ラマナ・マハルシの言葉(No.11〜)

■ラマナ・マハルシの言葉 No.11〜について
目次

No.11

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不滅の言葉 No.11 2013-07-26 10:59:37

(質問者)

宿命(因果・因縁・カルマ)が終焉(しゅうえん)する時は来るのでしょうか?

(ラマナ・マハルシ)

カルマはそれ自体の中に、カルマを自滅させる種も運んでいます。

(感想)
これはカルマ(因果)に関する非常に重要な視点です。
これと同じ現象は、最新医学におけるアポトーシス(ガン細胞の自滅)が日々の体内で発生しています。
どんな健康な人間でも、アポトーシスによってガン細胞が取り除かれ「続けられて」おり、このために大半の腫瘍(ガン細胞も)の成長は未然に防がれています。

ー中略ー

どんな悪いカルマ(因縁)を保有していても、日々の生活のプログラミングにより、そのカルマの発露を自滅(アポトーシス)させることが可能なのです。
では、「生活のプログラミング」とは何ぞや? これが、

(1) 自分の良心(内在神)に恥じない生活をすること。
(2) 先祖全体(自分の遺伝子)に感謝をすること。
(3) コノ世の期間限定(人生)の内に、自分が出来る範囲で、自分の良心が許すことで、社会常識の範囲の中で、
他人が喜ぶことを行うこと。
(4) すべての人間の右胸に存在する、内在神へ「生かされていることへの感謝」を行うこと。

これが日々の「カルマのプログラミング」です。
悪いカルマを必ずアポトーシス(自滅)させます。

No.12

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不滅の言葉 No.12 2013-07-27 11:39:11

ある男性が、彼についての助言を何か言って欲しいとラマナ・マハルシに尋ねました。

何を知りたいのかを尋ねられた時、彼は自分は「何も知らない」ので、ラマナ・マハルシから何でも良いから聞きたいと言いました。

(ラマナ・マハルシ)

「あなたは、自分自身が何も知らないということを知っています。
そのことを追求しなさい。それが目覚めを呼びます」

(感想)
ここで大切なことは、自分が何について知りたがっているのか?
自分の興味が、何について欲しているのか?自分の視点が何に向いているのか?
が重要なのです。

その対象が、金のことなのか?異性のことを知りたいのか?仕事の成功のことなのか?・・・・、これではダメなのです。
この男性は、「自分のことを知りたい!」だったのです。
男性は気付いていませんが、それこそが「究極への道」だったのです。聞いたのは偶然だったのかも知れませんが。

「自分は誰か?」「私は誰か?」「それ、が本当の自分なのか?」・・・・この言葉の追求だけで、
師匠も無しで、自力で森羅万象を悟ったのがラマナ・マハルシ御自身なのです。
だから、男性が「自分のことを知りたい」「自分は社会のことも、神のことも、自分のことも知らない」
と発言した時、ラマナ・マハルシは嬉しかったと思います。
「それなんだよ!」「それが答えなんだ」「それしか無いのだ」という気持ちがラマナ・マハルシに有ったのを感じます。

しかし、男性としてはラマナ・マハルシの返答に、
「煙に巻いたような返事だ」「自分の欲しい答えでは無かった」
と思ったかも知れません。
しかし、それは違うのです。偉大な質問であり、最高・最善の返答だったのです。

No.13

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「悟りには師(a Master )が必要なのでしょうか?」
とピゴット夫人が最初に尋ねました。

(ラマナ・マハルシ)

悟りとは、教え、講話、瞑想、その他よりも、「神の恩寵」(the Master's grace 。おんちょう:プレゼント)の結果なのです。

教え、講話、瞑想、などは二次的な援助に過ぎません。
ところが、神の恩寵は、悟りには最も重要であり、そして必要不可欠な原因なのです。

(感想)
「a Master 」とは人間の師であり、「the Master's 」の場合は「神」を指します。
ここが、すべての最も重要なポイントなのです。
「Master」を両方共に「人間の師」と解釈してしまいますと、悟るためには人間の師が必要なことに成ってしまいます。これは完全な間違いです。むしろ逆なのです。
悟るためには、「人間の師は」むしろ邪魔であり、「神の恩寵」こそが絶対的な必須条件なのです。

ー中略ー

南インドに住んだラマナ・マハルシにとりましては、太古から「シバ神の化身の山」と呼ばれた聖山アルナーチャラが感謝の信仰の対象でしたが、日本に住む人間には、これが伊勢神宮と白山が、霊的磁気の巨大さから最もふさわしいのです。
やはり土地の磁場の影響を受けることが、悟るためには大きいのです。素直にこれに従うのがお得です。
だから日本に住む限りは、外国人の方も伊勢と白山、そして自分が住む場所の氏神を信仰することが、霊的磁場の観点からも「神の恩寵」が降りる可能性が高まります。



(質問): 真我(内在神)の実現をじゃまする障害は、何でしょうか?

(ラマナ・マハルシ): それらは、心の習慣なのです。

(質問): 精神的な習慣を克服するためには、どうすればよいのでしょうか?

