原始仏典:スッタニパータ(第1章1節)

■原始仏典:スッタニパータ(第1章1節)について

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人間は、湧き起こるイラ立ちを抑えることが非常に重要です。
薬草で、蛇の毒が全身に回るのを抑えるかのように。

それが出来る修行者は、アノ世とかコノ世とかを何度も流転する輪廻(りんね:生まれ変わり)を止めることが可能に成ります。

これはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章1節-No.1)

(感想)
怒りを制する者は、悟りに至る。
これは非常に希望が持てることです。何も難しい修行や、長い瞑想や、無理に善徳を積むことを意識しないでも悟れるのです。

自分の怒りを制することが、全身全霊に非常に影響するということです。
今日からは、「簡単に怒る」「むやみにイライラする」ということを止めることから意識して見ましょう。
この継続が、自分自身を真から変えて行くのです。

怒りを昇華させるには、
* 規則正しい生活。バランス良い食事。無理なく歩く運動。無理なく出来るストレッチ。
日常生活こそが、自分の怒りを起こさない重要な因子と成ります。

* 生活努力と、先祖への感謝を普段の中ですることが大切です。
(理想は、ヨリシロ霊位による先祖への感謝の供養が影響します。この「継続」が物理的に怒りの磁気を放電させることに関係します。左記のブックマークの先祖供養に関するところを読んでください。http://goo.gl/t7Q6N

参考にして頂ければ幸いです。
実践の継続が自分に教え、先行きを導きます。



怒りをよく持つ者が、再び転生(来生も苦しい世界に生まれ出ること)しなければいけなく成る理由を説明します。
まず人が怒るということは、

* 怒りの対象(他人)へ悪いマイナス磁気を与えて、他人に見えない傷を与えることに成ります(生霊の意味でも)。

* このことは、その自分が嫌いな相手との間に、霊的な貸し借りの借金を増やして行くことに成ります。

* 死後は、その借金を帳消しにするために因果(貸し借り)を消すような組み合わせに出会う縁の者同士が、自動的に組まれて生まれ出る法則が存在します。

* つまり、自分が嫌いな相手ほど、再び来生でも縁ある者同士(または家族)として出会います。

* 激しく憎み合って、肉体的にも傷つけ合った者同士ほど、更に深い因縁のために近い身内、または家族・伴侶と成りやすいのです。

* 金銭も含めて、大きな貸し借りを残したまま今生を終わった者同士ほど、来生は違う形でも(下の処理を含めた介護をするなど)縁者となり転生します。

* つまり、本当に嫌いな相手、二度と絶対に出会いたく無い相手には、自分は怒るべきでは無いのです。再び出会わないために。

* 自分が怒りますと、その人との間の貸し借りの縁が強化されて行き、再び来生も出会う磁石同士に成ってしまいます。

* だから、本当に怒るべき相手には、逆に冷めるべきなのです。
わざわざ露骨に無視をすることも不要です。それも縁が生じます。

* もう良いからと、その相手を逆に許す・赦すべきなのです。

以上の因果の法則が完璧に言えます。



人間が、色々な色情を根こそぎ無くしてしまうということ。

つまり、水面に出た蓮の花を、それが繋がる水中の茎から深く摘み取ったならば、

その人は、コノ世とアノ世を往復する輪廻(りんね:生まれ変わり)を摘み取ります。転生が終わります。

それはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章1節-No.2)

(感想)
釈尊はこの項で更に、
* 芽を出すサガの表面(花)だけを摘み取ってもダメだ。
* その花が付く、茎の深部から、根っこから、花を摘み取りなさい。
* それが出来た人は、コノ世とアノ世を繰り返す転生を終えることが出来る。

と仰っています。
これが難しい訳です。
では、どうすれば良いのでしょうか?

