三本供養(先祖供養の仕組み)

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先祖供養の仕組み

「(供養の場に)寄る」ことと「(煙や思いが)届く」ことについて

先祖供養の仕組みの整理 2016-03-14 11:49:17

(読者)
(1)「(供養の場に)寄る」と、
(2)「(煙や思いが)届く」

という2つのことを、同じものとして混同されている読者さんも一部おられるための疑問ではないかと、ふと思いました。

。。。。(伊勢白山道の返答と解説)

これは非常に重要な指摘です。これには明確な違いがあります。

「寄る」とは

先祖供養の仕組みの整理 2016-03-14 11:49:17

(読者)
「寄る」は、霊体から供養の場に行きその場に一時的に滞在して煙による安心を「直に」得るイメージ。ここでいう供養の場とは、寄り代と線香が焚かれている1メートル以内ぐらいの現実界でも物理的に限定された、供養台近辺のことです。

。。。。(伊勢白山道の返答と解説)
そうです。霊界には行けていない、縁ある先祖と縁者の霊が、ヨリシロ霊位の在る場所に寄ります。コノ世とアノ世の中間層、幽界に滞在している霊であり、供養者本人に「縁ある」霊たちです。
線香を立てた瞬間に寄っていると思っても良いです。

供養する人が外国にいまして、日本で縁があった霊達も瞬時に寄れます。霊には、距離はまったく関係ないのが霊の世界です。次元が変われば、そうなります。

「届く」とは

先祖供養の仕組みの整理 2016-03-14 11:49:17

(読者)
「(線香の煙や供養者の思いが)届く」は、供養の場を発信元として、そこからあらゆる次元も含めた周辺(物理的な距離ではなく霊的な縁という距離のようなもの)に存在する諸霊のもとへ、文字通り届いていく感じです。

。。。。(伊勢白山道の返答と解説)
そうです。安心した先祖たちや縁ある霊は普段は霊界におられます。
だから、コノ世からアノ世へ向けて供養が届きます。こちら側から供養を届ける感じです。
安心した霊界の縁ある霊たちが、コノ世側にわざわざ来るのは、お彼岸や命日などの記念日だけだという認識で良いです。

「寄る」こと、「届く」ことのまとめ

先祖供養の仕組みの整理 2016-03-14 11:49:17

(読者)
・「寄る」は、あちらから、こちら側にやって来る(寄り代 ← 霊体)
・「届く」は、こちらから、あちら側に出すこと (供養者 → 諸霊)

(伊勢白山道の返答と解説)
。。。。まさに、これなのです。

線香の煙の粒子は次元を越える

先祖供養の仕組みの整理 2016-03-14 11:49:17

(読者)
寄り代や線香に「寄る霊体」が1体ずつであっても、煙はその寄っている霊にはもちろんのこと、その場には寄っていないアノ世の諸霊も同時に受け取っているものと思っておりました。

線香の煙の粒子は次元を越えるという点、また、霊的世界は現実界の物理現象と違い、あちこちで同時に煙や思いが伝わる世界という点などから、供養の場で発せられている煙とは、人間の目に見える量以上に、大勢の霊的存在が供養を受け取ることができる・・・つまり、供養の場という限定されたところに1体ずつしか一時的に「順番にしか」寄れないからと言って、線香の煙を他の霊が受け取れないということにはならないと考えます。

。。。。(伊勢白山道の返答と解説)
この通りです。

霊がいる次元が異なっても、煙や子孫の思いを受け取ることが出来る

先祖供養の仕組みの整理 2016-03-14 11:49:17

(読者)
「寄る」霊体と、寄らないものの縁あり煙が届く霊の違いは、その霊がいる次元の段階の違いである…そこそこの年数の供養を受けたご先祖様ともなれば、寄り代に寄らないが、煙や子孫の思いを受け取ることができるところにおられる・・・。

。。。。(伊勢白山道の返答と解説)
そうです。離れたアノ世の霊界から、安心した先祖たちは常に私達を見ています。
まるで私達が常にテレビを見ている感じに近いです。
ある意味で、最高の楽しみとして縁者の子孫のドラマ・映画を見ている感じが近いです。

「届く」諸霊は、無限

先祖供養の仕組みの整理 2016-03-14 11:49:17

(読者)
供養台の前の座布団には一人しか座ることが出来ませんが、そこで焚かれている煙の香りは、座している本人のみならず、家中の者にまで感じることができるのと同じ感じです。