(ラマナ・マハルシ): 自分の真我(内在神)に気が付くことによって成されます。

(質問): それでは悪循環です。

(ラマナ・マハルシ): 自分の自我こそが、そのような困難を自ら引き起こし、自分で障害を創り出しながら、そしてその時に見せ掛けの矛盾に自分で気付いて悩みます。

誰が、そのような問の追求をしようとしているのかを探し出してごらん。
そうすれば、真我(内在神)は見つけられるでしょう。

(感想)
自分が持つ心の習慣こそが、真我(内在神、自由、安心、平和)を邪魔していると言うことです。
同じ映像を見ましても、人間が思う内容は個人でバラバラです。
それは、その人が持つ心の習慣が違うからです。
自分が持つ心の習慣により、映像の内容も善悪のどちらかに「決めて」いるのです。
しかし人間は、「その」映像(生活・会社・学校・他人)の責任だと思い込んでいます。

そして、自分の心の習慣で解釈した光景が、時差を置いて未来の自分の環境に転写して行くのが、この世界(次元)なのです。(量子物理学の真相)
これが同じ環境に人が住んでいましても、実現する生活に違いを分けて行きます。

ー中略ー

そのためには、ラマナ・マハルシいわく、
「どこの誰が、そのような小難しい質問を投げ掛けているのかを見なさい、探しなさい」
「どこの誰が、悩んでいるのかを見つけなさい」
「それが、本当に、本当にあなた自身なのですか?」「それが、あなた、なのですか?」

こう自分に問いかけることを人生の中で、社会生活の中で繰り返して行きますと、
安心と感謝をする自分自身(内在神)の存在に気付けることをラマナ・マハルシは示唆しています。
今日も、自分が持つ心の習慣を、第三者的に静観して見ましょう。



(質問): 真我(内在神)を発露させる援助と成るものは何でしょうか?

(ラマナ・マハルシ): 聖典や悟った魂からの数々の「知恵」です。

(質問): 問答や説教、そして瞑想も、そのような知恵に入ることになりますか?

(ラマナ・マハルシ): なりますが、それらすべては二次的な援助にしか成り得ません。
最も欠かせない絶対的な要素は、神の恩寵(おんちょう:祝福)なのです。

(感想)
「the Master's grace」=「神の恩寵」です。
これを「a Master」=「人間の師」が必須と、集金のために曲解して来たのが今までの精神世界の本質です。
そのために、ラマナ・マハルシ以降で真に悟りを開いた人間は、どのような精神世界にも皆無です。
どんな有望な魂を預かる人間でも、師匠に仕えたために、師匠の「色」に染められたために、悟ることが出来ていません。
大切な自分オリジナルの霊性が、他人の色で染められたために隠れてしまったのです。

ラマナ・マハルシだけが、有名人に成って彼の周囲に村が出来て、生き神のようにあがめられてからも、彼がたった一人で座っていた昔と変わらずに、
「問答や説教、そして瞑想も、二次的な援助にしか成らない!」
とハッキリと断言しています。こんなグル(指導者)は他に居ません。

ー中略ー

「内在する神」から恩寵(プレゼント)・祝福されるためにはどうすれば良いのでしょうか?
ラマナ・マハルシは、人間の師匠が行うような行為(問答や説教、そして瞑想)よりも、聖典や悟ったと思われる聖者の「知恵」を参考にしなさいと言っています。
あくまでも考えるのは「自分で」なのです。

そして、常に自分の右胸に居る神様が、自分自身の日常生活と行為を見ているのが真実なのです。
だから他人をダマせても、それはムダなのです。右胸の神様が、黙ってすべてを見届けています。
つまり、他人は一切関係ないのです。すべては自分自身と、内在する神様との関係しか存在しないのがコノ世の真理なのです。



(質問): 個人が「神の恩寵」を得るには、どれほどの時間が掛かりますか?

(ラマナ・マハルシ): なぜそれを知りたいと思うのですか?

(質問者): 私に希望をくれるからです。

(ラマナ・マハルシ): そのような願望でさえも障害なのです。

真我(内在神)は既にあなたの中に存在し、真我(内在神)無しでは何も存在することが出来ません。

真我(内在神)に気持ちを向けなさい。そうすれば知りたいと思う願望や、疑問は消え去るでしょう。

そのような真我(内在神)は、寝ている時、夢を見ている時、そして起きている状態の暮らしぶりを傍観しています。

暮らしぶりの状態は、自我に属します。

真我(内在神)は、自我さえも超越しています。

(感想)
人間は、「それが、いつ叶うのか?」「いつ、どうなるのか?」
と、色んな物事すべてにおいて考えてしまいます。
つまり、これは、「それが今はない」「今がダメだから」・・・・が根底に在り、更には
「すでに在る、“今”の有り難さにも気付いていない」
が在ります。
そうなりますと、「自分が“有り難さ”に気付いていない物事は失う法則」が発動し、
更に悪い方向に向くことがあります。

ー中略ー

ここでラマナ・マハルシの重要な発言は、
「真我(内在神)とは、寝ている時、夢を見ている時、そして起きている状態の暮らしぶりを“傍観しています”」
です。
内在神は、自分のことのすべてを「傍観している」「見ている」のです。
内在神が自分に声を掛けることは生涯ありません。もし、声を掛けてくれば分離であり、それは内在神では無いです。他からの憑依です。
内在神は、コノ世で生きる間だけは分離が不可能であり、「それ」は自分であり、完全な一体なのです。
でも、「それ」は右胸に居ます。

言葉や説明よりも、まず自分の右胸に「感謝の思い」を送って見ましょう。日々、毎日です。
それで、すべては必ず変わって行きます。
細かい希望も不要なのです。丸ごとすべてが変わるからです。
これを理論・理屈では無くて、実践と「行為」が自分に教えてくれます。



(ラマナ・マハルシ): あなたは、睡眠の中では存在しないのですか?

睡眠中は、あなたは自分が眠っていることや、または、気づかずに世界に存在したということを知っていましたか?

あなたが睡眠中は意識が無いと自分で思い込むのは、自分が目覚めている間だけなのです。

つまり、眠っている時の意識は、目が覚めている時の意識と同じなのです。

もし、あなたが、この起きている時の意識が何であるかを理解すれば、あなたは3つのすべての状態(寝ている時・夢を見ている時・起きている時の状態)を見ているその意識を知るでしょう。

そのような意識は、睡眠中の意識を探求することで知ることが出来ることでしょう。

(質問者): その場合、私は眠りに落ちています。

(ラマナ・マハルシ): 危険は無いですよ!

