原始仏典:スッタニパータ(第1章5節)

原始仏典:スッタニパータ(第1章5節)について
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鍛冶屋職人のチュンダが釈尊に質問します。

「正しく完全に悟った知恵の仏陀(ブッダ)であり、
すべての真理に通じる御方であり、
世間で有名に成りたいと思う深層心理が消えた御方であり、
人間としても人類で最上の人であると思われる、あなたに質問を致します。

コノ世には、どんな種類の修行者が存在するのですか?どうぞ教えてください」

(原始仏典 釈尊の言葉 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章5節-No.83)

(感想)
まず、驚きますことは、この鍛冶屋職人が非常に博学(はくがく:深い知識を持つこと)なことです。
最初の4行は、釈尊を賛辞する言葉なのですが、知識の無い普通の職人がこんな表現が出来ることではありません。
自分自身で悟りを経験した結果、コノ世のすべての「要点」を自然と知った叡智を感じさせます。

(1) 「悟り」という言葉は、その経験を知らなくても誰でも何となく使用は可能です。
でもここで鍛冶屋職人は、「知恵の」という、色々な悟りの段階が有る中でも、最高の境涯の悟りを指定しています。
なぜ職人は、指定が出来るのでしょうか?

(2) 正しく悟れば、他人から習わなくても、コノ世と宇宙に既に在る法則(真理)が自然と視え出す・分かる、ことに成ります。
釈尊に会って、あなたは「すべての真理に通じる御方である」、と鍛冶屋職人が断言しています。

鍛冶屋職人には、釈尊がそういう御方だと分かった訳です。
普通の人が釈尊に会いましても、背が高くてハンサムだと思えても、ボロを着たただのオッサンに見えたことでしょう。

(3)「世間で有名に成りたいと思う深層心理が消えた御方である」
釈尊を見て、鍛冶屋職人はこう指摘しています。
釈尊の内面・その到達した境涯が、職人には分かったようです。

これは老子も同じことを言っています。
「世間に顔が知られるようになれば、それはニセモノだ」
と当時の有名な精神的な指導者たちを評しています。


人類の根源的な法則 2017-05-25 11:39:30

釈尊が鍛冶屋職人のチュンダの質問、
「コノ世には、どんな種類の修行者が存在するのですか?」
に答えます。

「チュンダさん、コノ世には4種類の修行者が存在します。
5種類目の修行者は存在しません。
あなたに真正面から問われたことに返答を致します。

第一の修行者は、コノ世のすべての我欲に打ち勝った人。

第二の修行者は、修行方法を無償で説明・解説する人。

第三の修行者は、修行方法に従って生活する人。

第四の修行者は、修行方法を教えることを悪用し、修行という名の下(もと)に悪事(金儲け・性交・社会悪)を行う人。

以上の4種類の修行者がコノ世に存在します。

(原始仏典 釈尊の言葉 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章5節-No.84)

(感想)
驚くべきことは、釈尊が示された修行者の4種類の分類は、2500年を経た今の世でもまったく同じだと言うことです。
特に「第四の修行者」が存在することが2500年も前から継続しているということは、これは「修行」「信仰」「宗教」という名の元に必ず生じる人類の性(サガ)だと言えそうです。

(中略)

では、肩書を信用しては生けないと言われますと、私たちは何を見て人物を判断すれば良いのでしょうか?
いつの時代にも共通することは、その人物が、

* 思いやりの有る人か?
* 節制した真面目な生活をしている人か?
* 無償で愛情深い行動をしている人か?
* どんな収入で生活をする人なのか?

