原始仏典:スッタニパータ(第1章3節その2)

■原始仏典:スッタニパータ(第1章3節その2)について

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人の欲望には、多種様々な対象(他人、品物、金銭、地位、性交、食品、博打・・・・)が有ります。
それらへの欲望は、甘い快楽感を自分にもたらしながら、色々な形で自我(ワレヨシ)の欲望の火を喚起します。

自我の欲望の火は、巨大化するほどに自分の心を乱し、後で後悔する事や、不幸を自分にもたらします。
このことをよく知って置きなさい。

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.50)


(感想)
この法則を自分が知って置いた上で、自分の好みの欲望を楽しみますと、やはりブレーキが掛かるものです。
その欲望の為に、自分の生活を壊すまで進むことはありません。

* 欲望は、満たしても終わらない。より大きくなる。そういうものだ。

という認識の上で、自分なりに欲望を楽しむことが大切です。
* 欲望に呑まれては生けないのです。
欲望に呑まれることは、自分が自分自身の欲望に負けたことに成ります。

では、欲望を満たそうとすることがムダなことならば、最初から一切の欲望を我慢すれば、人はどうなるのでしょうか?

自分は我慢した、という「飢餓感の欲望」だけが増大するのも人間なのです。
人の心とは、何と難しいことなのでしょうか。

これに対する釈尊の答えは、
* 中道(ちゅうどう・真ん中)を心掛けなさい。
* 何でもほどほどで良い。
ということを示されています。



自分が求めるどんなものも(家族、子供、仕事、財産、家、健康、・・・・)、

自分自身を脅かす災難があり、渇望があり、病魔であり、悪性の腫瘍であり、最悪でもあり、後から効く毒矢であり、恐怖の対象なのです。

このように自分の欲望の対象には、常に恐怖するべきことが付き物であることを覚悟しなさい。

だからこそ、

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.51)

(感想)
幸福な普段から最悪を覚悟していれば、幸福は維持されるものだと示唆されています。
でも、コノ世はそれでも戦争などにより避けられない最悪が来ることもある世界です。
個人では何も対応が出来ない災害も起こり得ます。

では、どうするか?
そして次に、最後は、だからこそ、
* 人は生まれたならば、サイのように一人で突き進む覚悟でいなさい。
* サイのように、誰にも負けずに最後まで前のめりに静かに沈んで行けば良いのだ。
そうすれば涅槃(ねはん・天国)に行く。

という最後の救いを釈尊は示します。
一人裸で生まれ、何も持たずに裸で一人死んで行く。
これ以上でも、これ以下でもなし。

だから、何を悩む必要があろうか。
行け行け、サイのように!
ということなのです。



寒さや暑さにさらされること。
飢餓感や喉の渇きに責められること。
強風に吹かれ、日光に照りつけられること。
蚊に血を吸われ、蛇に体の上をはわれること。

これらすべてに耐えて克服しなさい。

そして、どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.52)

(感想)
これを現代社会に置き換えますと、

寒さや暑さ・・・・家庭や会社の中で、自分が置かれる精神的な環境。
飢餓感や喉の渇き・・・・自分の収入の有無。
強風や日光・・・・他人からの風当たり。
蚊や蛇の害・・・・他人から心身を害されること。

このように言い換えることが可能に感じます。
2500年前に人間の生死を左右した問題は、現代ではそれを克服する環境にある為に、現代社会に合わせて言い換える必要があります。

釈尊がこの項で言われた最初の示唆は、どの時代でも言い換えることが可能に成る例えです。その本質の意味を継承することが可能に成るように予見されて使用されていることを感じます。

ー中略ー

では、今から2500年後の未来社会では、人類は何により死んで行くのでしょうか?
おそらく癌などは完全に克服されており、病気で死ぬことが無くなっていることでしょう。
でも必ず、未来には未来における何かで死ぬ問題が存在していると思います。

それは意外にも、
* 他人の為に成ることを一定期間内にしないと死ぬ病気。
* 他人に愛情や思いやりを出さないと、死んでしまう病気。
* 何かを育てないと、自分が死ぬ病気。

つまり癌やウイルスなどで人が死ぬ時代は終わっており、「他人への奉仕の有無」「心の問題」で生死が決まる時代が来ると、私は感じます。

ー中略ー

ただし、どの時代にも貫徹する最高の思いは、未来社会におきましても、
* 感謝をする気持ち。
これであると私は信じています。



象の中でも、肩の筋肉が大きく盛り上がり、

皮膚には桃色の斑点が咲き、蓮華の花のように見事に巨大に成長した象は、

群れから離れて、独りで自由に森の中を生きて行くことが可能に成ります。

だから、どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.53)