(感想)
誰にでも出来る非常に重要な内容です。
つまり、自分の真我(内在神)に気付くための方法として、睡眠を利用することが出来るし、それが近道であるという示唆がここに在ります。
つまり、自分が起きている時間は、色んな欲望や心配や仕事に追われて、自分の意識を静観することが難しいのが現実です。

ー中略ー

夢の内容をどんなに分析しましても、それは自分の自我を分析していることに過ぎないのです。それは、切りがなくて、真実・真理では無いのです。

では、睡眠中に夢を見ない人も居ます。深い睡眠では、夢を見ません。
夢を見ている最中は、意識が半分起きているとも言えます。真からは寝ていないのです。
「深い睡眠では夢を見ない」・・・・つまり、これが真我(内在神)についての最も重要なヒントなのです。
今日から、睡眠中に夢を見ない間は、自分の意識はどこに在るのか?を思って置きましょう。

今日の話は、
(1) 起きている時間に真我(内在神)を探求することは可能ですが、自我の妨害をまともに受けること。
(2) 睡眠中も、真我(内在神)を求めることは出来るし、妨害するハンディは少ない。
という新しい視点なのです。



(質問者): 睡眠中は、意識が空白の状態なのですが。

(ラマナ・マハルシ): その空白状態は、誰のために在るのでしょうか?

それを見つけ出しなさい。

あなたは、どんな時も自分自身を否定することは出来ません。

真我(内在神)は常に右胸に在り、どんな状況の中でも存在し続けます。

(質問者): 私は睡眠中も意識を残して、そして同時に注意深くあるべきなのでしょうか?

(ラマナ・マハルシ): そうなのです。注意深いことは、目が覚めている状態なのです。

つまり、その状態は睡眠の一種では無くて、眠りのない睡眠です。

もし、あなたが自分の思考が起こるがままに身を任せていれば、あなたはそれらに夢中に成り、自分自身が果てしない迷路にいることに気付くことでしょう。

(感想)
内在神(真我)に気付く(発露する)ための非常に重要なエッセンスが開示されています。

(1): 「私は睡眠中も意識を残して、そして同時に注意深くあるべき」
こんなことが自分に出来るのか?と、思われるかも知れませんが、誰にでも普通に出来ます。
まず、布団に入った時に、「自分は今から寝ます」ということを、自分自身に対して言い聞かせます。
そうしますと、「夢を見ない深い睡眠が理想」なのですが、もし悪夢を見ましても、それを冷静に静観することが可能に成るのです。「自分は今、睡眠中だから大丈夫」という心の余裕を維持出来るのです。

そして、ラマナ・マハルシいわく、
(2): 「注意深いことは、目が覚めている状態なのです」
これが、睡眠中だけでは無くて、起きている今の時間においても、最も重要なカギなのです。
人間は常に、寝ている最中も、起きている時も、
「自分自身のことを注意深く、静観するべきなのです」

ー中略ー

真理の法則は、「見える光景を見るのでは無くて、それを見ている自分自身を見詰めること」
なのです。
ラマナ・マハルシは、
「自分自身を見ることに、常に注意深くあれ!」と、示唆しています。
それも24時間です。睡眠中も、起きている時も、見える光景やテレビを見ている時も、それを「見ている」自分自身を見詰める意識を維持します。

そうしますと、色んな情報に無尽蔵に自分で気付くことが可能に成ります。
商売の秘訣、相手の本性、投資の采配、勉強のポイント、・・・・かなり他人とは違いが生じて行きます。
それを見ている自分を視ることで「冷静に分かり出す」のです。
自分の心の鏡に映る他人や対象の本性が、自分自身の心を静観することで分かるのです。
自分の心を見詰めることで、他人の本性が視えるのです。他人を見ようとする間は、その本性は視えないのです。(ここがポイント!)



(質問者): すなわち、私は想念が発生する源をたどって戻らなければいけないのでしょう。

(ラマナ・マハルシ): まさにその通りです。
そのようにすれば想念は消え去り、そして、真我(内在神)1つだけが残ることでしょう。

実際には、真我(内在神)にとっては内側も外側も存在しません。

そのような区別もまた、自我の投影だからです。

真我(内在神)とは、純粋で絶対的なものなのです。

(質問者): それは、知的に理解されるだけです。

知性(知識)は、悟るための助けにはならないのでは?

(ラマナ・マハルシ): なります、ある段階までは援助に成ります。

ただそれでも、真我(内在神)は知性を超越していることを認識しておきなさい。
そして、真我(内在神)に到達するためには、その前に知性は消えていなければいけません。

(感想)
非常に重要な示唆がされています。
「その悩みが発生する、元を見ようとしなさい!」
「その、心配する気持ちは、どこから起こっているのかを探しなさい」

コノ世の現実的な対応として、悩み事が有れば、それだけを考えずに、
そもそも悩みが発生した原因・「原点」は何だったかを振り返ることは有効です。
「木を見て森を見ず」というように、あまりにも末端の細事だけに執着しますと、人間はもっと大切な全体的に最重要な物事を見失い、捨ててしまうことになるのです。

ー中略ー

しかし、ラマナ・マハルシは、知識もムダでは無いと言っています。
これは、その「方向性」を知って置くことが有効なのです。
外在神への信仰に金銭を搾取されて縛られる人々から見ますと、最初の「方向性」により天地の開きが後で生じてしまいます。
まさに知識により、大きな運命を分けたのです。

そして、自分の右胸に住する真我(内在神)に真から気付くためには、その前にすべての先入観、固定概念、知識も不要に成ることが必要に成ります。
赤子のように、「ただ存在する」という「原点」の心境に人間は戻ることが可能なのです。
原点に戻る=心がリセットされます。
この時に、すべての悩みは消え去り、悩むことはなかった、他人を呪うこともなかった、
それよりも、コノ世が有り難い感謝するべきことだらけだったことに真から気付けます。歓喜に震えます。
そして、またいつもの日常生活を新しい視点で眺めることに自然と成ります。



(質問者): 私の悟り(真我・内在神に目覚めること)は、他者を助けることになりますか?

