中道(ちゅうどう)

中道(ちゅうどう)について
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釈尊にしても老子にしても、結局は同じ結論にたどり着かれています。それは、
・ 中立でありなさい。
・ 常に、中道であれ。
・ 孔子の孫の子思 (しし) は、中庸(ちゅうよう)、つまり偏らずに生きることを説きました。

この世で生きるには、どんな苦境の中でも、カネが無い時でも、
・ 自分の思考は中立で、状況を静観している視点を忘れないで欲しいのです。

(中略)

ニュートラルな思考で居ることは、
・ 苦しい生活の中でも、良いサインや、改善点や、今までとは別の方法に気付きやすく成れるのです。
・ もし、新しい良い縁を自分が知れば、それに気付きやすく成れるのです。
・ 運が悪いとは、目の前に良い縁が来ていても、それに気付けないことなのです。



自分の日々の思う内容がマイナスばかりだと、

・ 努力しても、それが反映し難く成る。
・ 説明を受けても、不安感が消えなく成る。

これに注意します。
そして、プラス思考ばかりでもダメなのです。
現実の様相と、真実から離れたプラス思考も、良くない結果に成ります。

理想は、マイナス思考で懸念点を認識した後に、プラス思考で居ることです。
マイナスとプラスの中道の心で居ることが、無難を呼びます。
マイナス思考が欠けても、思いが叶う通電・思いの磁気の実現化が起こり難いのです。

今の自分は生活の中で、どんな気持ちを日々に「置いている」のかを注意しましょう。
防災を注意する心配の意識も大切だし、それでも何とかなるという意識が、平穏な時の経過を実現化します。

マイナス思考とプラス思考、両方を持つことを参考にしてください。
そして、
「生かされていること」に日々に感謝をする思いが、そのすべての思いを上書き修正して、
自分を最善に導きます。



コノ世のすべては、相反する陰陽が存在してこそ、新しい良いものが生まれるという「陰陽思想」があります。

だから私たちの最善の状態も、
・ 陰という悪い情報が有れば、
・ それと同等の、良いことを思うことも大切。
これが言えるわけです。

でも私たちは、悪いことや、心配事が有れば、「そればかりを思う」という思考のサガを誰もが持つのです。
でも、偏(かたよ)るとダメなのです。何も生まれないのです。

・ 悪いことばかりを、思うことはダメです。
・ でも、懸念点にフタをした、楽観主義だけでもダメなのです。

では、どう思うと最善なのか?
・ 2つの善悪の内容を知った上で、その中間の思考で居ることが最善なのです。

これを老子も釈尊も、「中庸」(ちゅうよう)、「中道」(ちゅうどう)と言いまして、二人共に
・ 教えの中で最も大切であり、
・ 人を幸福にする最も近道であり、
・ それぞれに応じた最善に導く。
としています。

だから私たちは、
・ 心配することも大切。
・ 楽観主義も大切。
・ この2つの陰陽の中間の気持ちで居ることが、最も大切であり最善。
ということです。



ところで、人の生き方の注意点として、
・ 何かの優劣を付けることを好むことや、
・ 白黒を付けたがる潔癖症にも注意です。

こういう癖が有る人は、自分が良い時は有頂天に成り、もしダメな時はひどく落ち込んで病みやすい傾向があります。

多くの人が苦手なことは、
・ あやふやな不安な状態の中でも、楽しむこと、安住すること。
・ 白黒を付けなくても、それにこだわらないこと。
これが難しいものです。

でも、仏教でも禅でも神道でも、
中道(ちゅうどう)、共生(ともいき)、中今(なかいま)、
と言いまして、何事にも偏(かたよ)らない中間に住むことが、心の永遠性を獲得することに成ると示唆しています。

まだ途中の状態の中でも、中途半端な今であっても、そこに安住すること、それを楽しめること、これが人生の目的だと言っても良いです。
でも、人は区切りを付けることを楽しみに生きています。

受験、合格、就職、卒業、結婚・・・・。
これが出来ない、自分には無い、と悲観をします。
でも、そうでは無いのです。
その途中の状態こそは、自分の人生で大切な時なのです。一番に面白い時なのです。
老人に成れば、この意味が分かることもあるでしょう。

中途半端で、途中の状態のままの、何も達成できない自分でも、
それを有り難く楽しめる人が、それでも暮らせることに感謝が出来る人が、
人生の勝利者です。ただし、自分が出来る最大の努力をしていることが必須条件です。
成功しても、感謝の気持ちの無い人は、ダメです。アノ世では良くない環境に生まれます。



