原始仏典:ダンマパダ(第10章)

原始仏典:ダンマパダ(第10章)について
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他人を痛めつけるような言葉を使用しては生けません。

言われた他人は、言葉で反論するか、もし言えなければ心中で言い返しています。

他人を痛める言葉は、必ず苦痛という現象を生みます。

他人を痛める言葉を言った人は、いつか必ず苦痛という反射を受けることに成ります。

(原始仏典 ダンマパダ10章-133番)

(感想)
釈尊が、言霊(ことだま)について説明されています。
他人を痛めつける言葉を吐きますと、言われた人も傷付きますが、発言した人も自分自身を傷付けているのが、霊的な真相なのです。
だから、汚い言葉を使う人は、その人の顔付きから、思考から、身なりから、行動から、食べ物まで、すべてが嫌悪されるべき様相に向かって行きます。
自分では知らずに、自分自身が使う言葉により、自分の明日を形成していたのです。

新約聖書にも、
「宇宙の原初に言葉ありき。言葉は常に神と存在する。言葉は神だった」
という宇宙創造の説明があります。

(中略)

つまり、明日の自分をより改善させるには、今日使う言葉に注意を致しましょう。
だから上記に釈尊が言われますように、「他人を痛め付ける言葉」などは、いかに恐ろしい言霊を「自分自身に対して」生むのかを知って置きましょう。



本当に愚かな人とは、自分が悪い事をしておきながら、それが悪い事だと思えない人のことです。

そして、愚かな人は自分自身がした悪事に自分で気付け無いまま、まるで衣服に火が付いていることに気付け無いままのように、自分の悩みに巻かれて行きます。

(原始仏典 ダンマパダ10章-136番)

(感想)
問題点さえも「認識出来ない」限りは、
* 改善すべきだと思えない。 * そのままで良いと思っている
つまりは、変わることも、成長することも出来ません。

逆に言いますと、
* 自分が悪いと分かっている。 * 自分に直すべきことがあると分かっている。
このような人は、まだ改善して行く、成長する可能性が有ると言えます。

(中略)

自分が成長すれば、悩みは本当に減るのか?
これは言えるのです。ただし、霊的な成長のことなのです。
霊的な成長が高度な段階では、
「何も考えないことが多い」「無思考の状態」「心が心配に動かずに静かである」
「心の安静状態」「ただ、すべてに感謝が浮かぶ」
「視点が安定していて、目が無闇に動かない」

このような状態を、忙しく勤務している最中の人でも、「実現している」人をたまに見掛けます。
子供でもたまに見掛けます。そのような子供が通う学校を聞きますと、やはり、という感じです。
つまりは、霊的な成長とは、年齢とは関係なく、家事や勉強も含めてどんな仕事でも「起こす」ことが可能です。

そういう人たちの共通点とは、日常生活の中での問題に「気付けた人」であり、
問題を認識して対応する「継続をした」人々です。
そのような生活は、自然と霊的な成長を「起こし」ます。
ただし、家の誰かが先祖霊(遺伝子の集合体)に感謝をする行為が家庭内に有ることと、自分自身も先祖に感謝することに反発する気持ちが無いことが共通点です。



どんな衣服を着ていようが社会の中で、
その人の行いが静かであり、
その心が安定しており、
常識の有る身だしなみであり、
自分のストレスの発散のために他の生き物を傷付けない人は、

誰もが神に仕える神官であり、
道徳の有る人であり、
真の修行僧だと言えるのです。

(原始仏典 ダンマパダ10章-142番)

(感想)
この章で釈尊は、社会の中で常識を持ちながら生きる人こそが、真の修行者であり、神官であり、道徳者だと断言されています。
2500年も前のインドの社会で、このような発言を残している釈尊とは、現代社会にも通じる真面目な常識人であったことが良く分かります。
このアタリマエな言葉は、今でも斬新であり霊的な本質を突いていることに感動を致します。