* 他人を恨まない、他人に恨まれないサガの行動を意識すること。

* でも生きていれば、他人に恨まれることは避けられないことも有ります。
それを上回る善行を、別の形でも良いから行う意識を持つこと。

* すべての現象の表面だけを見て判断せずに、その奥に在る問題を見る視点を持ち、その根本から変える視点を持つこと。

以上のようなことが、この項の示唆として浮かびます。
* 表面の花だけを取らずに、その深部から取らないと、花を摘んだとは言えない。
とは、深いものを感じさせます。
釈尊の教えとは、コノ世とアノ世をいかに「明るく」卒業するか?にすべての目的が集約されています。



あちらこちらへと、色々なことに執着するワレヨシな欲望の激流を涸(か)らせることが出来た人。

そういう人は、コノ世とアノ世を往復する輪廻(りんね:生まれ変わり)を終わらせます。

それはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章1節-No.3)

(感想)
激流のような激しい大きなワレヨシのサガを持つ人は、それをトコトン正しい方向に向けて枯らすことが出来たならば、完全なる解放(悟り、輪廻の終焉、永遠の平安)に心が安住することも可能だということです。
死後の自分の魂を救うことに成ります。

仏教の思想には、
「大欲(たいよく)を持て」
という考えがあります。
* 自分だけの欲を考えるような、そんな小さな欲で、お前は本当に満足するのか?
* 多くの人々の欲を叶えるほどの、巨大な欲を持て。
ということです。
ワレヨシの欲望などは、スケールが小さすぎてツマランということです。

ー中略ー

自分が持つ激流のサガ(悩み)があれば、それだけを何とかしたいと思うから苦しみます。
* もっと大きな視点、
* 大欲の視点、
* 自分は必ず死ぬ定めであることを思い出すこと。

大きな視点、全体の視点を持って生き出せば、自分が悩む内容が必ず変わって行きます。自分の執着を切断して行きます。
そして運命が変わるのです。

大きな悩むパワーが有れば、逆にそのパワーを上手く使えば大きな変化を起こすことが可能なのです。
苦しい人ほど、悩む人ほど、生きてさえいればまだまだ大丈夫なのです。
自分の活かし方が分かっていないだけなのです。



激しい川の流れは、水際に密集して茂る葦(あし)の堤防を根こそぎ押し流します。

人間もこのように、高く茂る自分の高慢心を根こそぎ押し流すことが出来た人は、

コノ世とアノ世を往復する輪廻(りんね:生まれ変わり)を終わらせます。

それはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章1節-No.4)

(感想)
高慢心を根こそぎ削ぎ落とした人は、強制的で嫌な条件の転生を終えることが出来る。
と釈尊がこの項で断言されています。

釈尊の教えとは、真の仏教とは、いかにして強制的な輪廻転生(りんねてんしょう:生まれ変わること)を終わらせるか?の方法論でもあります。
その一方で、強制的な輪廻を終わらせた魂が、コノ世で転生を繰り返して苦しむ人々を救うために、菩薩として転生して来るとも明示しています。

ー中略ー

この項を逆の視点で読みますと、
* どんな人でも「高慢心」が有る限り、その人の転生は必ず継続する。
ということでもあります。

ー中略ー

自分の良心(内在神)が、コノ世でのすべての自分の行動と思いを今も公平に記録しています。
どんな悪人でも、その人の良心は正しいことを知っています。
悪人は、死後に自分自身の良心・内在神から裁判を受けることに成ります。
誰もが厳正なる裁判官・閻魔大王と共に、良心という気持ちで同居している最中です。

まず、自分の
* 高慢心を無くすように
* 高慢心を持たないように
意識して生活して見ましょう。これが自分の来生、転生条件を決めて行くという今日の釈尊の教えでした。



果実が美味しいイチジク(無花果)の木には、花(性器の花の誘惑。自我の欲望の象徴。転生要因に成る)が表立って咲くことはありません。

何度も生々流転を繰り返す生まれ変わり(転生)を経験しましても、どの人生におきましても、頑固な執着を持たずに終えることが出来た人は、それはイチジクの木のようであり、

コノ世とアノ世を往復する輪廻(りんね:生まれ変わり)を終わらせます。

それはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章1節-No.5)

(感想)
輪廻転生(りんねてんしょう:生まれ変わること)について、非常に重要なことを釈尊が示唆されています。
* 1回の人生だけを、執着・ワレヨシな自我を無くすることに成功しても、転生は終わらない。
* 幾多の人生を繰り返しても、毎回の人生で執着を無くすることに成功して初めて、その人の魂はスルッと転生を終わらせることが出来る。

