原始仏典:ダンマパダ(第19章)

■原始仏典:ダンマパダ(第19章)について
目次

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よく仕事が出来る人が、正しい人間であるとは言えません。

善と悪を「賢く」見極めることが出来る人こそが、正しい人です。

(原始仏典 ダンマパダ19章-256番)

(感想)
この項で釈尊は、仕事の評価に付きましては、「仕事が出来る人=正しい人」とは必ずしも言えないとだけ触れて、それよりも
「善と悪の区別を自分で正しく出来る人に成りなさい」と言われています。

今の社会にも、善と悪の区別を正しく出来ない人が増えています。
それの何が悪いのかが、本当に分からない人間が増えています。
危険ドラッグ、不倫、援助交際、詐欺、・・・・その人だけの自分勝手な屁理屈を言うものです。
でも、その人の良心(内在神)は、何が正しいのかを知っています。

つまり、善と悪の区別をいい加減に自分自身に対して甘くしているのが人の自我です。
でも釈尊は、善悪を正しく自分で区別する生活をしなさいと言われています。それが、真の幸福に繋がるからです。

他人への「配慮」や「思いやり」を自分が持ちますと、その視点から物事の善悪を正しく判断出来ます。
だから、この項は、
「他者への思いやりの有る人が正しい人です」とも言えそうです。

自分が善悪を正しく意識して、他者への思いやりを増すほど、内在神(良心)が発露した人に成って行きます。
意識の表面に内在神が現れて来ますから、自然と良い選択を自分で行い、自分がすることが成果を成し始めます。これがカンナガラ状態(神人合一)であり、これが増せば神人と成って行きます。
自分の生活の中で、人は神人へと進化を起こすことが可能なのです。もうそういう時節が始まっています。

アノ世に戻りますと、自分が辿り着いた次元よりも、アノ世の中で上の次元へ行くことは不可能なのです。アノ世では、次元と次元の間はまったく断絶しているからです。
アノ世で過ごす場所の次元を上げるには、コノ世に生まれ出て、コノ世で気付きと善徳貯金を貯めるしかありません。



他人を導く時は、声を荒らげずに、ルール(常識や道徳観)に沿って、淡々と公平性に留意しながら教えることが大切です。

そのような指導が出来る人は、正しいことを守りたい人であり、道徳観を持つ人であり、本当に賢い人だと言えます。

(原始仏典 ダンマパダ19章-257番)

(感想)
要するに、
(1) 声を荒らげて指導してはいけません。

次に大切なことは、指導するたびにルールが違っていてはダメなのです。
前回と同じ様にしたのに今回は怒られる、などが重なりますと、指導を受ける方はどうすれば良いのか混乱致します。
指導者(親も)は、過去の自分の発言と差異が生じないように注意しなければいけません。
そのためには、
(2) 指導者こそが、一定のルール(常識や道徳観)を持って生活することが大切です。

更に大切なことは、
(3) 指導者(親)は自分の発言に公平性を意識することが重要です。
兄弟でも、長男には怒らずに次男には厳しい(この逆パターンもあり)などを親がしていますと、兄弟の人生を大きく分けさせる因果と成ります。
公平性を欠いた指導ほど、人に屈折感と反骨精神を抱かせることはありません。
会社組織でも公平性がありませんと、社員はアホらしく成って働きません。

伸びる会社や良い家庭とは、一定のルール(常識や道徳観)と「公平性」を内部に維持することに懸かっています。
この項を読んだ時に、これは釈尊ご自身が注意していた事だと分かりました。
釈尊こそは、大人数の集団に常に囲まれた生活をしていましたから、集団の全体を公平に意識した発言をされていました。



多くの知識を持ち良く説明できる人が、本当に賢い人ではありません。

いつもニコニコしていて、他人を恨むことを知らず、ムダに恐怖を抱くことをしない人こそが、
本当に賢い人なのです。

(原始仏典 ダンマパダ19章-258番)

(感想)
飛び抜けて優秀な生徒に成るためには、その次元の段階ではさらに勉強以外の要素が必要に成るのです。
それこそが、この項で釈尊が仰る
(1) いつもニコニコしていること。
(2) 恨む気持ちを持たないこと。
(3) 恐怖感を持たないこと。

この3点に注意していますと、脳内ホルモンの分泌が変わって行くのです。
この脳内ホルモンは、どんなにガリ勉をしても追いつかない知識の吸収力をもたらします。
どんなに勉強しても、脳が持つ神秘力には敵わないのです。

