原始仏典:スッタニパータ(第1章3節その1)

■原始仏典:スッタニパータ(第1章3節その1)について

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誰もが劇団一人だった 2016-08-03 11:26:36

すべての生き物へ暴力をふるうことを止めなさい。

どんな生き物にも危害を加えないと誓った人が、

自分の子供にさえも執着して縛ることが有ってはいけない。

ましてや、同じ修行をする友人が欲しいと執着してはいけない。

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように歩め。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.35)

(感想)
人は、どんな中に自分が居ましても、孤高・独立する一人の存在である意識を根底に持ちなさいと釈尊は言われます。
でも、そんな人生は寂しくないか?
と普通の方々は思うものです。しかし、

* 人間は誰もが、最後はたった一人で死んで行く道理

を見ますと、コノ世でどんなに子供がたくさんいようが、友人に囲まれようが、それは流れていく景色・風景にしか過ぎないのです。すべては必ず変化して行くものです。
子供たち、友人たちという風景に執着せずに、そのいっときを楽しむならば、それは最高です。

ー中略ー

天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)
=宇宙には内在神と自分しか存在しない、という真理・真実。

成功する経営者とは、
* 自分の孤独を楽しめる人。
* 自分の孤立を恐れない人。
* 自分自身を信じる人。

であるのが特徴であり、必須条件です。
今の自分がどんなに弱くても大丈夫です。
今から、自分に内在する孤高の存在、躍動する絶対歓喜(真我・内在神)に気付いて行けば良いのです。

自分の中の崇高な歓喜に気付けた人は、人生が明るく変わります。
その人の死後は、天国に行くことは間違いないのです。
安心の中で心が躍りながら昇って行きます。



性交をすれば、相手を縛る執着の愛情が生じます。

執着の愛情が大きいほど、色々な苦しみも増します。

執着する愛情から、色々な問題・事件さえも起こる様子をよく観察していなさい。


どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.36)

(感想)
ここで釈尊は、性交の有無を1つの基準として断言されています。
夫婦以外の関係において(夫婦間の性交は良いです)、性交することから生じる縛る愛情・欲情に注意しなさい、と言われています。
自分が他人と性交して、相手に色欲から執着する間は、輪廻(りんね:何回も生まれ変わること)を外れることは無いとします。

相手を縛らない・相手に執着しないけれども、無数の異性と性交したいだけならば、それは更に悪い自我の執着です。愛情も持てない、無責任な自我の執着です。
これは悪徳な有料先生に多い心境です。その実態・霊格は、まじめな一般人以下の人間と霊性だということが真相です。

性交を心中で思うだけならばまだ良いですが、行為に移さないと収まらない段階では、まだまだ転生(てんせい:生まれ変わり)は生じます。
でも、若い頃はそうであっても、老後に枯れたならば問題はないです。
再びの転生を呼ぶほどの執着を持つ人は、老人になっても色欲の行動を抑えることが出来ません。

ー中略ー

自分の生活の中で、自分のオリジナル色、オリジナル磁気を大切にする方向だけは意識して置いてください。
動物が死ねば100%成仏するのは、オリジナル磁気(マーキング行為で自分の磁気を守る)を維持することに非常に厳格だからです。
自分色の磁気を大切にすることは、人間が忘れてしまった真理だと言えます。



親友、友情の為に、それを維持する為に自分が無理をするならば、それは他人の視線を気にするがゆえの自分の執着です。これは自分自身を害する可能性が有ります。

交友関係におきましても、自分自身が外見を気にする自我を増大させる執着である危険性を知っておきましょう。

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.37)

(感想)
この項で釈尊は、交友関係でさえも、すべては他人の視線を意識した行動であることを示唆しています。
友人だと思う相手と、その周囲の人々への体面を意識した行動を、交友だと思っていないか?と投げかけています。

そういう関係は、元は自分自身の見栄であり自我(良く見せたい欲)の執着からの産物だと示唆しています。
人は、自分一人だけでポツンと居ることが、他人の視線を気にしてカッコ悪いと思うサガが有るということです。