(感想)
この項の意味することは、
* 自分自身が強くならないと、自由に、楽しく、生きて行くことは出来ない。
ということです。

決して肉体の条件の話では無くて、自分の心が強くないと、
* 人は真から自由には成れない、
* 人生を楽しむことは出来ない。
ということです。

ー中略ー

幸運の蜜蜂に寄って頂く自分でいる為にも、
* 静かな微笑みを意識すること。
* 何をおいても安心感を心がけること。
* 他人を祝福する気持ちを持つこと。

これを知って置いてください。
でも、自分に心配事が有れば、とてもこのようには思えないと感じるものです。しかし、
* 人は、自分が意識するものに成る。
という法則も知って置いてください。


最短、最善の道 2016-11-07 11:17:50

宗教的な集会を楽しむ人が、そこで学ぶ人が、本当に正しい真の悟りの境地を一瞬たりとも体験することはありえません。

太陽の王家から来られた幾多のブッダ(真の覚者)たちが残した言葉を、ひたすら考えながら生きなさい。

だから、どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.54)

(感想)
この項は、「釈尊が本当にこんなことを仰ったのか?」というほど斬新な内容・情報があります。
釈尊が悟りに至った過程にも、集団で学んだことは一切ありません。そのすべてが、単独での苦悩の連続から求道に至りました。

苦行が必要と聞けば、死ぬ寸前まで一人で苦行に打ち込むが悟れず。人は苦行では悟ることが出来ないと思い知ります。
最終的には、働く女性から受けた慈悲を切っ掛けとして、大いなる宇宙の母性との一体感に至ります。

ー中略ー

天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)、「すべては大きな1つだった」の境地に釈尊は入りました。
集団でいることに安心・安住していれば、自己の中に注意を向けることがありません。外在する人や物ばかりを信仰して、内在する真の宇宙から離れるばかりと成ります。悟ることは不可能です。

そして、この項での新たな情報は、
* 真の覚者は、太陽の王家から来ている。
ということを釈尊が示唆していることです。

釈尊こそは、コノ世で現実的に釈迦族の王家の出身なのですが、当時の釈迦族の別名が「太陽の子孫」「太陽を信仰する者たち」という意味でした・・・・。
ただ、ここまで具体的に真の覚者の条件ともなる出自を明記されますと、この項は後世の弟子の加筆である可能性を思います。

もし、そうであるならば、釈尊の教えを信仰する当時の集団(サンガ)の様子をこの項から推察することが出来ます。
他の信仰集団とは一線を画する、あくまでも「単独者」の集合だった示唆です。

私が持つ印象では、釈尊の教えを守る当時の仏教集団は、早朝から午前中一杯を生きるために近隣でバイトをして生活する集団だったと感じています。
他人からの施し、寄付だけで安住することを嫌い、あくまでも仕事も大切な修行だったのです。



この場合の「集会」が何を指すのか?
私の翻訳を強要する意図は一切ありません。
皆さんの自由に、自己判断して頂くのが最良です。

宗教的な集会を釈尊が否定していた。
これは、たしかに現代社会では衝撃かも知れません。
でも、釈尊が死に際、入滅される前まで言われていた願い、

* 自灯明(じとうみょう):
他者を頼らず、自分自身を拠り所としなさい。
自分自身に知恵の光をともし、暗い先行きを照らしなさい。

* 法灯明(ほうとうみょう):
他者よりも、真理を頼りなさい。
コロコロと変わる生きる他人よりも、一定不変の真理を求め、真理を拠り所にしなさい。

要は、他人を無闇に信じないで、自分自身を信じなさい。
自分で自信(自神)を持ちなさい。

ということを釈尊は最期まで繰り返し言われていました。この釈尊ならば、
「宗教的な集会・寄り合いを楽しむな!」
とは、いかにも言いそうなことだと私は思います。

以上はあくまでも仏典の考察の私見であり、宗教的な活動を妨害する意図は一切ありません。
皆さんの、自分に応じた、求道が最善だと思います。
ご自由に、自分の信じる道を進んでください。



さまざまな宗教を体験して、それで自分が変わらないことを思い知ること。
色々な宗教的な内容・教理を他人と論争しても、何の意味も無かったこと。

それを超えて、「自分自身を見詰める」という正しい道に人が至った時、

「私は他人から何も学ぶ必要が無かったのだ」という真の悟りへの知恵が生じます。

だから、どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.55)