このような視点で相手を見れば、冷静な判断が出来ると思います。

(中略)

末法(まっぽう:正しい教えが消えて破滅に向かう世紀)の世では、どんな肩書も信用が出来ません。どんな中にも変な人が居ます。
ただ、この項の興味深い視点は、釈尊がわざわざ「5種類目の修行者は存在しません」と言い切っていることです。

これは人類が、どんな分野でも、どんな業種でも、国家でさえも、「4種類に分類が出来る」とも言えそうです。
今の自分は、「何種類目の自分が出ているのか?」と思い直すことで、人生の軌道修正が出来るかも知れません。

自分は「変わる」ことが出来る、ということを信じて、今の世を自分なりに生きましょう。



記事「人類の根源的な法則」の続き。

鍛冶屋職人のチュンダは質問しました。
「第一の修行者、第二の修行者、第三の修行者、第四の修行者、
これらがそれぞれ、どのような人なのか?
どうぞ私に具体的に教えてください」

(原始仏典 釈尊の言葉 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章5節-No.85)


釈尊は答えます。

「第一の修行者である、コノ世のすべての我欲に打ち勝った人とは、

(1)他人を論破したり、反論したり、自分のことを弁護して良く見せたいという欲を無くした人のことです。

(2)いつまでもコノ世に安住すること、コノ世で有名に成りたいと言う欲を無くした人のことです。

(3)コノ世に居ながらにして、心は涅槃(ねはん:天国)に住むという最高の喜びと快楽(=悟り)を知りながら、これにも執着することが無い人です。

(4)世間の人々、社会の権力者たち、そして精霊・神々をも陰から黙って導きますが、決して他人に知られることが無い人です。どこにでも居る普通の人であることが聖者の条件です。
でも、その正体は如来なのです。」

(原始仏典 釈尊の言葉 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章5節-No.86)

(感想)
第一の修行者=聖者の、その生活内容とは、

(1)誰もが、自分への誤解や濡れ衣が有れば、説明したい、説き伏せたい、と思うものです。
また、悪い人は、特に言い訳の弁が非常に立つものです。

ところが聖者とは、相手を論破したり、反論したり、自分を弁護する意欲を失くした人のことなのです。

でも、これでは、良寛さんのように泥棒だと誤解されましても、「仕方がない」と黙ったまま裸にされて縄に縛られることに成ります。

仕事で疲れて帰った旦那さんは、奥さんにガミガミ怒られましても、弁解する意欲も無いかも知れません。

仕事場には、バカにされている人、いつも怒られて失敗の責任をなすり付けられている人がいるものです。

あれ? 意外にも私たちの周囲のダメな人だと思われている人の中に、聖者が居るかも知れませんね。
でも、自分が無実なことは、相手の為にも言うべきことは言いましょう。
しかし、反論する事に執着はしないということです。

(2)多くの人は、有名に成りたいとは思わないかも知れません。
でも、安定した生活を継続したい、とは誰もが思うことでしょう。
聖者は、安住することにも執着を持たないということです。

これでは、今の社会の有名で裕福な指導者は、誰も釈尊のおメガネには叶わないようです。本当の聖者では無いということです。

(3)本当の聖者は、悟りでさえも、どうでも良いこと、大したことでは無い、と思っているということです。
だから、悟りを教えて商売の種にすることは、真の聖者ならばしないということです。

もし、「悟りを目指してすべてを捨てる」という若者がいれば、
「つまらないことは、止めろ」
と止めてくれる人の中にこそ、真の聖者は隠れていることでしょう。

(4)聖者は、「精霊・神々をも陰から黙って導く人」。
これは、先祖供養や神祭りをする人は、知らないうちに自分自身が
* 精霊・神々を陰から守る人
に成っています。

そして、
・決して他人に知られることが無い人。
・どこにでも居る普通の人。

これが最高の修行者の条件であり、その正体は如来(菩薩の上位存在)だと釈尊は示されます。

真に偉い人、清い人は、社会の中で決して偉い人には成らず、いつも隠れており、地味で、言い訳・弁解の下手な人だと言えそうです。
自分の身近に居る不器用な人こそが、実は如来様かも知れません。



記事「知らずに如来様をイジメていたかも?」の続き。

釈尊は、続けて説明されました。

「第二の修行者は、修行方法(真理)を無償で説明・解説が出来る人のことです。

最高の教えを、それが最高であることが、分かる人のことなのです。

真理とされるものを、その真贋(しんがん:本物か偽物かということ)を正しく判別できて、その真理の説明が出来る人です。

正しい真理に対しては、一切の疑念を他人に抱かせず、自分の我欲を挟むことなしに公平に説明が出来る聖者のことです。

このような聖者を、「道を説く修行者」と呼びます。」

(原始仏典 釈尊の言葉 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章5節-No.87)

