原始仏典:スッタニパータ(第1章4節)

原始仏典:スッタニパータ(第1章4節)について
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大変な農作業をして何とか生活をしている農夫が、作業小屋において朝食の準備を重労働の前にしていました。
そこに釈尊が托鉢(たくはつ:信仰者の家の前で食事や食糧を希望すること)の為に立ちました。

農夫:「あなたは食事を希望されるが、私は食べる為に大変な農作業を毎日しております。
あなた様も食事が欲しければ、そこに立つ前に、農作業で収穫するまでの苦労をするべきではないでしょうか」

釈尊:「私も日々、農作業をしています。その御蔭で朝食を得ています」

農夫:「え? 私は、あなた様が農作業をしている姿を見たことがありません」

釈尊:「いいえ、私は農作業をしています。その御蔭で朝食を得ています」

あっけに取られた農夫は、改めて釈尊に真剣に聞き直しました。

農夫:「あなた様は、『自分も苦労する農夫だ』と自称されます。
しかし私は、あなた様が言われる『農夫』が何を指すのか分かりません。

では、その農業について教えてください。
あなた様が言う農作業とは農業とは、一体何なのでしょうか?」

(原始仏典 スッタニパータ 第1章4節-No.76)

(感想)
* 「代償行為」(違う形での行為)、それと同等か、それ以上の苦労と労働をしているから同じだ。

* 人は労働でも、その労働の名称と内容により、喜怒哀楽も差別もしている。
でも、霊的には、そこに苦労が有れば、どんな仕事であっても同じことだ。同じ霊的な影響の結果を残す。

という意味を私は感じます。
例えば、以前から思うことなのですが、
* 主婦が、一人の子供を立派に育てること。 = 男性が、社会で大事業に成功すること。

これが、霊的には同じだと感じます。
それほど難しくて、失敗もあり、神経をすり減らすことだと感じます。
どちらも20年以上も要する苦労でもあります。

誰もが最後は、一人裸で死んで行く現実を見ましても、どんな物質・財産も何もアノ世に持参が出来ない道理を見ましても、
「女性の子育て=男性の大事業」
は完全に霊的に言えます。

(中略)

最高なのは、労働する農夫が、バランス良く(中立・中道)、正しい感謝の信仰も善行もして行くことです。これは、悟ります。
釈尊のように、見えない善行だけが突出する人生は、一般人には無理であり、遠回りであり、道を間違うリスクも高すぎます。
釈尊の場合は、幾度の過去生で労働の修行も終えた御方だからこそ、の話です。



農夫:「あなた様が言う農作業とは農業とは、一体何なのでしょうか?」

という問い掛けを受けた釈尊は答えました。

釈尊:「私には、正しい信仰こそが、収穫をもたらす食物の種子です。

心の修行こそが、種を育てる雨となります。

正しい知恵こそが、農地を耕すための牛を台車に繋ぎ止めるクビキであり、農具の鋤(スキ)となります。

自分の悪い心を恥じることが出来ることが、鋤(スキ)の先を取り付ける棒と言えます。

自分の心こそは、牛に耕す為の農具一式を取り付けて、全体を機能させるために欠かせない縄ヒモとなります。

気持ちを静かに安心させていることが、あるがままに大地を鋭く耕す為の、鋭利な器具の先端の刃と成りえます。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章4節-No.77)

(2頭の牛の首をつなぐ、クビキ・横に渡す棒。ウィキペディアより引用)

(感想)
この項で特に心に残る要点は、最後の行です。

* 冷静なる安心感の維持こそが、大地をも切り裂き耕すような、自分の心に革命を起こす。

ということです。
「安心感」と言われますと、何かゆっくりとした、何も変わらない今のままをイメージするかも知れません。
しかし釈尊は、冷静な安心感は、鋭い刃物にも成り得ると示唆されています。

* 冷静な人ほど、強い人かも知れません。
* 安心感に包まれた人ほど、観音力に守護された人。

逆に言えば、
* 冷静に成れない人。常に喜怒哀楽が激しい人は、弱くて、もろい人かも知れません。
弱い犬ほど、よく吠えるものです。

(中略)

苦しい仕事の環境に居る人ほど、苦難の多い家庭に居る人、心身にハンディを持つ人ほど、
「その中であっても」
自分の心を冷静に維持し、更にはその中でも「安心感」と「感謝」に包まれている人は、
心に大きな革命が起こり、悟るかも知れません。
悟りへの、意外な最短距離に苦しい人ほど居るかも知れません。



釈尊が自分も農業をしていると言い張り、農夫に説明する記事「冷静さと安心感は、心の改革を起こします」の続き。

釈尊いわく:
* 私は肉体を清潔に保つことを心掛けます。(農地の整地)
* 話す言葉をつつしみます。(作物への心掛け)
* 食事を節制して過食をいたしません。(肥料の調整)
* 真理を一番大切にする生活を心掛けます。(収穫)

