原始仏典:スッタニパータ(第1章3節その3)

原始仏典:スッタニパータ(第1章3節その3)について
目次

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子供も、奥さんも、父や母も、家の財産や備蓄穀物も、

親類や友人たちも、自分自身に関するどんなことも、

自分の所有欲の対象とするのは止めなさい。

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.60)

(感想)
釈尊が、御自身の家族を捨てたからと言って、これを他人に強要・示唆をすることは有り得ません。
釈尊が家庭から離れたのは、

(1)自分がどうしても成し遂げたい使命感の為だった。
(2)その使命感は、従来の宗教から攻撃される内容(集団の否定。師匠不要論。危険な身分差別制度の廃止を主張。一人での求道が目的)
だったので、家族の身に危険が及ばない為に、王室や家系を守る為に絶縁した。
(3)自分の使命感を実行するように天啓(てんけい:天から命令されること)を受けたから。

このような理由から、釈尊はすべてを捨てられたと感じます。
これを釈尊が、一般人も同じように勧めることは有り得ません。
そんなことを多くの人々が真似れば、社会が混乱し破壊されます。有り得ないことです。
子供も生まれないことに成ります。

この項こそは、私が何度も書いて来ました、
* 自分の家族も、財産も、友人たちも、その時の食料さえも、自分自身のモノでは無くて、
* 自分が預かっているだけに過ぎない。
ということを釈尊がズバリと言っている項だと思います。



「ああ、これは自我(ワレヨシ)の欲望の対象に成るものだな。(異性・賭博・不倫・甘い物事・危険なクスリ・・・)

これを楽しんで欲望を発散したとしても、一瞬で終わるだけだ。

もし楽しんだとしても、小さなことであり長くは続かないことは分かっているんだ。

これがもたらす後からの苦悩と後悔のほうが、快楽よりも大きいことは分かっている。

これは自分を釣るための大きな釣り針であることを、知っている」

このように真理の知恵を学ぶ者は、実際にひどい目に遭わなくても避けることが可能になる。

だから賢い人は、

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.61)

(感想)
釈尊は、真理の知恵を事前に知っていれば、世間に在る数々の大小の釣り針「人をダマす針、陥(おとしい)れる針」を避けることが可能に成る。その方法こそが、

* もし、それを体験した場合の後を、「先に」想像しなさい。
* それがもたらす最悪の場合の被害を、よく計算しなさい。

そして、
* それを体験したとしても、一瞬で終わることと、長くは続かないことを「先に」想像しなさい。
* コノ世に在る快楽は、それがもたらす後からの苦悩の方が大きいことを知って置きなさい。
* 魚を釣る釣り針は、世間の中で「人に対しても」常に垂らされている。

このようなことを事前に知る真理こそが、人に痛い体験をさせずに涅槃(ねはん:天国)に導くと釈尊は示唆しています。

釈尊は、色々な項で「知恵」を持つことの重要性を説いています。

(中略)

釈尊こそは、
* 神仏に頼らないこと。
* 偶像崇拝の禁止。仏像の禁止。

を言われていたことを今の仏教は忘れています。今の社会は、何ということでしょうか?
釈尊の遺言、阿難に厳命したことは、
* 法灯明(ほうとうみょう)、自灯明(じとうみょう)、だけを信じなさい。守りなさい。
でした。

これは、「知恵」と「自分の良心」を信じなさい、ということです。
これが悟りへの最短距離だというのが本当の仏教の姿です。



水流の中で魚網に捕まった魚が、網を突き抜けて川に戻るように、

世間に在る様々なサガ(ワレヨシの自我・性)への執着を断ち切りなさい。

そして過去に自分の執着心から、自分のサガの炎が焼き払った場所・相手に留まることが無いようにしなさい。

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.62)

(感想)
* 自分の思いを捕まえる網を、スルーする気持ちを常に持ちましょう。

ということです。他人から嫌味を言われましても、喜んでスルーしましょう。
自分が腹を立てる時点で、自分の思いが捕捉された、網に掛かった魚、であることを知って置きましょう。

(中略)

* 済んでしまったことには、執着をせずに、常に今を見ること。
* コノ世では、どんなことにも自分の思いが1つのことに縛られる内は、それは執着であるから注意すること。

このようなことを、この項から思います。
コノ世を川の「流れ」。
人を「魚」と見ること。

(中略)

この因果の流れを冷静に眺めながら、どんな川の流れに自分が居ましても、感謝せずにはいられない心境に成れることが、次に(来生に)自分が住む川の「流れ」を決めて行きます。