・「寄る」霊体が誰であるかは、実際は、供養者側では特定できない。
・「届く」諸霊は、無限。こちらが思いを馳せればそこにも届く。

極端な例だと、
供養者が特定の故人を思い3本目を捧げていても、寄り代のその場所に来ているのは、案外、順番を待っていた別の故人が優先ということも。かといって、その時に供養者が想った故人に煙が届かないかというと、そういうわけではなく、特定の故人がいる場所が違うだけであり、煙に乗せた思いはその故人にも「届く」。

このような解釈で長年おりましたが、 違っていたでしょうか??
細々としたことで申し訳ないですが、よろしくお願いいたします。

。。。。(伊勢白山道の返答と解説)
まさに、このままで正解です。
言えますことは、コノ世の供養者とは、本人は気付けませんがアノ世の縁ある霊達には、信じられないほどの奇跡で貴重な存在なのです。

「先祖供養の仕組み」記事の全文

先祖供養の仕組みの整理 2016-03-14 11:49:17

(読者)
ここ数日の読者さん達からの質問が相次いでいる
「寄り代に寄る霊の数や、線香が届く先」
等について読みながら、もしかしたら

(1)「(供養の場に)寄る」と、
(2)「(煙や思いが)届く」

という2つのことを、同じものとして混同されている読者さんも一部おられるための疑問ではないかと、ふと思いました。

。。。。(伊勢白山道の返答と解説)

これは非常に重要な指摘です。これには明確な違いがあります。

(読者)
基本的に、供養は個体を特に意識せずに諸霊全体に対してするものということで、「寄る」「届く」ということさえ、実の所そんなに気に留めなくても良いことは、ふまえた上で、質問いたします。
私自身は、「(供養の場に)寄る」と「(煙や思いが)届く」は、厳密には違う様相で解釈しておりました。

(1)の「寄る」は、霊体から供養の場に行きその場に一時的に滞在して煙による安心を「直に」得るイメージ。ここでいう供養の場とは、寄り代と線香が焚かれている1メートル以内ぐらいの現実界でも物理的に限定された、供養台近辺のことです。

。。。。(伊勢白山道の返答と解説)
そうです。霊界には行けていない、縁ある先祖と縁者の霊が、ヨリシロ霊位の在る場所に寄ります。コノ世とアノ世の中間層、幽界に滞在している霊であり、供養者本人に「縁ある」霊たちです。
線香を立てた瞬間に寄っていると思っても良いです。

供養する人が外国にいまして、日本で縁があった霊達も瞬時に寄れます。霊には、距離はまったく関係ないのが霊の世界です。次元が変われば、そうなります。

(読者)
もう一方の(2)、「(線香の煙や供養者の思いが)届く」は、供養の場を発信元として、そこからあらゆる次元も含めた周辺(物理的な距離ではなく霊的な縁という距離のようなもの)に存在する諸霊のもとへ、文字通り届いていく感じです。

。。。。(伊勢白山道の返答と解説)
そうです。安心した先祖たちや縁ある霊は普段は霊界におられます。
だから、コノ世からアノ世へ向けて供養が届きます。こちら側から供養を届ける感じです。
安心した霊界の縁ある霊たちが、コノ世側にわざわざ来るのは、お彼岸や命日などの記念日だけだという認識で良いです。

(読者)
・「寄る」は、あちらから、こちら側にやって来る(寄り代 ← 霊体)
・「届く」は、こちらから、あちら側に出すこと (供養者 → 諸霊)

(伊勢白山道の返答と解説)
。。。。まさに、これなのです。

(読者)
このように捉えておりました。
なので、寄り代や線香に「寄る霊体」が1体ずつであっても、煙はその寄っている霊にはもちろんのこと、その場には寄っていないアノ世の諸霊も同時に受け取っているものと思っておりました。

線香の煙の粒子は次元を越えるという点、また、霊的世界は現実界の物理現象と違い、あちこちで同時に煙や思いが伝わる世界という点などから、供養の場で発せられている煙とは、人間の目に見える量以上に、大勢の霊的存在が供養を受け取ることができる・・・つまり、供養の場という限定されたところに1体ずつしか一時的に「順番にしか」寄れないからと言って、線香の煙を他の霊が受け取れないということにはならないと考えます。

。。。。(伊勢白山道の返答と解説)
この通りです。

(読者)
「寄る」霊体と、寄らないものの縁あり煙が届く霊の違いは、その霊がいる次元の段階の違いである…そこそこの年数の供養を受けたご先祖様ともなれば、寄り代に寄らないが、煙や子孫の思いを受け取ることができるところにおられる・・・。

。。。。(伊勢白山道の返答と解説)
そうです。離れたアノ世の霊界から、安心した先祖たちは常に私達を見ています。
まるで私達が常にテレビを見ている感じに近いです。
ある意味で、最高の楽しみとして縁者の子孫のドラマ・映画を見ている感じが近いです。