(ラマナ・マハルシ): はい、間違いなくなります。

それは可能な限りの最高の助けとなります。

しかし、その段階では、助けられるべき他者は存在しなくなるのです。

金細工職人が色々な宝石類の中から金だけを間違いなく選別するように、
悟った人間は真我(内在神)だけを見続けるからです。

あなたが自分自身を肉体だと思い込む時だけ、そこに色んな人の容姿と肉体の部品の形が存在することになります。

しかし、あなたが肉体を超越した時、あなたの肉体意識と共に他者も消え去るのです。

(感想)
ここには、体験者だけが理解出来ることが書かれています。
私が他者を見詰める最高の段階では、その相手は「光のカタマリ」にしか視えません。
最初は、人体が個性のある形状の肉体に普通に見えています。他者の肉体との個性の違いも分かります。
しかし、見詰めて行きますと、段々と個性が消えて行き、最後は光のカタマリに人間が視えます。この段階での他者との違いとは、光のカタマリの色と大きさが違うだけです。
人間により光のカタマリの発光色と、その大きさが違います。

でも、これさえも更に見詰める最終段階では、色の個性も、大きさの個性も消え去り、静寂の発光体と成ります。その統一した色は、言語では表現が難しいです。
つまり、すべての人間が今は肉体を持ちますが、その本質は物理的な現実として「光の粒子の集合体」だと感得します。
しかし、コノ世では、肉体の容姿や部品の形状に、多くの人間が喜怒哀楽しています。

ー中略ー

これをラマナ・マハルシは、
「真の悟り(真我・内在神に目覚めること)は、他者を助けることに間違いなくなる」
「それは可能な限りの最高の助けとなります」
と最初に言っています。
そしてコノ世の万物が、すべてが、同じ光の粒子で出来ている真の「1つ」であることが自然と誰もが分かるのです。
写真だけのラマナ・マハルシは、いまだに無言のままで、多くの人々を導いています。これは空気のように無料であり、完全な「光」です。

今日は、自分は「光のカタマリ」だと思って見ましょう。そうしますと、腹が立つことも減ります。
変な執着も減ります。
光の粒子に「重力」を当てますと、物質化、肉体化、が発生することを、未来の科学が理解することを、ここに予言して置きます。



(質問者): 自分の肉体意識と共に他者も消え去るとは、それは植物や木、その他にも同じことが言えるのでしょうか?

(ラマナ・マハルシ): 草や木が、真我(内在神)から離れて存在するのでしょうか?

そこから気付きなさい。

あなたは、あなたが草や木を見ていると考えています。

その考えは、あなたの真我(内在神)から外側へ投影されています。

その考えが、どこから湧き起こるのかを見つけ出しなさい。

思考が湧き起こることは止まり、そして、真我(内在神)1つだけが残ることでしょう。

(感想)
「自分が草や木を見ているという考えは、あなたの真我(内在神)から外側へ投影されています」
これを難しい内容だと思うことはありません。
これが事実である証拠として、自分と他人が同じモノを見ていましても、同じ光景を見ているとは限りません。真我からの投影だからです。現実に人の「好み」は、細部にわたり他人とは分かれています。
「くまモン」が可愛いと思う人もいれば、怖いと感じる人も同様にいます。

ー中略ー

意識が、更に真我(内在神)に近い状態から植物や木を見ますと、最終的には光の粒子が躍動する光景を目撃します。
その美しさとは、コノ世の想像を絶します。
人間は死んで肉体を脱ぎますと、誰もがその光景、光の粒子で構成されたコノ世の真実の姿を目撃します。
アップルの創業者であるスティーブ・ジョブスも、臨終の間際に光の粒子の世界を見て、
「おおー」と感嘆した表情と至福の表情を見せてから亡くなられています。

先祖を熱心に供養した人間は、光の粒子のお出迎え、つまり阿弥陀如来(先祖霊の集団)の御来迎を本当に目撃することに成ります。
私たちは、自分に関する色々な光景や状態を見ては喜怒哀楽をしています。



(質問者): 私は理屈としては理解できます。しかし、それでもなお思考はそこに存在します。

(ラマナ・マハルシ): それで良いです。 思考とは、映画のようなものなのです。

光がスクリーン上に在ります。そして、スクリーン上を去来する影は、何らかの演技が演じられているような印象を観客に与えています。

もし同じ映画の中で観客もまたスクリーン上に映されたならば、思考と同様なことが起こることでしょう。

見る人と、見られている人が、その時に同じ1つのスクリーン上にだけ存在することに成るでしょう。

それを自分自身に当てはめなさい。

あなたが、そのスクリーン本体そのものなのです!
真我(内在神)が自我を創り出して“います”。
自我は、あなたが尋ねている、世界、木、植物、その他の映し出されている思考を増大させています。

実際には、それらすべては真我(内在神)以外の何ものでもありません。

もし、あなたが真我(内在神)を見れば、どんな場所にも、どんな時にも、すべてに同じ1つの真我(内在神)を見つけられることでしょう。

コノ世に真我(内在神)以外は、何も存在しないのです。

(感想)
もの凄く的確に、コノ世の真相が開示されています。まさに、これが答えです。
自分なりに当てはめて、この内容を考えて見ましょう。これは宿題です。



(質問者): はい、それでも私は理論上で分かるだけなのです。
しかし、ラマナ・マハルシ氏の答えは単純で、美しくて、説得力があります

(ラマナ・マハルシ): 「私は悟れない」という考えさえも、1つの障害になります。

真実は、真我(内在神)1つだけが存在しているからです。

(感想)
この内容の解釈は、どの次元の視点から見るのか?どの立場から表現するか?
により、その内容の解釈が様々に成ります。一例として説明しますと、

(1): 「光がスクリーン上に在ります。そして、スクリーン上を去来する影は、何らかの演技が演じられているような印象を観客に与えています。」

この文章において、
*「光」 =真我(内在神)から発せられる光の粒子。
*「スクリーン」 =肉体。

*「影」 =カルマ。因果。自分が他人にした行為を、自分が受け取る(撮る)現象。
いくつものスクリーン(肉体、過去生)に自分が映した影の内、まだ反射の映りが起こっていない影が、“今のスクリーン”(肉体)上に映ります。