ということなのです。
この項で大切なことは、イチジクの木とは表面に花が咲かない果樹だということです。
花が見えないまま、いきなり果実が育ち始め、花はその果実の真ん中に隠れているということです。

ー中略ー

とにかく釈尊の教えとは、華やかな社会、他人の豪華な人生を見る中におきましても、
* 何事にも執着(ワレヨシの欲望)しないこと。
が目標です。
* 人は、嫌な執着さえ起こさなければ、苦しい人生も、転生も終わらせることが出来る。
ということが仏教の真髄なのです。

ー中略ー

* 自分なりの花を、外に向けて咲かすことに執着せずに、自分の心の中に花を咲かせましょう。

今日の生活の中でも、他人の視線の為に無理をすることから離れて見ましょう。
そして、自分の心を安心させることを、何よりも優先することです。
その為には、まじめに良心に沿った生活努力をすることが必須です。



心の内に、どんなことにも怒りを持たないことを、

コノ世でもアノ世でも実行できた人(魂)が、

コノ世とアノ世を往復する輪廻(りんね:生まれ変わり)を終わらせます。

それはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章1節-No.6)

(感想)
釈尊の視点は、人の幾つもの転生を観た上での発言が前提なのです。
だから、魂の転生の流れが分からない、転生に半信半疑の人が、言語的に翻訳するのは無理が生じます。
この項は、霊界の真相と転生について、非常に重要な指摘が釈尊により成されています。つまり、

* 外面だけ怒らないだけではダメなのです。
* 心の内でも、どんなことにも怒りを持たないことが、転生(生まれ変わり)を止めるのです。

更には2行目で、
* アノ世でも、自分の魂が怒らないことが、転生を止めるための条件なのです。
* コノ世とアノ世の両方の世界で、自分の魂が心の内に怒りを持たないことを実践出来てこそ、輪廻(りんね:繰り返し生まれ変わること)は止まる。

ということです。
コノ世では、他人に対して実際に怒らないだけでも、なかなかの修行です。
更には、心の中でも、他人を罵倒したり怒ってはダメなのです。

しかし、これだけではまだダメなのです。
アノ世でも怒りを持たない心境を実現した魂に成ることが条件なのです。
しかも1回のコノ世とアノ世の往復で実現しても、まだダメなのです。

何回もの輪廻転生(りんねてんしょう:生まれ変わり)において、コノ世でもアノ世でも絶対に心中でも外面でも怒りを持たない心境を実現してこそ、初めて転生が停止する可能性に至るということです。
非常に気が遠くなるような人生の旅の繰り返しが、解脱(げだつ:転生を外れること)には必要なのです。



実は正直に申しまして、私には「怒り」をコントロールすることは難しいことでは無いのです。
仕事でも危険な点や怒るべきことは厳しく注意しますが、内心まで怒ることはまず無いです。
だから、怒りが収まらない人との違いは何かを自己分析しますと、

* 他人への愛情の有無、深さ。
* 慈悲心(情け心)の有無、大きさ。
* 相手の立場に成って観る、考えること。
* 思いやり力。
* 人間のどうしようもないサガ・性への理解。
* それも仕方がない、と明るく思えること。
などの六つが、常に自分が忘れない視点に成っています。

人が観音様に進化しますと、怒ることはありません。
どんな理不尽な他人でも、その人の生い立ちや今の環境を瞬時に考えますと、ただ怒りに巻かれることはありません。

ー中略ー

ただ、無理に変な他人に愛情を持て、ということでは無いのです。
「怒り」とは、自分でも制御が出来無いほどのパワーを持ちます。これを逆に自分の進化に利用が出来るのです。

古来から覚醒を目指す人間は、「性欲」を制御することを意識の拡大の為の手段に転換してきました。これはヨガなどにも言えます。
これと同じで「怒り」も、コントロールが出来た先には、観音様への進化が起こります。
まさに釈尊の(第1章1節-No.6)の内容のとおりに「人としての」輪廻は終わり、自分自身を観音様へと進化させ、そして新たな道が始まります。


無思考は最強伝説 2016-05-13 11:06:32

ああだ、こうだ、と湧き上がる自分の思考を完全に停止させて、

何が有っても心中が安静なままを維持すること。

何も考えない無思考を実現させた者は、

コノ世とアノ世を往復する輪廻(りんね:生まれ変わり)を終わらせます。

それはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章1節-No.7)