特に子孫の不倫などは、アノ世の先祖たちは非常にハラハラ・ドキドキして見ています。相手の異性の先祖たちも、霊界の違う場所からやって来て、合同会議をして、子孫たちの不倫の結末を相談・決定する場合もあります。

会議が不調に終われば、成仏を破って、下の次元に降りる苦痛を体験してでも、コノ世の子孫を怒りに来て直接干渉する先祖の魂もあります。これをした先祖は、次に霊界に戻れないこともあります。
これを繰り返せば、その家族・家系の霊線が詰まり、子孫たちの没落・離散がコノ世で始まります。

(読者)
よい例え方になっていないかもしれませんが、供養台の前の座布団には一人しか座ることが出来ませんが、そこで焚かれている煙の香りは、座している本人のみならず、家中の者にまで感じることができるのと同じ感じです。

・「寄る」霊体が誰であるかは、実際は、供養者側では特定できない。
・「届く」諸霊は、無限。こちらが思いを馳せればそこにも届く。

極端な例だと、
供養者が特定の故人を思い3本目を捧げていても、寄り代のその場所に来ているのは、案外、順番を待っていた別の故人が優先ということも。かといって、その時に供養者が想った故人に煙が届かないかというと、そういうわけではなく、特定の故人がいる場所が違うだけであり、煙に乗せた思いはその故人にも「届く」。

このような解釈で長年おりましたが、 違っていたでしょうか??
細々としたことで申し訳ないですが、よろしくお願いいたします。

。。。。(伊勢白山道の返答と解説)
まさに、このままで正解です。
言えますことは、コノ世の供養者とは、本人は気付けませんがアノ世の縁ある霊達には、信じられないほどの奇跡で貴重な存在なのです。
良くない例えですが、アノ世の生活レベルを上げてくれる高額宝くじ、無尽蔵な銀行、のような存在に供養者は成っています。

コノ世に生きていますと、人は屁理屈や自分のことばかり優先です。亡くなってもう関係の無い相手に、供養しても届くかどうかも分からないことをする供養者とは、まさに貴重な観音様に成っているのです。
供養者が死にますと、自分がした正しい供養の大きさに驚きます。その恩恵を、供養した本人も後から受け取ることに成ります。

ただ、こんなことを書きますと、自分のための供養、効果目的の供養をする人が増えるので、あまり書いて来ませんでした。
この伊勢白山道の供養は、本当に霊界に作用しますから、
* 供養による霊障などが心配だ
* この供養方法に違和感を覚える
と少しでも思う人は、絶対に供養しないでください。

身代わりに成るヨリシロ(「○○家先祖代々の霊位」の短冊や位牌)を設けるために、霊的な弊害はありません。
左記のブックマークの先祖供養に関するところを読んでください。http://pori.starfree.jp/worship.htm
ヨリシロの安定した固定が供養の必須条件です。
これが無い先祖供養は、他の方式も含めて非常に要注意です。

でも、供養者に取り憑く過去からの悪霊が大きければ、供養されることを嫌がって色々な思わせぶりな妨害をすることも有ります。
そのような人は、心配になる人は、無理に先祖供養は一切不要です。
供養をする以前に、過去の自分がした行為・生活、とくに間違った信仰を思い出して欲しいのです。

素直に先祖供養が出来る人は、幸いなる人です。

できる生活努力をしながら、先祖への感謝を、普段の中で想起しながら静観をしましょう。先祖への感謝磁気を貯めることが、物事を改善させる力となります。
自分の生活態度により浄化が進めば、自分の為では無く、先祖の為の供養をしたくなるものです。
その時まで慌てずに、供養をすることを待てば良いでしょう。

伊勢白山道式の先祖供養の実践の有無は、自己責任の上で自己判断してください。無理に先祖供養をすることは不要です。

関連コメント

「仏壇はヨリシロ霊位があれば、霊界の入り口としての機能をします
八足台とヨリシロ霊位も、霊界としんかいへの入り口に成ります」
大変申し訳ございません。。
霊界と神界への入り口とは、どうゆうことなのでしょうか?

..........仏壇+ヨリシロ霊位ならばの場合、仏界への入り口には成れます。
でも、神界には通じません。

八足台とヨリシロ霊位ならば、仏界と、その先の神界も通じることが可能です。

伊勢白山道事典 第1巻 自分で出来る感謝の先祖供養 編
基礎を参考に。
伊勢白山道問答集 第3巻 神さまとの正しい向き合い方編
2023-06-06 16:44:22

ーーーーーーーーーー
この「八足台とヨリシロ霊位ならば」の八足台とは
神棚を指して(神棚を八足台に設置しているので)仰っていたのでしょうか?