自分の人生は何をしてもダメだ、自分は社会の被害者だと思い込んで、
・ 他人に何をしても良い。
・ すべて無くなれば良い。
という極端な心境に行く若者が減って欲しいものです。

そういう時は、
・ 心を緩めて。
・ 自分なりで良い。
・ ほどほどで、ちょうど良い。
・ と思い直して、思考の「中間」「中道」というものを探して欲しいのです。

とにかく極端な行動や思考は、損しかしない、悪い結果に行きやすい、ことを覚えて置きたいものです。



このように人間とは、自分自身のこと以上に他人ばかりを見て、喜怒哀楽をしているサガ・性が有るのです。
更に言いますと、コノ世の喜怒哀楽には必ずそこには他人が居るということです。
もし、これを反転させることが出来て、他人に左右されずに自分だけを見詰めることが出来ますと、いわゆる聖者に成れる可能性が有るのです。
近代インドの真の聖者であるラマナ・マハルシにしましても、
「自分自身を見詰めなさい」というこれ1本だけで聖者に成った御方です。

2500年も前に存在した釈尊ご自身も、自燈明(じとうみょう)つまり、
「自らを灯明とし、自分の心の火だけを頼りに自分が歩く先を照らしなさい」
と発言しています。

本当に他人を見ずに、自分の心だけを静観することが出来ますと、心が真から平安に成ることが可能なのです。
他人を観察している限りは、自分の心が安定することはありません。
他人を見ないということは、決して自己中心的に成れということではありません。やはりそこは中道(ちゅうどう:バランス)の視点を自分が持ち、自分の良心から判断して自分自身を見詰めるのです。


極端を避けることが大切 2014-03-31 11:07:02

釈尊の御言葉を弟子たちがまとめた原始仏教経典の中に、相応部経典(そうおうぶきょうてん)が在ります。今から2300年以上前に編纂されています。
釈尊が実際に発言した内容に近いものが散見されます。釈尊は、その中で、

「2つの極端なことが特に生けません」

「1つは、自分の欲望を満たすことに執着することです。
欲望には切りが無くて、満足することが決して無いのが人間なのです。
満ちることが絶対にないものを極端に追求しますと、多くの他人を傷付け、多くの因果を作ることに成るでしょう。因果は自分自身を傷付けることに成ります」

「2つ目は、自らをイジメることです。
自分の身体も、心も、決してイジメては生けません。
自分の心身も借り物なのです。必ずお返しする時が来ます。
他人からイジメられましても、それを受け取って自分自身に響かせる犯人は自分なのです。
だから、他人からイジメられた場合でも、それを自分が心に受け取らなければ大丈夫なのです。
自分をイジメる犯人は、最終的には他人ではなくて、自分自身であることを知っておきましょう」

「従って、中道(ちゅうどう)が大事なのです。何事も極端なことは不幸を招きます。
人間は極端を避けて、絶えず真ん中の道を真っ直ぐに歩いて行けば大丈夫なのです」



世の中には、Aさんにとっては最悪でも、Bさんにとっては最善なことが多々あることでしょう。
その相克の上で、絶えず中道の最善へと運気の水は流れているのです。
今がダメでも、すべては必ず「絶対変化」しながら流れて行くのです。そのダメな今でさえも、その中での最善なのです。それでも、生かされているのが証拠です。
AさんとBさんは、絶対変化の法則により、いつでも淡々とその立場も変わって行きます。

自分の自我だけを見ずに、最初から他人との関係の中での中道とは何か?を探す視点を持って生活する人には、大波が発生し難くなって行きます。
自分だけを見ずに、絶えず全体から今の自分を眺めながら、明るく生きましょう。
それにより、必ず更に最善に流れて行くのです。



釈尊は人間が目覚めるために欠かせない生き方を中道(ちゅうどう)として、何事にもかたよらないこと、執着しないことを重視されました。
この中道は、食べ物にも言えそうです。



人間とは、自分が天下を取ったと思った瞬間から、次の崩壊が始まっているのでしょう。
過去の歴史を見ましても言えることであり、企業の栄枯盛衰を見ましてもしかりです。
しかし、これを避ける、良い状態を継続させる方法が、ただ1つだけ存在します。

それは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスの場合は、人間の行為や感情を調整する美徳として、メソテース(中間にあること)を言いました。
人間は、「中間であること」を意識することが、自分自身を最善に誘導するという考え方です。