そこを釈尊は、
* 自分一人で居ることを恐れるな!
* カッコ悪いと思うな!
と叱咤(しった)しています。

それを恐れる心は、自分の自我の執着から発生していること。
自分の弱い自我が、他人とつるむ、友人が多い様を演出していると看破しています。
自分には友人が多いという無理な演出をさせます。
これは自分を良く見せたいという執着から生じています。

人間は、執着を大きく育てている限り、本当の幸福感も幸運も来ないのです。
釈尊は更に、
* 自分を良く見せたい執着を大きくする間は、転生(再び生まれ変わること)する。
とします。

本当の友人関係とは何か?
そこに自分自身を良く見せたい自我の執着が無いか?
を考えて置くことも、自分の真我(内在神)を発露させる為には大切なのです。


誰もが竹の子 2016-08-19 11:17:50

子供や伴侶という家族に対する執着とは、

まるで、根っ子が1つで繋がっており、上方でも枝同士が近接して絡みあう竹林のようなものです。

でも原点は、誰もが竹の子のように枝葉を持たない独立した存在であるのが人の正体です。

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.38)

(感想)
釈尊が、「君は竹の子なんだよ」と仰っています。
確かに人の一生を考えますと、

* 竹の子のように、先祖という根っ子の上に、枝葉の無いツルンとした赤子で生まれ、
* 段々と枝を伸ばし、隣接する家族という枝と絡み合い、
* 子供は成長すれば離れ、伴侶とも死別・離婚もするかも知れません。
* 竹は年月を経て上空に伸びるほど他の枝との絡み合いは去り、老いた竹は孤高の存在となり、
* いずれは枯れて、枝葉を無くし、竹の子に戻ると言えるのかも知れません。

釈尊は、家族という枝葉を持つなとは言っていません。
* 自分の本性は、枝も何も無いツルンとした竹の子だったことを忘れるな!
と仰っているわけです。

これを忘れなければ、何が変わるのでしょうか?
* 家族への「怒り方」が変わるのです。
これは、かなり大切なことです。家族の人生に影響するかも知れません。

ー中略ー

人は竹の子のように、表面(自我)の黒い皮をむけば、美味しく素直な白い中身が現れます。
でも黒い皮は、風雨や寒暖から中身を守ってくれます。
* 黒い皮=自我(ワレヨシな欲望)
* 風雨や寒暖=社会での試練。危険。

だから生きる限りは、自我を完全に取り去る必要もありません。
ただ、内に純粋な白い中身を持つ自分を忘れずに、意識して守ることが大切です。
* 白い中身=内在神
とも言えそうです。

要するに、この項で言いたかったことは、
* みんな竹の子だー。
なのです。



森の中を自由に動き回れる野生動物たちは、感じるままに食べ物に近付くことが可能です。

このような完全に独立した自由というものを深く目指して、

知恵の有る人は、

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.39)

(感想)
この項を人間社会における仕事に言い換えて見ましょう。

* 社会の中には無数の仕事が存在しています。
* 人は、自分の好みと自分の能力に合わせて、その中から仕事を選ぶことが可能です。
* 自分が選ぶ仕事が人生を決めます。

* その自由に選ぶ、という不思議の縁を深く追求しなさい。
* その時、人は生きる知恵を持つことが最重要です。それが、その人の人生を決めます。
* 生きる知恵を持つ者は、集団の中に自分が居ましても、その中でも自分一人で求道する精神を持ちなさい。

このように響いて来ます。

ー中略ー

この項の言葉に戻りますと、
* たくさんの中から自分が自由に「選べる能力」という事への求道を深める大切さ。
* どんな中に居ても、その中で生きる知恵を持とうとする意識の重要性。
これを釈尊が指摘されています。

つまり、
* 自分の生活の中で、より自由に選択が出来るように努力すること。
* 自分がする自由な選択の中には、自分の生き方から生じる色々な因果や縁が凝縮されること。
* 生活の知恵を持つことが重要であること。
* どんな集団の中に居ても、自分独りの求道の場にすること。
このようなことを意識することを参考にして頂ければ幸いです。



いつも仲間と一緒にいるならば、

修行中も、休んでいる時も、仕事場に行く道中も、遊びに行く時も、

常に仲間と話さなければいけません。

それよりも他人を気にしないで済む中で、自分の心の完全なる自由を求めて考えたほうが有意義です。

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.40)