(感想)
釈尊はこの項で、第二番目に優れた修行者を、
* 「最高の教えを、それが本当に最高であることが、分かる人」
だと明記しておられます。

個人がする判断や好みとは、
* その人物が好きなモノを見れば、その人のことが良く分かる。
* その人の意識レベルを表現している。
* その人の心中が読める。

と言えそうです。

(中略)

それぞれが、自分の意識の世界に生きているのですから、それはそれで良いでしょう。
ただ、自分自身が変われば、
・ 自分の好みも必ず変わる
ということは言えそうです。

今の自分自身を知りたいと思えば、
・ 自分が好むことを静観して見ましょう。
(それが異性なのか、投資なのか、勉強なのか、悪事なのか・・・・)

自分自身を静観することで、本当の自分を知ることが誰にも大切です。
本当の自分を知ること=悟り
これは内在神を知ること、出会うことに成ります。



記事「自分の好みに、自分自身の全てが表れます」の続き。

・「第三の修行者とは、修行方法に従って生活する人」

これがどんな人を指すのか?
釈尊は続けて説明されました。

修行方法に従って生活する人とは、
本当に正しい真理の言葉に出会い、その言葉に従って素直に生きる人であり、

自分自身を律しながら、

あらゆることに注意深く生活をし、

他人を傷付ける言葉を避けて生活する人のことです。
これを第三の修行者と呼びます。

(原始仏典 釈尊の言葉 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章5節-No.88)

(感想)
釈尊が示された、「第一の修行者」(知らずに如来様をイジメていたかも?)は、いずれは「第三の修行者」に戻ると私は考えます。
つまり、釈尊が言う4種類の修行者の内、この「第三の修行者」こそが最終形・最高の修行者だと感じます。
では、その最高の修行者の生活とは、どんなものか?

・「真理の言葉に従って素直に生きる人であり」
・「自分自身を律しながら生活する人であり」
・「あらゆることに注意深く生活をし」
・「他人を傷付ける言葉を避けて生活する人」

このように釈尊は示されます。
この中で、特に私の注意を引く表現は、

*「あらゆることに注意深く生活をし」

これなのです。
これは私たちが陥(おちい)りやすい盲点が指摘されています。

(中略)

悟りは、コノ世の善悪を超えた先に存在します。
常識の視点からも正しい生活をする上に、悟りは存在します。

要するに、とにかく「第三の修行者」の内容と生活が最高に重要だということだけでも覚えて置いて頂ければ幸いです。



6月10日の記事「常識の有る人こそが、悟りの最終形だった」の続き。

そして最後に、釈尊は「第四の修行者」について説明をされました。

* 第四の修行者は、修行方法を教えることを悪用し、修行という名の下(もと)に悪事(金儲け・性交・社会悪)を行う人のことです。

「第四の修行者とは、
・ 修行の戒め(生活習慣・色情・物欲・・・・)を固く守っているかのような「外見」にこだわる人。

・ 修行と金儲けを結び付ける間違った「教え」を正当化することを主張し、それを誇らしげに広める人。

・ 間違った教えで、一般人にも金儲けをさせて共犯者にして、多くの人々を堕落させる人。

・ 正しい真理の言葉を語らず、べらべらとお喋りする下品な言葉を話して、それが説法だとする人。

以上のような見せ掛けだけの間違った行為を修行と主張する堕落者が、第四の修行者です」

(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章5節-No.89)

(感想)
現代社会で行われている信仰の様子を、2500年も前に釈尊が透視したかのような的確な表現と、その特徴の羅列に驚きました。
まさに末法(まっぽう:世の終わり)に登場するニセモノの修行者です。

釈尊の教えとは、金儲けとは無縁な真理です。
それが現代では、釈尊の教えと称する物事を利用した、完璧な集金システムが成立しています。

(中略)

まさに現代こそが、「偽キリスト」「第四の修行者」が現れる舞台の時代だと思えて成りません。
でも逆に言えば、今に生まれるとは光栄なことではないでしょうか?

