原始仏典:スッタニパータ(第1章12節)

原始仏典:スッタニパータ(第1章12節)について
目次

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記事「自分の肉体を大切にするが、執着はしないことが大切」からの続き。

第1章12節:釈尊という沈黙の聖者について。

他者と社会的な関係を持って、親しみ慣れることから、次にそれを「失う」という恐怖や執着が生まれます。

また、一箇所に長く住み慣れることにより、その場所に執着するという因果が生じます。

従って、沈黙の聖者である釈尊が到達した悟りは、
・ 一箇所に長く住まないで、その場所に執着を起こさない生活を心掛けた。
・ 他者との間に「慣れる」という関係を持たなかった。

(原始仏典  釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章12節-No.207)

(感想)

この第1章12節は、後世の弟子たちが、釈尊のことを「沈黙の聖者」と呼んで、釈尊という聖者の御姿とその真理について記述された章です。

釈尊という御方は、
・ 一箇所に長く住んで、その場所に慣れて執着を起こすような生活をされなかった。
・ 特定の相手との間に、慣れた態度を見せて、その相手が特別であるという錯覚をさせなかった。
・ 釈尊は、新しく共同生活に加わった人にも、10年も一緒にいる人にも、まったく同じ態度で接し、決して慣れた態度を見せなかった。

このような釈尊の態度の姿が、この章に示唆されています。
これは現代の経営者にも大切な態度です。

(中略)

以上の話のすべては、
・ 私達は、必ず死ぬ存在であるという事実。
・ それなのに、「慣れ」を求めてしまうサガが有ります。
・ どんなにコノ世で慣れたところで、いつかは離れなければ生けないわけです。

この視点から、この項を再読しますと、観えて来るものが有ることでしょう。



記事(「慣れ」の次には、それを失う「恐怖」や「執着」)からの続き。

もし人が、
・ 輪廻(りんね:生まれ変わり)を起こさせる因子を成長させないように配慮して生活し、
・ 既に自分の身の回りに有る環境に、新たな愛着の執着をしないように注意して生きるならば、

そのような人物こそは、住む所にもこだわらない単独の聖者だと言って良いです。

このような真の聖者こそは、究極なる静寂の真理を体験して行くことに成ります。

(原始仏典  釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章12節-No.208)

(感想)

現代人に大切なことは、
・ 自分の悪い芽に気付けるのか? 否か?
先ずここが大きな分岐点に成りそうです。個人差が、とても大きな問題です。

不倫でさえも、「別にいいじゃん」と思っている人はいるわけです。
まさか今の不倫のために、来生に生まれ直して、自分が相手の家族の立場を味わうことに成るとか、夢にも思わないことでしょう。
でも、親の不仲や離婚のために、進学も含めて子供が味わった辛い立場を、来生の自分自身が味わうことに因果の法則では成ります。

これは、多くの人々の悩みを30年以上も観て来た私が体験した世界観でも、
・ 因果の法則は、完璧に生きて作用し、リピート(再現性)するのは確かです。
・ 恐ろしいほど完璧な因果の「物理法則」の中で、私達は暮らしている。
・ ウヤムヤや、不公平や、理不尽なことは、真の意味では存在しない。
・ 完全、完璧な公平性が、どこまでも貫徹している。
これを確信しています。

これを深く理解しますと、もし自分に何が有っても、
・ もう、お任せで良いわ。
・ 他人を、決して恨みません。
・ 安心して居られる。
という気持ちに成れます。



記事「自分の悪い癖(因果)を、成長させるような生活をしてはダメ」の続き。

過去、現在、未来、という三界をひたすら輪廻(りんね:生まれ変わること)する姿を冷静に見た時、

どの時の自分にも愛着という執着を持たない者は、

民衆の中のただの一人として生まれていましても、その人は輪廻を終焉(しゅうえん:終わり)させる真の聖者として存在します。

そういう聖者は、日常の中で1つ2つと数えるような出来事を気にすることが一切無いのです。

(原始仏典  釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章12節-No.209)