*「観客」 =映画館の客席で静観する存在です。真我(内在神)の分神です。スクリーン上の影を、本来は冷静に見ることが可能でした。

(2): 「もし同じ映画の中で観客もまたスクリーン上に映されたならば、思考と同様なことが起こることでしょう。」

ここに人類の悲劇(悩むこと、思考の漏電)が表現されています。
客席で冷静に鑑賞することが出来ていた真我(内在神)の分神は、スクリーン(肉体)の「中に」自分が映っている映像を見た時に、自分が客席で鑑賞していたことを忘れてしまい、スクリーン(肉体)の中に居るという錯覚を起こしてしまいました。
これが現在の人類に、今でも発生中なのです。



量子物理学においては、
「今の現象を測定すると、過去が変化するかのような現象」
「光子の粒子の世界では、その過去は変更可能である」
このような可能性が証明されようとしています。

これを人間の人生に置き換えますと、
「今の生活を良く静観すると、自分の済んだ過去の生活が変化している現象」
「自分の過去は、変更が可能である」
・・・・このように言えます。こんなことは信じられないでしょうが、意外にも証明が簡単に出来ます。

ー中略ー

まさに、存在させる思いと、存在を消す思い、の大きな二種類がコノ世に在ります。
この決着は、このブログを皆さんが読んでいるように「今に存在する」を宇宙が選んでいます。
そして、映画館が存在して、「影」に対しても「観客」にも多くの経験を体感させています。つまり、「与える」ことをしています。・・・・ここに大いなるカギが存在しています。


関連コメント

1)光であることに気づくには自我を消せばいいんですよね?人間として死ぬことが光であり最善ですか?

.。。。。いいえ。生きる短い間に、他人と先祖への善行が大事。

2)以前の記事で伊勢白山道さんは自我も大切と書いてました。
結局、自我は全消去して、魂だけ人間世界から離れれば、幸せになれますか?

。。。。成れません。

自我も真我(内在神)から生まれます。
真我(内在神)は、過程を見ています。
あなたは結果しか見ていません。そんなものは関係ない。
自分が感謝と愛情を増すことが大事。
2013-08-11 19:56:55


ラマナ・マハルシが「聖典」や「悟った魂」と述べているのは、具体的にどの聖典、聖者のことを指しているのでしょうか?
また、その「聖典」を現代の日本人が読んでも有効なのでしょうか?

。。。アーユルヴェーダ、バカバァッドギーターなどを指すことが多いですが、もう不要です。
しかも、日本では、日本固有の磁気の産物が重要です。
まず、「読むだけで人生が変わるたった一つの方法―伊勢白山道Q&A事典」を出来れば何度も再読してください。
過去の誤解が分かります。
2013-08-02 19:19:23


私はまだまだ二次的な援助がないとすぐに心がすさんでしまう未熟者ですが、
リーマンさんのお話は、人間の師ではなく、神の恩寵と考えて良いでしょうか?

。。。神の思いです。
求めるものは、あなたの右胸に既に在ります。
あとは気付くだけです。
2013-07-28 17:41:43


土地の地場の影響を受ける、というご指摘についてですが、北米(東海岸)に在住です。この場合、おまいりするべき所はありますでしょうか?

。。。朝日に感謝することが大事。
それから家内を掃除して、良い磁場に出来ます。
2013-07-28 17:35:12

No.14

関連記事

不滅の言葉 No.14 2013-08-17 11:25:55

一人の老人が訪れて来て、ホールの中に座りました。

ラマナ・マハルシは、シャルマ氏がサンスクリット語に訳した本「Arunachala Akshara Manamalai」を読んでいました。

その老人は静かに尋ねました。
「悟りとは、言葉では表現出来ないと言われています。
そして、言葉の表現は悟りを記述することが常に出来ていません。
それはなぜでしょうか?」

(ラマナ・マハルシ):
その点については、「Arunachala Ashtakam」の詩の中の第三節で述べられています。
悟りを表現することは不可能ではありますが、それでも悟りが在ることを示唆することは出来るのです。

その直後に、老人の感情に明らかな変化が現れました。

老人の呼吸は深く激しくなり、そして彼は謙虚に床にひれ伏し、ほんの1・2分後に立ち上がりました。

短い静寂を得た後に、彼はその場を立ち去りました。

明らかに、その老人は何かの啓示を得ました。

老人は、ラマナ・マハルシからの恩寵(おんちょう)を求め、ラマナ・マハルシは老人に相応しい恩寵を与えました。

老人は恩寵を得て、そして謙虚に、そして彼のための神様の取り計らいに感じ入ったのでした。

(感想)
ここには、「機が熟せば、まさに与えられる」というタイミングの奥義が表現されています。
老人は、ラマナ・マハルシに面会するまでに、何十年という求道の道のりが有ったのです。
そして、自分の人生の努力が煮詰まり切った時、ラマナ・マハルシの前に立てるという機会を自然と得ました。
そして、ラマナ・マハルシと交わした言葉は、非常に短いものなのですが、言葉には表現できない「莫大な情報」を老人は得たのです。

ー中略ー

老人の内在神が、長年の老人の生活態度、善行、求道への姿勢を見た上で、最後にラマナ・マハルシへと老人を誘導して、気付きを与えたのです。
ラマナ・マハルシは、無言のままで熟した果実が落ちるように木(老人)を揺らしたに過ぎないのです。
会話は短くて十分であり、言外の最後のひと押しが老人には必要だったのです。