(感想)
自分のこと以外を信じるという信仰は、
* どんなに感動しても、
* その内容で他人と論争しても、
* 家族との時間をムダにして懸けても、
* それで半世紀が経っても、

自分自身は何も変わらなかった。成長しなかった。
ましてや、悟りに行き着くことは無いのです。
人生の時間の大半をムダにする経験をしてから、やっと、

* 本当に大切なことは、自分の心の中に在ったのだ。
* 家族との時間が大切だった。
* 心の問題、信仰については、他人から元々学ぶ必要は無かった。

ということを、賢明な「一部の人だけ」が気付けます。
痛い思いを経験してから、気付ける人です。まだマシです。
大半の人は死ぬまで気付けずに、自分自身を見ずに、他人を信仰するままで終わります。
そして死後に目覚めた時に、ムダにした今生を後悔します。

ー中略ー

この項で肝心な、
「私は他人から何も学ぶ必要が無かったのだ」
これは、あくまでも信仰の視点での限定の話です。
コノ世での仕事や、勉強は、素直に他人の先生から謙虚に教わることが非常に大切です。

心の問題については、
* 他人の心の改善パターンが、自分に合うとは限らない。千差万別なものであること。
* 自分の良心(真我・内在神・本当の自分)が、すべての宗教の本質・何が正しいのか。
を誰もの心が、既に知っているのです。

自分の心が知っているが、「思い出せない」のが真相です。
悟りとは、これに気付く瞬間でもあります。



読者の中には、宗教に対する悪意的な非難を意図して、私が訳を改変・変更をしていると思う方もいるかも知れませんが、決してそうではありません。
原典が意味する基本は絶対に外していない柔訳(個人的な訳)であることを明言しておきます。
憲法が保証する表現の自由を超えてはいません。

ー中略ー

釈尊こそは、仏教以前にインドで古代から隆盛していたバラモン教(カースト制度という深刻な差別階級を生んだ)の行者たちと、激しい論戦、死闘を繰り広げた御方だったのです。
当時のインドでも、悪徳な行者たちが金銭を得るために、低層階級の女性たちを食い物にしてダマし、除霊を言い訳にして好き放題をしていたのです。

これと同じ転写が、2500年を経ても今の日本にも有るのです。
私が仏典を柔訳する内容に、悪徳な集金宗教や有料先生への「個人的な非難の思いが強すぎる」、「意図的である」、というコメントを寄せる人もいます。

しかし、当時の釈尊の行動と言葉は、もっと激しいものだったことを当時の世相を研究して知るべきです。
釈尊を殺そうとしたダイバダッタとの相克が仏典に登場しますが、実際はもっと多かったのです。
この転写の一部を受けたのは、後世の日本の日蓮さんであり、それゆえに神道以外のすべての宗教の道場破りに日参し、激しく闘争したとも言えます。

「人類は同じことを繰り返している」ということを知り、そろそろこれを卒業するのが今の時代だと知って置きましょう。



ワレヨシなドン欲に成ることが無く、
普段にイラ立つことが無く、
自分勝手な欲望を持たずに、
正しい他人を非難したくなる気持ちが自分に無いこと。

このような自分の激しい性(サガ)による欲情や悪事をしないこと。
このような悪い自分のサガを霧散させて、
社会全体で自分が認められたいという願望が消えた人は、

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。
(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.56)

(感想)
人は、自分が満たされない時に、寂しい時に、他人を非難したくなるサガが有るということです。
でも釈尊は、このように思う間はダメだと仰っています。

* このような心境が自分から消えた時、
* 自分が困難な状況でも、どんな他人も心から祝福が出来る「素直な」心境に成れた時、

その人は、1本角のサイのように自分の求道を進みなさい。
涅槃(ねはん・天国)に至る心に成れる可能性が有る。
と仰っています。

人の心とは、何と複雑であり変化をするのでしょうか。
まさに宇宙です。
だからこそ、わざわざコノ世に生まれて来て、自分で求道する意味も価値も有るのです。

誰もが自分の宇宙を完成させる為に生まれています。
今日も明るく頑張りましょう。



悪い遊びや物事(不倫、薬物、バクチ、・・・などなど)ばかりに執着して、
それを教えに来る知人からはきっぱりと離れて絶縁しなさい。

また、色々な迷信(邪教、御蔭信仰、験担ぎのシキタリ、・・・・など)を信じて、勧誘や強要をして来る人。

更には、色々なものに目移りばかりして、真面目に働く努力をせずに近道ばかり探す人。

こういう人と交友してはいけません。

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.57)