これを逆に言いますと、
(4) いつも不安な顔、怒った顔、悲しそうな顔をしている人。
(5) 常に何でも他人のせいにして、人や環境も恨んでいる人。
(6) 常に恐怖感を抱き、何かを恐れている人。
このような人の場合は、脳細胞を減少させるホルモンが分泌されやすく成ります。
知らずに自分で脳を破壊して、嫌なことを「考えさせない」ように脳が自己防衛システムを自らに発動するのです。

なぜならば、自分の魂にとりましては(4)~(6)が重い因果を生むことを本能で知っているからです。コノ世の勉強などはもう関係なく、自らをアホにして悪い因果を残させないことを魂は優先して選択します。
細胞のアポトーシス(自滅スイッチ)機能は、霊的な因果を減少させるためにも起動します。
最新科学と正しい霊的知識は一致するのが本物です。本当の真理とは、そういうものなのです。

ー中略ー

子供も大人も、何が有りましてもニコニコしていることが、脳のホルモン分泌のためには重要でありお得です。
自分の生活の中でニコニコ顔を心掛けて行きましょう。



多くの知識を持ち良く説明できる人が、人としての正しい生き方をしているとは限りません。
教育を受けていなくても、
* 自分の人生から正しい生き方を学んで真理に至れる人
* 人としての道から外れない自制心を持つ人
こういう人こそが既に真理(天国)の中に住む人なのです。

(原始仏典 ダンマパダ19章-259番)

(感想)
人は、自分の人生から真理を学べると釈尊が言っています。
でも私たちは、自分の人生を他人と比較して、あの人の様な人生では無いから自分はダメだと思い込んでいます。
自分の人生なんて、恥ずかしくて嫌なものだと思い込んでいる人がいます。
でも、本当の真理の視点からでは、これは大きな間違いなのです。

自分の人生こそが、自分の今の魂にちょうど良いのが真実なのです。その人生以外は有り得ないのです。
なぜならば、すべては自分自身が過去生(20%)と今生(80%)の生き方から自分で創った、因果の相殺(そうさい:打ち消し合い)と、昇華のために出現して「くれている」のです。

ー中略ー

死後に自分の人生の「因果の糸」の流れと結び付きを見て思い出した時に、
* 悪い事は、すべては自分が悪かった。自分が原因だった。
* すべてが真に公平で平等な、「完全だった」。
ことを思い知ります。そして、

* 出来ることならば、もう一度挑戦したい。
* お詫びをしたい。

と良心(真我・内在神)に目覚めた魂は思うのです。あれほど早く死にたいと願っていた自分を思い出し、恥ずかしさと申し訳なさで悶絶します。
これを生きている間に、「そういうものかも知れない」と少しでも思える人は大丈夫です。
まだ素直さが残っています。今からの生き方が、明日からの80%を変えて行けます。



歳をとって頭が白髪になったからといって、誰もが老師(賢者)と呼ばれるものではありません。
ただ歳を重ねただけの人は、肉体が老化しただけの人間です。

そこで誠意が有り、道徳観が有り、情け心が有り、
他人を傷付けず、他人に譲(ゆず)る心を持ち、節制した生活をし、清潔感があり、
このような配慮が出来る人こそが、年齢に関わらず老師と呼ばれるべきである。

(原始仏典 ダンマパダ19章-260番・261番)

(感想)
どんな人でも大人に成っても、霊的には部屋の上方から見る視点と、自分の目で見ている視点の両方で今でも見ているのが真実です。
だから背後に人の気配を感じたり、危険を無意識に避ける瞬間が人間に起こるのは、霊的には自分自身が2方向からの視点を持っているからと言えます。

でも普通の人は、自分が上空からの視点を維持しているとは信じられません。でも、自分が夢で見る自分の視点を思い出すことが出来れば、分かる気がするでしょう。
これは霊的には、人は自分が繋がる「家系の霊線」が背中から上方に伸びていますから、その霊線からの視点を誰もが持っています。

だから自分が死んだ時には、自分の遺体の上方から見る視点を自分の心は再認識をします。誰もが上方からの視野を取り戻します。
つまり、今の生きている最中も、誰もが上方からも並行して見ているのが霊的な真実です。
そして自分の死後49日間のバルドォ期間(http://goo.gl/l6njy)に思い出します自分の人生の映像には、完全に上方から周囲のすべてを見ている映像で再現されます。

この誰もが逃れることが不可能な、天からの再現映像のことを思い出しますと、この項で釈尊が言われます、
「誠意が有り、道徳観が有り、情け心が有り、
他人を傷付けず、他人に譲(ゆず)る心を持ち、節制した生活をし、清潔感があり」
が何歳になっても本当に大切だったことを思い知ります。