社会の中で、苦しみながらも常識を持って生きようとする人間こそが、本当に偉い修行者だったのです。
会社で罵倒されながらも、ボーナスを削られながらも、家庭でも怒られながらでも、
心が静かであり、行動にも常識を守り、身だしなみも普通の人こそが、
大いなる存在から愛される人に成れるのです。
ただし、他人や他の動物をイジメルことでストレスを発散させない人であることが条件なのです。

(中略)

この章の英語の原文では、「道」に生きる人、という表現が成されています。
私はこれを「道徳の有る人」と訳しましたが、やはり釈尊の言葉には聖者である老子の影響がここでも散見されます。
ほぼ同じ世紀に生きたと思われます、釈尊と老子という霊的な巨人が、二人共に
「常識」と「道徳」
の大切さを何度も念を押されています。



自分の恥ということを常に謙虚に思いながら、自分自身を抑制している人。

優れた競走馬がムチで叩かれることを恐れないように、他人から非難されることを恐れない人。

このような人がコノ世には、まだまだ少なくて稀有な人です。(143番)


だからこそ、優れた競走馬のようにムチで叩かれても努力をして突き進みましょう。

そのためには、正しい真の信仰を持ち、自ら謙虚に自戒(じかい)し、

自ら全力で努力し、心を常に集中させ、正しい真理を聞く耳を持ち、

このようにして自分の知識と生活行為を正せた人は、

この継続によりコノ世の苦しみを取り除くことが可能に成ります。(144番)

(原始仏典 ダンマパダ10章-143番・144番)

(感想)
優れた競走馬はムチで叩かれても怯(ひる)むことが無く、走り続けることが可能です。
私たちも、自分の良心(内在神)が同意する事、納得している事は、どんな非難を他人から受けましても邁進(まいしん)することが可能な「はず」なのです。
それを怯(ひる)む時点で、迷う時点で、自分の良心(内在神)からの視点で見直して見ることが人生には大切です。

ここで釈尊は、優れた競走馬のように無心に邁進し、コノ世の苦しみを取り除くことが可能に成れる条件として、

(1) 正しい真の信仰を自分なりに持つこと。
(2) 自ら謙虚に自戒(じかい)すること。
(3) 自ら全力で努力すること。
(4) 自分の心を常に集中させること。
(5) 正しい真理を聞く耳を持つこと。
(6) そして、自分の知識と生活行為を正せること。

このような6個の条件の「継続」を教えておられます。
問題は、「正しい真の信仰を持つこと」です。
釈尊の発言を総合的に読みますと、この信仰を自分自身の内面に「既に在る」崇高な存在に求めることが正解なのです。
自分以外の他人や、外の何かの物に正しい信仰を求めることは大間違いなのです。釈尊は、これを厳禁としています。



{ 壊れた鐘(かね:音を出す楽器)は、「叩かれても」響きません。嫌な音も出しません。
これが人の場合は、
自らが荒れた言葉を出したり、
他人の嫌な言葉に影響されたり、
自分の怒りで震えなければ、
自分の心身は何の影響も受けません。その心は、平安なままが続きます。}
(原始仏典 ダンマパダ 134番) 

他人の「嫌な」言葉に影響される人は、まるで敏感で繊細な鐘のように、よく影響を受けて心に響かせています。
これを壊れやすい「ガラスのような心」と言う場合も有るでしょう。
近年の人間には、「おおらかさ」が消えて、
まるで打てば、いつまでも鳴り響く鐘のように成っている人を見掛けます。

いつまでも鳴り響く心は、本人の心身に良くありません。

(中略)

・ 他人からの嫌な言葉は、意地でも心身から流して行きましょう。

だから、もし嫌なことが自分に有っても、
・ 自分の心には響かせないぞ、という誓い。
これを、これから更に意識して欲しく思います。


【掲載順序】本ページは「日付昇順」とします。



  • 最終更新:2023-11-17 21:07:23

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