ー中略ー

見詰めるべきは、求めるべきは、自分の良心(内在神)です。
これですべてが良い方向に転換を始めます。
ただし、コノ世で肉体を借りている間は、リース(貸し出し)への御礼として先祖(遺伝子)への感謝を忘れては生けません。これも絶対条件です。
その上で、自分の良心(内在神)を見詰めれば、コノ世も死後も保証されます。
必ず、すべてが大丈夫に成ります。

No.15

関連記事

不滅の言葉 No.15 2013-08-18 11:36:20

「至高の魂は、最も精妙なものよりも精妙であり、最も巨大なものよりも大きい」という、ウパニシャッド哲学聖典の一節について質問がされました。

(ラマナ・マハルシ):
原子の構造でさえも、人間の心により発見されました。

したがって、心は原子よりも精妙です。

心の背後にある存在、すなわち個々の魂と呼ばれるものは、心よりも精妙です。

さらに、タミル地方の聖者マーニッカヴァーチャカルは、
「太陽光線の中で舞う光の粒子それぞれが1つの宇宙を表しているとすれば、太陽全体は至高の存在そのものを表すでしょう」
と語っています。

(感想)
ラマナ・マハルシが、インドの他の聖者の言葉を引用して、太陽について言及したことは意味が深いです。
つまり、真理とは、世界共通であり、感得する内容も一致する証明です。
日本の神道の最高神が太陽神であり、国旗までもが日輪そのものであるのが日本の国柄です。
インドの地において、心の内省により辿り着く世界観との共通点が在るのです。

「心の背後にある存在、すなわち個々の魂と呼ばれるものは、心よりも精妙です」
私たちの心・気持ちの奥には、さらに精妙な魂(真我・内在神を含む)が存在します。
私たちは、自分の右胸3cmの場所に太陽を預かるとも言えるのです。
これを自覚しながら生きることは、知らないで生きる人生とは中身が変わります。

どんな人間も一人ではなくて、すでに神(太陽)と一体であることを思い出しましょう。
コノ世に生まれ出る前は、全員が知っていることなのです。

No.16

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英国紳士のダグラス氏は、次の日の午後に再びやって来て、そして、みんなが驚いたことに、彼がラマナ・マハルシに繰り返し語ったことには昨夜にある経験をしていました。

それは、彼自身の心臓の中枢の右側の胸の中に、電気の光のような何かを見たということでした。

そして、彼が更に付け加えて言ったことは、「右胸の中に輝いている太陽を見た」ということでした。

ラマナ・マハルシは少し微笑んで、そして「真我(内在神)の知恵」本の英訳を彼に読んで聞かせました。
その中には、「悟りとは、心から派生する意識の拡大とは区別された、心の広がりである真我(アートマン・内在神)に達することである」
という謎めいた格言が在りました。

この説明は彼をとても納得させました。

(感想)
この英国紳士のダグラス・アインスリー氏は、70歳の作家・詩人であり、生涯独身を通して禁欲的で質素な節制した生活をしてきたそうです。
彼は名家の出であり、インドのマドラスに総督の賓客待遇で滞在して、紹介状を持ってラマナ・マハルシに面会に来ました。

彼が、「右胸の中に輝いている太陽を見た」という経験をした前日にもラマナ・マハルシと1時間ほど面会して、その時にラマナ・マハルシは無言のまま彼の目を凝視して、一切の会話がありませんでした。
その晩に彼は、自分の右胸の中に太陽が存在することを初めて目撃しています。
彼が長年にわたり、詩作という自分の心を見詰める・自分自身を内省する経験を積み重ねたことが、自分の右胸に太陽を自覚するという体験をさせています。
ラマナ・マハルシは見詰めるだけで、「熟した・発酵している」彼に火を付けたと言えます。

つまり、自分で発酵していなければ、自分自身で熟する努力をしていなければ、
どんなにラマナ・マハルシに見詰められても火は付かないのです。
ここを勘違いしては生けません。
無知な有料先生が、お金を払えば目覚めの火を付けてあげますと自称することは、完全なデタラメであり非常に恥ずかしいことなのです。
あくまでも、自分自身で発酵して熟す努力が必須なのです。
自分が熟せば、真理の言葉の一節を読むだけで、自分の右胸の太陽が誰でも発光するのです。



肉体から離れた魂についての質問に関してラマナ・マハルシが発言されました。

(ラマナ・マハルシ):

人間が自分自身を粗雑な肉体であると同一視している限り、粗雑な現れとして具体化した思考も、人間にとっては本物であるに違いないのです。

なぜならば、人間の肉体が他の物質的な存在から生まれて来たと想像されるので、その他の存在も人間自身の肉体と同じくらい本当に存在していると思ってしまいます。

一度でもコノ世に存在した魂は、確かに死後も生き残っています。
なぜならば、子孫はまだコノ世におり、死者の魂は縁者の中に生まれ直したと感じているからです。

このような状況下では、あの世は実在であり、そして死者の魂は彼らのために捧げられた祈りによって恩恵を受けます。

(感想)
ラマナ・マハルシが、死後も魂(心)が実在することを自ら発言しています。この意味は大きいです。
ただし、これは「自分自身=肉体」であるという同一視をすることにより、より強く発生するとしています。
では、「本当の自分とは=肉体では無い」「本当の自分とは、心である」
と、自分が生きる内に自覚できれば、その人間の魂は死後にどうなるのでしょうか?

