原始仏典:ダンマパダ(第12章)

■原始仏典:ダンマパダ(第12章)について
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自分の中に尊い存在が居られることを知る縁が持てたならば、
自分自身のことを本当に大切にしましょう。

コノ世には各人それぞれに応じた3つの大きな欲望がありますが、その内の1つだけでも良いから、自分なりに我慢する習慣を持ちなさい。
それが出来る人が、本当に賢い人だと言えるのです。

(原始仏典 ダンマパダ12章-157番)

(感想)
人間とは、自分では気付けなくても、生きる限りは何かの欲望を抱えているからこそ、生きているとも言えそうです。
そして釈尊は、自分に色々な欲望がありましても、その内の1つだけでも良いから、我慢して節制する意識が大切だと示唆します。

ー中略ー

子供に我慢を教えることが、その子の運命を変えると言えます。
そして、我慢することが社会での真の修行となり、本当に大切な自分に内在する大いなる存在を気付かせる切っ掛けにも成り得ます。
もし、自分に内在する尊い存在にも気付ければ、その人はコノ世でもアノ世でも、その魂(心)は真の勝利者なのです。これは本当に凄い意味が有ります。

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昨日の記事で、「我慢するのは堅苦しい」「我慢はストレスが溜まり良くない」
と思われた方も居られることでしょう。
でも、よく読んで頂きたいことは、釈尊は
「3つの欲望の“全部を”我慢しなさい」
とは決して言っていないのです。「多くの欲望の内の1つだけでも良い」とわざわざ仰っています。

「3つの」という数字は、多数を意味する場合の比喩表現でもあります。
数ある人の欲望の内、1つだけでも良いから自分でコントロールする意識を持つことは、人として重要な意味を持ちます。
1つでも欲望を管理出来るか、否かで、その人の人生を決めて行きます。
1つでも抑制出来る人は、やはり自分の全体も管理が出来る人なのです。

ー中略ー

欲望という表現を、「自我」という言葉に置き換えますと、より霊的な意味がハッキリします。
自我(欲望)に呑まれる人が、真我(しんが:良心・内在神)を心の表面に実現できるわけがありません。
自分の自我(欲望)とナントカ調和を付けて行く中で、大いなる存在の真我を自分の中に感じ始めます。



他人に何かを言う前に、先ず自分でそれをしてみましょう。

自分自身を管理できる人だけが、他人を管理することが可能に成ります。

人は自分自身こそが、一番に制御することが難しいのです。

(原始仏典 ダンマパダ12章-159番)

(感想)
この章を子育てにも当てはめて見ますと、親は非常に耳が痛いです。
ここには、子供が親の言うことを聞かなく成る理由も示されています。

ー中略ー

ここで、もう1つの霊的な視点を紹介しますと、
「はたして、他人とは本当に存在しているのか?」
「本当に実在しているのか?」
という問題があります。
夢の中でも他人は出て来ますが、直ぐに消えて行きます。
コノ世にしても、どんな他人も100年もすれば跡形もなく消えています。

釈尊はこの質問に対して、
「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)
つまり、コノ世にも宇宙にも、自分一人しか存在していないのが真相だと答えています。
これは孤独という寂しい意味では無くて、
「あなたが見ている、その嫌な他人も自分の姿である。同じ1つの霊体である」
「コノ世には1つの大きな霊体しか存在していない」
「この同じ霊体は、宇宙空間をも満たしている」

要するに今の自分とは、大きな1つの霊体のどの部分を担当して「突起」しているのか?
だけの問題であり、時期が来ればその突起(今の自分)は、大きな1つの本体に収まって行きます(帰ります)。

ー中略ー

ここで、この章に戻りますと、「今回の」「今生の」飛び出た自分という突起を、なんとか管理をしましょうということです。
1つの突起が自己管理を達成しますと、その周囲の突起(他人)も良い影響を受けるのです。

すると、大きな本体の「ある部分」の突起全体が改善します。
そして、本体全体にも改善の波が波及しますと、本体自体(根源存在)も次の進化をするのです。非常に壮大なことです。
今日も、先ず自分という突起から、担当する自己責任を持ちましょう。



人は、自分自身の主(あるじ)であるべきです。

しかし、多くの人は、他人や他のモノが主に成ってしまっています。

自分自身を良く制御できたならば、その人はかけがえの無い「本当の自分」というものを取り戻します。

(原始仏典 ダンマパダ12章-160番)

(感想)
多くの人間が他の何かに支配されて生きています。
自分を制御しているのは自分自身では無くて、他の何か?ということです。
その他の何かとは、家庭内暴力をする家族であったり、異性関係や、借金、ネットゲーム、薬物依存、新興宗教・・・・・人により自分の支配者は千差万別です。

今の自分を支配するモノのために、自分の生活がそれを中心にして「知らずに」支配されています。
自分の主が自分では無いために、他に支配されるロボットであるのが霊的な状態です。
自分の意志が閉ざされているために、何も成さないままムダな「繰り返し」の時間を浪費して行きます。
要は、これでは幸福には成れないのです。すべての運気が悪循環と成ります。