目の視線は常に静かにして、斜め下方を見て虫を踏むこと無く歩き、常に斜め下方の視線で座ること。

大勢の人が居る喧騒を好んで、あちらこちらへと歩き回らないこと。

他からの刺激に心が乱されることが無いように、自分の心が防御されている姿勢で常に居ること。

自分の自我(ワレヨシな怒り・妬み・嫉妬・色情・欲・・・)が他人に出ないように自分でコントロールしていること。

他人の自我の影響も受け取らない心境で居ること。

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.63)

(感想)
この項の中には、
* 禅の極意。
* 仏像の視線の意味。
* 生活の中での立ち振る舞い。
* 精神を病まない生活方法。
これらが凝縮されています。

(1)目の視線は、常に斜め下方で居ることが良いです。

でもこれは、自分一人で居る時だけにしましょう。学校や職場では、正面を大きく見て、相手に不快な思いをさせないようにしてください。

これこそは、禅の視線であり、仏像が表現する視線であり、最高の集中力を生み、他からの霊的な憑依を防御する視線なのです。
* 霊の憑依は目からも入る。
ということを知って置いてください。

(中略)

(2)自分が他人の心を乱さない姿勢・生活を心掛けて、自分も他人の所作・行動に心が乱されないように注意していれば大丈夫だと言うこと。

このことを現代人がわざわざ意識をしていないと、
* 自分の心が他人の所作を一々と気にする。
* 自分も他人に不快な態度を無意識にしている。
ことに成りがちです。

自分で常に、
* 「他からの影響を自分は受けない・受け取らない」
ということを日々の生活の中で自分自身に言い聞かせて行きます。

これを意識するか、しないか、でやはり人の精神状態は変わって行くのです。
人間の心は生き物なのですが、表層意識はかなり機械的な反応を示し、意識のプログラミング注入が機能すると思ってください。

(中略)

この項の主旨は、常に自分の心の安定化に注意して、輪廻(りんね:生まれ変わりの循環)から自由に成りましょうということです。
この項の注意点も知って置き、自分の心の安定化を図ってコノ世を楽しみましょう。



家族・家庭を持って暮らす者であっても、これに執着するサガを見せずに生活をしなさい。

そして、華やかな衣装を着ることに執着せずに、樹木の黄色い落ち葉のような大便色の服でも良しとしなさい。

更には、自分は孤高の修行者であると思って生活を致しましょう。

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.64)

(感想)
他人を見て、怒る必要はありません。
ただ、だからと言って、家庭の事情がある人に仕事の融通を利かさないようなことをしては生けません。
これは他人に因果論から注意することではなくて、各人の自分自身だけの生きる姿勢と問題なのです。

しかし、自分が家庭の事情で職場に迷惑を掛けた場合は、その先どうすれば良いのか?
誰もが同僚に迷惑を、お互い様に掛けることがあるのも仕事の正体です。
その時は、自分の仕事で出来る範囲のお返しをする心づもりで問題はないです。相殺が起こり、因果には成りません。

(中略)

出家された僧侶は黄色い袈裟(けさ:衣装のこと)を着ています。
インドならば、ターメリックなどの香辛料で害虫よけのために染色した黄色だと思われる人もいるかも知れません。
でも本当の最初の意味は、あえてウンコ色の黄色の衣装を着て、
「初心を忘れるな!」
の意味だったのです。その心は、

「衣装に執着するな!」
「衣装に執着しないように、あえて大便の色でも良しとしなさい」
だったのです。
でも、現代社会では最低限の常識的な衣装へのエチケットは大切です。
他人に不快な思いをさせる衣装も、臭いも、因果を起こします。

(3) 家庭持ちであろうが、独り身であろうが、誰もが自分は孤高の修行者であるという自覚を持って暮らすことが、輪廻(りんね:生まれ変わり)の輪から外れる為には必須条件だということです。

以上の話は、極端には受け取らずに、自分一人が密かに自覚するべき生活の知恵だと思ってください。
すべては中道(ほどほど・真ん中)が最善です。



様々な美食をしたいという執着を無くすこと。

あちこちと、目的もなく出歩かないこと。

肉体を維持する為の、必要最低限以上の栄養も摂らないこと。

共同生活する他の修行者たちを托鉢(たくはつ:食糧などの寄付を他人に願うこと)で食わせる必要は無いこと。

富裕な庶民の家に憧れることがないこと。

このようにしながら、

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.65)

