良心(内在神)に従って生きることが、最も幸福に至る道であり、死後の行き先も保証することに成ります。



自分の性欲のままの行動を立ち振る舞う人は、愛欲への執着の網に巻かれていきます。
これはまるで、尻を赤らめた猿が森の中で果実を追い求めるように、来生もさまようことに成ります。

(原始仏典 ダンマパダ24章-334番)

(感想)
2500年前のインドでも、人のサガ・性が大きな問題だったのです。現代社会でもまったく進歩せずに同じです。
精神科医・フロイトなども、人間行動の原理のすべての根底には、その人の性欲からの転写の形が表れているとしています。
その人間が選び着る色やファッションなども、その人間が持つ性欲の種類や強弱、嗜好性が無意識に表現されているのでしょう。

この項も注意深く読みますと、釈尊の深い洞察が隠れています。
(1) 自分の性欲を表に出して行動にするほど、その人間の欲求はますます増大するということです。

人間は生きるエネルギーとして、誰もが心中に性欲を抱えています。何歳になってもです。
これは生きるためには必要なエネルギーであり、心中に思うことは問題は無いのです。
生命力の「性の火」が燃え続けているのであり、その「火」を消す必要は無く、むしろ消してはダメなのです。

この「火」を心中から取り出して、他の人への行動として火を点けて回るか否かが問題なのです。
何箇所(複数の異性)にも点け火をしていますと、いずれは自分自身が大きな炎に巻かれて焼かれてしまうことになるということです。
自分が始めた点け火により、自分自身が焼死します。

(2) 「性欲のままの行動を立ち振る舞う人」とは、本人は気付いていませんが他人から見ますと、まるで尻を赤く染めた猿のように滑稽に見えると釈尊が指摘します。

釈尊にしては珍しく、人を「発情した猿」に例えるとは非常に強い揶揄(やゆ)した表現だと思います。
どうして、このような強い表現をするのかの理由が、

(3) 「自分の性欲のままの行動を立ち振る舞う」こととは、来生にも転生する大きな因果を残すほどの強い影響を与えるからなのです。

そして来生も、その人は性欲のサガに巻かれて同じような失敗と苦しみの苦悩の海に浸かることに成るということです。
自分が発情した猿のように性欲に巻かれた行動をしていますと、自分の家庭だけでなく、他人の家庭を破壊してそこの家族を路頭に迷わせたり、他人を自殺に追い込むことも有るのが社会のパターンです。
非常に強い悪い因縁を来世に残すことに成ります。


【掲載順序】本ページは「日付昇順」とします。



  • 最終更新:2020-06-11 21:13:46

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