原始仏典:ダンマパダ(第21章)

■原始仏典:ダンマパダ(第21章)について
目次

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つまらない愛欲への執着を持たないことにより、
より大きな楽しみを見つける可能性が広がります。

賢い人は、よりもっと大きな楽しみを求めて、
つまらない愛欲への執着を捨てなさい。

(原始仏典 ダンマパダ21章-290番)

(感想)
釈尊は、何かへの執着により縛られている人間は、その人の可能性を狭めていることに気付きなさいと、この項で示してます。
最終的な答えは、コノ世の何モノにも縛られずに、自分に内在する無限の宇宙に気付きなさいというのが仏教の本質です。

誰もの心の中には、何モノにも縛られない大きな愛情の海(内在神)が存在しています。
だから恋愛をしても心のすべてを縛られずに、常に自分の心の中にこそ本当に大切なモノがあることを忘れずにいましょう。



自分の快楽のためには、他人を苦しめることも平気な人には、

怨念の糸が巻き付(憑)いています。

この怨念の糸からは、絶対に逃れることは出来ないのです。

(原始仏典 ダンマパダ21章-291番)

(感想)
本当に怨念の糸とは存在するのか?

私は有ると断言します。正確には細い糸では無くて、煙状(エクトプラズム)の雲のような磁気のカタマリが、悪い人にはヘビのように巻き付いています。
これは霊による憑依とは違い、祓いや供養で消えるものではありません。本人のコノ世での善行でしか、上書き修正が出来ません。

私が思いますには、人間のコノ世の生活とは、誰もが日々の生活で機織り(はたおり)をしていると感じます。
自分の行動のすべてが霊的な糸として残り、その日に出来た霊的な糸が織られて行く感じです。

そして人が死ぬ時とは、霊的な織物が完成して、最後の糸が切れるのです。
この織物に、他人を苦しめて出来た糸が混ざりますと、明らかに目立つわけです。
この織物を死後に持参して、アノ世で自分の魂が身にまといます。
このような世界観の表現が、霊的な実態に近いと思います。

誰もがコノ世に機織りをしに来ていると考えますと、ロマンを感じます。
コノ世の地位は一切関係なく、意外な人が美しい織物を織っているかも知れません。
自分なりに良心(内在神)に従って暮らして行けば、必ず美しい織物に成ります。



自分のするべきことをしないで、
してはいけないことを人はしたがるものです。
遊んでばかりいる人々は、心身に穢(けが)れが溜まります。

(原始仏典 ダンマパダ21章-292番)

(感想)
では、自分のするべきこととは、何だ?
という問題があります。
多くの人は生きるために、何かの仕事をするしかありません。
誰もが働くことが嫌です。遊んでいるほうが楽しいと思っています。
でも、ほんとうにそうなのでしょうか?

ー中略ー

仕事にしても結婚にしても、コノ世でそれが辛いと思う間は、その辛さが継続します。ますます嫌に成るのが人間なのです。
辛い、嫌だと思いながら仕事や結婚生活をしますから、周囲の同僚や家族を知らずにイライラとさせて、ますます泣きっ面に蜂の出来事も現実に起こるものです。
だから、このようになる本当の原因は自分自身に有るのです。

ー中略ー

でも、どんな経験でも、自分の良心(内在神)と健康だけは傷めては生けないことが、一番大切だと今でも思います。所詮は、生きるための仕事なのですから。
大事は、自分の内在神を守ることです。
(専業主婦も立派で大変な修行です)



自分の肉体のサガ(性・癖)というものを常に冷静に想定しながら、
しては生けないことはしない。
自分のするべき仕事をする。

このように常に心掛けるように、自分で注意をする人々からは、
すべての穢(けが)れが消えて行きます。

(原始仏典 ダンマパダ21章-293番)

(感想)
* 自分の癖というものを、冷静に知っておくこと。自分で認めておくことです。
自分のサガを否定している限り、そのサガを自分で認めない限り、自分の中で隠そうとする限り、ダメだということです。その自分のサガは必ず継続します。

* だから自分には、このようなサガがあるから、生活の中で初めから想定して、それを避けるような生活をしなさいということです。

* そして、それをしない!と自分自身に誓い続けることが大切なのです。1回の誓いではダメなのです。
常に、それへの思いがよぎれば、それをしない!と自分自身に誓います。

* さらには、誓うだけではダメなのです。自分のするべき仕事に没入することが大切です。
これが魔のタイミングを潰して、自分の人生を具体的に改善することに成ります。

以上のことを「継続」する人からは、すべての穢れが浄化して行くと釈尊は断言されています。
人間のサガを知り尽くした釈尊の言葉は、非常に具体的であり、コノ世での法則も考慮されており、素直に従えば実践力を持つものです。

仏教=御経を読むこと、のようなものに末法の現代ではなってますが、本来の釈尊の教えに御経を読むことは一切なくて、
「生活の中で自分を観ること」
「自分自身が反射する鏡に成るまで、社会の中で磨くこと」
が、仏教の本当の姿です。
つまり、神道とも違いが消えていくのです。すべての教えは、同じ真理に向かっています。