(感想)

非常に難解な項です。原文を見ましても、「いったい何を言っているのでしょうか?」という感じの記述です。
分かりますことは、釈尊の視点とは、
・ とにかく人は、何度も生まれ変わる存在である。
・ 人は、過去生のどんな人生でも、何度も同じようなことを、ひたすら繰り返していることに気付けない。忘れているだけ。

その上で、
・ 過去、現在、未来の自分の人生において、「自分だけ」「自分が」というワレよしな執着を、愛着を、どの人生においても持たないこと。

・ ただ1回の人生だけで、執着を残さない人生をしたとしてもダメ。

・ 連続して、どの人生でもワレよしな執着を持たない生を何度も繰り返した人は、真の聖者である。

・ そういう人は、民衆の中に紛れて生まれていても、輪廻を終わらせることに成功するだろう。

・ 最後の人生の特徴としては、どんな出来事も、苦難も、1つ2つと記憶に残して気にする人では無いこと。
風のように、記憶に残さない。



記事「風のように、思いも残さないこと」からの続き。

コノ世の様々な分野における自分自身の欲望を冷静に見ることが出来て、

それを求めて行き着く先を事前に深く理解することによって、

そのような欲望に執着することが消えた者は、冷静な聖者である。

このような聖者は、何が何でもという欲が消え去っている。

こう成れた聖者は、輪廻(りんね:生まれ変わり)から卒業する彼岸(ひがん:ゴール)が目前です。

(原始仏典  釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章12節-No.210)

(感想)

「それを求めて行き着く先を、事前に深く理解することによって」
「このまま進めば、どうなるのか?」
これを経験する前に冷静に判断することは、動物には出来ないのです。
動物は、行き当たりばったりに対応します。

事前に判断することが出来るのは、人間だけが持つ能力です。
でも、すべての人間が、この能力を使っているわけでは無いという指摘です。
自分の自我(われよし)の欲望に対して、何が何でもという執着が消え去った者が、冷静な聖者です。
こういう聖者は、輪廻からの卒業が近いという内容です。

(中略)

ここでの、問いかけは、
・ では、その経験を1000回繰り返しても、良いのですか?
・ そして、永遠に輪廻(似たような人生を何回も生まれ変わって)を繰り返す。
という指摘なのです。



記事「痛い思いをしなくても済む能力」からの続き。

コノ世の全ての事柄を正しく見抜き、その本質を知る叡智を持つ人は、

幾度もの生まれ変わりの荒波の試練を乗り越えて、

いかなる存在の影響も受けること無く、

そして、すべての物事への執着を持たないならば、

自我が持つ欲望から解放された自由な人です。

このような人こそは、黙っていても聖者だと、

真の叡智を持つ人々からは分かるのです。

(原始仏典  釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章12節-No.211)

(感想)

・ 物事の本質を見抜ける人。
・ 物事への執着を持たない人。

このような人に成れた場合、黙っていても、賢い他人が見れば、聖者だと分かると文章が締めくくられています。
そういう空気感が出ている人だということです。

まずは、縁ある他人の、
・ 本質を分かってあげたい。
・ 相手の本音を思いやって理解したい。
という視点を持つことからを参考にして頂くと幸いです。
こういう視点は、相手の立場や状況も理解し、他人への思いやりを育てることでしょう。


年金問題の解決策 2019-08-29 11:33:37

記事「物事の本質を見抜き、何事にも執着を持たないこと」からの続き。

悟りの知恵の知力を持ちながら、

それでも戒律を守り、禁欲修行を継続する人。

そして心が静かな状態に在ることを、最上の喜びとし、今の中に居続ける人。

そういう人は、どんな人からの干渉にも束縛されずに自由であり、

次に生まれ変わる理由(因果)が無くなっています。

そういう人が聖者という者であると、古くから賢者は指摘しています。

(原始仏典  釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章12節-No.212)

(感想)

この項からの1つ目の問い掛け、

・ あなたは、自分の目的を達成しても、なお引き続き努力を継続する人ですか?

