原始仏典:スッタニパータ(第1章3節その4)

■原始仏典:スッタニパータ(第1章3節その4)について

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心の奥の深層の欲望が滅した後のような静寂を求めて、真剣に求道すること。

家畜のような怠惰な生活を止めること。

よく真理を読む(当時は聞くしか無かった)生活を心掛けること。

常に、あるがままの今を正視することを意識すること。

コノ世のあらゆることをよく見聞きし、よく理解し、自分の中に確固たる信じるものを得て

勇敢に自分の信じる道を行くこと。

以上のようにして、

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.70)

(感想)
(1)「欲望が滅した後」・・・性交や自慰で昇天した後のような一瞬の心の静寂は、正しい求道の生活の中でも垣間見ることが出来るということです。

悟った心境が住む「涅槃」(ねはん)という漢字を見ますと、少し性的に淫(みだ)らな、「快楽」を妄想する文字にも思わないでしょうか?
でも心が真の自由を得た心境とは、見るものすべてが喜びに満ちたまさに「快楽」と言えます。

性的快楽は一瞬で終わりますが、これと同等以上の快楽を求道で求めることが可能なのです。
実際に医学的にも、覚醒すると常に脳内麻薬が出ていると思います。

ー中略ー

(2)人間は、誰もが飲んで食って寝るだけの家畜になって、貴重な限定時間を消費していないか?
と自分を振り返ることが大切です。
人は、自分に与えられた寿命期間を考えずに生活しています。

心は永遠に死ねませんから、「慌てない」とは確かに言えます。
でも、肉体が行動出来る時間は期間限定です。これを忘れないでいましょう。
時間限定だからこそ、逆に思いっ切り頑張ることも可能なのです。

(3)本当に正しいことは何か?真理とは何か?
これを求める好奇心を維持することは、心に永遠の若さをもたらします。
そしてこれが求道と成ります。

(4)自分の心が済んだ過去に住まないこと。
まだ来ない未来にも、自分の心を住まわさないこと。
常に今のこの場所に、自分の心を置いておくことが悟りには必須条件なのです。
今の自分と状況を、直視して行きましょう。

(5)悟りを求めるからと言って、社会情勢やニュースの現実を避けていては生けないということです。
コノ世のすべてを、見てやろう、聞いてやろう、とするバランス良い姿勢の上で、自分の中に信じるものを持つことが真の正道へと自分を導きます。
ただの「修行バカ」「信仰アホウ」では、悟りは得られないのです。



ライオンならば、どんな声にも驚かない。
風は、どんな網にも掛からずに素通りします。
蓮華の花は、どんな泥水も身に付けない。

人も、このようにあるべきなのです。

だから、どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.71)

(感想)
人が目指すべき仏陀に成れば、どのような様相の人に成るのか?それが、

(1) ライオンのように堂々としていなさい。

他人からの悪口や噂話を気にして右往左往、気にして心を病む人が多いです。
もう他人からのどんな「声」にも驚かない自分、という姿を意識しましょう。
人は、自分が意識する人に、今から成れるのです。

(2) 社会の中の網に捕らえられては生けません。

世間には、色々な網が存在します。金銭・異性・地位・学歴・容姿・・・・。
このような、どんな網にも心が捕まらずに、素通り出来る自分であることが重要なのです。
何事にも捕まらない自分で居ましょう。

(3) 泥の中に入っても、心にまで泥を付けては生けない。

社会に泥は在るものなのです。これを無くそうとするほうが無理があるかも知れません。
泥を自分だけ避けようとして苦悩はしないことです。
どんなにあがいても、身の回りは泥だらけです。陰謀・悪口・盗み・不倫・不正・・・・。

でも、自分の心だけには泥を付けない決意をしましょう。
そうしますと周囲は泥だらけでありましても、自分は身に泥を付ける行動をしない人に成れるのです。
最初に、心に泥を付けることを思わないことが大事です。自分が悪事をしたいと思わないことが大切なのです。
不倫に憧れる人は、いずれ不倫をすることに成るからです。

そして、
* どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

これは会社でも孤立した変わり者に成れ、という意味ではありません。
他人とは常識的な態度、協力姿勢、調和、を努力します。
問題は、心の中のことなのです。

誰もが究極は、最後の時は、自分一人で裸で逝くことを忘れては生けないのです。
これを健康な内から心中で日々に思い出していますと、他人の悪口や、意地悪や、病気や不運でさえも、
すべてが愛おしい「思い出」に成ることが分かり始めます。
逆に、愛情が深い人に成れるのです。
これは実践が自分に教え、先行きを導きます。