(感想)
この話は、再び悪い転生(来生に生まれ変わること)を自分自身が受ける重大な因果論なのです。その悪い話をただ聞いていた自分にも悪い転生を起こさせる「重力」を生むのです。

ー中略ー

現代社会でも、「悪い遊びを聞かせる友人から離れなさい!」と釈尊が断言されるだけの大きな悪影響が、現実に起こり得るのです。

しかもコノ世だけの悪影響だけでは済まないで、来世にも生まれ変わる悪い因果の1つとして、転生も起こさせる可能性が有るのです。

その理由は、
* 自分が一生懸命に育てた子供が、悪い友人に誘われて悪事を犯してしまった場合、その親の無念とは深いものです。
親にしてみれば、周囲の友人が「知っていたならば」教えて欲しかった、止めて欲しかった、という無念を持ちます。

* 自分の子供が自殺するほどのイジメを学校で受けていた場合、それを見過ごしていた先生や同級生にも深い恨みを親は起こすものです。
非常に怖い因果を周囲も受けます。

* 善良な周囲の友人たちにしても、自分が止めなかったことを、生涯にわたり思い出すかも知れません。

自分が直接に関係がなくても、聞くだけでも深い色々な悪影響を受けるのです。
以上の話を読んだ上でも、
「話を聞くぐらい別にいいじゃない」
という思いに成れるでしょうか?

やはり聡明な釈尊の発言には、一切のムダが無いようです。
釈尊の発言とは、
* とにかく再び悪い転生をしない為の、超実践論。
に満ちています。
ただの表面的な道徳観では無くて、天国への直球の最短論なのです。


学ぶことについて 2016-12-05 11:18:39

出来るだけ学識が豊かな人を友人として選びなさい。
それも、ただの学識者では無くて、仏陀(ぶっだ:真の覚者)の真理をも理解しようとする縦横無尽で柔軟な知性を持つ博識な人との交流が良いです。

そうして、自分の真理への理解を増し、自分が持つ疑問・疑惑を減らして行くことが大切なのです。
その上で最終的には、

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.58)

(感想)
これの意味することは、頭が良くても、
「謙虚である」「素直である」「こだわりがない知性」
が大切であり、こういう人が真に博識な人と言えます。

ー中略ー

この項に関しましては、後世の弟子による加筆だと私はしておきます。
釈尊の独特で崇高な霊流が訳していても薄いです。
でも、知って置いて欲しいのは、自分が学ぶことについて、

* 生きている間、死ぬまで、少しでも知識を増やす努力をすること。
* 学ぶことに関して、素直で、柔軟で、自分が謙虚であるべきということ。
* 自分の社会への疑問を減らす努力をしながら、最終的には自分の意見を持つこと。

このようなことが、何時の時代の人間にも言えると思います。



世間が夢中になる様々な娯楽や競技(スポーツ)が、人生のすべてだと思うのは止めなさい。

そのようなことに関心を持つよりも、

自分の心身を着飾って他人に見せたい気持ちから離れなさい。

自分自身に対して、ウソの無い言葉だけを話す努力をしなさい。

そうした上で、

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.59)

(感想)
釈尊の真意は、
「娯楽が必要な気持ちは分かる。
でも、何回も生まれ変わっても、毎回の人生で娯楽というものに貴重な時間を浪費したまま終わり、
そして、また同じパターンを繰り返すのが人間だ」

と仰っているように響いて来ます。
これを千回も繰り返しましても、それでも、また来生で娯楽に逃避して人生を終わりますか?
という釈尊からの問い掛けなのです。

そろそろ、娯楽に逃げずに、本当の自分自身に向き合うべきなのが今生ではないですか?
という示唆をされています。
そのためには、

* 自分自身を虚飾して他人に見せたい気持ちを捨てなさい。
* 本当の自分(良心・内在神)に対して、ウソの無い言葉だけを話す努力をしなさい。

という示唆がされています。
もし、今の自分が没頭する娯楽・趣味が有れば、
* それを極めたら、どうなるのか?
* その行き着く先には何が有るのか?

これを最初の段階で、自分で認識をして置くことが、娯楽への過剰な浪費を避けることにも成ります。
自分自身を危険からも守るかも知れません。


【編集者注記】スッタニパータについての記事は「日付昇順」とします。


  • 最終更新:2017-02-09 19:26:35

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