(感想)
赤子は心中での独り言が無い存在です。だから生命力が溢れています。
それが成長に伴って、自我(ワレヨシな心)の発生と共に心の声を生じ始めます。
だから大人でありましても、

* 何も考えない練習
* 思考を止める練習
* 目の前の物事に集中する

これを「気付けば」繰り返して行きますと、病気が改善したり、運気が増すことが起こり始めます。
ロシアの神秘家・グルジェフは、更に興味深い発言を残しており、
* 無思考=時間を止める
とも、野ウサギ猟師の例を出して述べています。(過去記事「どんな仕事でも覚醒へ到る」)

* 自我(ワレヨシな心)の増大=生命力の時間経過を促進させる=老化が進む=色々な因果の束縛を受けて、コノ世で思い通りに成らない。

* 無思考=生命としての時間経過を緩やかにさせる=心身が若い=コノ世で現実に自分の希望を何でも操作が可能に成り始める。

つまり、人間の無思考とは、ロボットでは無くて「カンナガラ」(神人一体の境地)をコノ世で実現させます。
更に釈尊は、
* 無思考=解脱(げだつ:繰り返し生まれ直す「強制の」転生を止める)
という魂の最終ゴールをこの項で示唆されています。



人生を捨てるように生き急がないこと。

または、人生をムダに怠惰に過ごさないこと。

このように、すべての転生(てんせい:生まれ変わり・人生)を「中道」(ちゅうどう・真ん中)に生きた人は、

コノ世とアノ世を往復する輪廻(りんね:生まれ変わり)を終わらせます。

それはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章1節-No.8)

(感想)
コノ世の大半の人は、
* 自分が過去生でしたことの、逆の立場を経験する為に
コノ世に強制的に生まれ落ちているのが真相です。
宇宙が動く因果の法則とは、今も完璧に起動しています。

だから、コノ世で自分が経験する全てに、
* 一切のムダが無いこと
* 偶然は無い、こと
を知って置いてください。これを深く理解したならば、思い知ったならば、
* その人の人生の生き方が変わります。

ムダに怒ることも、心配することも、無くなって行くのです。
すべては、良いことも、悪いことも、
* 自分の過去生の逆の立場を経験する為に、出現してくれている。
のが宇宙の真相なのです。

ー中略ー

問題は、新規で今も、
* 死後の自分の行くべき環境
* 来生の自分が受け取る「条件」
を誰もが創造中であることを忘れては生けません。

* 過去生ばかりを気にしてもムダであり、今も来生の「条件」を構築中・ingであることを忘れないでください。



コノ世のモノの一切が幻想であることを深く自分で理解していること。
それでも、

人生を捨てるように生き急がない人。

人生をムダに怠惰に過ごさない人。

このような人は、コノ世とアノ世を往復する輪廻(りんね:生まれ変わり)を終わらせます。

それはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章1節-No.9)

(感想)
* 幻想だと分かっていても、一生懸命に、丁寧に、生きることが大切。
と釈尊は示されます。

ー中略ー

* することは何だって良い。
ただ、それがダメだからと言って、ツマラナイものだからと言って、手を抜いたり、簡単に捨ててしまうようではダメだ。

* コノ世は幻想だから、頑張らなくても良い。何だって良い。では生けないのです。

* 大切なことは、幻想にも何に対してでも一生懸命にすること。

* ただし、すべては幻想だから、最高の努力はするが、それには執着はしない。

という示唆を感じます。

ー中略ー

人はどうしても自分が頑張ったことに過剰な執着をする為に、輪廻(りんね:生まれ変わり。ヤッたらヤラれる世界)の繰り返しが止まらないままなのです。

どんな生活も、今生の自分の努力と因果の集積の上でのことです。
その生活を一生懸命にするが、何事にも執着はしない。
この継続が輪廻を止め、永遠の心の平安の世界へと導くということです。