(中略)

さらに古くは、釈尊がズバリと「中道」(ちゅうどう)、つまりどんな物事にも偏らない・執着しないことを歩む生活が、悟りに至る人間の必須条件だとしました。
日本の神道でも「中今」(なかいま)と言い、今のこの瞬間・瞬間こそが過去・未来を集約した中心点であり、すべてが集約している「最中」だとしました。これにも生活の中の「中間」を意識することが含まれています。



無知とは、人間に間違いや・勘違いや・時には犯罪をも起こさせるものです。
釈尊が仰った、正しく知ること正知(せいち)とは、生きる人間にとっていかに大切かと言うことです。
正しく知るには、物事を中立(中道)の視点から静観する必要があります。

(中略)

1つのニュースを聞いて、ただ短絡に怒り悲しむのではなく、その背景を「思いやる視点」が大切です。
これは私たちの日常生活、勤務する会社におきましても、色んな腹が立つ問題が誰にでもあるものです。
しかし、その大半が、
1.自分自身の勘違い。
2.相手の立場を想像すると、自分の怒りが治まることもある。
という、忘れていはいけない2つの視点があります。

とくに2番は大切です。


自由に線が引けます 2012-02-14 10:36:36

上の図形は、陰陽太極図(いんようたいきょくず)です。
超古代の日本神道におけるイザナギ・イザナミ(アダムとイブ)という陰陽の夫婦神から、この世のすべての神々(物質も)が発生したとする真理が中国大陸に伝わり、これが道教(どうきょう)の陰陽思想の元となり太極図を生み出しています。
日本の古墳から発見されます勾玉(まがたま)は、胎児でもあり、陰陽の太極を表現しています。

(中略)

神示によりますと、この図形のどこでも良いから1本の直線を引けと示されます。
例えば横棒を1本、適当な位置で引きます。
すると、どの位置の線でも白黒の割合(面積も)が違います。
しかし、丸の「全体」では、白黒の比率(面積)は同じなのです。

(中略)

問題は、1本の線(人生)の引き方です。
白黒のどこに線を引くのかが自由であり、今生の努力で引けます。
答えは、必ず中心を通るように線を引くことです。中心でも偏(かたよ)りが生じますが、面積的には等分に近付きます。

これは、釈尊が仰った中道(ちゅうどう:かたよらない気持ち)の視点の大切さ、古神道における正中(せいちゅう:神気は正面の真ん中を歩む)などに示唆されています。
ここに幸運の秘訣があります。
この世では、生きていれば色んな悩みが発生するように出来ています。
迷った場合は、偏らずに冷静にその真ん中を歩むように静観する視点が大切です。


「森羅万象5」について 2011-08-08 10:38:11

ただ、闇雲に自分だけを信じる「間違った傲慢さ」が自分にあれば、それでは世間では生きづらいことになり、飯が食えないことに成ります。
これは心の内在神が、その間違いを教えてくれているのです。やはり他人とのバランスを見ながら、その中で自分を信じて歩いて行くのが、釈尊が目指せと仰った中道(ちゅうどう)であり、神道で言う中今思想(なかーいま)です。
中今思想とは、今の一瞬を懸命に自分なりに生きれば、それは過去と未来も同時に祝福することに「成る」ということだと神示は示します。



家系の霊線の状態を受け取るレセプター(受容体)である自我の層を薄くすれば、自分の心境は縛りを解かれて自由には成れます。
しかし、自我を完全に消滅させることは、この世を去ることを意味します。要は、神様から「良く出来ましたね~」と迎えが来てしまうのです。
だから適度に自分を守り”楽しむ”自我は必要です。この辺りに、釈尊も示された中道(ちゅうどう:適度なバランス感覚)が不可欠なのです。
一番にバランス良く、自我のレセプター部分だけを破壊する方法は、1:他人への”思いやり”を意識することです。
そして、遺伝子の元である家系の霊線をククリ治してクリアにすることです。この方法が、2:ヨリシロによる感謝の先祖供養を実践することなのです。
古臭い先祖供養が、実は最新の遺伝子工学をも凌駕する未来の科学であるのが真相です。早く現代科学が追いつくのを、お待ちしています。