以上をもって、私の心に「雑草」が生えないための、農作業に相当する除草とします。

そして1日の農作業が終わり、牛を台車に繋ぎ止めるための木製のクビキを牛の首から外す時の解放感は、私の心が涅槃(ねはん:天国)に入る時の解放感と同じなのです。

だから、私も農夫と同じことを日々にしています。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章4節-No.78)

(感想)
ここで大切なことは、
* 人は形や名称にこだわっては生けない。
* こだわれば、真理から遠ざかる執着と成る。

自分は教師だから、医師だから、農夫だから、主婦だから、学生だから、・・・・と言いましても、
「人が死ぬこと」「死の前には」
そんな名称も肩書も関係が無い訳です。
「死」という真理現象の前では、一斉に平らに均(なら)されます。

ここに大きなヒントが在るのです。
どんな仕事でも、魂の視点では形が違うだけであり、本質は同じなのです。

以上の話では、民族同士、国家同士でも揉める根本原因を、釈尊は看破されています。
仕事の名称や形に「執着」することで、農夫は釈尊にさえも腹が立つ訳です。
これと同様に国家も、形や名称にこだわり過ぎますと、戦争にも成るのです。



私、釈尊にとりましては、自分の首に台車に繋ぎ止めるための木製のクビキを付ける牛の役をするのが、
勇敢に修行への「努力」を継続することなのです。

これは悟りへの過程の中で、一切が静寂に包まれる涅槃(ねはん:天国)へと誘(いざな)います。

クビキを首に付けて任務を押し進めることは、前へ前へと自分自身を押し上げて行きます。

この継続はもはや、生老病死という人が持つ心配を超えた存在へと、自分自身を至らせるでしょう。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章4節-No.79)

(感想)
何と釈尊は、拘束道具のクビキを首に付けた状態こそが、
* 自分自身を悟りへと導きます。
* コノ世のすべての悩み、生(性)老病死から自分を解放して真に自由にする。

と、この項で示唆されています。
* 不自由な環境こそが、その継続が極まれば、その人を真に自由に至らす。悟らせる。
ということを仰っています。

(中略)

つまり、
* 人は、自由な環境の中では、その自由の有り難さに「気付ける」のでしょうか?
大半の人間は、「自由であることがアタリマエ」となり、自分が「既に」自由であることに気付いていないと感じます。
ここに、すべての原点が在ると感じます。これは非常に重要なポイントです。

* 誰もが「既に」真の幸福状態であるのに、他人との比較心から、自分は不幸だと思い込んでいる。

* 既に在るモノ(肉体・家族・命・・・)の有り難さには気付けずに、無いモノ(他の異性・金銭・・・)ばかりを追い求めて、自分は不幸だと思い込むこと。

* 人は誰もが「既に」悟っているのに、自分が悟っていることに気付けない。

このような、人が持つサガを感じます。
従って、人間が首に拘束具のクビキを付けるような束縛された会社員生活を継続していますと、休日が何と新鮮で有り難いことでしょうか。
まさに休日に、涅槃(天国)を感じられます。



過去記事:
「コノ世は、「代償行為」(違う形での行為)が生きます」(No.76)
「冷静さと安心感は、心の改革を起こします」(No.77)
「形や名称に執着することの愚かさ」(No.78)
「拘束・束縛により悟ることも有る」(No.79)

以上のようにして、私・釈尊の心の農業の耕作は完成されます。
このような心の農業こそが、決して心は死なないという不死性の作物をもたらします。

人は、このようにして自分の心を耕作したならば、あらゆる苦悩から解脱(げだつ:苦悩や迷妄の束縛からの解放)して、完全な心の自由に至ります。

以上の釈尊の話を聞いていた農夫は、大きな真鍮製(しんちゅうせい)のボウルに並々と乳粥(ちちがゆ:御米と牛乳と塩で煮込みます)を盛って差し出し、

「ブッダ様、あなたこそ、この乳粥を食べるに相応しい御方です。
あなたも真に農業を営む御方でした。
ブッダ様は、心の不死という作物を耕作される農業をされていることが良く分かりました」

(原始仏典 スッタニパータ 第1章4節-No.80)

(感想)
果たして、農夫は釈尊が農業をしていると、心から本当に理解をしたのでしょうか?
厳しい労働を日々にする人間が、釈尊の上記の4つの話を聞かされただけで納得するには、高度な精神性が農夫にも無ければ理解ができないことだと思います。
でも、農夫は理解をされました。

私が思いますには、農夫は害獣から作物と自分の身を守りながら、厳しい自然環境の中で作物を作るという命懸けです。
そこに突然に現れた修行僧・釈尊に、「私も農夫だ」と言われて腹が立ったことでしょう。

そして釈尊の説明を聞いて農夫が分かったことは、
* この人(釈尊)も、真剣なんだな。
* 鬼気迫る命懸けで生きている。

ということは農夫にも確実に伝わり理解をされたと感じます。
つまり、厳しい労働をする人間からは、「心の修行」という良く分からないことをする人間に最初は腹が立ったが、
* 相手も真剣に生きている人だ。