(感想)
驚きました。これは釈尊の御言葉では無くて、後世の不満を持つ仏教修行者による加筆だと、私は断定します。

とにかく食事に関する不満が多い内容です。
そして、すべて上記の内容の「逆をしたかった」と解釈すれば、よく腑に落ちます。

* 様々な美食をしたかった。
* もっと色々な知らない場所に旅行に行きたかった。
* もっと栄養の有る食事をしたかった。
* なぜに他の修行者を、自分が托鉢で食わせる必要があるのか?不満だった。
* 裕福な家がうらやましかった。

このような不満を持つ修行者も居たと解釈しますと、当時の様子も想像が出来て、今の自分の生き方の参考に成ります。
今も昔も、皆んな同じ人間のサガを持つことがよく分かります。
だから、今の自分の生活を見て、落ち込む必要はありません。

(中略)

釈尊は、このようなサガを無くされていました。でも考えて見ますと、釈尊こそは王宮に生まれ、青年期になるまではコノ世の贅沢の限りを知り尽くす経験をされた訳です。
その経験をしたからこそ、逆にこのようなことへの執着を無くすことが出来たと考えることも出来ます。

一度も贅沢を自分が経験せずに、他人が贅沢をする様を見続けた人間が、果たして上記のような物事への執着を断ち切ることが可能なのか?
それとも、無いものは無い、と執着を断ち切ることが出来るのか?
何回もの過去生からの人生による、個人ごとの「縁」が、悟りをも「決めて」行くと言えそうです。



人間を構成する五つの要素である五蘊(ごうん)が起こす執着を断ち切りなさい。
五蘊とは、自分自身が生きている(心身の活動をしている)だけで湧き起こる感覚であり、これに愛着や執着を持ち過ぎますと、苦しみが次から次へと心に湧き上がって来ます。
五蘊とは以下の五つを指します。

・ 色(しき)=「身体」機能が活発であるために湧き起こる攻撃性や性的反応などの苦しみ。
・ 受(しゅ)=物事からの刺激を受ける「心」の反応。悪口などを受けても、なんでも被害妄想的な過大に受け取る癖。
・ 想(そう)=見たものについて何事かをイメージする「心」の機能。自分が見た現実以上の過大な妄想を見ること。
・ 行(ぎょう)=イメージしたものについて、自分の意志判断を下す「心」の機能。
・ 識(しき) =外的作用(刺激とイメージ)、内的作用(意志判断)を総合して状況判断を下す「心」の機能。

この五蘊が引き起こす愛着や憎悪を断ち切り、心の安定への障害を放棄(手放すこと)しなさい。
そして、いかなることにも公平性・中道(ほどほど)から離れては生けない。

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.66)

(感想)
これはまさに現代社会で病んでしまう人間への注意点を、2500年前に生きた釈尊が示唆されています。
人間は自分の五感・五蘊(色・受・想・行・識)をストレスから過剰に暴走させてしまいますと、

* 苦しみが次から次へと、その人間に湧き上がって来ます。

と釈尊が断言されています。
そのすべては他人だけが原因では無いのです。それを過大に受け取る自分の心のサガが心の深奥に原因として有るということです。

他人からの刺激を、自分が過大に受け取ってしまう原因には、
* 他人と自分を比較(作業能力・貧乏・美醜・学歴・持ち物・家族の問題・・・・)してしまう自分のコンプレックス。
に注意が必要だと感じます。

そのことを認めたくは無い自分のサガを、冷静に自分で観察するのです。
そして釈尊いわく、

* 五蘊が引き起こす愛着や憎悪を断ち切り、心の安定への障害を放棄(手放すこと)しなさい。
自分で自分自身が他人から受ける反応を静観し、
そのような自分のコンプレックスから過大な感情の反応が起こると察知した時には、

* その過大な感情を「手放しなさい」。
手放すとは、とても良い表現です。過大な感情を断ち切りなさい、と言われましても「どうすれば良いのか?」と思うものです。

自分に湧き起こる嫌な感情を、手放すのです。
もう自分で分かったからと、嫌な感情に対して「降参」して行くのです。
この自分でする「認識」により、冷静な中道に戻ることが可能です。

* そして心は、いかなることにも公平性・中道(ほどほど)から離れては生けない。

これを忘れないで置くのです。



過去の喜怒哀楽は、もう遠くに置き去りにしなさい。

それよりも今の生活の中で、心が平静で冷静な極みの中に安住して静止している禅定(ぜんじょう)を身に付けていることが最大事なのです。

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.67)