という問い掛けがされています。
受験が終われば、勉強を止めるのか否か?
婚活で頑張って結婚した後も、自分磨きの行動をするのか止めるのか?
就職してしまえば、もう勉強は止める?
病気が治れば、食生活は以前に戻ってしまう人ですか?

聖者という者は、悟りからの知恵を達成しても、修行を止めないで、節制した生活を喜んで継続する人だと指摘されています。

(中略)

2つ目の問い掛けは、

・ どんな人からの干渉にも束縛されずに自由であること。

このような記述からの注意点は、
・ 聖者になっても、他人からの嫌な干渉が無くなるわけでは無い。嫌な干渉は有る。
・ 自分は他人からの嫌な干渉を感じるから、ダメだと思わないように。

どんな人間に成りましても、他人からの嫌な干渉が必ず有るのが社会です。
それは聖者になっても、同じなのです。

でも、他人からの干渉に左右されないこと。
他人の嫌な言葉を気にしないこと。
これが大切なのです。



記事「年金問題の解決策」からの続き。

一人で歩き、これを修行とする人。

他人からの評価を気にせずに、どんな風評を立てられても、心を煩(わずら)わすことが無く、

ライオンのごとく堂々としており、

どんなワナの網からも風のように立ち去り、

どんな泥水の中に入っても、蓮の花のように泥が付かない人。

そして、他人に示唆を与えることは有っても、他人からの誘導には乗らない人。

そういう人が聖者という者であると、古くから賢者は指摘しています。

(原始仏典  釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章12節-No.213)

(感想)

この内容には、「心が病まない」ための秘訣が書かれています。
逆に言えば、これの逆の人は、心の問題に要注意です。

(中略)

多くの人は、何か問題や不満が有れば、自分の家庭や環境を変えなければ、自分は改善しないと思いがちです。
自分の欠点を、周囲の環境や親の責任にしている人もいます。
でも、それは間違いです。

自分の心に、外からの嫌な刺激を響かせるのは、自分自身なのです。
自分の心にまで届かせるのは、最後は自分なのです。

蓮の花は、どんな泥水も、スルリと落ちます。
泥の中でも、美しく輝いています。
これは、人間にも可能なのです。
そういう人に、成ることを参考にして頂けたならば幸いです。



記事「泥の中に居ても、泥が付かない人は居ます」からの続き。


他宗派の人々が論争を振り掛けて来ましても、

沐浴場に立つ真っ直ぐな柱のように、毅然として不干渉をつらぬき、

言い負かしたいとか、優位に見せたいとか、などの欲望から離れ、

心が安定の中に統一されている人。

そういう人が聖者という者であると、古くから賢者たちは指摘しています。

(原始仏典  釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章12節-No.214)

(感想)

釈尊が生きられた、今から2500年も前の時代は、国家同士の攻防が激しくて、頻繁に変わって行く政治が話題に上がることよりも、政治よりも何百年、数千年と統一性をもって続く宗派同士の論争により、民族と民衆が分かれていたと想像します。

(中略)

私達も、会社や、隣人同士、家族内でも、
・ 相手を言い負かしたい欲。
これが有るのではないでしょうか。

更には、相手を言い負かしたいけれども、言えない立場の人は、
・ 我慢に我慢を重ねて、病んで行く。
・ 会社などを辞めて、無職に成ってしまう。
・ 家を離れてしまう。

このような事態に成ることが見られます。
でも、もし、
・ 言い負かしたいとか、優位に見せたいとか、などの欲望から離れた心境。
・ 何を言われても、心が安定の中に統一されている人。