という自分との共通点を見出した時に、
「もういいよ。分かったよ」
という理解が農夫にもたらされたと感じます。

(中略)

私たちも日々を真剣に生きることで、その姿を周囲も見ているものです。
「何でも良いから」真剣に打ち込む姿は、誰もが求道者です。
それを極めれば、自分の心が悟ることも起こります。

主婦道、サラリーマン道、武道、陶芸道、ゴルフ道、・・・・伊勢白山道。
何でも真剣ならば、
* 「セレンディピティ」(serendipity)【大切な心に気付けば変われます 2011-12-31 11:17:21】
が起こるということです。



釈尊の説法を聞いた農夫は大いに感銘を受けて、
「あなたこそは、心に永遠の作物を耕作させる農夫でした」
と言い、大きな鉢に大盛りの乳粥(ちちがゆ)を釈尊に差し出します。

しかし釈尊は何と、これを断ります。

「古代から伝承される聖なる詩。つまり御経や聖典・聖句(マントラ)の類(たぐい)を話して・教えて・それで得た報酬を私は食べては生けないのです。

修行者である農夫さん。これは悟った普通の聖者が行うしきたり・習慣では決してありません。
ブッダ(転生の最終達成者)と呼ばれる真に悟った者だけは、聖なる言葉を説明してから、やっと与えられた物を得ては生けないのです。

こういう掟(おきて)が宇宙に存在する為に、ブッダを自覚する者の生活だと思って、お断りすることを許してください」

(原始仏典 スッタニパータ 第1章4節-No.81)

(感想)
これは驚くべきことが書かれた内容です。現代までの精神世界に一石どころか、爆弾を釈尊は投じています。

釈尊が言うには、
* 真の聖者は、無言で立つだけで、その人物を見られた上で、差し出された食物は得ても良い。
* 過去の聖典の類を説法して、持ち出して、説得して、やっと得られた物は決して食べては生けない。

これは逆に言えば、現代風に解釈すれば、
* 御経や聖句(マントラ)を教えるから、聞かせるから、1回いくらと金銭を「請求」しては生けない。

ということも言えます。
しかし、伝統宗教を未来に残すためには、金銭は必要です。つまり、

* 寄付などの強要をすることは生けない。
* 説明や説得をしなくても、相手から気持ちよく差し出された金銭は受け取っても良い。
という拡大解釈は可能です。

(中略)

とにかく食事(寄付)の提供を受けることは、重い意味があります。
最後は釈尊の生命を止める伝承まで最終的に歴史は行きます。(貧しい老人から受けた食事の食中毒で、釈尊はコノ世を去りました。この真相は過去記事「【とにかく頂いた物には感謝をすることが大切です 2014-11-24 11:04:32】」参照)

私たちも、特に日本は御中元や御歳暮などの贈答の習慣が有りますが、贈る相手側の内心・心境には注意が必要だという霊的な教えの項でもあります。

ましてや、正しい相手から、何の落ち度も無い他人から、「無理に」「違法に」物を得ることは霊的に怖いということです。得た側の人間の生命力を削ります。
胸に覚えて置きましょう。



釈尊は続けて農夫に言います。

「節制した偉大な仙人のように真面目に生きる人物、

ワレヨシな性(サガ)を完全に滅したような本当に清らかな人、

もし、このような人物と出会ったならば、新しい飲食物を出来るだけ提供したほうが良いですよ。

本当に良い人物に物を上げる行為こそは、大きな幸運・財産を生み出す田畑に種を蒔くに等しいからです」

(原始仏典 釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章4節-No.82)

(感想)
この項では釈尊も、
* よく節制して生きる真面目な大仙人のような人物
* 本当に心が清いと思える人

このような人物と出会う縁を持てたならば、大いにモノを上げなさいと勧めています。
それは幸運の種を蒔く行為に成ると断言されています。

でも、これこそは、古来から悪徳な宗教や人物に対して、寄付を強要する口実に利用されて来た詭弁(きべん:間違っていることを、正しいと思わせるようにしむける屁理屈)にも悪用された内容かも知れません。

大先生や聖人や覚醒者を自称しながら、金銭や肉体の提供を言うような相手には、決して近付いては生けません。
そのような悪徳な人物に寄付をすることは、更なる被害者を生み出すことを自分が幇助(ほうじょ:犯罪を手助けすること)したことに成りかねません。
過去に知らずに思い当たることが有っても、これからを注意すれば問題はないです。

釈尊は、この項でわざわざ提供するに値する人物の条件を指定しています。
これは逆に言えば、
* 陰では真面目に生きていない悪人
* ワレヨシな人物

このような相手には、「物を上げては生けない」という示唆でも有る訳です。
悪徳な人にモノを上げれば、それが善意からでも、自分に悪い因果を積むことに成る訳です。
後からも良いことが有りません。自分の幸運を失くします。


【掲載順序】本ページは「日付昇順」とします。



  • 最終更新:2020-06-11 19:44:23

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