コノ世のモノの一切が幻想であることを深く自分で理解しており、

その中で、他人を押し退けてでもという自我(ワレヨシの心)から離れている人。

なおかつ、

人生を捨てるように生き急がない人。

人生をムダに怠惰に過ごさない人。

このような人は、コノ世とアノ世を往復する輪廻(りんね:生まれ変わり)を終わらせます。

それはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章1節-No.10)

(感想)
* コノ世が映画(幻想)であると認識をしながら、それでも真面目に、懸命に生きることが大事。

これをすることが強制的で「嫌な苦しい」転生(てんしょう:生まれ変わり)を止める、と示されています。
何ということでしょうか、たとえ映画の映像の中に自分が居ると分かっていましても、
* 一生懸命に生きなさい
* 真面目に最後まで演じ切りなさい
ということです。

ー中略ー

映画(コノ世全体)の中に入り込みすぎて、自殺などしては生けません。
そうでは無くて、
* ダメな時は、ダメな役を思いっ切り演じ切りましょう

自分の演技(生活行動)を冷静に見ながら、幕が閉じるまで(寿命)頑張って生きれば、それが最高の舞台と成ります。
今日も自分の役を、良心に基づいて頑張りましょう。


ワレヨシな性欲はダメ 2016-06-05 12:02:20

コノ世のモノの一切が幻想であることを深く自分で理解しており、

そして、ワレヨシな色情・性欲から遠く離れることが出来た人。

なおかつ、

人生を捨てるように生き急がない人。

人生をムダに怠惰に過ごさない人。

このような人は、コノ世とアノ世を往復する輪廻(りんね:生まれ変わり)を終わらせます。

それはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章1節-No.11)

(感想)
私が感じますことは、
* ワレヨシな自我からの色情・性欲を無くしなさい。
ということを、釈尊の言葉から解釈します。

ワレヨシな性欲とは、
* 異性に対して攻撃的な、
* 自分だけが果てることを目的とした、
* 相手に思いやりの無い性欲。
を意味します。

子孫を残す為には、健康体ならば性欲が有ることは当然なのです。
釈尊は、これを否定するような「性欲を消しなさい」とは決して言われていないと感じます。
釈尊の教えは、厳格に守れば子孫が絶え、人類が消滅するようなものでは決して無いのです。

つまり、
* 「性欲にも種類が有る」
ということを知って置いてください。



コノ世のモノの一切が幻想であることを深く自分で理解しており、

そして、他人や社会の物事を「憎むこと」から遠く離れることが出来た人。

なおかつ、

人生を捨てるように生き急がない人。

人生をムダに怠惰に過ごさない人。

このような人は、コノ世とアノ世を往復する輪廻(りんね:生まれ変わり)を終わらせます。

それはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章1節-No.12)

(感想)
人間には色々な感情が有りますが、その中でも「憎む」という感情は強く転生(生まれ直し)に影響を残すということです。

来生が苦しい環境に自分が生まれ直すことを思いますと、
* 今生で他人を「一切憎まない」こと。
* 嫌な他人には、自分の感情を「いちいち起こさない」こと。

これを一切しないと自分で誓うことのほうが、どれほど自分の魂には有利なことか計り知れません。
来生の環境にまで影響する重大事に、
「憎まないこと」
が入っていることを覚えて置いてください。このために釈尊が、わざわざ一項を残している訳です。

ー中略ー

まだまだ釈尊が言われます心境には、人類はほど遠いです。
だからこそ、まだ殺されないように自己防衛をしながら、それでも個人からは「憎まない心境」を心掛けることが大切に思います。

一人一人が他人を憎まない心境を完成させて行けば、繰り返す悪い因果の車輪は止まり始めます。
まずは、自分の家庭から家族を憎まない、という心境を完成させなければ始まりません。



コノ世のモノの一切が幻想であることを深く自分で理解しており、

そして、他人や社会への無知から来る被害妄想・思い込みから遠く離れることが出来た人。

なおかつ、

人生を捨てるように生き急がない人。

人生をムダに怠惰に過ごさない人。

このような人は、コノ世とアノ世を往復する輪廻(りんね:生まれ変わり)を終わらせます。

それはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章1節-No.13)

(感想)
言えますことは、
* その悪口の真偽・事実関係などに執着しては生けません。
* 問題なのは、自分が言われた被害者であっても、自分の心を毎日傷つけているのは自分自身なのです。
* 他人の悪口を、自分の心(内在神)にまで「届かせてしまっている」のは自分自身なのです。