自信の重要性 2017-02-21 10:16:41

牙の鋭いライオンは、どんな相手にもひるみません。

他人から離れた自分の居場所を持ち、そこでくつろぎながら心の修行をしましょう。

だから、どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.72)

(感想)
この項で釈尊は、「牙の鋭いライオン」と敢えて強い猛獣を冒頭で最初に言っています。
この意味を感じ取りますと、

* 誰もが自分なりに、自信を持てることが1つだけは大切だ。

と響いて来ます。
でも、そう言われましても、自分には何も自信を持てる所が無いと、人は思うものです。

ー中略ー

私が感じます本当の自信とは、
* 自分自身を信じることが、真の自信。
自分のことを愛する力が、自信でもあります。
「自分なんて大嫌い」と思っている人は、何に対しても自信が持て無い人だと思います。

更には、自信=信仰(自分を仰ぎ見ること)だと感じます。
釈尊は、自灯明(じとうみょう:自分自身をよりどころとする事)を幸福、悟りへの道だと仰りました。
正しく「良心」に沿った上での自信とは、信仰、自灯明へと繋がる奥深い意味を感じます。

* 他人から離れた自分の居場所を持ち、そこでくつろぎながら心の修行をすること。

他人を見て比較せずに、自分の生活の中に自信が持てる「花」を見つけましょう。
自分の住処だけは、どんな粗末な所でも、そこを天国に自分でするのです。
他人との比較では無くて、自分の好みを信じましょう。
そこが人には最善な場所と成るのです。

ライオンで無くてもウサギでも良いから、自分自身を信じて、自分の居場所を創って行きましょう。
これが悟りにも繋がって行くということなのです。



愛情があふれる心。
とても平静なる心。
慈悲深い心。
喜び感謝する心。

このような4種類は、解脱(げだつ:魂の生まれ変わりを卒業すること。悟り)にも繋がる大切な心の状態です。

だから、この4つの心を、各人の心の段階に応じて生活の中で意識をする修行をしましょう。

その場合、社会の中で、誰とも敵対せずに争わないことが大切です。

だから、どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.73)

(感想)
この項での重要な指摘は、
(1)愛情があふれる心。
(2)とても平静なる心。
(3)慈悲深い心。
(4)喜び感謝する心。

このような4つの心の内、どれか1つでも極めれば、解脱(コノ世を卒業し、心が自由に成る)することが示唆されています。

1つでも極めることが出来た時には、他の3つも自動的に兼ね備えるとも言えます。
最初からバランス良く、4つを同時に心掛けて行くことも良いです。

この4つの心とは、人間としての「あたたか味」があふれています。
どんな修行でも、温かみを他人にも感じさせるモノが重要であり、本物なのです。
修行と称して 「恐怖」「冷酷さ」「脅し」 を他者に与え縛るものは、ニセモノです。それは魔界からの指図だと思って良いです。

真実は、非常にシンプルなのです。
温かみの在ることは、何でも良いです。
冷たさを感じさせるモノからは、人でも修行でも離れましょう。それは正しい事では無いことを、本能が教えてくれています。どんなことも、子供の目線で見れば分かります。

自分の生活の中で、上記の4つを意識することを修行と致しましょう。
今の自分が、苦しい環境、厳しい職場、嫌な他人が多い中で、大変な家族の中で、病気の中でも、
その中でも4つの心を持つことが、自分の為に大きく成ります。

苦しいゴミの山の中でも4つの心を意識できれば、そのゴミの御蔭で人は悟るかも知れません。
その瞬間、自分がゴミだと思い込んでいた物事も、自分自身の為の神様の慈悲だったことに気付きます。

自分次第でゴミが御宝に変わるのもコノ世の秘密です。
4つの心を、明るく意識して行きましょう。



* 自分の欲望の為に執着する心。必要以上にむさぼり、欲張る心。
* 他人を憎む心。常に怒りの心を持つこと。
* 信仰や真理を求める心をバカにしたり、毛嫌いする無知の心。
このような人としての三毒(さんどく)を捨てましょう。

自分の心が奪われるような世間の物事(異性・賭け事・過剰な娯楽・無理な交友意識・・・・)に対して、自分の心を結び付ける綱(つな)を切断しなさい。

自分の命がコノ世から去ることも心配しないこと。

だから、どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.74)