(感想)
禅定(ぜんじょう)とは、仏教において心が動揺することがなくなった一定・「静止」の状態を指します。

心が平静で冷静な極みの中に安住して静止している禅定の実践によって、心が見える景色や他人に一切乱されないとき、それは三昧(さんまい・サマーディ)の状態と呼ばれます。
また、禅定によって心を一切乱されない力のことを、心の定力(じょうりき)または禅定力と呼びます。

(中略)

* 過去の喜怒哀楽は、遠くに置き去りにしなさい。
* もう済んだことは、心から離して、遠くに置いておく心掛けを知って置きなさい。

ということです。これを人は意識すれば可能であることを知って置くだけでも変わって行きます。
* 人は、過去の中に心が住んでは生けないのです。
* 今の生活の中に心が住まなければ、人は改善も成長もしません。

以上の考察を読んで改めて思いますことは、道元さんの禅宗こそが、釈尊の直伝の「実践」「実行力」を現代にまで残していると思われます。

(中略)

まさに社会の中で、嫌な同僚や上司の中で、家庭でもストレスが有る中で、
* 心が平静で冷静な極みの中に安住して静止している禅定(ぜんじょう)を目指すこと。

これを、ただ座る瞑想(ムダで贅沢な浪費です)では無くて、働く動きの中で目指すのです。
これは知らずに道元禅を自分で実践することに成ります。



人は自分なりの最高・最大の目的意識をしっかりと持つことが出来れば、

最大の努力に励み、何事にもおじけづかないように成れ、自分の努力・行動を怠ることが無くなり、堅実な実績を積んで行き、

自分の心身共に充実することに成ります。

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.68)

(感想)
自分自身が、
* 何かを経験すること自体を目的とした時、
* 結果よりも、良心に沿った経過過程を大切にする時、

その人は、他人からは楽しそうに見え始めます。
その人は、自分の仕事の中に嬉々とした目的意識を持ち始めます。
他人が見ていようが、見ていなかろうが関係ないのです。

そういう人に、他人も運気もなぜか寄って来ることに成るのです。
* 人は、自分が意識する者に成る。 (ロシアの神秘家・グルジェフ談)

これを逆に言えば、目的意識の無い状態は、堕落、色情、バクチ、投資、悪事、薬物・・・・へと自分自身を誘います。
注意をしましょう。

これを避ける意味でも、
* 自分自身が正しい目的意識を持つことで、悪事を避けることに必ず成る。
という釈尊の示唆でした。



静かな環境で暮らす努力をし、心が平静に安住して静止している禅定(ぜんじょう)を心掛けること。

常に心の真理に従って生活し、自分なりの修行生活を行うことが人には大切です。

そして無自覚に輪廻転生(りんね てんせい:コノ世に何度も生まれ変わること)をし続ける世間の人々を見て、

これは「悲しくて恐ろしいことだ」ということを思い知りましょう。

どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。

(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.69)

(感想)
釈尊いわく、
* 自分が静かな生活を心掛け、平静な心境を維持していますと、
* 社会に生きる人々が、同じことを何度も繰り返すことが分かる。
* これは魂の生まれ変わりについても明らかだ、と思い知ることが出来る。

と仰っています。

(中略)

心の平静を維持していない人には、自分が何度も同じことを「繰り返しているだけ」ということが分からないのです。

これは生死をまたいだ転生にも言えることであり、何度も似たようなパターンの転生を人は繰り返している最中です。
釈尊はこれを「恐ろしいことだ」と、この項で指摘しています。

(中略)

この繰り返すパターンが、個人の人生にも起こっており、来世にも繰り返すのです。
これを脱却するためには、

* 静かな環境で暮らす努力をし、心が平静に安住して静止している禅定(ぜんじょう)を心掛けること。
* 常に心の真理(良心・内在神)に従って生活し、自分なりの修行生活を行うことが人には大切。

ということなのです。
もし生活の中で自分の心中に怒りが湧いた時には、
* 以前にも同じようなことが無かったか?
* 自分が怒ったその先は、どうなったか?

ということを思い出しましょう。これだけでも、自主退職や、離婚も、不倫も、止めることが出来るかも知れません。
これだけでも、人の運命は変わるのです。 
今日も、自分の繰り返すパターンに気付きましょう。


【掲載順序】本ページは「日付昇順」とします。



  • 最終更新:2020-06-11 19:43:21

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