答えは、自由に成れます。
死後に縁者から供養されなくても平気に成ります。
これと同じことを釈尊も言っています。
膨大な内容の仏教哲学が後世に発生しますが、本当に釈尊自らが仰ったことは非常にシンプルなたった一言だけです。
「執着するな」です。

ー中略ー

真我(内在神)を自覚するためには、まずコノ世で肉体を借りたリース料として、自分に縁ある迷う先祖(肉体意識)を安心させることが必須条件です。これなしでは、自分の魔境を真我(内在神)だと必ず勘違いします。
その特徴として、有料の瞑想先生の中には、自分自身が親不孝であり、先祖供養を否定する人が多いです。間違った自由思想のために異性関係が乱れることも平気です。
社会常識から離れた生活には、真理は絶対に実在しません。有るのは、自我の魔境です。
この心境では、一回ナンボで「悟り」を売り渡すという自称のデタラメも平気で出来てしまいます。

今日も、縁ある故人に感謝をして安心させながら、
何事にも「嫌な」執着をしない生活をして見ましょう。
そして、右胸に内在する真我(内在神)に感謝をして見ましょう。
その上で自分が出来る生活努力をすれば、必ず変わって行きます。



(ラマナ・マハルシ):
それとは別の視点で違う方法で考えますと、たった1つの真実とは、魂の様々な過去生において身に憑けた性向の種を蓄えている自我をも含む、真我(内在神)だけが実在することです。

真我(内在神)は、自我や、隠れた性向、そしてまた肉体の感覚機能に光を当てて浮き上がらせます。
するとすぐに隠れていた性向は、宇宙において実在するかのような錯覚を起こさせて、真我(内在神)の反射である「自我に認識されるように成ります」。

自我(エゴ)は、自らを肉体と同一視するために、それ故に真我(内在神)を見失います。
この間違いの結果が、暗たんたる無知であり、そして人間の今の人生の悲劇なのです。

(感想)

ラマナ・マハルシは、すべてが自我が原因だとしています。
(1) 自我は、過去に済んだ幻想であること。
(2) 自分の心(真我)だけが実在であり、自分を肉体だと思わないこと。
(3) 人間は、真我(内在神)を忘れていることが悲劇であること。真我(内在神)を認識でき無いことが、すべての不幸なパターン(種)を生み出す原因であること。
そして、
(4) 自分の自我(ワレヨシの気持ち、感謝の気持ちが無い状態)を、今の生活の中で大きくしないようにすること。
もし自我を大きく出せば、過去生からの隠れていた種(パターン)が発芽をして、白紙の自由な今の人生を悪化させること。

このような「知識」を持って、白紙の今生を頑張りましょう。
素直な心であれば、過去生からのパターンは発芽をしないのです。
素直な気持ちで、自我を出さずに、真我(内在神)を求めて、現状への感謝をしながら生活努力をします。
そうすれば、すべてが必ず変わって「行きます」。



(ラマナ・マハルシ):
自我が、真我(内在神)から生まれているという事実。
そして、それを忘れること。
これが人間が誕生するということなのです。

だから、人間個人の誕生とは、母なる真我(内在神)を忘れて殺したから起こるとも言えるでしょう。

自分自身の母なる真我(内在神)を思い出したいという今生での願望は、その真相は、本当の自分を思い出すことと同じであり、または自我の終焉と同じであり、真我(内在神)を思い出したいという願望なのです。

これは、母なる真我(内在神)への完全なるお任せとなり、そうすることで母なる真我(内在神)と本当の自分は、永遠に生き続けることでしょう。

(感想)
神様である存在から、
→神様から「自我」が生まれ出て、その生まれ出た元の神様を忘れること。
→コノ世に受肉が起こり、誕生することに成る。
→受肉中に、元の神様のことを、自分=「自我」の中に求めれば、再び元の神様に戻れる。

このような大いなる挑戦を私たちがしている最中が、今なのです。
神様(=自分自身)は、自我をコノ世に放出して、もし神様(本当の自分のこと)のことを思い出すことが出来れば、故郷(根源)に帰ることが出来るというロールプレーイング・ゲームに挑戦中なのです。真の母性(根源)への回帰に挑戦中です。

本当に自分の中の神様を思い出せるまで、色んな主人公に自分が成り代わり挑戦中なのです。皆さんも、何回目かの挑戦中です。
色んな環境設定のゲームソフト(国家・時代・性別・家族・仕事・・・・)を取り替えては、挑戦して来ました。

そろそろ、自分の右胸に住する神様に気付きましょう。
そうすることで、幾多の過去の自分自身も救うことが「成される」のです。



それからラマナ・マハルシは、プンニャ(Punya)とパーヴァ(Papa)という二人の息子を持つDeerga Tapasiの物語を、Yoga Vasishtaのタミル語版から読み上げました。

(ラマナ・マハルシ)

両親の死の後、弟はその死別を悲しみました。そして、兄は次のように弟を慰めました:

「どうして私たちの両親が死んだことを悲しむのか?

両親がどこにいるのかを教えてあげよう。両親は、僕達自身の中にだけいて、そして僕達自身として存在しているんだよ。

生命の流れとは、数えきれないほどの転生、生と死、喜びと痛み、その他を通り抜けています。
ちょうど川の水の流れが、岩の上や、窪み、砂地、高い所と低い所を途中で流れるようにです。
しかし、それでもなおその流れ自体は影響を受けません。

何度も繰り返す、喜びと苦しみ、生と死は、自我の蜃気楼の中での、見せかけの水の表面のうねりのようなものです。

唯一の真実は、真我(内在神)だけなのです。
真我(内在神)から自我が現れ出て、そして思考することによって自我自体を宇宙として実体化しています。
そして自我が創りだした宇宙の中で、母親や父親、友達と親戚が現れては消え去って行くんだ。

彼らは、真我(内在神)の現れ以外の何ものでもありません。
だから、人の両親も真我(内在神)の外側に別に存在するのでは無いのです。

だから悲しむ理由なんてありません。

これを知って、理解して、そして幸せになろう」

(感想)
なんと自分が見ている光景、人々、大自然、・・・・宇宙、のすべてが自分の右胸の中に存在しているのです。
そして、生きている自分だけが、右胸の「真我(内在神)の“外側”」に存在しているのが今なのです。
そして、今の自分が死にますと、自分も真我(内在神)の「内側」に帰るのです。戻るのです。
人間は、生きている短い間だけ、真我(内在神)=宇宙の外側に存在することが出来るのです。

ー中略ー

ただ、今は真我(内在神)の外側に自分が存在すると言いましても、
「今の自分は、その真我(内在神・宇宙)を内在しているのです。持ち運んでいるのです」。
宇宙を支えていたのは、「生きている」人間だったのです。