ー中略ー

本当に、コノ世とアノ世の連動した宇宙とは完璧です。恐るべき叡智(神)が実在しています。
この叡智に触れますと、神宮に参拝するように、ただ参る(ギブアップ・降参すること)という心境が分かります。
だから今がどんなに苦しくても、自分の良心(内在神)を傷付けなければ大丈夫です。完璧な叡智がすべてを観ているからです。



嫉妬深くて、他人に分け与えることが嫌いで、ウソを言う人は、

どんなにキレイな言葉を言っても、どんなに立派に着飾っても、

聡明で美しい人には成れません。(262番)


嫉妬深いこと、他人に分け与えることが嫌いなこと、ウソを言うこと、

このようなことと絶縁し、自分の中から根絶し、

他人を恨むことをせずに、聡明であること、

このような人こそが「真に美しい人」だと言えます。(263番)

(原始仏典 ダンマパダ19章-262番・263番)

(感想)
人間は自分の顔が大切です。そこには、その人の「見えないはずのモノ」である誠意・愛情・慈悲・思いやり力・生き方・生活・現状・・・そのすべてが表れているからです。
しかし多くの人間は、顔かたちという「見える形」しか見ようとはしません。
でも形ならば、必ず劣化していくのがコノ世の宿命です。

しかし「見えないはずのモノ」は、年を経ても劣化するどころか輝きを増すことが可能なのです。
その内に消えて行く「見える形」を重視して人生を選ぶのか?(交友関係・結婚・仕事・・・・など)
その相手の「見えないはずのモノ」を重視して見るのか?
これだけで自分の人生も老後の生活も、運命も変わって行くのです。

人間は、自分の顔を生き方から作っている最中だということを忘れては生けません。自分の顔は、日々変化しているのです。
死ぬまで自分の顔を作り続けて、最後に自分の顔を神様に奉納してからコノ世を去ります。
このように考えますと、日本の伝統文化である能面とは奥深いものです。


大小では無いのです 2015-01-07 11:01:30

出家(しゅっけ:僧侶や修行者になること)したからといって、
人間として自制するマナー(異性交友・ぜいたくな飲食など)を守らず、
自分の行動と一致しないキレイ事を説教する僧侶は、
「人としての道」を既に踏み外しています。
自分の欲望と淫らな生活にいる人が、「人の道」を歩いているとは決して言えません。(264番)

人間は、小さいことでも大きなことでも、自分の良心に反することを止めることが出来た人は、すべての悪に勝ったことに成ります。
その人は、「人の道」に生きる人ということが出来ます。(265番)

(原始仏典 ダンマパダ19章-264番・265番)

(感想)
私が以前から感じていたことに、
* 幼児が非常に食べたかったお菓子が目の前にあるが、今は他の兄弟が留守でいないので帰宅するまで我慢すること。幼児の口からはヨダレが出続けていますが、自発的に我慢しています。
* 大人が色々なことを自制して我慢して御金を貯めて、社会貢献に使用すること。

この2つは、霊的には大差が無いということが有ります。
社会の常識的な尺度では、明らかに大人の行為が高く評価されることに成ります。
でも、霊的には幼児なりの思いやりにも、大きな光るものが存在しています。

要するに、それぞれの大小の魂の中で、どれだけ“自分の宇宙の中”での「思いやり」「他人のための自制」「努力をしたのか」が大切なのです。
行為や結果の大小が問題では無かったのです。

ー中略ー

この項の大事なことは、自分の良心に反する小さなことでも自制することが出来れば、すべての悪癖を止めることに繋がる可能性が有るということです。
小さなことでもバカにしては生けません。

誰もが自分自身の宇宙(内在神)を納得させるために生まれて来ています。
他人から評価されることや、他人に納得してもらう為に生まれて来たのでは無いのです。
だから他人と自分を比較する間は、大安心の心境は絶対にやっては来ません。
そこに、自分自身の宇宙を見ていないからです。他人の宇宙を見ては、勝手に比較して悩んでいます。


本当の修行とは 2015-01-10 11:10:04

コノ世で他人を征服するような快楽や悪心を捨て去り、
自分の日常生活を正しく努力し、
自分なりに世の中に貢献したいと真から思える人は、
そういう人々こそが真の修行僧と呼ぶに相応しいのです。

(原始仏典 ダンマパダ19章-267番)

(感想)
釈尊が、姿や形だけで修行僧とは呼べないと。
その人の生活の中身こそが、修行僧か否かを決めると仰っています。
だから普通の社会人の中にも、背広を着ていても、家庭の主婦にも、真の修行僧が知られずに存在するのです。

