原始仏典:ダンマパダ(第17章)

原始仏典:ダンマパダ(第17章)について
目次

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自分から怒りを捨てなさい。
おごり高ぶる心を捨てなさい。
自分の心をどんな物事にも縛ってはいけません。

名前と形にこだわらず、自分の欲心を一切捨て去った人は、
悩みが来ましても悩みに取り囲まれることがありません。

(原始仏典 ダンマパダ17章-221番)

(感想)
自分の心配心を取り除く最高の手段は、
* もう、それについて考え込まないこと。自分が心配する対象について執着をしないこと。
* その心配事に対処する行動を、淡々と無心ですること。
この継続が、自分自身を納得させるのです。
その心配事への自分の執着心を段々と解いて行くことに成るのです。
「心配するよりも行動しなさい」、ということです。

人間は、「自分を納得させること」「自分自身を安心させる」という任務を誰もが背負っていることを知って置いてください。
実は人の人生のすべての行動の奥には、人が生まれて来る大きな目的には、
* 自分自身を納得させるため生まれて来る。
* 自分自身を安心(成仏)させるために生まれて来る。
このために誰もが誕生しているのです。
他人を納得・説得するために生まれて来るのでは無いのです。



走る牛車の速度を落とすように、自分の湧き起こる怒りを抑えることが出来る人がいます。
私は、そのような人こそを真の騎手(きしゅ:操縦者)と呼びます。

他の人は、自分の怒りを抑えることが出来ない、ただ手綱を持つだけの人間であります。

(原始仏典 ダンマパダ17章-222番)

(感想)
自分の怒りに呑まれる人は、まだ動物的な意識のレベルだという辛辣(しんらつ)な意味がこの章には在ります。

どうすれば自分の怒りを人はコントロール出来るのでしょうか?
* 自分が愛情を持つこと、思いやりを持つ、感謝の心を持つこと。
* 相手の立場に成って考えて見ること。
* 時間の経過が解決することを信じて、先を想像すること。
* それも仕方がないと、自分がそのことに執着をしないこと。
などが挙げられます。

しかし、これだけでは怒りを鎮めることが難しいことはあります。
そういう時は、対応できる社会の手段を尽くした上で、
* 天に判断を任せることです。
* 両方の良心(内在神)が見ていることに任せ切ることです。

ただし、これを現実に発動させるには、普段から
* 自分自身が先祖を感謝で供養していること。
* 自分の心の内在神(良心)に感謝をしていること。
このことが必須です。

霊的には、これにより蓄積された霊的磁気が発動します。
自分が思う以上の意外な顛末を引き起こすことも多々あります。それはコノ世の善悪を超えた、畏れ多いこともあります。

*要は、自分が正しく生きていれば大丈夫だということです。
怒りに呑まれることもありません。
今日も、自分の良心に沿って生活を致しましょう。



怒りに対しては、それでも自分は怒らないことによって勝ちましょう。
悪事に対しては、それでも自分は善行を貫徹することによって勝ちましょう。
ケチな性分の人には、それでも自分は他人に分け与えることによって勝ちます。
ウソつきな人には、真実をもって打ち倒しましょう。

(原始仏典 ダンマパダ17章-223番)

(感想)
釈尊が言う勝利とは、コノ世だけで消え去る小さな勝利ではありません。死後にも来生にも、その相手に勝るという真の意味での勝利なのです。

人は、コノ世の目先だけの勝利をするために右往左往し、他人を傷付け、良心に背くこともします。
そのすべては、コノ世を去る時に置いて行かなければ生けない勝利であり、更に死後にはその反射を受けなければ成らない借金であるのが霊的な深層です。
コノ世とアノ世のセットで考えますと、「本当は勝利では無かった」ということがコノ世の勝利には非常に多いのです。

コノ世とアノ世を合わせたセットでの勝利こそが、本当の偉大な勝利なのです。
その恩恵は、来生での恵まれた環境へと「転化」もされます。その前の死後の待遇もVIP待遇です。
コノ世だけの見せ掛けの勝利とは、何と損な勝利なのでしょうか。その勝利は貧乏クジである可能性を知って置いてください。コノ世には、気の毒な見せ掛けの勝利者が非常に多いです。
でも、コノ世でもアノ世でも勝利者に成れる立派な人物も居られます。

つまり、今の自分が敗者でもまったく問題は無いのです。コノ世だけを見るから敗者なだけです。慌てなくても良いのです。
コノ世とアノ世を合わせて、因果の帳尻と相殺をしても、善が少しでも勝ればそれは勝利者なのです。先ず霊界以上は保証されます。
自分が悪事をしたならば、それ以上の善を為せば問題はありません。