(感想)
この項は、後世の仏教でよく言われます「三毒」「三つの煩悩」について、釈尊が触れています。
この原始仏典であるスッタニパータが、三毒について触れた最初の正式な原典と言っても過言では無いでしょう。

人間をダメにする3つの毒とは、
(1)過剰に欲張ることは、いつか自分をダメにします。
自分を犯罪にも誘導するかも知れません。

(2)他人を憎む心。怒りを常に持つ心。
こういう心は、自分で自分の肉体を私怨(しえん:身勝手な怒り)の「炎」で焼いて行くことに成ります。

体内で細胞が怒りの私怨で焼かれますと、私はそれが癌細胞に変化することを他者の中に感得することが有ります。
自分の怒りの炎が焼くのは他者では無くて、自分自身だったという落ちです。

ー中略ー

(3)真理を求めない無知のままの心は毒だ、と釈尊は断言します。

別に真理を求めなくても楽しく生活が出来ます。
でも、何回も生まれ直し、こういう生まれ直しの娯楽を100回も永遠に繰り返すことは、本当の幸福なのか?
という釈尊の問い掛けでもあります

真理を心に体得すれば、永遠の涅槃(ねはん:天国。その快楽はコノ世を超越する。心がとろける)が実在することを、法悦(ほうえつ:恍惚感)の世界が在ることを、仏典は色々な形で説明しています。

そして、次に大切なことは、
* 自分の命がコノ世から去ることも心配しないこと。

人は、コノ世だけ、コノ世で終わるだけ、死んだら終わり、という無知が有る限り、
* 死を過剰に恐れおののき、生きている今の生活も捨てかねないこと。
* 死んだら終わり、ならば犯罪もする可能性があること。
* 他人にイジワルや、イジメもする可能性。

真実は、コノ世で終わりでは無い、なのです。
死んで終わりどころか、今回の人生の残り半分、後半は、アノ世に舞台が移るのです。
自分がした行為の人生(コノ世)での反射を、アノ世で「生まれ直して」受けます。

アノ世でも、「なぜ自分だけが」こんな状況に置かれるのか?とやはり悩んでいます。
アレ? コノ世でも私達は、「なぜ自分だけが」と思いがちですね。
自分が忘れている前回の人生の反射を受けているのが今に過ぎません。

こういうことを何十回も繰り返しているのが、私達の心なのです。
釈尊からの、「もういい加減に卒業すれば?」という問い掛けがスッタニパータでもある訳です。



今の社会の人々は、自分の利益の為に交友を広げ、時には他人に尽くすこともしてしまう。

今どき、利害関係の無い友人とは少ないものだ。

自分だけの利益を追及する人間の様とは、それは醜(みにく)いものだ。

自分の心が醜くなるぐらいならば、

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.75)

(感想)
ここで釈尊が問うているのは、心の問題です。
会社の人間関係に疲れて、自分の心が汚れ・疲弊(ひへい:激しく疲れること)するぐらいならば、組織の中でも自分一人で歩く覚悟を持ちなさいと説いています。

だからと言って、仕事において常識の無い非協力的では、ただの愚かです。
仕事において常識的な交流・挨拶をしながら、心中はサイに成って独り歩きなサイと言われています。

ー中略ー

貧乏でも子供を育てる主婦は、本当は年収が1億を超えた人と同じ人生の勝利者だと、「人を育てる」という「共通結果」により言えることを、老子は示唆しています。(老子の言葉「人間は純朴さが大切」)

そこに至るまでの人生の経験の過程が違うだけで、結果は同じことだと言うわけです。
中間過程には大した意味は無いと老子は指摘します。
でも普通の人は、中間過程で苦しみ、心を汚しています。

貧乏で独身の人でも、社会に何か自分が出来る小さな貢献をする人は、霊的には年収1億超えの人と同等か、それ以上かも知れません。

人は、消えて行く中間過程を見ては、区別したり、差別したり、諦めているだけなのです。
していることが同じ良い事ならば、貧富の差も無い訳です。
町内会のゴミ掃除では、大社長も無職の人も、同じゴミ拾いをしながら世間話をします。
このあたりの話は、もう半分はアノ世の価値観に近いものです。死後の真実とも言えます。

誰もが死ぬ時は、自分一人、裸の体1つだけなのです。
金持ちだったことも、何の意味も持ちません。
だから老子の指摘は、やはり完璧に正しいと言えます。
人生の中間過程の姿に誤魔化されては生けません。

今日も、自分の心だけは醜くしないように、社会の汚い仕事も頑張りましょう。
自分の心を清浄・正常に保てれば、あとはすべてがOKなのです。何が有っても問題はありません。