(感想)
人は仲間の中に居て、自分がしゃべっていることで、
* 他人から見える自分の体裁が良い。間が持つ。
* 集団の中に馴染んでいる「自分に」安心する。

つまり、
* 自分の外見を意識した自我(ワレヨシの思い)
のために、人は仲間というものを求める側面があることを知って置きましょう。

釈尊は、友人を持つなとは言っていません。
友人たちの中に自分が居ても、

* 人が持つべき大切な本質・目的である、自分の心の完全なる自由というものを見詰めることが大切なのです。

ということを、この項は示唆しています。

ー中略ー

今日も、自分がどんな中に居ましても、
自分の心の自由とは何か?
を見詰めて過ごし、心中でこれを優先していましょう。



仲間や家族と一緒にいますと、遊びや楽しい物事が有るものです。

もし自分に子供がいるならば、家族への執着愛は大きなものです。

しかし誰もが必ずいつかは、大切な人と別離が生じるのがコノ世なのです。

コノ世はそういう世界だということを覚悟して忘れずにいましょう。

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.41)

(感想)
* 家族や仲間と、いつかは別離することなど一切考えずに暮らす生活。
* 自分の子供とも必ず別離するなどの縁起の悪い事は信じないで、一切考えないで今を楽しむ生活。

これとは反対に、
(2)
* 家族や仲間と、いつかは必ず別離することを覚悟しながら、今の生活を楽しむこと。
* いつ何どき家族や友人と死別しても、自分が後悔しない対応を普段からしながら生きること。

この2つの生き方には大きな違いが有ると、この項で釈尊は示されています。
何がどう違うのでしょうか?

(1)の生き方ならば、家族や友人に対して、
* 自分の好きなことを相手に言って、喧嘩をしても気にしない。
* 相手に嫌味を言ったり、自分がイジメをすることも有るかも知れません。

(2)の生き方ならば、
* 今日が一期一会(いちごいちえ・最後の面会)だと思い、ムダな喧嘩をする気にも成らない。
* 相手を愛情深く、感謝の気持ちで見ることが出来る。
* 相手の些細な事は気にならない。

このようなことが言えると思います。

ー中略ー

死を忘れている生活とは、その中身に天地の違いが長い人生では生じるということです。

今日は、他人や色々な物事(動物・植物・乗り物・食事・・・)と「一期一会」「今日が最後」という視点で見てみましょう。
普段には気付けない、何か大切な気付きが生じるものです。


天国へ行く最短の近道 2016-09-09 11:19:16

東西南北、どこに住んでも安らかな心境で過ごし、

どんなことも毛嫌いせずに、

その時々の、どんな所でも、自分の手に入るもので満足をすること。

自分に起こってくれる様々な因果の荒波を恐れない人は、

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.42)

(感想)
死後に涅槃(ねはん:絶対的な安心の境地。天国)に行くためには、どんな生活をすれば良いか?
釈尊がこの項で説明しています。

(1) どんな地域・場所・家に住んでも、そこで安らかな心境で住みなさい。

つまり、住む場所の影響に左右されるようではダメだと仰っています。
隣人が嫌いだ、上階の騒音で眠れない、などなどノイローゼになるほど苦しむ人が現代には多いです。
人間とは気になり出しますと、ドアの開け閉めの音だけでも自分への嫌がらせ、攻撃だと思い気に病む人がいます。

考えて見ますと、死後には今の自分が「知らない」世界で誰もが過ごすのですから、コノ世「でも」どんな場所でも順応できることが、たとえ行き先が天国であっても快適な暮らしに必要な条件と成ります。
今の住まいで感じる嫌な刺激こそは、自分の順応性を強化してくれる大切な訓練かも知れません。

(2) どんな地域の風俗・習慣も、どんな他人も毛嫌いしてはダメです。

やはり、他人を嫌悪する気持ちこそは、死後の自分の足を引く要因に成るということです。
でも変な人は必ずどこでも居るものです。そういう人に一々嫌悪の感情を「自分の中に」起こさずに、大きな視点で見て行きましょう。
自分が嫌な感情を持つことは、自分にとってのマイナスに成るということです。