ここで問題が有ります。人は修行をするべきか?修行僧であるべきなのか?楽に遊んでいても良いのでは無いか?
と思われるかも知れません。

ここで誤解があるのは、修行=苦行、では無いのです。

ー中略ー

この項のキーワードは、「世の中に貢献したい」と思える人は全員が真の修行僧だと釈尊はしています。
修行=世の中に貢献したい思い、なのです。
そうしますと、「楽に遊んでいても良いのでは無いか?」という疑問に対しましては、
そこに、家族や他人を助けたい、という思いがなく「楽に遊んでいたい」だけでは、やはりダメなのです。
死んでも再び誕生して、人生をやり直すことに成ります。

ー中略ー

今の自分が出会う人々とは、来生の自分の姿である可能性を常に知って置いてください。
自分が目の前の人を助ければ、来生は自分が助けられる場面が既にインプットされて「織り込まれて」います。
これが磁気により、完璧に織りなされているのです。
この磁気を修正するには、今からの生活で上書き修正するしかないのです。
上書き修正も完璧に反映されます。



ただ沈黙している人を賢い人だと思ってはいけません。
その人は、本当に迷っており無知なために沈黙しているだけかも知れません。

正確な計量器を身に携帯するように、色々な物事を正しく判断して、悪い事を捨て去ることが出来る人こそが賢い人なのです。

コノ世に住みながらも、計量器にかけるように善悪の判断を正確に出来る人こそが、本当に賢い人です。

(原始仏典 ダンマパダ19章-268・269番)

(感想)
ただ黙っておれば良いということはありません。
コノ世の色々な場面において、自分の良心(内在神)に基づいて正しく判断をして行かなければいけません。また、言うべきことは、発言する必要もあります。つまり、
(1) 自分なりに出来るだけ正しく公平に判断・決断しようとすることが大切です。

そして、
(2) 自分で判断した上で、悪い事と判断したことは、「止める勇気」が大切なのです。
判断を自分でしたのは良いのですが、いつまでもそれを行動に出来ずに、ずるずると継続する人も多いのです。

(3) 自分で判断して決断したとしても、それを行動に移せない限りは、正しい判断を「した」とは言えないのです。
やはり、自分の中の何かが間違ったままなのです。
正しい正確な計量器を身に付けてはいません。

以上をもちまして釈尊は、人が本当に幸福に成れるためには、正しい判断と実行力が必須であり、それが出来る人こそ賢い人=賢人だとしています。
人は、「判断力」と「行動力」の2点が揃えば賢い人と成り、色々な幸福に繋がるのです。
人生には、この2点さえあれば、金銭も家庭も仕事も・・・・色々なことを手にすることが可能です。


究極の楽しみ方 2015-01-14 11:45:56

私は何事にも執着しないという、コノ世を離れた視点を持つ楽しみに安住しています。
この楽しみは、普通の人々には分からない究極の楽しみです。

この楽しみは、厳しい規則や修行によっても得られません。
猛勉強しても理解はできません。
どんなに瞑想を極めてもムダです。
人里離れて一人で住んでも得られない境地です。

修行する世の人々は聞きなさい。
自分の心の良心を汚す間は、何をしてもダメなことを。

(原始仏典 ダンマパダ19章-271・272番)

(感想)
日々の生活行為が自分に教えてくれるのです。
だから日常生活から「離れて」、わざわざ座り瞑想する人間が悟ることは100%無いのです。ましてや、これに金銭が絡むなどは有り得ない商売であり、愚かな行為です。
これは近代の聖者・ラマナ・マハルシも同じことを発言しています。

自分の今の日常生活こそが、善悪含めてちょうど良い、のです。すべての因果が反映して、常に今の環境が出現しています。
自分の因果を昇華させようと「してくれる」環境が、常に示現します。良い意味でも悪い意味でも、自業自得が有ります。

だから、もし今の環境が苦しくて嫌ならば、その中で執着を持たずに頑張ることが大いなるチャンスです。
出すものを出し切れば、後は変わるしか無いのです。
中途半端に自分が文句と屁理屈を言いながら逃げる間は、今の嫌な環境は継続します。
良い意味でアキラメて、今の環境の中で頑張ることが誰にも大切です。
これが極まれば、必ず次の情景が広がります。

この生活の過程こそが真の瞑想なのです。
それも釈尊が言われますように、その中でも嫌な執着を持たずに「純粋に」頑張ることが出来れば、最高の楽しみが分かるように成ります。
そして最も大切なことは、以上の過程を自分の良心から外れないように歩いて行くことが最重要なのです。


【編集者注記】ダンマパダについての記事は「番号昇順」とします。

20150130

  • 最終更新:2015-10-26 11:14:18

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