自分自身を見詰める機会 2014-11-09 11:52:21

今の時代だけではなく、古来から言われ続けていることがあります。
人は、黙っていても非難されます。
多くを説明しても非難されます。
少ししか話さないでいても非難されます。
つまり、世の中には非難されない人は誰も居ないということなのです。

(原始仏典 ダンマパダ17章-227番)

(感想)
他人から怒られた時に一番にいけないことは、
* なぜ自分だけが? あの人はなぜ怒られないのか?
つまり視点が自分自身に向かわずに、常に「他人へと」と自分の不満のほこ先が向かうのが大半の人々です。

そして、肝心な自分自身を見詰めることから余計に離れていきます。
自分を見詰めない限りは、また同じ失敗や癖が治らずに、また更に他人から非難されます。
でも、言われた人は更に他人の粗(あら:欠点)ばかりを見て、自分自身を見詰めて直す視点が不足します。
この悪循環を断ち切るには、

* どんな人でも必ず非難されていることを知ること。
* 自分が非難されれば、他人よりも更に自分自身のことを冷静に静観すること。
このようなことが大切です。

問題は、他人を安易に非難する人間はどうなのか?
その人は、そのように他人を非難できる資格が本当にあるのか?
実は、これは霊的には、恐ろしいことを非難する側の人間は犯しています。
自分が非難した相手を、自分自身の内在神(良心)が正しいと認めれば、その非難者は自分の内在神から怒られています。

他人を非難した側の運気が低下したり、健康を失くしたり、ひどい場合は非難した本人の寿命も本人自身の内在神が削ります。
非難された相手自身の内在神と連動して、良心に基づく公平な判断が自分の内面から下されて行きます。多くの人間は、このことに気付けません。
一番に恐れるべきは、自分自身の良心(内在神)なのです。

また、世の中には昔で言う「天狗憑き」という、幽界との契約をアノ世でして来ている人間がたまに居ます。
このような人間の悪口を、陰で言うだけでも大変です。場合によっては命まで取られます。
言われた本人は何も知らなくても、その背後存在が直ぐに飛び回ります。



肉体が性欲で苦しく感じる時は、それ自体を静観して落ち着かせなさい。
肉体の行為には切りがないために、つつしんだほうが楽なのです。
肉体による欲情の行為よりも、肉体自体に良い行動(仕事)をさせることで収めなさい。

(原始仏典 ダンマパダ17章-231番)

(感想)
欲情を感じるのも、興奮も、性的な絶頂も、すべて自分の「心が」感じることであることを忘れてはいけません。これを肉体に有ると、勘違いしているのが多くの人間なのです。

つまり性欲とは、どんな肉体行為でも最終的には昇華し得ないものであることを知って置いてください。どんな道具やモノや他人を使用しても同じです。
最終的には、自分の心を満足させるしか、本当の性的昇華は起こらないのです。

インドの聖者・ラーマクリシュナは、心の覚醒=最高のエクスタシー、恍惚(こうこつ)、忘我、であると断言しています。
どんな性行為の絶頂よりも、心の覚醒は数倍の快楽だとしています。
人間は、自分の右胸に内在する大いなる存在・母性のカタマリとの融合(覚醒)こそが、最高の快楽でもあるのです。

私の体験でも内在する母性(神)との融合とは、最高の快楽です。これを1度でも体験しますと、肉体による性的な絶頂とは、耳かきぐらいの気持ちよさであったことを思い知ります。
ただ、頻繁にこのような体験を日常生活で繰り返すことは、自分の社会生活に影響しますので「来そうだ」という感覚が事前に分かりますのでセーブをしています。意識を他に向けることで止めることも可能です。

このような自分に内在する母性に目覚めるには、
* 日々の生活の中で感謝すること。
* 他人へ慈悲・愛情・思いやりを持つこと。
* 自分に内在する神様と先祖(遺伝子DNA)に感謝をする行為をして行くこと。

この継続が、ある日に自分に内在する大いなる母性(神)の目覚めを起こします。
まさに天照太御神との神人合一(カンナガラ)が「起」こります。
コノ世のすべての刺激も快楽も肉体には無く、それを感じることが出来る自分の心にこそ在ることを忘れないでください。