(3) 「足るを知る」、ということが重要です。

今がどんな現状で有りましても、
* そこで感謝が出来無い人は、
* 感謝するべきことに気付けない人は、

何が叶っても、新規の不足感が「止まらない」ということです。
これを止めるには、とにかく今の現状の中でも自分の不足感を止めることです。
今の中でも満足が出来る人には、そう成ることが可能です。

(4) そうする中でも、自分に起こる様々な困難を無闇に悲しんだり、恐れたりしないこと。

その困難こそは、生死を超えた転生(生まれ変わり)の視点では、「自分が忘れている借金」を返すための大切な大切なチャンスだということが霊的な真相なのです。
借金が終われば、後は放っておいても全てが貯金です。
必ず天国へと行きます。



すべてを捨てて出家(しゅっけ:専門の僧になること)したからと言って、心の不満が消えることはありません。

また、家庭生活(ある程度の欲を満たす)をしながらの修行者も、同様に不満心が消えません。

社会の他の人々との「比較」をして気にするがゆえの不満心を人は常に持ちます。

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.43)

(感想)
何かの形を入手すると安心が出来ると、人は頑なに信じています。
でも釈尊は、これを完全に否定しています。
* 出家したからと言って、何かが変わることは無い。
何かの形が叶っても、揃っても、人は今と同じだということです。

人がそうなる原因が、
* 他人との比較
から来ると、釈尊は仰っています。

ー中略ー

だからこそ、
* どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
* まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

この心境を覚悟して、社会の中で楽しむことが、真に自分自身を安心の境地に導くということなのです。
自分自身に何か心配や、不安や、不満心が有る時は、
* 自分は他人との比較をしていないか?
と振り返って見ましょう。

これをすることにより、自分が何をするべきか? どう思うべきか?
が見えて来ます。
自分自身を尊重する気持ちを持ち、自分を大切にする人から真の安心が到来し始めます。



人は、すべての葉が枯れ落ちた黒檀(こくたん:鉄のように硬い褐色の木)のようにスッキリと居なければいけません。

世俗の中に居ましても、家庭生活の苦労を表面に滲ませていてはダメなのです。

家庭生活からの束縛が有りましても、ひょうひょうとして生きることが大切です。

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.44)

(感想)
人は「生(性)老病死」、コノ世に生きる限りは必ず自分自身に不足が生じるような法則に出来た世界なのです。
だから、人それぞれに応じて、必ず苦労も不満も悩みも有るのが人間です。それでも、

* 自分の顔に苦労を滲ませているのは、その苦労に自分自身が負けている。

ということです。苦労に負けている間は、その苦労からはなかなか卒業が出来ないのも法則なのです。
特に釈尊が生きた時代とは、生きること自体=苦渋の生活、でもありました。平均寿命は、現代の約半分でした。

* どんな苦労が有っても、それを自分の表面に滲ませている間は、その転生(生まれ変わり)は終わらない。

ということでもあります。
どんな苦労が家庭にありましても、それに束縛された風には見えず、ひょうひょうと生きることです。
ただし、その苦労からは逃げずに、努力をしていることが条件です。
この継続は、苦労の克服と、次の段階への改善を現実に起こします。



もしも、
* 知恵があり、思いやりが深く。
* 自分と目的が同じである。
* 正しく生きようとすることを自分の修行とする。

このような友人がいる場合は、どんな因果、困難も気にすること無く。
あるがままに自然に、喜んで共に暮らして行けば良いです。
(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.45)

しかし、そのような同伴者を得られない場合は、どんな自分の栄華や実績も気にすること無く、

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.46)

(感想)
前半のNo.45の項は、釈尊の教えを共に求めて行くサンガ(組織)・仏教集団を形成していくことを釈尊が認めた、とする根拠の1つにされている項です。

「サイのように、ただ一人で歩け」と連呼する釈尊の教えなのに、どうして仏教集団が出来たのか?
という大きな根本的な矛盾を説明する項だとされています。

でも、この問題は、No.45だけを読みますと「釈尊が集団になることを認めた」と解釈されがちですが、No.46を読みますと、釈尊の真意・深意が見え始めます。
この2つの項を続けて読みますと、