私は、宇宙の終端はどこかと、どんな景色かと、意識で夢想したことがあります。
宇宙の終端を意識で追って行き、その動いた軌跡を大きな視線で俯瞰(ふかん)して見ました。
すると、その軌跡は人体の形でした。
おそらく望遠鏡が進化して宇宙を観察して行くと、人体図のような宇宙の「広がり」が観察されると夢想しています。
口や鼻の穴、尿道、肛門は、ブラックホールとして、内側に入る空間も発見されることでしょう。
私たちは、宇宙を抱えているのです。宇宙を支えているのです。

だから、生きている今の人間が思う内容が最重要なのです。これからの宇宙を左右します。
今日も、良い思いと、「感謝の思い」を発信して生きましょう。
宇宙を創造したのは、感謝の思いからなのです。

No.17

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オックスフォード大学の英文学者であるエヴァンス・ヴェンツ氏が、ポール・ブラントン氏からの紹介状を持ってやって来ました。

彼は旅の後で疲れており、休息を必要としていました。

彼は、数回この国を訪問しており、インドの生活様式にとても慣れています。

彼はチベット語を学んでおり、「死者の書」と、チベットの最も偉大な瞑想行者である「ミラレパの人生」、そして「チベット密教の奥義」という3冊の本の翻訳を手伝っていました。

午後になると、彼は2・3の質問をし始めました。

それらは、瞑想に関するものでした。

彼は、トラ、鹿のような、その他の動物たちを殺して、瞑想で座るために毛皮を敷いて使うことは、正しいことだったのかどうかを知りたがりました。

(ラマナ・マハルシ):
心が、トラや鹿自身なのです。

(質問者):
すべてが幻想ならば、人間は他の生命を左右しても良いのですか?

(ラマナ・マハルシ):
誰にとっての幻想なのでしょうか?

それを見つけ出しなさい!

真実においては、誰もが自分の人生の色々な場面において“真我(内在神)の殺し屋”なのです。

(感想)
理知的な西洋人が普通に思う疑問が聞かれています。
歴史上の有名な修行者・瞑想家の多くが、トラや動物の毛皮の敷物を愛用していました。
日本の一休さんも、悟りを得た後年に動物の毛皮を使用することをいといませんでした。

これの答えは私の感得では、瞑想をする場合に、嫌な霊的磁気を放電するのに、動物の毛皮が有効だということです。(現代社会の動物セラピーとも一致します)
例えば、静電気を帯びた物体に、動物の毛で作られた筆で物体の表面を触れますと、その静電気は昇華されると思います。
このような感じで、高度な瞑想集中に速やかに入るには、動物の毛皮が愛用された側面が修行者の歴史でありました。

ー中略ー

ただ言えますことは、遊園地(コノ世)に来たならば、遊園地の中で机(毛皮)を用意して勉強(瞑想などの修行)することは無いのです。
遊園地も時間限定でしか居られないのです。
短い遊園地(人生)の中に居る間は、思いっ切り遊びます。郷に入っては郷に従えです。
ただし、勉強(修行)と帰宅(死)が必要である、必ず来ることを頭の片隅に置きながらです。

今日も自分の生活の中で、座らずに「動の瞑想」(生活の中で自分の心を見詰めます、静観します)をしましょう。
わざわざ瞑想のために座る時点で、毛皮を用意する間は、自我の海の中なのです。
これを打ち破るには、今の生活の中での愛情と感謝の思いが必須なのです。
そして、その上で、自分自身を静観します。



(質問者):
どんな座る姿勢が一番良いのでしょうか?

(ラマナ・マハルシ):
どんな座る姿勢でも良いですが、あえて言えば楽なアグラ(胡座)が良いです。

しかしそれは、知恵の道を行く者にとっては、重要ではないことなのです。

(質問者):
座る姿勢は、その人間の気質を表すのでしょうか?

(ラマナ・マハルシ):
その通りです。

(質問者):
トラの毛皮、羊毛、または鹿の皮、その他の特性と効果とは何なのでしょうか?

(ラマナ・マハルシ):
複数の修行者が、毛皮類の効果について発見し、そしてそれらの効果についてヨガの本で述べました。

それらの効果は、磁気などの伝導性と絶縁性に相当するということです。

しかし、それは知恵の道を行く者にとっては、そのすべてが取るに足らないものなのです。

真実の座る姿勢とは、真我(内在神)の中に常在し、不動心であることを意味します。

座る姿勢とは、心の中のことなのです。

多くの人々は、肉体の姿勢に注目してしまっています。

(感想)
「座る姿勢とは、心の中のことなのです」(by ラマナ・マハルシ)
まさにこれが真理です。
自分の日常生活の中での「心の姿勢」こそが、真の座る姿勢であり、瞑想であり、ほんとうの修行なのです。

今の自分の「心の姿勢」とは、どんな姿勢の状態か?どちらを向いた姿勢か?
と絶えず生活の中で静観することが、真我(内在神)の発露には不可欠です。
そして、感謝の気持ちを、色んな生活の場面で自分から発露をさせます。
これの継続した実践が、自分に内在する真我(内在神)を発露させます。
真我(内在神)が発露しますと、コノ世のすべてが腑に落ちます。
過去の色んな出来事にも、「感謝をするべき」だった因果に自分で気付けます。
コノ世の一切にムダが無いことも、真から分かります。

今日から、自分の「心の姿勢」を意識して生活してみましょう。
ラマナ・マハルシは、楽なアグラの姿勢で良いと、肉体を例にして言っています。
これは「心の姿勢」でも同じなのです。
自分の心をリラックスさせて、楽で柔軟な視点で、今日の日常生活を眺めて見ましょう。
そこには、自分が感謝するべき物事が、既に在ったことを知り出します。


20150112

  • 最終更新:2015-04-25 16:11:07

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