だからこそ、自分の心を守りましょう。
自分の心(内在神)を大切にしましょう。
そうすることで、「他人の心も」本当に大切にすることが可能に成るのです。



悪い言葉を言いたくて苦しくなる時は、
その言いたい言葉を静観して落ち着きなさい。
自分が話す言葉に注意しなさい。

自分が話す言葉により罪を作らないように注意して、
自分の言葉によって善行を為すことも可能なのです。

(原始仏典 ダンマパダ17章-232番)

(感想)
なんと自分の運命と命を左右している根本原因には、自分自身が話す言葉がある可能性を知って置いてください。

これは言霊(ことだま)という霊的視点から観ましても、間違いではありません。
人は自分が話す言葉により、今の環境が設定されて行くと考えてください。
本当に運が良い人の言葉とは、キレイであり、静かであり、温かいものです。

(中略)

私たちも普段に心中で思う言葉が、自分の和歌(言霊)だと知って置いてください。
これを正せば、最も強力に自分の運命を変え、嫌な相手を調伏(ちょうぶく:相手を制すること)することも可能なのです。

このような日本の古代からの伝統と同じ意味を、この章で釈尊は仰っています。


時間差にダマされるな! 2014-11-12 10:45:21

心に悪い妄想がどうしても起こる時は、
その状況を静観して落ち着こうとしなさい。
自分の心について注意してください。

自分の心に悪事を実行させずに、
心の中で善行を為すことも人は可能なのです。

(原始仏典 ダンマパダ17章-233番)

(感想)
この章で釈尊が言われています、
「心の中で善行を為すことも人は可能なのです」
は真実なのです。
しかし多くの人間は、自分で想像しても夢が実現しないから、それはウソだと思っています。
しかし、タイムラグ(時間差)を考えますと、これは間違いでは無いのです。
コノ世には時間があるために、「今直ぐに実現しないことは間違い」だと認定されています。
でも、時間が消えたアノ世では真実です。

言えますことは、私たちがコノ世に存在しているのは期間限定であるという事実です。
つまり、今は、コノ世がスクリーン映像に相当します。
これが、コノ世での期間が不死になる時は、アノ世が無いか、アノ世がスクリーン期間へと反転します。
今はちょうど、昼夜入れ替えの反転が始まり出す時節だと感じています。

いずれにしても本当の自分(内在神と一体)は、絶対に安全な右胸の中(アノ世でもあり、宇宙でもある)に実在しています。
だから今の見えるスクリーン映像(今の環境)が苦しくても絶対に大丈夫です。
必ず期間限定です。

だからこそ、逆に思いっ切り「悔いなく」今を演じ切ることが大切なのです。
アノ世でも、その余韻を楽しめます。
その内容が濃いほど、大きな楽しみと成ります。
今日も自分の任務を頑張りましょう。



冷静であり配慮が深い人間は、
他人の前では自分自身のことを控えめにしており、
話す言葉を控えめにしており、
心を安静にしています。

このように振る舞う人間は、最高の守護を自分自身で行っているのです。

(原始仏典 ダンマパダ17章-234番)

(感想)
人間というものは、運が悪かったり、何かで墓穴を掘るのも、他人にその原因を探しがちですが、ほんとうの真実は自分自身の日常の振る舞いが不幸を生み出しています。
だから、自分は運が悪い、自分の人生を変えたいと思う時は、釈尊が指摘する上記の条件を参考にするのも良いでしょう。

上記は実に日本人的な特徴であり、外国人が日本女性に抱きがちな幻想だとも言えそうです。
インドで生まれた釈尊の思想が日本で開花したのも、古来からの日本人の習性に合致するものが多かったからでしょう。
同じアジア人の中でも、その国ごとのグループで集まれば、日本人の集団は直ぐに分かるほど静かな集団です。
霊性的にも、これは大切な特徴だということです。

このように考えますと、今の日本人で新たな意識の開花というものが起こらなかったならば、人類の次の意識の進化は無理なのでしょう。

(中略)

正しい先祖供養は、多くの人間に言葉では説明出来ない安心感と、実生活の変化を現実に起こします。
自分の遺伝子(先祖たち)へ意識を向けることで、その人に何かが起こるのです。遺伝子のククリ直しです。

(中略)

先ずは、心ある人々から、大自然の縮小版である氏神(うじがみ:地域にある神社)と、先祖霊に日々感謝をして行きましょう。
この継続が、自分自身と周囲の人々を無意識下で変えて行ける時節が、数千年ぶりに到来していると私は感じています。


【掲載順序】本ページは「日付昇順」とします。



  • 最終更新:2020-06-11 21:11:55

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