* 自分と同じような志(こころざし)・目的を持つ知り合いが居れば、共に歩んでも別に良いよ。

* でも、そういう知人が自分に居なければ、無理は不要です。
自分一人で歩いて行けば良いんだよ。

つまり、この2つの内容に共通する内容は、釈尊が、
* 自然でありなさい。
と仰っていると、私は感得します。

ー中略ー

釈尊の教えの根本は、とにかく、
* 天上天下 唯我独尊 (てんじょうてんげ ゆいがどくそん)
宇宙には、たった1つの存在しか居ない。
自分自身も、その1つの中の一部に過ぎない。

ということに変わりはありません。
この基本の上で、コノ世で生きるには、
* 上記の2つのパターンの内、どちらでも自然に成るほうで良い。
ということです。



何でも完璧にこなす、素晴らしく優秀な人を友人に持てることは良いことです。
自分よりも優秀な人に近寄ることは賛成します。

しかし、そんな人を友人に持てなくても問題はありません。
自分なりに真面目な生活をして楽しめば良いです。 (No.47)


でも、工芸作家が見事な細かい細工を施した、2つの黄金の腕輪を同時に1つの腕にはめて、
それが激しくぶつかり合い、ガチャガチャと音を立てる様をよく見ておきなさい。

これをよく見たならば、

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。 (No.48)

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.47〜48)


(感想)
最初の項で釈尊は、
* とても優秀な人を友人にすると良いぞ〜。
* でも、そんな人がいなくても気にするな。自分で歩いて行きなさい。

と言いながら、次の項では、

* 2つの凄い金細工のブレスレットを同時に1つの腕にはめれば、激しくぶつかり合い、お互いに傷付く様をよく見て置きなさい。
* それを見て、よく分かったならば、自分一人で歩きなさい。

と言われています。以上の2つの話を、
* 優秀な人たち=2つの美麗なブレスレット

と解釈しますと、釈尊が言わんとすることが見えて来ます。
「1箇所に」(1つの腕に)優秀な人間ばかりが集まっても、衝突が起こるものだ。
自分も優秀に成らないとダメだと思うな。
自分は、優秀な友人とは違って、自分なりで良いのだ。
だからこそ、優秀な友人も、あなたと合うのだよ。

ー中略ー

今の自分がどんな人間であっても、やはり一番最高なのは自分自身なのです。
自分にとっての最善は、「自分は自分であること」なのです。
他人の風景を見ては悩むな!
ということです。



他人と二人でいる時は、何でも過剰に詳細を語り過ぎるものである。

後からこれが、未来において恐怖するべき災いをもたらす可能性を熟慮して置きなさい。

だから、

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。

まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.49)


(感想)
普通の解釈では、自分が話したプライバシーが、後から災いを呼ぶという「話の内容」の指摘だと思われることでしょう。
でも私の感応では、その話の内容はまったく問題では無くて、

* 自分で後から心配して、自分自身を後悔して心配すること。
* 生活のすべてにおいて、これもあれもアノ話からの嫌がらせだと自分で被害妄想に陥ること。
* つまり、話の内容は問題では無いのに、自分の猜疑心がすべてを自ら破壊することに成る災い。
* 中には、自分が話してしまったという心配心から仕事も辞めてしまい、無職になってますます病む人も。

つまり、自分の心配心から「自分で自分自身を破壊する災い」を釈尊が指摘されていると私は解釈します。

2500年を経過しましても、人間が心配心に落ちる盲点は、まったく変わらないようです。
* 自分で自分自身を心配心から破壊しない為に、他人には余計なことを話すな!
* いつでも、自分一人で淡々と歩いて行く覚悟をしていなさい。これが逆に、他人と良い交友が出来る秘訣なのです。

このように釈尊が仰っていると感じてなりません。
今日からは他人と話すプライバシーは、ほどほどに上手く交わして、後から自分に心配心が起こらないように生活をしましょう。
これが、自分自身に明るい、ムダな心配の無い生活をプレゼントしてくれます。


【編集者注記】スッタニパータについての記事は「日付昇順」とします。


  • 最終更新:2017-02-09 19:23:33

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