心の安心を守ること 2010-09-22 10:55:50

節度とは、行き過ぎの無い適当な程度、と言う意味です。つまり仏教の中道(ちゅうどう)であり、神道の正中(せいちゅう)でもあります。
自分の嫌な感情は、自分の物であり自分の勝手だとして、暴走させてはダメなのです。そのうちに本当に分離して、自制が利かなく成ります。こうなると心身症の始まりです。
少し嫌な芽が出てくれば、自分で「生かして頂いて ありがとう御座位ます」と思いながら、刈り取っておきましょう。
要は人類の心は、暴走する可能性の有る馬に引かれる、馬車の4要素が有るのです。
1。荒馬をコントロールする先頭に座る人物・・・意識と自我。
2。装飾された馬車の荷台・・・人間の肉体です。
3。その中に坐す高貴な人物・・・内在神。
4。全体を引く馬・・・感情、こころざし。

馬車を暴走させるのか、安全に走るのかは、1番次第なのです。


生まれた時点で祝福 2010-09-03 10:23:11

参道の正中(せいちゅう:道の真ん中)を「意識して」歩くことは、無言の教えに満ちています。釈迦が達した悟りの精神である中道(ちゅうどう:すべてに偏らず、執着しないこと)と同じ意味が在ります。
真ん中を見ながら人生を歩いて行くのが、その人にとって結局は最善であり、幸福への最短となります。
真ん中ではおもしろくないと、極端を目指すのも良いですが、それは継続はしないのです。


今すぐ達成出来ます 2010-06-06 11:42:36

人間は、前向きに忙しく働いている間は、病気には成らないものです。ましてやウツ病などには縁がありません。しかし、忙しさも度が過ぎて、苦痛に感じだしますと、心身ともに病みだします。
また逆に、あまりにも暇過ぎても、やはり思考が漏電して病みだします。
人間は、金欠の時は明日を心配して漏電し、金満に成れば失う事を心配して漏電しているものです。
結局は、ほどほどの中間(中道)が一番心には良いのですが、中間に居る時は、その良さに気付けなくて他人と比較し、やはり他の何かを目指して悩んでいます。
上も中も下もダメ。つまり、今の自分の気持ち次第で、極楽にも地獄にも自分の居る世界は簡単に変化するのが、この現実界の次元です。

関連コメント

この前の自我のお話しですが、ずっと自我を捨てないままの人が、長生きしますか?

。。。釈尊は中道、ほどほどが大事と言いました。
2014-08-04 20:39:30


利他的に生きるのが伊勢白山道の理想だと思ってました。この世は行為の次元だから偽善や親孝行で外から変わると内に反射され自分を愛する結果になると。与えると与えられるが伊勢白山道ではなかったですか?

。。。最初から、内在神が先ず重視です。
なんでもバランス・中道感覚が大事。
「読むだけで人生が変わるたった一つの方法―伊勢白山道Q&A事典」
何回読みましたか?
2014-06-28 16:24:10


62才の男性です。私は思いやりと感謝で心を一杯にしたいです。が今の私は気が弱いのか、自信の無さなのか、小さい子供にも低姿勢、大人には一歩下がりヨイショ的な態度ばかりを取ります。真面目で、おとなしく性格的にしょうがないのかなぁ、と思うのですが、「思いやりを持つこと」とは少し違うでしょうか?このまま優柔不断?的な人との接し方でいけばいいでしょうか、性格は変わりそうには無いですが。

。。。。問題は無いです。
悪い因果を創らないので良いことです。
天国に行けます。
ただ、過剰に自分を抑えるのは、内在神へ失礼ですから、ほどほどの中道が大事。
2014-06-12 13:27:10


社会、会社組織等々でそれぞれに立場がありますが、この立場、立場で鬼(自我)が違うと思いますが…この鬼の違いが意見の齟齬になり争いになることが多々あります。

。。。すべては自我の相克に過ぎません。
それを静観することで中道が見えます。
2014-02-04 17:06:26


作家さんの教室に行きました。そばにいたらなんともいえない体臭がしました。少し甘いような、でも嫌なにおいでした。

。。。タンパク質が壊死する臭いです。
意外にも菜食主義者には後年のガン、ウツが多いのです。
縄文時代も、動物・海の幸・山の幸をバランスよく食べていました。
偏りが害毒であり、中道が大事。
2013-11-22 13:39:50


そこで質問ですが、志を持ったら、
何が何でも達成すると結果第一主義で猛進するか、流れに任せて目の前に現れた問題を粘り強く処理して、結果では無く過程を大切にするのが良いか、考えをお聞かせ下さい。

。。。この両方のバランスが大事です。中道。
受身は甘えになることも有るので注意。
2010-10-12 15:50:08



  • 最終更新:2022-11-25 19:50:24

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