これの原因が、本当の自分自身を押し込めて、他のモノに支配されているからです。
他のモノに支配されている人間には、貧乏神も寄って来ます。
では、自分が自分自身の支配者と成れれば、どうなるのでしょうか?
これを「目覚めた者」ということが出来ます。

目覚めた者は、本当に自由に成れます。
自分が「思う」ことが、時間差を置いて出現することに成るからです。祈願など不要です。
自分が思うことの大半が、後で気が付けば実現しているということが始まります。

では、目覚めた者に自分自身が成れるためには、どうすれば良いのでしょうか?
そこで釈尊は、
「人は、自分自身の主(あるじ)であるべきです」
「そして、その方法が、自分自身で節制した生活を始めることです」
と、この章で説明しています。



人間とは、悪い事や、自分の欲望を満たすことは、簡単にするものです。

しかし、他人のために成ること、他の存在のために良い事は、本当に物凄く出来ないものです。

(原始仏典 ダンマパダ12章-163番)

(感想)
人類のサガ(性)とは、古来から他人のためだけの善行をするのは稀有(けう:まず無いこと)なことだと釈尊が指摘しています。

その前に、
* 悪い事は、簡単にしやすいということ。
* 誰もが自分が生きるための損得を無意識に考えているものだということ。
この2つのサガ・性を釈尊は指摘しています。

ただ、その上で、他人のために良いことを思うだけではなくて、実際に「行動」が出来ることは稀有で珍しいことであり、本当に素晴らしいことなのです。
でも、他人のための善行でも、そこには駆け引きや打算があるのでは無いか?と思う人もいることでしょう。
しかし、これは善行を「継続する」という「行動」が、その本性を証明します。

ー中略ー

先ずは、自分の家族という「他」に対して、自分の良心が望む「行動」をして行きましょう。
この「継続」が、大いなる存在が実在することを、必ず自分に体感させてくれます。



自分が悪事をすれば、自分が穢(けが)れます。

自分が善行をすれば、自分が清まります。

つまり、自分が穢れるのも、清まるのも、“自分次第なのです”。

だから、他人が自分のことを浄化させることは、それは絶対に不可能です。

(原始仏典 ダンマパダ12章-165番)

(感想)
またまた釈尊が、古代からあり現代社会でも見られます、自称の除霊や霊能商売を「根本から」否定しています。
「そんなことは出来ない!」
と釈尊は、この章で完全に否定されています。

ー中略ー

「自分自身が」掃除をしなければ、除霊を受けても自宅は汚いままです。何も変わってはいません。一時の気分にダマされているだけなのが霊的な真相です。
霊的な真相では、自称の除霊を受ければ、更に穢されているのが100%の実態です。本来の自分の霊的磁気が、他人先生からの異種の汚物により上塗りされています。
しかも、その相手の先生とは、悩み困る人から1回幾らで金銭を搾取している人間です。

これは神界や霊界から見ますと、許すことが出来ない人類の敵であり、霊的犯罪者としてアノ世で実際に指名手配されているのが霊的実態です。私の脳内には、アノ世で手配書を掲示する場所も実在しています。
このような人間に面会するだけで、次回からもリピーター客として面会に来るように、定期的に不気味な不幸に襲われ始めます。自分が縁を持ったゆえの自己責任です。
これは本当に霊的な「サラ金」と同じであり、1度の縁で自分の運命が悪化します。
絶縁して不干渉にすることが大切です。

この章で釈尊は、ちゃんと改善策も提示されています。
「自分が善行をすれば、自分が清まります」
これを365日継続することで、誰もが清まって「自分で」生まれ変わって行くのです。

他人先生が、自分の人生を代わりに生きてくれるのでは無いのです。

では、何をすれば良いのか?
「自分の良心が欲することを為すのです」
これが最高の除霊であり、自分の生活も現実に改善して行きます。



他人にとって非常に大切な仕事の用件がありましても、その他人の仕事のために自分のするべき仕事を放置してはいけません。

人間は、自分の人生にとって一番大切なことを常に意識し、自分の仕事に専念することが重要なのです。

(原始仏典 ダンマパダ12章-166番)

(感想)
この章を見ますと、釈尊は偽善的な無理な他人への自己犠牲を否定し、先ずは自分の人生を大切にすることを推奨していたことが分かります。
釈尊は、やはり非常に現実的な御方であり、すべての本質を悟った聖人であることが、この章からも良く分かります。

ー中略ー

つまり、この章の釈尊の「深意」は、他人よりも自分の仕事を優先するという自己中心的な意味に受け取らずに、
「他人の事を本当に助けるためには、先ず自分自身の事を頑張って置かなければ、“継続しない”」
ということなのです。

この章は、言葉の上辺だけを受け取らずに、その言葉の通りに素直に実践して見れば、
「他人を助けることが可能に成った」
という真逆の結果を呼ぶことを教えてくれています。
まさに、実践が自分に教え、「本当の」先行きを導いてくれるのです。


【編集者注記】ダンマパダについての記事は「番号昇順」とします。

20150115

  • 最終更新:2015-03-31 21:51:02

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