ー中略ー

* だから他人の悪口ごときを、自分の心に響かせては生けないのです。
* 自分の本心(良心・内在神)に対して非常に失礼です。
自分の良心(内在神)を大切に育てる人間が、コノ世でも幸運を与えられます。心身・環境ともに自由に成れます。
アノ世では更に良い世界に導かれます。

ここで釈尊の言葉に戻りますが、今日の話で大切なことは、
* コノ世の嫌なことは放って置きなさい。
* 嫌なことに対して、妄想など絶対するな!
* とにかく何でも良いから、すべての嫌な妄想を捨てなさい、止めなさい。
* その妄想の善悪などは、真偽などは、何でもエエんや!関係ないんや。

という感じです。
今日も現実の会話・行為・行動だけを直視して、一切の妄想を停止することです。
そして、自分の良心を大切に大切に守りましょう。
この継続は、自分の心身を変えて行きます。



自分自身に長く潜在的に潜んでいる悪いサガ(性・思いの癖・ワレヨシ・・・・)の「思い」が消え去り、

悪い「行為」が根本的に抜き取るように行われなくなったならば、

このような人は、コノ世とアノ世を往復する輪廻(りんね:生まれ変わり)を終わらせます。

それはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章1節-No.14)

(感想)
釈尊が言われるには、このような「悪いサガ」とは今生1回だけの人生で構築されるものでは決して無くて、
* 長い長い輪廻(生まれ変わり)を通して引きずって「来た」モノである。
ということです。

ー中略ー

やはり神様が、魂を成長させる為に初期設定した、
* 自分がして来た習慣(行為・仕事・勉強・思い方・・・)は、今生だけで完全消去するのでは無くて、引き続き来生も潜在意識で継続させて、
「自分がした事をより進化させる」
という法則の存在を感じます。

ー中略ー

そして次に、釈尊は「思い」の改善だけではダメだとしています。
これが今生において、現実の「行為」として悪いサガの行いが消え去ることが、輪廻(生まれ変わり)を外れる必須条件だとしています。

* 行為>思い

だと霊的に言えます。やはりコノ世で自分が実際にする行為こそが、その善悪の両方がすべて因果として残って行くわけです。



コノ世の色々な物事(異性・性交・金銭・名誉・物・批判する事・・・)に惹(ひ)かれる深層意識からの衝動が次々と湧き起こること。

このような「自我から生じるサガ(性)」が残存する限り、人はコノ世に強制的に何度でも生まれ直す縁と成ります。

だから、自我から生じるサガを一切持たない人は、

コノ世とアノ世を往復する輪廻(りんね:生まれ変わり)を終わらせます。

それはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章1節-No.15)

(感想)
釈尊は、コノ世の物事に執着する「嫌な」「変なこだわり」のサガを人が持つ限り、その人は何度でも「これでもか!」とコノ世に生まれ直すと断言されています。

でも、自分にとっての「嫌な」「ダメな」サガとは何か?
が自分では分からないものです。
世の中や他人に貢献したいと思う「良い執着」「良いサガ」も存在すると思います。
ただ、「良いサガ」の場合、それに「執着する」ことが無いのです。
それがダメでも、清々しく、仕方がない、と素直に思えて「忘れて行きます」。

悪いサガ(異性・性交・金銭・名誉・物・批判する事・・・)の場合は、理屈なくソレが欲しくなり、なかなか「忘れることが出来無いのです」。

そして、この項での新たな示唆は、悪いサガは、「衝動的に湧き起こる」と表現されています。
ソレが好きだ、欲しい、と執着する悪いサガの場合は、理由もなしに衝動的に湧き起こるのです。
例えば異性に「一目惚れをする」とは、忘れている過去生からの縁であることが有ります。

ー中略ー

釈尊が言われたことの全て。
仏典が示唆して導きたい本音の全て。
これを一言で言いますと、
「執着するな!」
なのです。

* 良いことも、悪いことも、コノ世のすべてに執着せずに、自分なりの最善を尽くしなさい!