自分のものだけを溺愛するという自我の母性と、
俺が俺がと威張る自我の父性を滅すること。

自分が必ず死ぬことを忘れている増長する自我の王様と、
何をしてもどうせ死ぬのだからムダだと思ってしまう虚無の王様を滅ぼすこと。

肉体の機能と、心の領域を合わせて12個の領土と、
そこに棲み付く喜怒哀楽という自我を静観して少なくすること。

このようにして修行者は穢れること無く進んで行きます。

(原始仏典 ダンマパダ21章-294番)

(感想)
(1) 自分の家族や子供、ペットだけに執着して溺愛する自我。
(2) 私が私がと見栄を張る自我。
(3) 自分の命が永遠ではないことを忘れている謙虚さを欠いた自我。
(4) 何をしてもムダだと思う怠け者の自我。

これが2500年も前に生きた釈尊の言葉です。これはこのまま、現代人にも言える事です。
人間のサガ・性とは、まったく変わっておりません。進歩も進化もしていません。
でも釈尊が実在されたように、現代の誰もが釈尊に成れる時代が来ていると感じます。

ー中略ー

ここで大切なことは、人間の様々の領域に棲み付く自我(じが:ワレヨシの心)を沈静化して行くことです。
この継続が、私達を浄化して行きます。

これは、各人がどんな状況でありましても、自分の環境の中で浄化して行くことが可能です。
他人と比較せずに、自分の居る世界こそが重要なカギです。自分だけの固有な、因果・因縁が反射して出現しているからです。

だからこそ、逆に今の環境が重要なのです。
これを乗り越えることで、自分の因果・因縁が昇華されます。
逆に言えば、自分が成仏するためには、今の環境を避けては生けないのです。
どうしても生きる人間は、他人との比較や関係で浄化が停滞します。他人を見ている限りは、進歩はありません。



世の中を捨てて修行僧になる生活は厳しいものであり、
その中で生活を楽しめることは無いです。

一般人が社会の中で暮らす生活も大変であり、
家に住めるように生活をすることも大変なものです。
その中で相反する人々と暮らすことも本当に難しいものです。

わざわざ何かを求めて旅に出る修行僧は災難に遭うものです。
修行と称して旅に出る必要はありません。
わざわざ苦しみに遭う必要もありません。

社会の中で暮らす人々こそが、真の修行僧なのです。

(原始仏典 ダンマパダ21章-302番)

(感想)
これは現代社会にも全く同じことが言えます。
この項を、現代の出家僧たちが読みますと、ショックを受けることでしょう。
釈尊ご自身が、このような発言をなさっているのですから。
釈尊いわく、

「修行僧に成りたい者は、わざわざ修行の旅など出るな。
修行僧にも成るな。
それは逃げているだけであり、何の修行にも成りませんよ。

それよりも、社会の中で暮らす人々を見なさい。
これこそが真の修行僧なんだよ。
家の家賃を支払うことも大変だし、
嫌な他人の中で暮らすことも本当に大変な修行なんだよ。
修行僧の生活よりも、もっと大変なものです」

そして、社会の中で普通に暮らすことが更に大変な理由が、欲望のワナが周囲にたくさん有ることです。
修行僧のような隔離された中での生活では無くて、色々なサガの誘惑の中でも正しく生きることが真の修行です。
「自分に勝つ」ということです。

ー中略ー

この項を読みますと、今が苦しい人こそが大いなる修行僧だと分かります。
それぞれの各人のレベルで、自分なりのテーマで、誰もが修行中です。
その中身を他人と比較するから無意味に感じてしまうだけです。
今の自分が「それ」に悩むことが、今の自分には丁度良い訳です。
それを自分自身で静観することで、「これでは生けない」という気付きが起こります。

他人と比較せずに、「自分の色々なサガに勝つ」という視点で、今の生活の中で頑張って見ましょう。


分かりやすい人は善人 2015-03-25 11:12:36

善良な人々は、遠くに離れていても目立ち光っています。
まるで、雪で白く輝く高山のようにです。

本当に悪い人々とは、近くに存在していても分からないものです。
まるで、暗闇の中で発射された弓矢のようにです。

(原始仏典 ダンマパダ21章-304番)

(感想)
あの人は嫌いだ、嫌な人だと思われているような人は、まだまだ甘い単純な人なのかも知れません。
自分が嫌いな人は、本当は善人かも知れないという視点も忘れないでいましょう。
意外にも、良い人に見える人物に悪人が居るかも知れませんよ。
悪魔でもそうです。映画で「ダミアン」と呼ばれた悪魔の少年は、可愛い美少年の姿をしていました。

逆説的な裏を書くような説明をしましたが、
「善良な人々は、遠くに離れていても目立ち光っています」
これをそのまま素直に受け取って、自分も誰からも善人だと光って見えるような生活態度を致しましょう。
隠れた悪人でも、やはり顔相には出ています。顔の相は隠すことが出来ません。
可愛い悪魔の少年でも、たまに顔に出る影を隠せません。

他人の顔の相が分かる人間に成るためには、
* コノ世での苦労と努力の経験。
* 先祖へ感謝する気持ち。神仏へ感謝する謙虚さ。
の積み重ねが大切です。
この実績が、自分の顔相も変えて行きます。明るく頑張って生きましょう。


【編集者注記】ダンマパダについての記事は「番号昇順」とします。

20150224

  • 最終更新:2015-03-31 22:04:58

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