それとも、文字通り八足台にヨリシロ霊位があればということで良いのでしょうか?
..........これです。

なぜかというと、神祭りはしていないが先祖供養をしている方だったり、仏壇の前に八足台を置く供養スタイルもあるからでして・・・。

神棚の下で供養する型だと神界にまで通じるが、
。。。神棚も、供養台も、八足台ならば最善。

神棚が上段にない場合は八足台でのヨリシロ供養でも、仏界までなのか。

はたまた八足台の上での供養ならば、神まつりができなくても、神界に通じる可能性があるのか。
。。。。有ります。

八足台の意味は、神界へ運ぶ足です。足が8本の存在です。
2023-06-12 02:16:17


ここ数日の読者さん達からの質問が相次いでいる「寄り代に依る霊の数や、線香が届く先」等について読みながら、もしかしたら「(供養の場に)寄る」と「(煙や思いが)届く」ということを、同じものとして混同されている読者さんも一部おられるための疑問ではないかと、ふと思いました。

.........非常に重要な指摘です。

これは区別があります。

基本的に、供養は個体を特に意識せずに諸霊全体に対してするものということで、「寄る」「届く」ということさえ、実の所そんなに気に留めなくても良いことは、ふまえた上で、質問いたします。

私自身は、「(供養の場に)寄る」と「(煙や思いが)届く」は、厳密には違う様相で解釈しておりました。

。。。。そうです。

「寄る」は、霊体から供養の場に行きその場に一時的に滞在して煙による安心を「直に」得るイメージ。ここでいう供養の場とは、寄り代と線香が焚かれている1メートル以内ぐらいの現実界でも物理的に限定された、供養台近辺のことです。

。。。。。はい、霊界に行けないから来ます。寄ります。

一方、「(線香の煙や供養者の思いが)届く」は、供養の場を発信元として、そこからあらゆる次元も含めた周辺(物理的な距離ではなく霊的な縁という距離のようなもの)に存在する諸霊のもとへ、文字通り届いていく感じです。

。。。。そうです。安心した先祖は霊界にいます。
これは供養が向こうに届きます。

・「寄る」は、あちらからこちらにやってくる(寄り代 ← 霊体)
・「届く」は、こちらからあちらに出すこと (供養者 → 諸霊)

。。。。まさに、これです。

このように捉えておりました。

なので、寄り代や線香に「寄る霊体」が1体ずつであっても、煙はその寄っている霊にはもちろんのこと、その場には寄っていない諸霊も同時に受け取っているものと思っておりました。線香の煙の粒子は次元を越えるという点、また、霊的世界は現実界の物理現象と違い、あちこちで同時に煙や思いが伝わる世界という点などから、供養の場で発せられている煙とは、人間の目に見える量以上に、大勢の霊的存在にがけ取ることができる・・・つまり、供養の場という限定されたところに1体しか一時的に寄れないからと言って、線香の煙を他の霊が受け取れないということにはならないと。

「寄る」霊体と、寄らないものの縁あり煙が届く霊の違いは、その霊がいる次元の段階の違いである…そこそこの年数の供養を受けたご先祖様ともなれば、寄り代に依らないが、煙や子孫の思いを受け取ることができるところにおられる・・・。

よい例え方になっていないかもしれませんが、供養台の前の座布団には一人しか座ることが出来ませんが、そこで焚かれている煙の香りは、座している本人のみならず、家中の者にまで感じることができるのと同じ感じです。

・「寄る」霊体が誰であるかは、実際は、供養者側では特定できない。
・「届く」諸霊は、無限。こちらが思いを馳せればそこにも届く。

極端な例だと、
供養者が特定の故人を思い3本目を捧げていても、寄り代のその場所に来ているのは、案外、順番を待っていた別の故人ということも。かといって、その時に供養者が想った故人に煙が届かないかというと、そういうわけではなく、特定の故人がいる場所が違うだけであり、煙に乗せた思いはその故人にも「届く」。

このような解釈で長年おりましたが、 違っていたでしょうか??

細々としたことで申し訳ないですが、よろしくお願いいたします。

。。。。。まさに、このままで正解です。

ウィキペディアの人は、このまま解説として載せてね。

誤解を招かない意味で、私の発言として整理して載せて頂くと有り難いです。
2016-03-13 14:28:42


【編集者注】関連記事において、本来であれば(読者)の後、(中略)とするべきですが、
      冗長な記載となるため、(中略)を省略しました。



  • 最終更新:2023-06-22 12:48:00

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