大変な農作業をして何とか生活をしている農夫が、作業小屋において朝食の準備を重労働の前にしていました。
そこに釈尊が托鉢(たくはつ:信仰者の家の前で食事や食糧を希望すること)の為に立ちました。

農夫:「あなたは食事を希望されるが、私は食べる為に大変な農作業を毎日しております。
あなた様も食事が欲しければ、そこに立つ前に、農作業で収穫するまでの苦労をするべきではないでしょうか」

釈尊:「私も日々、農作業をしています。その御蔭で朝食を得ています」

農夫:「え? 私は、あなた様が農作業をしている姿を見たことがありません」

釈尊:「いいえ、私は農作業をしています。その御蔭で朝食を得ています」

あっけに取られた農夫は、改めて釈尊に真剣に聞き直しました。

農夫:「あなた様は、『自分も苦労する農夫だ』と自称されます。
しかし私は、あなた様が言われる『農夫』が何を指すのか分かりません。

では、その農業について教えてください。
あなた様が言う農作業とは農業とは、一体何なのでしょうか?」

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.76)

(感想)
* 「代償行為」(違う形での行為)、それと同等か、それ以上の苦労と労働をしているから同じだ。

* 人は労働でも、その労働の名称と内容により、喜怒哀楽も差別もしている。
でも、霊的には、そこに苦労が有れば、どんな仕事であっても同じことだ。同じ霊的な影響の結果を残す。

という意味を私は感じます。
例えば、以前から思うことなのですが、
* 主婦が、一人の子供を立派に育てること。 = 男性が、社会で大事業に成功すること。

これが、霊的には同じだと感じます。
それほど難しくて、失敗もあり、神経をすり減らすことだと感じます。
どちらも20年以上も要する苦労でもあります。

誰もが最後は、一人裸で死んで行く現実を見ましても、どんな物質・財産も何もアノ世に持参が出来ない道理を見ましても、
「女性の子育て=男性の大事業」
は完全に霊的に言えます。

ー中略ー

最高なのは、労働する農夫が、バランス良く(中立・中道)、正しい感謝の信仰も善行もして行くことです。これは、悟ります。
釈尊のように、見えない善行だけが突出する人生は、一般人には無理であり、遠回りであり、道を間違うリスクも高すぎます。
釈尊の場合は、幾度の過去生で労働の修行も終えた御方だからこそ、の話です。



農夫:「あなた様が言う農作業とは農業とは、一体何なのでしょうか?」

という問い掛けを受けた釈尊は答えました。

釈尊:「私には、正しい信仰こそが、収穫をもたらす食物の種子です。

心の修行こそが、種を育てる雨となります。

正しい知恵こそが、農地を耕すための牛を台車に繋ぎ止めるクビキであり、農具の鋤(スキ)となります。

自分の悪い心を恥じることが出来ることが、鋤(スキ)の先を取り付ける棒と言えます。

自分の心こそは、牛に耕す為の農具一式を取り付けて、全体を機能させるために欠かせない縄ヒモとなります。

気持ちを静かに安心させていることが、あるがままに大地を鋭く耕す為の、鋭利な器具の先端の刃と成りえます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.77)

(2頭の牛の首をつなぐ、クビキ・横に渡す棒。ウィキペディアより引用)

(感想)
この項で特に心に残る要点は、最後の行です。

* 冷静なる安心感の維持こそが、大地をも切り裂き耕すような、自分の心に革命を起こす。

ということです。
「安心感」と言われますと、何かゆっくりとした、何も変わらない今のままをイメージするかも知れません。
しかし釈尊は、冷静な安心感は、鋭い刃物にも成り得ると示唆されています。

* 冷静な人ほど、強い人かも知れません。
* 安心感に包まれた人ほど、観音力に守護された人。

逆に言えば、
* 冷静に成れない人。常に喜怒哀楽が激しい人は、弱くて、もろい人かも知れません。
弱い犬ほど、よく吠えるものです。

ー中略ー

苦しい仕事の環境に居る人ほど、苦難の多い家庭に居る人、心身にハンディを持つ人ほど、
「その中であっても」
自分の心を冷静に維持し、更にはその中でも「安心感」と「感謝」に包まれている人は、
心に大きな革命が起こり、悟るかも知れません。
悟りへの、意外な最短距離に苦しい人ほど居るかも知れません。


【編集者注記】スッタニパータについての記事は「日付昇順」とします。


  • 最終更新:2017-05-13 19:59:10

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