このような境地に自分が達していますと、上記のような不幸には成らないのです。
さて、現代社会では、論争を言って来た相手には、どうすれば良いのでしょうか?
そういう時は、
・ その内容よりも、相手の言い負かしたい欲を、冷静に観察すること。
・ そして、自分の言い返したい欲も、客観的に静観が出来れば幸いです。

その上でも、言っておくべきことを感じた時は、要点だけを言い返して置くことを参考にしてください。
ただ、論争を仕掛けて来る時点で、変な人、ヤバい人である可能性も十分にあります。
そういう時は、不干渉で良いでしょう。



記事「相手を言い負かしたい欲を静観すること」からの続き。


誰もの心の最も奥深い内側にある個の根源を意味する真我は、安定して不変・不動な存在です。

この自分の真我に沿って、真っ直ぐにコノ世を歩き、

悪行の習慣(盗み・賭け事・不倫・詐欺・不道徳な性交)に引かれないように人生を歩き、

どんな他人との間にも、完全に平等に向き合うことを心掛けている人。

そういう人が聖者という者であると、古くから賢者たちは指摘しています。

(原始仏典  釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章12節-No.215)

(感想)

正しいゴールの方向を指し示す羅針盤(らしんばん:コンパスであり、ここでは真我)は、誰もの心の奥に既に有るのだよ。

真っ直ぐ行けよ! 行けば分かるさ! (ナンチャッテ)

でもな、コノ世の道中には、盗み・賭け事・不倫・詐欺・不道徳な性交などの「習慣性」に必ず成る魔の手が、そこら中に伸びているのだよ。
これに引っ掛かるのでは無いぞ!

という趣旨が述べられた項です。
そして、コノ世で生きる上で大切なことは、

・ どんな相手にも、平等な視点を持って接することなんだよ。
・ 相手を下に見たり、さげすんでは生けないよ。
・ 天が見て、チェックしている点は、その人の平等性なのだよ。



記事「自分の良心にウソをつくことは不可能です」からの続き。


自分自身の心を、正しくコントロールするように心掛けている人は、
悪い行為をしません。

若い年齢の時にも、中年以降の年代に成りましても、

静かに黙々と、自分が出来る努力を継続します。

そのような人は、どんな他人にも苦悩を与えることをしません。

他人に苦悩を与えない人は、

どんな他人からも、苦悩を与えられません。

そういう人が聖者という者であると、古くから賢者たちは指摘しています。

(原始仏典  釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章12節-No.216)

(感想)

とても大切な示唆に満ちた言葉が述べられた項です。
釈尊いわく、

(1)自分の心をコントロールしたいと、制御する努力をする人は、
悪い行為も、自然と出来なくなって行くものだ。

これは確かに言えると思います。
努力が継続する人は、自然と真面目に成って行きます。

この逆に、中学生の時の悪ガキを思い出しますと、
・ 真面目に努力する同級生を、バカにして邪魔をしたい気持ちが起きる。

・ 自分が出来ないことを、他人が真面目にしていますと、自分が取り残されるような感じがして、壊したくなる。

このようなサガは、大人に成りましても有るものです。

(中略)

(2)他人に苦悩を与えない人は、どんな他人からも、苦悩を与えられることが無くなって行く。

因果の法則では、これが言えます。
でも、このように書きますと、
・ 自分は真面目にしているのに、嫌がらせを受けるのはナゼ?
このような疑問が出るものです。

でも、急がないで欲しいのです。
これは速効性の有るような話ではありません。

自分が、他人に一切の苦悩を、言葉でも、態度でも、行動でも、誤解であっても、
絶対に与えない真面目な生活が「長く継続した」場合に、
「そう成って行く」と理解をして頂ければ良いと思います。