ということです。
ただし、執着はせずにと言いましても、何もしないこと・ただの怠惰は、縁者に迷惑を掛ける因果となり、コノ世のより悪い環境に再転生する因果と成ります。
自分のするべき仕事を頑張り、自分が出来る家族や他人へ協力することも、「貸し借り」を残さない為に必要なのです。



自我(ワレヨシの思い)から生じる色々な嫌な執着が、生きる中であれやこれやと生じて来ることにより、
人は何度も何度もコノ世に転生(てんせい:生まれ直し)することに成ります。

でも人は、その転生する原因となる嫌な執着が一切生じて来なくなった時、

コノ世とアノ世を往復する輪廻(りんね:生まれ変わり)を終わらせます。

それはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章1節-No.16)

(感想)
コノ世で自分を不幸にするだけでは無くて、アノ世でも嫌な思いをし、更には何度もコノ世に
「出直して来い!」
と段々と悪条件の環境に生まれさせる一番の要因が、

* 自分がコノ世で嫌な執着をすること。

だと釈尊は、この項で更に念押しされています。

ー中略ー

誰もが生きる間は、
* 嫌な執着をしない。
という最強の幸運術を選択することが可能です。
これは霊的に観ましても、死ぬまでにこのような心境になれれば、アノ世にも来生にも良い影響をすることを感じます。

コノ世は、嫌な執着をするような誘惑に満ちていますから、「その中でも」嫌な執着をしないことが本当に価値も意味も持つように「創られているのです」。
誰もが、この人生というゲームに、勝つことが可能です。

その勝敗は、コノ世での成功や栄華や、結果を残すことでも無かったのです。
誘惑の多い中でも、何事にも「嫌な」執着をしないことだったのです。



五つの自我のサガを捨て去った人。それは、
* 醜い貪欲さ
* 怒ること
* ムダに心が沈むこと
* 心が落ち着かないこと
* 何でも疑うこと
これらが無い人であること。

また、悩まない人であること。

更には、五つの苦悩の矢。
* ワレヨシな色情の矢
* 他人を嫌悪する矢
* 被害妄想をする矢
* 慢心する矢
* 何でも悪く受け取る矢
このような苦悩の矢が抜けた人であること。

以上の悪い自我が消えた人は、

コノ世とアノ世を往復する輪廻(りんね:生まれ変わり)を終わらせます。

それはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章1節-No.17)

(感想)
この項が、第1章1節の最後です。
「それはまるで蛇が古い皮をスルッと脱ぎ去るように出来ます」という、「蛇」がテーマの節でした。
蛇とは、自我(ワレヨシの思い)が持つサガのエネルギー体を象徴する意味があります。

人が持つワレヨシな自我な思い(上記のような)とは、霊眼では本当に蛇の形象で視えるものなのです。
2500年も前の釈尊も、やはり人の思いに蛇を幻視したので、ハッキリと「蛇」と言い残しています。

現代の学者が考えますと、ただの比喩の表現のように思うのでしょうが、これは思いの世界を実写した現実の意味から「蛇」なのです。
この項で私が感心して勉強になった言葉は、上記の後半に出てくる「矢」という表現でした。

皆さんが心に他人を悪く思う時には、生霊として本当に矢のようなものが相手に飛んでいるのです。相手を憎むごとに、その思いが何発も何発も矢として相手に飛んでいます。
そして知って置くべきことは、生霊の矢を放った人は、その分の自分の生命力を無くしていることです。本当に生命力が漏電するのです。減るのです。

ー中略ー

釈尊の言い方は、戒(いまし)めの内容ならば、その逆をすれば「救われる」という意味でもあるのです。
どの言葉にも必ず救いを含ませています。

今から上記のサガの内容に注意して生きて行きましょう。
必ず人の人生は変わるものなのです。
悪くなるモノは、病気でも、人生でも、何でも逆に良く成ることも可能であることを含んでいます。

ー中略ー

真の改善は、日常生活の中で上記のような自分のサガに注意して生活努力をすることなのです。
人が出す生霊の視点からも、これは完璧に言えます。
先祖に感謝をすることも、大切で重要な善行と成ります。


【編集者注記】スッタニパータについての記事は「日付昇順」とします。


  • 最終更新:2016-07-16 11:57:05

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