今から1000年前に生まれた人々には、「偽キリスト」「第四の修行者」の記述を見ましても、ピンと来なかったかも知れません。
どんな人々なのか?具体例を身近に見ることが滅多に無かったことでしょう。

でも、今の社会を見れば、まさにです。そのような自称者が大伽藍(だいがらん:豪勢な建物)を誇示し、非常に跋扈(ばっこ:はびこること)して来ました。
特に昭和時代は酷かったと思います。

では、私たちとすれば、どうすれば良いのでしょうか?
つまり、「第四の修行者」の特徴の逆をすれば良いのです。

・ 修行の外見にだまされないこと。
相手の、その言葉の、中身を見ようと努力し、そして自己判断しましょう。

・ 信仰や修行と金儲けを結び付ける間違った「行為」「教え」を見れば、そこから離れること。

・ 集金システムの片棒を、気付かない内に自分が担がないように注意すること。
(ナントカ慈善事業の寄付も、実はテロ資金に流用されていないか?要注意)

・ 正しい信仰や真理の言葉には、品格が有ること。

このような事に注意することを参考にしてください。
真の修行とは、他人から教わることでは無くて、自分で自分自身を見詰めて正して行く道を歩むことだと思います。
自分自身との勝負、和解を頑張りましょう。



記事「絵に描いたような釈尊の予言」の続き。

釈尊は、鍛冶屋職人のチュンダに対して、4種類の修行者について、
・ 第一の修行者は、コノ世のすべての我欲に打ち勝った人。
・ 第二の修行者は、修行方法を無償で説明・解説する人。
・ 第三の修行者は、修行方法に従って生活する人。
・ 第四の修行者は、修行方法を教えることを悪用し、修行という名の下(もと)に悪事(金儲け・性交・社会悪)を行う人。

その中身について説明をされました。
そして、釈尊は更に続けて仰いました。

『一般家庭に居る修行者が、このような真理の話を聞き、正しい悟りへの知識を持ち、
4種類の修行者についての内容をよく理解したならば、
「修行方法を教えることを悪用する第四の修行者」に出会ったとしても、家庭に居る修行者が失望して、自分の信仰を失うことは無いでしょう。

すべての修行者が、そのような悪人ばかりでは無いと知っているからです。
腐敗した修行者と、真の修行者を、正しい知識により自分で区別することが可能に成るからです』

(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章5節-No.90)

(感想)
同じ「修行者」という名称でありましても、その中身は、「4種類の修行者に分かれる」という事を事前に知っておれば、真面目な一般人がダマされることは無い。

また、変な詐欺師のような修行者を見たからと言って、すべての修行者を同一視して避けることも、自分の信仰を失うことも無い。

と釈尊が説明されています。
ただ、一般人がこのような区別を自分ですることが可能に成るのも、上記のような事前に正しい真理の話を聞く縁を、自分自身が持つことが大切な訳です。

(中略)

つまり人は、
・ 自分が持つ先入観に注意しなければ生けない。
・ 良いモノ、悪いモノ、が何事にもすべてに有るという「正しく全体を知ってから」、判断したほうが良い。
このようなことが、人生に言えそうです。

2500年も前から、既に人は「4種類の修行者」に分離をしていたと言えます。
どの時代にも、悪人も善人も居る訳です。

今の時代を辛いと感じる人は、昔から先祖たちも同じような色々な人間が居る環境の中を生き抜かれたと思いましょう。

正しい知識を持つことで、悪い人を避けること、良い縁に出会うことが可能に成ります。
人間は生きる限り、人生を勉強して行くことが大切だということでした。

関連コメント

第一の修行者の、「この世の全ての我欲」というのは、働いて、自分の利益を得ることも入りますか?それとも、我良しの、自分本位の行動というようなことを表すのでしょうか?
利益を得ることが我欲に入るなら、第一の修行者は、仏陀さんだけ…とかになるのでしょうか?

。。。。極端は不要です。
1は、3の中の一部の人です。
2017-05-26 13:42:24


【掲載順序】本ページは「日付昇順」とします。



  • 最終更新:2020-10-16 20:50:00

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