記事「何事も継続性の上で改善が起こります」からの続き。


他人からの施しの食べ物で生活している者は、

容器に盛られたばかりの、まだ他人が食べ始めていない料理から取られた食べ物でも、

他人の食べかけの中から取られた食べ物でも、

他人が食べ残した中からかき集められた食べ物でも、

食事を提供してくれた人に対して、

その中身に応じて感謝の称賛をしたり、

罵倒したりすることが有っては生けません。

これが出来る人が聖者という者であると、古くから賢者たちは指摘しています。

(原始仏典  釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章12節-No.217)

(感想)

とても厳しい指摘を釈尊がされています。
修行者として生きる者は、
・ 自分に提供された物に対して、喜怒哀楽を表すべきでは無い。
・ それが腐った物であろうとも、新鮮な物であろうと、「それが」今の自分に与えられた縁である。
・ 相手への喜怒哀楽を思う前に、ソレを受けた自分自身の因果を思うべきである。
このようにも響いて来ます。

そもそもが、忙しく働く貧しい他人が、施しをしてくれること自体が当時の時代ではまれなことです。
2500年も前の古代インドとは、隣国同士の戦争が絶えず発生し、誰もが生きるのもやっとの時代です。

(中略)

この項から一般人が学ぶべき点は、
・ どんな物でも、自分に与えられることは、それが、今の自分自身が持つ因果である。
・ だから、その中身については、良い事である場合は素直に感謝を表し、
・ それが悪い事であっても、受け入れて前を見ること。
(だからと言って、腐った物を食べては絶対に生けませんよ!! それは、今の時代の人が行えば、ただの自殺行為です。釈尊が生きた時代とは環境の背景が違います)

このような態度が、悪い因果を早く昇華して、自身の運命を改善させることを感じます。



記事「釈尊が、食べれば死ぬと分かっていても、受け入れた理由」からの続き。

自分は修行者だと意識する者は、

異性との性交の快楽を一切止めて、

どんなに若くて魅力的な異性であっても、恋愛する気持ちを捨て、

傲慢になったり、人前でだらしなくすることがなく、

そして心は明るく解放されており、完全に自由で居られる者。

これが出来る人が聖者という者であると、古くから賢者たちは指摘しています。

(原始仏典  釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章12節-No.218)

(感想)

果たして、一人でも多くの悩める人々を救いたいと願われた釈尊の仏教が、世間から離れた修行者だけを対象とするような内容で良いのか?
それは、釈尊の本当の教えから離れているのではないか?
このように感じる今日このごろです。

もし人類全員が、このような修行者に成れば、子供も生まれません。
全員が真面目に実行して、滅ぶような内容は、それは間違っているか、誤解・誤読されていると思います。

そう思いながら、改めてこの項を読みますと、光る箇所が有りました。
・ 心は明るく解放されており、完全に自由で居られる者。

つまり、どんなに厳しい修行生活をしましても、
・ 明るく解放された人物であり、
・ 完全に自由な心の人。
・ このようなストイックな生活でも、楽しむ人、楽しめる人であること。
これが人生において、非常に大切であり、死後の行き先にも影響することを感じます。


関連コメント

質問は、肉体にどんなことが起こるのか想像がついても相手を敬い腐ったものも食べる。これは、死が起こる可能性を気が付いていて取る行動。自殺とどのように違うのでしょうか。例えば、自分が生きていることへの興味があまりなく、他への尊敬が大きいからこそ自分をきちんと敬わない、そういう人とどんな違いがあるのでしょうか。他への気遣いが自分への気遣いを上回る、そして死を招く。それと自殺との大きな違いはなんでしょうか。 自分をしっかり敬うということは、他を敬うよりもむつかしいことのように感じます。

..........当時の選択肢のない時代は、自殺ではなかった。食べ物が無い時代。
同じものを食べても、死なない若い人もいる。
高齢な釈尊には無理だった。

今の時代にすれば、これは自殺です。
釈尊が現代に生きていれば、食べて無い。
2019-11-13 14:01:52


【掲載順序】スッタニパータについての記事は「日付昇順」とします。


  • 最終更新:2019-12-03 17:19:53

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